行儀が悪いと言われてもやめられない食事中のマナーランキング
http://ranking.goo.ne.jp/ranking/013/mealtime_manners/(gooランキング)

「食事をしながら新聞や雑誌を読む」だとか「好きな部分を最後にとっておく」といったものが挙げられているわけだけど、そんなことより、人生わき見運転でいつもきょろきょろしているゲス野郎のぼくが(他人様の食事風景を見ながら)常々思っているのは、「脚を組んで食べる」「脚を組んで犬食いで食べる」「渡し箸」(いずれもランクインせず)。あ、あと「手皿」。
ランクインせずというか、そもそもアンケート作った人も気付かないで、下手すると常々やっちゃっていたりするんだろうけど。

たとえば「食事をしながら新聞や雑誌を読む」なんていうのは、たしかにたまに見かけるけど(きっと消化に悪いのでやめた方がいい)、そんなのやっている人は自覚していることで、まあ、ここで選択肢となり回答されている時点でどれも自覚はされているんだろうけど、そんな自覚済みのものを、わざわざ"マナー云々"と言うこと自体、ナンセンスなのかもしれない。
まあ、"マナー"とかいう言葉が嫌いなので(だから今回は引用符を使っています)、そう言ってしまうんですけど。

でも敢えて、その"マナー"を持ち出して言わせてもらえば、脚を組んでご飯を食べるだとか、渡し箸という"マナー違反"は、かなり無自覚かつ恒常的に行われているもので、しかもその文化的遺伝子は永劫回帰的に受け継がれている様子なので、非常に性質が悪い気がしてならない。

特に、傍から見ていると、脚を組んで素人が食べようとする際には、自然と前傾の犬食い(下手すると利き手じゃない方の手は、なぜかテーブルの下やポケットに隠れていたりすることもある)になることが多いようで、全体的にまったく絵にならないどころか目も当てられない。でもきっと御本人はスタイリッシュでクールだと思ってらっしゃるんでしょうねー、みたいな。
まあ、それはもう、「俺は人間をやめるぞ!ジョジョーッ!!(&もう犬でいいです)」という宣言だと思うのだけど、ちなみに、あんまり脚組んで食べていると、下アゴというかそもそもの骨格がずれてくるらしいのでやめた方がいいです。十年くらい前にクローズアップ現代かなにかで言ってた。

さらに渡し箸になると、これがもう、本当に無自覚すぎてどうしようもなくて、一度まわりから目黒のお嬢様とチヤホヤされつつ御本人もまんざらではない様子の女が、平気で渡し箸しまくりだったのを見て、「お里が知れますよ」と言ってしまったらどうなるのかなー、と思ったりもしたのだけど、ここまで日常に溶け込んでいると、もはや「そういう食文化なんですか?」(実際、韓国かどこかでは渡し箸が正式だった気がする)と問うてみたくなったりもする。いや、問わないけど。"みんながやってるから、(ブンカってヘンカするものだし)認めちゃっていいよね"と言うような風潮(ニホンゴのヘンカとかでよく出てくる)は早く廃れればいい。

まあ、状況によっては、これ、渡し箸するしかないよね、ということも多いので、仕方ないこともあるわけですが。

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ちゅーか、全体的なランキング(http://ranking.goo.ne.jp/ranking/013/mealtime_manners/)を見ていると、いわゆる"マナー"と、ただの悪癖と、あと、べつにそれくらいいいじゃん(目の前でされたらいやだけど)、と言うようなものが混在していて、それを一つ一つ考えていたらキリがないのだけど、特にそのアンバランスさを象徴的にしているのが、
「12位 三角食べをしない」
って。えーっと、どこの給食ですか、という。これは衝撃的すぎる回答だ。

三角食べの方が本当は"マナー違反"だろうに。
ここは「つい三角食べになってしまう」が本来あるべき回答であり、しかも無自覚的でありながら身体に擦り込まれている、最も気にしなければならない"マナー違反"でもあるのかもしれない。
(※ランキングを見ないと勘違いされるかもしれないけど、このランキングは、"マナー違反"と目される内容を挙げるもので、ここに出ている12位は「三角食べをしない」ことを"マナー違反"とし、つまり「三角食べ」という学校給食に特徴的な行為を正統な"マナー"だと認識している作成者による内容だと類推させるに足るものです。念のため)

というか、そもそも、ごめんなさい、ちょっとベタな事いうけど、上の渡し箸のところでも少し触れたように、文化によって"マナー"は違うわけで(最近よく聞く、人によってモノの考え方は違う云々とかいう、生温い逃げ台詞とは違って、それはもう厳然たる違い、というか、もはやルール)、ナイフフォークの文化圏と箸文化圏が違うのはもちろん、おなじ箸の文化でも、それこそ、手に持ってもいいのは日本でいうところのご飯茶碗くらいという中華料理と、茶碗も皿もお椀も利き手ではない方で持って食べる日本だとか、似て非なるどころか、自分の国の"マナー"をよその国でやると"マナー違反"ということも多々ありすぎて、そもそもひとくくりにしてしまう事自体、ちょっと変かもしれない。
さらにこの三角食べなんて、自国の中でも給食以外じゃほとんどの場で"マナー違反"だろうに。なんだこの局地的すぎるアンケートは、という。
まあ、定食屋ででてくるものなんかは、たしかに、こう、バランスを考えながら三角食べをすることもあるので、そういう局地的なアレか。

あと、
「6位生卵を直接ご飯にかける(器にとらない)」
って…生卵をご飯にかけること自体は、マナー違反に入らないんだー、ふーん、そうなんだー。みたいな。本当に、どこの局地なのかと。

なんだか全体的に、格差社会の下の方の階層でのアンケートという感じがする(と、格差の限りなく底辺に近い部分にいるぼくが言ってみる)。

まあ、"マナー"なんて自分が目の前でされたらイヤな事を、あたかもシャカイのルールのように言い、自分がされてイヤだと思っただけのことを、あたかもシャカイゼンタイが批判していますよというかのように、押し付けがましく、たとえば態度の悪い我が子を咎めるべき時に「他のお客さんに怒られるよ」と注意(?)するかのように責任回避しつつ、いやらしい嫌悪感をあらわにしているだけに過ぎない事が少なからずあるので、まあ、こんなランキングでいいんでしょうけど、きっと。
11/3、浅草・中村座で法界坊。
http://www.kabuki-bito.jp/theaters/other/2008/11/post_26.html

コメディ(それもかなり純度の高い)と見せかけて、そのテンションのまま気付いたらダークな方に突っ走っているという、現代でも伊藤潤二か楳図かずおくらいしか成し得ないような、上質な両極端を持った物語。物語のパラダイムシフトだ(突然思いついたけど、このテキトーな表現はアリかもしれない。いや、ないか)。
しかしそれでいて歌舞伎。大いに歌舞伎。コクーン歌舞伎でも有名な串田さんの演出だったけど、しかしなんで毎度毎度こんなにすごいのか。

ある程度年を取ってくると、何か新しいものを見たり読んだりしても「○○に似ている」といったことを無意識に思い浮かべ、安心しようとしてしまうことが多い。それは、たとえば理屈として、この物語構造はこの作家の典型的な云々でなんたらかんたらと考えるのとはまったく別で、それこそ、ちょっと特殊能力を持った何かが出てくる小説を読んで「これってコードギアスっぽいよね」なんて言ってしまうようなアサハカさの象徴とでもいうべき悪癖(ぱくりぱくり言うバカともちょっと違う)。

前者は(人により差はあれ)より広い視野を持っていたり、それを求める事から生まれるものであるのに対し、後者は、視野の狭い人間・教養のない人間が、そのセカイをより狭い方狭い方におさめることで、日々を安穏とすごすためだけの一種の自衛手段に過ぎないことが多々ある(もちろん前者のパターンでも、ひどく狭量なものであることが多いのだけど)。

かくいうぼく自身、はじめての小説やはじめての映画を見て、本当に無意識に、無恥な脳髄が、この浅く薄い生の中で見てきた何かに重ねあわせようとしていることに気付き幾度も愕然とし、しかしいつまでもそれを払拭できない事に苦悩することが少なからずある。

しかし、こと歌舞伎に関していえば、特にこの中村勘三郎という希有な存在に関していえば、そんな安易で下世話なことを思い浮かべる余裕すらない。
古いとか新しいとか、古いのに新しいとか、そういうことではない。とにかく息も出来ないほどに、よくわからないがすごいものをぶつけてきて、その風圧に身動きすらできなくなる。
ストーリーがどうとか、セリフがどうとか、演出がどうとか、そんなことを語るのはもはやナンセンス。万難を排してでも、死ぬまでに一度は見るべきだ、としか言えない。

追記===
ちょっと嘘書きました。
思い浮かべる余裕がないとか書いたけど、たしかにそのときは思い浮かべる余地なんてなかったものの、じわじわと思い出す中で、勘三郎の法界坊という存在に、映画『ダークナイト』のジョーカーを重ねてしまった自分も実はいるんですよね。

安易だなあ、とは思いつつ、しかしあの不思議な存在感を説明するのに、ダークナイトのジョーカーを持ち出すのは、あながちダメなことでもないという気はしていますが。

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ちなみに今回は、なぜか3列目という、とんでもない良席(席というか平場だけど)がとれてしまっていたので、もうね、目の前過ぎる。
他の舞台でも、たとえば花道の真横だったりすれば、役者がすぐ目の前、手を伸ばせば触れられる位置を歩く事も日常茶飯事だけど、歌舞伎座や演舞場とはまた全然違う距離感の中村座だから、目の前ってレベルじゃない。
個人的には、最後に2回勘三郎様と目が合ったと思っているのだけど、べつに錯覚でもいいや、きっと目が合ったんだ。そしてその幸福感だけで、つらく孤独なこの湿った人生でも、あと十年は生きていける。

ちなみに、また同じく法界坊を今度は桜席で見に行くのだけど、正面からみていると、この桜席もかなり面白そうで、もう、どうしようもなくたのしみで仕方がない。チケット1枚余るかもしんないけど、それはかなり勿体ない気がしてきた。かといって話のわからない人を誘うのも無駄すぎる

・今月のミーハー1
ピーター(池畑さん)も客席にいた(勘三郎に声かけられてた)。
http://ameblo.jp/oziba/entry-10159929582.html
濃いおばさん的な感じ。

・今月のミーハー2
あと、帰りにぶらぶら歩いていたら、演芸ホールの前を過ぎて少し行ったところにある肉まん屋に、全身ピンクの服装でモジャモジャ頭の男性が。というか林家ペーが。

今回の法界坊を見た人にはわかるでしょうけど、ラストシーンの、あの目もくらむ絢爛豪華なピンクの乱舞、舞台一面、いや一面どころかもっとアレな部分までピンクだった舞台を見たばかりだったせいで、一瞬何かの余韻か脳が錯覚を起こしているのかとうっかり思いかけたわけですが、というか、再びあのきらびやかさすら思い起こされて、今いるその「いま・ここ」が、いったいどの瞬間のどの場所なのか「ズレ」を起こしかけたんですが、まあ、間違いなくただの林家ペーでした。肉まん買ってました。一人で。


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まあ、しかし、いい男を見に歌舞伎に行っている身で言うのもなんですが、歌舞伎ってのは本当にもう、いい男ってのが限りなくセイギで、たとえば今回の話でいえば、勘太郎扮するところの色男が、二股かけるわ、古い方の女は邪険に扱うわ、それどころか斬り殺されても気にも留めないくらいの勢いだわで、まあ、しかし単純に見えて現実も同程度に単純というか結構そっくりなもので、なんてリアルなんだと思ったりもするんですけど、それを、まったくもって眉目秀麗ではないどころかむしろキモい腐った低身長のぼくとしては、ノンキにこんなもの見ていて、本当に身の程知らずもいところだなあ、と思わなくもありません。
いや、べつに思わないんですけど。あとで冷静に考えてみるとそうなる(そして七之助の役に感情移入してしまうよ)。


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「パラダイムシフト」と「パラダイスロスト」が似ている。(←みんな知ってる。ちゅーか自分でもきっと何度か言ってる)
誰も興味ない歌舞伎の備忘メモ。

土曜は浅草・中村座で忠臣蔵Cプログラム(大序→二段目→三段目→八段目→九段目)。

こないだAプロ、その前にBプロを見ていたので、結局ド貧乏にも関わらず今月の中村座だけで3回って…。
本当にこれは、このまま歌舞伎だけを楽しみに生きる孤独ジジイになる流れだ。生きてれば。まあ、歌舞伎のチケットを買っていれば、とりあえずそこまでは生きる目標もあるので、チケット買って、そこまで生きて、それが終わる前にまた別のチケット買って、そこまで生きて…という、人生の自転車操業だなあ。どっかで枯れるんだろうけど。いつ枯れるかなあ。

しかし、10月だけで3回とか低収入のくせに行き過ぎと思っていたんだけど、本当に、どの回も行ってよかった。

おかる勘平を中心にした話と討ち入りのB(5/6/7/11段)、物語のはじまりから切腹・開城までを描いたA(1/3/4段)、そして、今回の、加古川本蔵とその家族の物語を軸にしたC(1/2/3/8/9段)。
単に何段目を演るのかだけ見ればバラバラだったり飛んでいるように見えるかもしれないけど、しかし見てみれば、なるほど、と納得。
そして、Cプログラムが真っ先にチケット売り切れた理由もわかった。
九段目だけ歌舞伎座で見たりはしていたけど、頭の中で(筋書きの解説とかで)これこれこういう設定…なんていうのをわかっているつもりで見るのと、二段目からはじまる加古川さんの家の物語としてきちんと通してみるのとでは全然違う。

ちゅーか、本来の筋と思われる討ち入りするのしないのとか、そんなお話(いわゆる忠臣蔵として年末ドラマやら何やらで描かれる内蔵助とかそのへんに重きをおいた話)は、実際この演目では、あまり関係ない。逃げ出した元家臣とその女の家族だとか、よその藩の家老とその妻と娘だとか、そっちの方が主になっているし、それでいてかなり魅力的。なるほど、そういう流れであれば、十段目があまり上演されなくても、あまり問題ない、というか、むしろ十段目が浮いてしまう。
東海道四谷怪談も、背景に忠臣蔵を置きつつ、それとは全く関係のない事をやっているわけだけど、それでいいんだ。世の中そんなもんだし。

まあしかし、歌舞伎っていい男を見に行くものだとつくづく思うし、そのいい男が、役や演目と一体になることで、さらにいい男として引き立てられるものなのだけど、まあ、つまりそういうものなので、いい男はそれだけでヒーローであり正義であるし(もちろん、超美形の悪役もいるわけですけど)、設定上のキモメンブサメンは、それだけでヒーローになることなんてできず、滑稽であったり悪人であったりしてしまう。いや、それならまだましで、その他大勢にすらなりえないことだってある。『かわいいは、正義!』じゃないけど『イケメンは、正義!』は間違いなく存在する道理で。

歌舞伎に限らないか。デウスエクスマキーナ的な物語、ウルトラマンの一部の話とか、もう、秩序であり美であるウルトラマンが、一方的に正義として、混沌であり醜悪な怪獣を、それまでの長きにわたる人間との物語や葛藤なんてなかったかのように、あっというまに消し去ってしまう。
あ、知らない人が間違って読んだら歌舞伎もウルトラマンも嫌いな男の日記に見えるかもしれないけど、むしろ歌舞伎とウルトラマンだけが生き甲斐の男の日記です。念のため。

まあ、もちろん、舞台やテレビの中だけでなく、現実にも結構そういうものなんでしょうけどね。そういう意味で、ぼくのようなキモメンブサメンしかも低身長低収入KYで人格的にも欠落が激しい男は、どうがんばっても、それこそ三段目に出てくる師直の家臣の道化みたいな男だったり、さらにその下の、「ばっさり」で道化になる男たちくらいの役回りだなあ。
ま、べつにいいですけど。
(あ、いや、ちなみに、ばっさりの人たちも設定上はアレなんですが、実際の役者さんはいい男たちです)

ああ、しかし、今頃やっとCプログラムの話に戻るけど、七之助の小浪(加古川さんの娘。念のため)がめちゃくちゃかわいい。
これまでは、「○○(イケメン男役)に抱かれたい」という受けの感情ばかりでしたが、この小浪は、逆のベクトルから性的倒錯をもたらしてくれる危険性が大いにあって、いや、まあ、それがいいんですけど。

ちゅーか、11月の中村座も、(ド貧乏のくせに)既に2公演分チケットおさえていて、そのうち1回分は1枚あまりそうなんだけど、しかし桜席という変な席なので、なかなか誰でもという感じでもなくてどうしようかというところ。とはいえ空席だとものすごく目立ってしまう場所なんだけど。

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どうでもいいけど、ダイナマンのOPで「カッ!カッ!」って入っている効果音は、今さらですが歌舞伎の附け打ちですか?
ちゅーか、「爆発!(カッ!カッ!)爆発!(カッ!カッ!)」とか入るし、これ附け打ちですよね。本当に、今さらですが。すごいな。

(調べたら附け打ちじゃなかったけど、もう附け打ちでいいよね)
こないだの土曜は、浅草中村座(2回目)。今度はAプログラムで、有名な大序から二段目は飛ばして師直(というか吉良)を切って腹切って城明け渡すまで。有名なおかる勘平の序章もあり。
で、次はCプログラムで、何も考えずにうっかりチケットを買っていたのだけど、結局幕としては全編(十段目は上演なし)見る事になってしまう。たしかチケット高いから一つだけにしとこうって決めてたのに…。
金もないのに一人でこうも通っていたりすると、このまま孤独で偏屈なじじいになって死ぬしかなさそうだ。


歌舞伎はさておき、普段は鈍いだのKYだのとアレなぼくなんですが、たまに、やけに冴えるというか、そういうことがあって。それはそれで結構死にたくなる。まあ、歌舞伎のチケット買ってるからしばらくは死にませんけど。
ちゅーか11月はうっかり2枚買った回もあるんだけど、なんかムダにしそう。
空気読まないのは、生きる知恵だな。

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そんなことより。

「失われた時を求めて」が本当に面白い。
恥ずかしながら、この歳で今頃かよってところですが。
というか電車の中でしか読まないので、まだやっと半分くらいなんだけど、しかしスワンの恋の特に後半だとか、ジルベルトと疎遠になっていくくだり(どっちも比較的はじめの方)が、あまりにも感情移入できすぎて、ちょっとどうかと思うくらいのめり込んでしまうし、いろいろ想起すると、強烈すぎて、また死にたくなる。

スワンとかジルベルトに限らず、たとえば芸術に関する記述も、それこそフランスの歌劇に対する見方が、ぼく自身日頃歌舞伎に対して考えていたこととあまりにも似通いすぎていたり、そもそも考え方や、ものの書き方が、他人という気がしなくて、しかしこれは、べつにぼくのような賤民がプルーストの足下にでも手が届いているなんてことではなくて。プルーストに端を発した一つの文化的遺伝子が形作った「現在」を、あまりにも素直にぼくが甘受しているだけでしかない、ということではないかと思えてならない。

たとえばそうやって歌舞伎とその役者を見て「感じた」と錯誤したその価値観は、実はぼく自身の内面から出たものなんかではなく、ぼくが生まれてからこの無駄な人生で積み上げたゴミのようなものからですらなく、それ以前、たとえばプルースト以降100年くらい(もっとも、そこに至までの係累を思えば、それどころの話ではないのだけど)の文化、文学、教養(今のぼく自身に教養なんかないにしても)の蓄積が送り出した遺伝子が、この卑小で哀れな小男に、そう「感じさせた」と思うしかない(もちろんぼく一人ではなく、多くの匹夫にそうさせている)ことは、幸福なのか、不幸なのか。

ぼくも含め大抵の凡夫は、自分は自分自身の考えで生きているとつい思いがちで、その行動、思考、仕事、芸術、恋愛、etc.といってものは、しかし恥ずかしながら(本当に恥ずかしい)、ぼくにとってはこの年まで読んだ事もなかったプルーストの手の中から一歩も出ていないということは、もちろんこの年になって読んだからわかる部分もあるのだけど(10代でこれ読んでたら、一片の感銘もなく、マジツマンネで終わった気がする)。
そもそも言語としてものを考えている時点で考え方がある程度規定されて、というのとはまた違った階層で、また、もちろん隣にいる他人の言動の影響を受けるなんてものとは全然違ったあらわれ方で、この文化的遺伝子は、あまりにも強くぼく自身、その考え方、あるいはこれまで自分の感情と思って感じてきた考えを規定してしまっていて、それがさらに作品への共感を強めているのかもしれない。こういう、文化的遺伝子として、直接その作品に早くから触れた人に限らず多大な影響を与えているものがあるというのは、あらためて目の当たりにしてみると驚嘆するとか、そういうレベルじゃない。
にしても、スワンの恋とジルベルトのくだりはやばい。いや、ほんと、まだ全体でみれば半分しか読んでないけど。この後幻滅したりするかもしれないけど。

変な事を書いてしまった。たぶんうまく伝わらないだろうけど、ほんの備忘メモ。
こないだの日曜は、浅草中村座で忠臣蔵Bプログラム(定九郎⇒勘平腹切り⇒一力茶屋⇒討ち入り)。

浅草の観音堂の裏に大きな芝居小屋ができている件については、とうに皆様ご存知とは思いますが。そこでの今月分の芝居は、忠臣蔵ほぼ全幕をやるという。
まあ、浅草でこういうことやるのも、もう何回目かというところですが、中村勘三郎という人は、どんだけすごいのかと、常々思っています。

で、取り急ぎ購入していたチケットは、いわずとしれた討ち入りの入った今回のBプログラムで、しかし討ち入りに限らず、有名な勘平おかるの一連のストーリーなど見所満載。有名な定九郎(一瞬)もいい。しかし橋之助は本当にいい男だなあ。
薄暗い山やら田舎の家から、一力茶屋のぱっとした感じに流れるのもいい。
むしろ討ち入りの方がおまけ、みたいな。

しかし討ち入りでの、勘太郎VS七之助のシーンがまた素晴らしい。ほんとに、あの兄弟はどんだけ素晴らしいのかと。

忠臣蔵だけであと2回行くので、まあ、今回は本当にただのメモ。
NMR ポニョ都市伝説、ポニョには宮崎駿のマル秘メッセージが含まれている!?
http://npn.co.jp/article/detail/32897853/(元記事)
http://news.livedoor.com/article/detail/3848065/

この"ポニョ解読"があまりにもひどすぎる…。

意見があうあわない以前に、そもそもまともな大人の書く内容じゃない。
きっと釣りで載せている記事だと思うけど、つい目にとまったので、取り急ぎ何か書きたくなってしまった。
引用ばかりで、大変読みづらいのですが…。

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以下、引用部分が元記事のテキストです(一部Wikipediaからのものがあります)。
フジモトのキャラデザイン、乗り物、海中の家、全てが手塚治虫チックだ。
いきなり断定してるけど、どこが?という。
日本に来たこともない異国の人が、「日本人は毎日着物で、3食寿司で過ごしている」と断定するくらいの無茶な断定。

このフジモトは宮崎監督の手塚治虫へのリスペクトの反映ではないだろうか
今更、宮崎駿の手塚批判を持ち出すのもなんだけど、また無茶すぎる。なにが「ないだろうか」だ。ないだろうかじゃねえよ。ないんだよ。リスペクトしてないんだよ。

消毒剤のポンプを担ぎ、海水を撒きながらやってくる。これは医者であった手塚治虫を意味しているのではないか
医者はあんまりそんなことしません。やるとしたら保健所のおじさんですかね。医者のアレゴリーにすらなりません。

人間社会の醜さをなげき、魔法の力で、海が豊かであった時代を再現しようとするロマンチストの父・フジモトは、アニメという魔法に理想を求めた手塚ワールドの考えそのものである
前半はさておき。「アニメという魔法に理想を求めた手塚ワールドの考えそのものである」ってなんだ。まるで手塚がアニメに逃避したような語り口の根拠はどこにあるのか。

さらに、その無茶な決め付けが前提となって、こんなとんでもないことを言い出す始末。
宮崎駿は先人・手塚のようにロマンチックなものを魔法=アニメには求めなかった。「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」のようにリアルな人間の性(さが)を描写することも厭わなかった。宮崎駿、つまりポニョの偉大なる冒険であったのだ。
無茶がねじれて肺炎を起こしているので、もう少し細かく見てみる。

・「宮崎駿は先人・手塚のようにロマンチックなものを魔法=アニメには求めなかった」
⇒手塚はロマンチックなものを求めたのか?たしかに、ロマンだっただろうけど、まるでそれだけのような言い草の根拠は何なのか。
⇒そして宮崎駿はロマンを求めていないのか?むしろ宮崎にとってのロマンばかり描いているように見えるんだけど。ロマンを求めていない宮崎作品を教えてほしい。
⇒ふーん、ポニョってロマン求めてないんだー。(たしかに「ロマンじゃない」という見方もできるけど、この記事を書いた人がそういう見地に立っているようにも思えない。)

・「『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』のようにリアルな人間の性(さが)を描写することも厭わなかった」
⇒それらの作品にたしかに"リアル"と評される"人間描写"はあるかもしれないけれど、それは果たして手塚との差異と言っていいのか?この人、手塚を馬鹿にしすぎじゃないか?
というか、実は手塚のほうが本質的(内面的)にはリアリストで、宮崎の方が、めちゃくちゃロマンティストな気がするんだけど。
この人のいう"リアル"は、あれか。絵が本当っぽいとか、記号っぽくないとか、線が多いとか、そういうレベルの話じゃないのかな?

・宮崎駿、つまりポニョの偉大なる冒険であったのだ。
⇒いきなり月より遠くまで飛躍している!ここまでの前提もおかしいけど、その前提から出たこの「偉大なる冒険」ってなんなんだ。そして、駿は今頃やっと冒険かよ!みたいな。

この後もすごい。
明らかに海を越えてやってくる白人と思えるポニョの母親は、ディズニーではないだろうか。
ここだけは面白い。
まあ、 
フ ジ モ ト が 手 塚 治 虫 と い う 前 提 が 正 し け れ ば な 。

しかし、「仮にフジモトが手塚だったら、海の向こうからやってくるママはディズニー」という理屈は面白くても、逆に「これがディズニーと読めるから、フジモトは手塚だ」という理屈はなりたたない。どこから見ても、フジモトの前提が無茶。

手塚治が生前、ディズニーに憧れを持っていたのは事実だし、ディズニーは人魚姫という作品をを制作している
手塚がディズニーに云々は事実であるのと同様に、繰り返しになるけれど、宮崎による手塚批判も周知の事実ではないのか。
ちなみに、ディズニーの人魚姫(リトルマーメイド)公開は手塚の死後。念のため。

せっかくだから嘘大袈裟紛らわしいで有名だけどWikipediaから
宮崎は手塚のアニメーション制作に対し批判的であった。手塚の訃報に際し、宮崎は手塚の漫画史における重要性を強調しつつ「だけどアニメーションに関しては(略)これまで手塚さんが喋ってきたこととか主張したことというのは、みんな間違いです」と述べ、スタッフに過酷な労働を強いる制作環境や組織に対する意識の低さを批判した[132]。生前手塚は「宮崎の『ルパン三世 カリオストロの城』に対し「僕は面白いと思った。うちのスタッフも皆、面白がって観ていた」と『ぱふ』のインタビューで語っているが[要出典]、その後の宮崎作品に対してはコメントを残していない。手塚のアシスタントであった石坂啓は「先生、悔しくて仕方なかったんでしょうね」と述べている[133]。
(Wikipedia 手塚治虫のページより引用)

1988年手塚治虫が亡くなった時、漫画では自分も影響を受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーションに携わる人間の立場から、アニメーション作家としての手塚が日本のアニメーション史に果たした役割に痛烈な批判を加えた[17]。特にテレビアニメーション草創期に、手塚が市場優位性を確立させるため、鉄腕アトムなどの自社(虫プロダクション)制作番組を原価を割り込むほどの低価格で売り込んだことが、現在に至るまで日本のアニメーション製作費が極めて低く抑えられる要因となったとして舌鋒鋭く批判した。東映入社以来、映画アニメに携わっていた宮崎も低賃金、非人間的労働が当然TVアニメの方に回され、そこから映画アニメ専門の世界に移るまでには長い期間を要した。また、「しずく」などの手塚アニメーション作品そのものに対しても辛口の批判をしたことがある。
(Wikipedia 宮崎駿のページより引用)

こう書かれているからといって、必ずしも、完全に、心底、宮崎が手塚を嫌っていたとか批判していたとは言わないけれど、しかし、リスペクトしてモデルにしたなんて想像が、いったいどこの海の底から湧き出してきたのか、ぜひ教えてほしい。


つまり、ポニョの父・フジモトは、手塚治虫であり、ポニョの母である人魚は、ディズニーなのだ。この2人から生まれたのがポニョ、つまり宮崎駿監督である。
まるで、ダイナミックな思考の冒険の結果、この結論につながったかのように堂々と書かれているけれど、しかしこの結論は無茶すぎる。
そして、この作品には、手塚とディズニーへのリスペクトと深い愛情が込められているのだ。
適当すぎる。
たとえば遥かかなたの地点に向かって直進したつもりでも、出発時の角度が1度ずれているだけで、とてつもなく見当違いに場所についてしまう。そこが間違っていると思ってどこかで調整すればまだなんとかなるとしても、その誤差に気づかなければ、完全な異郷の地で果てるしかない。
そしてこの人は、まったく見当違いの方向に突っ走った挙句に、到着した見当違いの地点の地名を高らかに叫んでしまっているようだ。

どちらにしろ「崖の上のポニョ」は悪くない。まさに宮崎アニメの総決算ではないだろうか。
「悪くない」、「総決算」と言うにしても、前提がアレだから説得力が…。
あと、よく総決算とか言う人がいるけど、どこが総決算なのか教えてほしい。

直ちに見るべし
この人のテキストで見ようと思うおばかさんがどれだけいるのか。

この映画に秘められたメッセージを読み取るのもひとつのミステリーなのだ。
これ書いた人の脳内がまさにミステリーなのだ。


こういうこと書いて許されるのは、中高生までだと思います。
釣り目的だけのネタでありますように。


↓元記事のテキストを書いたらしい人
山口敏太郎(本人がほとんど書いたと思われるWikipediaのページ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%95%8F%E5%A4%AA%E9%83%8E
この人のサイト?
http://www.top.ne.jp/aliceweb/youkai/
この人のブログ?
http://blog.goo.ne.jp/youkaiou/e/c7525564ac1feec1102019430fc80ce9

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ちなみに、ぼく自身は、ポニョはほんとうにとてつもない傑作だと思っているし、だからこそ、こういう無茶な"解読"に、ついカッとしてしまうのだけど。

しかしポニョの感想、レビュー、解読ってよく見かけるけれど、本当に、凡俗の思考の限界、あるいはバカの壁でもいいんだけど、そういうものがくっきりと見えてしまうなあ、と。
(今回の記事の人のように)"深読み"したつもりが見当違いの方向に飛んでいたり、お釈迦さまの手の上だったり、ということが、リアルに何件も何件も起きている。
本当に怖い作品だとも、思ってしまいます。

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【参考リンク】
その他、自称映画批評家たちによる、史上最悪のポニョ批評の例
http://www.cinemaonline.jp/review/kei/3621.html (きもい画像に注意)
↑このサイトのクリーチャーみたいなおばさんのほかにも、愉快な面々による、凡人の限界を感じざるをえないポニョ"批評"(その実批評でもなんでもない)下のリンクに並んでいて、かなり見ものです。


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追記:
元記事の入り口ページを見てみたら、なんか、すごく、ひどいページでした。
もう、釣りとか、ネタとか、とんでもとか、そういうレベルじゃねえ。

http://npn.co.jp/article/category/7/

打ち水が何かおかしい。

ということを、すっかり涼しいどころか肌寒ささえ感じる今日この頃に、考えてみる。

ここ数年「打ち水大作戦」というものが、ちょっとはやっていることになっているんだけど、どうも、何か変な気がする。

ぼく自身の話で言えば、アキバの「うち水っ娘大集合!」には2回参加(といっても自分で打ち水するわけではなく、メイドさん+アイドルイベント)しているし、今年の夏は、涼をとるためにベランダに打ち水するくらいのことはやっているので、打ち水という行為そのものを否定するわけではないどころか、むしろ肯定し実行しているのだけれど、それはそれ。


まず、最近の打ち水は、地球温暖化対策という文脈で語られることが多いようなんだけど、それってどうなんだろう、という。

打ち水って、水を撒いた後の気化熱だとか、吹き込む風(本当か?)で涼しく感じるということなんだけど、それってべつに地球の温度は下げていないわけで。水を撒いた自分の目の前は涼しくなるけれど、そこから上のほう(?)に行った熱量は、結局地球の中にあるよね、的な。
にもかかわらず、打ち水即ち温暖化対策、として何か言っている人が結構いる。
「打ち水大作戦」自体のコンセプトは、もちろんそういう直接的なものではないのだけど、なぜか打ち水即ち温暖化対策という感覚がひとりあるきしている。エラい政治家のセンセイがそういうことを言ったりもしている。

ちなみに、打ち水が温暖化対策になるには、水を撒いたりして「いま・ここ」の体感温度を下げるだけではなく、たぶんそこからさらにエアコンを止めたり設定温度を高くしたりして電力の消費量を下げることで…という行為が必要なはずなのだけど、そのへんの一番大事な、むしろ水打たないでそれしろよ、と言いたくもなる要素は忘れたかのように、打ち水=温暖化対策と語られても、なんだか不思議な感じ。風が吹けば桶屋が儲かる。水を撒けば地球が涼しくなる?

うちみず2007年の打ち水ポスターに書かれたコピーは「打ち水やらない?温暖化とめない?」というものだけど、まあ、こういうことを言われたら、打ち水即温暖化対策と思う人も、たくさんいるでしょうね。「いま・ここ」はたしかに体感温度下がるだろうし。
そうか、意図的に勘違いをさせようとでもしているのか。

もう一度言うけど、べつに水を撒いても全体的に見れば熱量は消滅しない。

まあ、そういう理屈なら、べつに打ち水じゃなくてもいいわけで。
辛いカレーを食べて汗かいて涼をとることでエアコンの設定温度下げて温暖化対策、怪談を読んでぞっとすることで涼をとってエアコンの(略)、でも、もうなんでもいい。
というか、辛いカレーで涼しくというのは、まさに暑いインドで辛いものを食べる根拠だし、怪談でぞっとするというのも江戸の人がやっていた(ことになっている)ものか。
じゃあ次の夏は「カレー食べない?温暖化とめない?」で、カレー大作戦でもはじめようか。はじめないけど。あ、いや、個人的には実行しているけど。

ここまで書いて、もう一度言うけど、個人的にはべつに打ち水は否定しない。というか自分でもしている。

でも、なんだか、打ち水を推進している団体が、気になる。

いや、あくまで個人的感想でいえば、2年前くらいの打ち水イベントで完全メイド宣言の打ち水を目の前で見たり、完全メイド宣言ライブも見ることができたりして感謝しているんだけど、それはそれ。

なんとなく書いてみる。

○wikipediaの打ち水の項目、特に前半が、ものすごく彼らの主張・宣伝そのまますぎて気持ち悪い。

○打ち水Q&A(http://www.uchimizu.jp/08/mondo.html)が、きちんとしたやりとりになっていない気がする。
読んでみると、実は論点をずらしてきちんと回答していなかったり、文体がやけにカジュアル(とかとか言いまくったり。頭は弱いけど「俺っていいことしてるんだぜ」と調子に乗っている瞳孔開いたアレな坊やに多いカジュアルさ)だったり、かと思えば怪しい団体の人が信用するに足りないつまらない数式で煙に巻いたりと、個人のブログやサイトならさておき、まともな団体のFAQの体をなしていない。
特に、数式を持ち出す外部団体の人が、疑似科学で善人をだますあの人たちの仲間にしかみえない。

○代表が、なんかあやしい。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/eco/interview/070717_uchimizu/
なんとなくあやしい。

○その他もろもろ
・数字が変。「打ち水参加者」の試算が適当すぎる…。安直すぎるのか。狙っているのか。狙っているんだろうけど。(http://www.uchimizu.jp/08/kawaraban.html
・打ち水推奨する時間が昼だったり朝夕だったり。
・一度使った水云々に異常にこだわりすぎ。
・おおもとの組織である「日本水フォーラム(http://www.waterforum.jp/jpn/)」の会長が森さん(元総理の)だったり、いろんなイベントやらなにやらで政治とつながりが強すぎる気がする。べつに自民党嫌いとかじゃないんで、それはいいんですけど。しかし簡単においしすぎる環境アピールになるわな。特にこう、打ち水即温暖化対策と受け取られる今日この頃では。ちなみに打ち水に関連して小池百合子の名前が出てきすぎ。
まあ、そういう背景もあるわけで、仮にカレーを食べて夏をアレする委員会なんて作っちゃっても、誰も後ろ盾になってくれませんよ、と。
そのうち、もうすこし打ち水ムーブメントが温まったら自民の比例で打ち水の人が出てきたりするんじゃねえの?ぼくがアンチ自民ならもっといろいろ書きたいところだけど。今はこのへんで。

・こういう環境っぽいことやっていると、協賛とかくぁwせdrftgyふじこlp;。

まあ、そんな感じ。
とりえず今日はこのへんで。


あと、ほんと、打ち水自体は肯定派であり実行派なんですけど、ただ、日本の夏の暑さって、温度はさておき湿度の影響が大きいのは周知の通りで、たとえば、日差しが強くて温度が高いけど乾燥している海外の町から帰ってきたときの東京のあの肌にまとわりつく空気ときたら、たまらないものがあるわけで。
そこに水をまいて水蒸気を増やすわけですよね。
いや、ぼくもやってますけど。
今週のL25(2008/09/04)の恋愛特集のような文章の中で、恋愛に関する著書多数の"心理コーディネーター"(心理の何をコーディネートするのか知らないけど。出会い系とかですかね)のセンセイが「湾曲表現湾曲表現」と何度も繰り返している。
たとえば、そもそも女性は"湾曲表現"になりやすいとか、男は直接的に物事をとらえるけど女は"湾曲表現"を好むとか。

この"湾曲表現"という言葉、「婉曲」のことじゃないのか。
あるいは、婉曲という言葉から現代で派生した新語?
たとえば、婉曲という文字が読めない人がワンキョクワンキョク言い出したところから、意味合いとしてわからないわけではない湾曲表現という言葉が飛び出したとか(婉曲の「婉」はお椀の「椀」に似てるし)。

"心理コーディネーター"のセンセイが出している事例も、女の子が言葉の裏の意味をわかってほしくて"湾曲表現"で伝えた真意が、男にうまく伝わらないという話で、まあ、婉曲の問題かといえば実際婉曲というより、たしかに"湾曲"なのかもしれないけど。
つまり、(婉曲の勘違いではなくわざと使っているのであれば)女の子が本音を別の言葉に隠して伝えること―婉曲よりさらに一歩進んだかもしれない表現形式―を、このセンセイは湾曲表現としているらしい(たぶん)。

たしかに、女性の建前と本音的な表現って、「婉曲ってレベルじゃねえ!」的な部分があるようですが、まあ、そういう男女の駆け引きを仕掛けていただけることがほとんどございませんので。個人的に。残念ながら。その辺の恋のファンタスティックカンバセーションは不可解なまま、無駄に生を貪っておりますが。
でも、婉曲という言葉に収めるのをよしとしない、という感覚は、わからないわけではありません。いや、誰も婉曲な駆け引きすらしてくれませんけど。知ったかぶりしてしまいました。

とはいえ、これは、知らずに湾曲湾曲と言い出したセンセイに対して、
「それ婉曲のことですか?」
「え…え…えんきょくちゃうわ!」
のようなやりとりの末に誕生した言葉かもしれませんが。

ただ、"湾曲表現"という言葉を聞くと、女性の本音と建前というよりも、むしろ、文字通り「湾曲」した感情と表現、つまり、世に言うツンデレに思い至ってしまいます。
好きなんだけど、感情と表現が湾曲してしまう状態。たとえば屈折とか天邪鬼なんて言葉よりも、湾曲と言った方が、なるほど近いかもしれない。
あるいは"歪曲"でもいいや。

まあ、しかし、あんまり"湾曲表現"なんて言っていると、なんとなく馬鹿っぽい。
というかたぶん馬鹿なんだと思う。
ひょっとしたら、既にかなり一般的な言葉なのかもしれませんけど。
先週土曜はまず歌舞伎座。
前回2部3部を見て、今回は1部。

「女暫」(ポニョみたいなのが5人出てきた)にはじまり、中村橋之助の息子が出てくる連獅子(眠かった)、それから、落語の「らくだ」を歌舞伎にしたもの。

らくだは、落語の筋をそのまま歌舞伎にしたようなもので、もちろん面白い。
女暫も、大時代的な舞台や、幕が閉じてからのやり取りがとてもクールで素敵。というか、とても大らかに楽しめる。
三人連獅子は、まあ、眠かった。

歌舞伎はさておき。

その後、夕方からは、新橋演舞場で、有名なつかこうへい大先生の「幕末純情伝」。
幕末純情伝
有名なつかこうへい先生(といっても舞台を何かみたわけではない)の、有名な幕末純情伝(といっても、これまでの舞台や映画を見たわけではない)ということだったので、無知なぼくは迷わず発売日にチケットを買ってしまったわけですが。

幕が開いた直後から、驚くばかりですよ。
いや、幕が開く前、オープニング的な歌が流れたんですが、いきなり琉球弁まじりにティダとかエイサーがどうのこうのとか言っているので、「ん?土佐と琉球を間違えたわけでもあるまいに、なんでティダとか言ってるんだ?」とは思ったんですが、幕が開いてびっくり。高知と沖縄の取り違えどころの話ではなかった。
最初は、間違って全然違う芝居を見に来たのかと不安になり、しかし、どうやら間違ってはいないらしいことに気付くにつれ、目の前にある舞台が、しかし何億光年も遠くのものにしか思えない。

懐かしい顔文字を使うことが許されるなら、
( ゚д゚)ポカーン
というところ。

ひょっとしたら、というか、たぶん、ぼく自身の無知と無教養をさらすだけのような気もするんですが、これは、完全にポスター(画像参照)に騙された。
小劇場とか好きな人には、何を馬鹿なこと言ってるんだこの朴念仁は、というところかもしれませんが、それでも何か書いてみます。

そもそも、「新撰組の沖田総司が女だったという大胆な設定」というのが売りだとばかり勘違いしていたけれど、沖田が女だったどころの話ではない。
そもそも新撰組ではない。いや、そもそも幕末ではない。太平洋戦争が入り交じったり、戦後の焼け野原の中で変な思い入れをやたら長々と語らせたり(というか、もう精神的舞台は戦後の思い出語りで、維新とか明治とか関係ない)。

隊士が隊士ではなく、志士が志士ではない。キャラ設定自体、めちゃくちゃとかそういう生易しい言葉では表現できない。ドレスを着て玉をとりたがっているオカマとか、レストランを開きたがっている板前姿の男とか、裸にふんどしのデブ(しかもデブというだけで罵られるだけの存在)や、なんか首吊って消えるおじさんとか、土方に至っては、カラテカの人がハーフパンツのひ弱キャラで出てきて、しかもアパートの大家に奥さん寝取られたとか言い出す始末。

べつに、その想像力や固定観念の斜め上を行く状況を誉めているのではなくて、いかにもぼくのようなど素人が考えるところの、「サブカル好きとか言っている演劇高校生が文化祭で演じるお芝居に出てきそうなキャラってこんな感じかなー」というのがたくさん出てきている感じ。
まあ、サブカル好きとか言っている演劇高校生が好きなのが、こういう舞台なんでしょうけど。

あと、舞台上で殴り過ぎ。殴る効果音が鳴り過ぎ。2階上手側(位置的には桟敷)端の席で、スピーカーが一番近いような場所だったこともあり、殴る効果音が、もう、うるさいうるさい。ぼくのようなど素人が思う安い芝居のイメージって、たしかに、こう、よく無駄に殴っているものがあるのだけど、これはまた少し殴りすぎ。
世の中のエラい人たちには、ゲームやアニメの影響で暴力性が云々とか言う前に、サブカル芝居の殴り芸のひどさをどうにかしてほしいくらい。べつに、暴力的なものが悪いっていうんじゃない。ただ、殴っときゃいいんだろ的な、とりあえず殴ってみました的な、殴ってみたら芝居の流れもごまかせました的な、そういうのって、どうなんだろう。演出(有名なつかこうへい大先生による)って、そんなもんでいいんだろうか。
良い方に解釈すれば、小さな終止符を繰り返すことでテンポよい芝居になっているのか。というか、スピーディでテンポがよくてさすが有名なつか先生、とか言っている人たちは、このバッドトリップに酔っているのか。
しかし、そうやって小さな物語の断絶、関係性の断絶が繰り返されるたびに、言葉にできないモヤモヤは深まるばかり。

とりあえず殴ってみた。とりあえず殺してみた。とりあえず叫ばせてみた。
たしかに、筋のあわない小ネタの連続でも、殴る殺す叫ぶをやっておけば、まったくつながらない物語、まったくどうしようもない物語でも、力で押し通せることはよくわかった。でも、見てて何も響かないんだよ。

サブカル好きのスノッブでヒップでクールな都会人たちには、ひょっとしたら最高の舞台なのかもしれないけど、オタクカルチャー好きでスクエアで田舎育ちで自称自民党福田派のぼくには、これは、ないだろう、というところ。
下北の小劇場でやるサブカル芝居はこういう感じだろうとは思ったものの、スクエアな新橋演舞場で何の心の準備もなく見せられてしまい唖然、という感じ。

まあ、それはいい。
筋がめちゃくちゃに見えようと、細かい演出(?)の力技が気になろうと、時間と空間の意図的混乱に反吐が出そうになろうと、まあ、これは、うっかり見に行ったぼくが悪いのかもしれない。
まあね、それこそ歌舞伎だって、あるいは能もそうだけど、めちゃくちゃな時空の扱いが出ることだってあるし、見立てだって重要だし、たとえば昼間に見た歌舞伎の女暫ではパラレルなそれを認めて、新撰組ごっこにそれを認めないというのもおかしな話かもしれない。
あるいは「崖の上のポニョ」を見ても、不思議なところ、理屈じゃないところはたくさんある。むしろ、それが魅力だったりするわけで、この、有名なつかこうへい先生の演出も、まあ、そんな感じで大らかに受け止めておけばいいんでしょう、きっと。ぼくには無理ですが。

もう、それはいい。

だけど、変な筋なのはさておき、いまだに引っかかることがあるんですが。

坂本龍馬が憲法9条を作るとか言い出した中で(言い出すんですよこれが。で、周囲は9条なんか作るなとか言い出すんですよこれが)、前述の通り、戦後の焼け野原が主な舞台なんですが、そこで「お前が9条とか言い出すから日本は焼け野原になったんだ、それでもお前9条とか言うのか、ていうか9条とか作らせるわけにいかないからお前死ね」みたいなことを言い出すキャラがいるんですが、えーと、えーと、もうね、たとえ新撰組の自称隊士たちが100年くらいずれた脳内設定でも、やけにスマートな西郷が沖縄の集団自決で息子をどうこうしたとか、桂小五郎が戦後の米兵絡みでめちゃくちゃな自分語りをはじめたり、なぜか自称隊士に島崎藤村がいて「生きて虜囚の辱を受けず」と書いたのはボクだから死にます、とか言って死んだりするのは、まあ…もう、そういうもんだと目をつぶりますよ。理屈じゃないし、ここで近現代史を学ぶつもりもないし。まあ、戦後頭がおかしい人たちが突然自分たちは新撰組だと勘違いして大騒ぎをはじめたんだとでも思えばいいし。今もいますよね。自分はアトランティスの聖騎士団員の転生であり、かつての同士の生まれ変わりを探しておる、みたいな。そういうものでいいや、もう。
でも、なんで戦後憲法の9条のせいで日本は戦争に負けて焼け野原になっているのか。いや、べつに政治的信条がどうとか9条に賛成反対とかいうことではなくて。そもそもの前提としてどうなのか、みたいな。
時代設定が錯誤に基づいているから、全体的に錯覚してしまいがちだけど、ここの本末転倒というか、なんか変な感じ。焼け野原になった時、9条ってあったんだっけ。みたいな。みたいな、というか、そのままですが。

たとえば壊れたパソコンを前に、システムをいじったり、あるいは分解してみようとしている人をつかまえて、「お前が分解するから壊れたんだー」とか言ってもなー、みたいな。ん?ギャグ?一般的に言うシュールな(実際にシュールとは思わないけど)、天才バカボン的な、ギャグなのか?
ギャグだとしても、笑えないけど。


まあね、有名なつか先生のことなので、政治的立ち位置だとか、宗教的立ち位置だとか、民族的立ち位置だとか、ぼくのような凡人には理解できないものがあるのではないかとは思いますが。

とはいえ、まあ、その、芝居が終わってぞろぞろ帰る人並みの中で、すごく満足げにしている人たちは、やっぱり演出や主演や、まあ、そういう人たちと、政治的宗教的、あるいは民族的土壌を共有した上で共感したのかしらん。

あんまり言うと怖いので言いませんが。

まあ、なんちゅーか、昔寄生虫がびっしり詰まった鮎を、子持ち鮎として売っていたことがあったらしいんですが、この舞台は、なんとなくそんな感じでした。
あのポスターを見て、あんな内容だとはまったく思わない…。小劇場の演劇なんてそういうものなんでしょうか。無知ですみません。

幕末2
あ、最後に、ネタバレ的なものになるかもしれないんですが。

龍馬役の真琴つばさが、ただの男役ではなく「実は龍馬も女でした」ということになるのは、考えてみれば、宝塚的な、女優が当たり前のように男になったりひげを生やしたりしているアレに対するアレな感じで云々かもしれないけど、まあ、それくらいかな。べつに取り立てて言うほどのことでもなかった。

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追記

芝居が終わった後、カーテンコールで突然「最後にもう一回踊ります」と言い出して"Tank!"(カウボーイビバップのオープニング)を全員で踊ったのは、この、なんだか後味の悪いモヤモヤ芝居をすっきりさせて帰ってくださいという気遣いだったのでしょうか。
まあ、おかげで、芝居が終わった段階ではまったく拍手なんてしなかったぼくが、最後にはビバップと菅野よう子(だけ)に敬意を払い、片手で軽い拍手したほどで。
ハリポタ最終巻発売 書店に列
http://mainichi.jp/photo/news/20080723k0000e040023000c.html

世界67カ国の言語に翻訳され、累計4億部を超えるベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの最終第7巻「ハリー・ポッターと死の秘宝」(J・K・ローリング著、松岡佑子訳、静山社、上下セット3990円)が、23日発売された。初版は180万部。開店時間を早めた書店には早朝から熱心なファンが詰めかけた。

 日本では99年の第1巻以降の6巻で計2247万部を販売。主人公ハリーの運命が明かされる最終巻は、ファンの関心も特に高い。

 東京都八王子市のくまざわ書店八王子店は発売解禁時刻の午前5時に開店。168人が列を作り、発売を待ちわびた。

 開店前には翻訳者の松岡さんが魔女のコスプレで登場し、「今までで一番おもしろい本がみなさんのもとに届きます。一日で読んでしまわないでね」とメッセージ。ファンと一緒のカウントダウンのあと、1セットずつ手渡した。

 22日正午ごろから並んだ東京都葛飾区の会社員、青木千晶さん(29)は「一気に魔法の世界に運んでくれるハリー・ポッターが大好き。少しでも早く読みたくて並びました。物語が終わってしまうのはさびしい」。胸のうちは複雑なようだ。

 国内最多の販売部数が予想されるツタヤは、予約が過去の約2倍になったことから過去最大の14万部を仕入れた。


mixi日記等を眺めていると、ぼくみたいないやらしいタイプの人間はいやらしいことを書いているので、同様にぼくもいやらしく書くのだけど、もうとっくに原書で読んだよ☆

邦訳版は、文章がカビ臭いので、もう読めない。5巻までは喜んで読んでいましたが。
翻訳の人が税金でトラブル起こしたアレもあるから、あんまり買いたくないし。
装丁や絵もダサいし(英語版のアダルトエディションみたいなやつは、かなりマシな装丁)。
ハリポタなればこそみんな買っているけど、今後あの出版社が何か別の翻訳モノでも出したとき、買う人なんているんだろうか(まあ、本来こういう本の出版を手がける会社じゃなかったと思いますが)。
しかもあの訳のわりに、結構強気なお値段!

ということもあり、買わない。


英語の方は、原書といっても、わざわざ原書なんて畏まるようなものでもなく、中2くらいのレベルの英語なんだけど(たとえば受験生が長文読解の力をつけようと思って手にとっても逆効果なくらい生ぬるい。いや、あたいは大学受験のとき、某流行哲学乙女小説の英語版を手に取りましたけど)、たぶん毎回第一章があんまり盛り上がらない、というか暗いところからはじまる(ハリーとか出てこない)ので、そこで面倒くさくなって読むのをやめる人が多いことで有名(うそですが。ぼくが勝手に言っているだけですが)な英語版ハリポタ。そこだけ超えれば楽なんだけどね…という話を誰かにしたいしたいと思っていたのだけど、どうもまわりにハリポタ読んでいる人がいなくて、全然できなかったー。
誰が死んで誰がアレするのか、6巻最後のアレは実はアレだったとか、死の秘宝ってタイトルどうかと思うよね、とか、もうこれって映画の原作であることを念頭に置きすぎじゃね?とか、オールスター総出演魔法使い大進撃ですね、とか、アンブリッジが出てきて安心したとか、そもそもの前提となる話を共有できない以上誰にもできなかったし、「うわーネタバレすんな殺す」的なやり取りすらできなかった。

べつに、面白さを誰かと共有したいわけじゃない。
人より多少先んじて知ってしまったことをペラペラ話して嫌われるという、あの快感を、まったく味わうことができないまま、この日がやってきてしまったことが切ない。

もうね、発売前の書店の行列に並んで、ぶつぶつ話そうかと思ったもの。双子のアレがアレしてアレはアレするとか、マッドアイムーディはアレするんだけどそのアレがアレにアレでとか、杖を名前を言っちゃいけないアレがアレするんだけど実はアレでとか、ハリポタの杖のレプリカ売ってるけど、今は全然売れていないであろうあのキャラの杖がそのうち品薄になるんじゃね?とか(このへんの杖の行き来に関するあたりは、本当に面白かった)。杖といえば、この話のオチというか、エピローグに入る前のラストシーンは、とても気持ちよく読めて、本当によかったよかっためでたしめでたしと。
なんか途中から感想になったけど、まあいいや。


ちゅーか、書店に並んだ人たち、並ぶのはいいけどよく1年も待てたなと。その堪え性は見習いたい。コスプレ準備して買いに来る気力を、一日一ページでも既に出ている本を読み進めることに向けなかったその努力の無駄遣いは、嫌いじゃない。少しでも早く読みたくて並んだ29歳の会社員も、買いに来るほど仕事が暇なら、その仕事中にでも読んどきゃよかったのに。

と、なんかもう楽しみなことがあると全然我慢できなくてうずうずしてしまい、たとえばフラゲできるCDがあれば迷わず前日にCD屋に行くような、なかなか楽しみを後に取っておけない愚かで情けないぼくは、そう思ってしまいます。


ちゅーか、本はさておき、これは本当に、たとえば2章か3章あたりでハリーのおじさんの家を出て行くシーンの仕掛けにはじまり映像になったときにニヤリと楽しめる要素が大きいと思うので、べつに本読まなくても映画見ればいいと思うし、むしろ、映画見てこその完結だとは思いますよ。ほんとに。
まあ、あの、キャラてんこもり総出演な感じは、たとえば年末に第九の演奏会でボーナスをアレするような、まあ、そういう感じの何かで、それはそれで、好きですが。ファンとしても、「アンブリッジが出なかった!」とか激昂することなく気持ちよく終われますしね。


追伸
本の中に登場する"The Tales of Beedle the Bard"(アマゾンが高値で落札したアレ)、つい最近まで"Beedle the Bird"と、何かの鳥が語った話という設定なのかと勘違いしておりました。
バカですみません。ちゅーか気づきもしなかったけど、気づいてもBard=吟遊詩人なんて知らね。

と、こういう話も誰にもできなかった。
本当に、売れているんだろうか、ハリポタって。


ちゅーか、いい年してハリーのビルドゥングスロマン的な何かに共感できるというのは、現実にはダメな人間の要素が強いぼくみたいな男に特有の情けなさの象徴であり、そう考えると、まあ、あんまり読んでる人いないのかもねー。