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『かぐや姫の物語』見た。

前情報もなしにあまり深く考えずに見ると、かぐや姫は戦後日本の経済や戦後民主主義、それが回帰する月はアメリカ発のグローバル経済の象徴、この映画は、そんな日本への高畑勲監督による鎮魂歌?葬送歌?というにはまだ早いかもしれないけど、ま、なんかそういうアレじゃないんですか?
…という実に安易な考えが浮かんでしまったので、いったんメモ。
(先入観なしに、って言おうと思ったけど、どう考えても高畑監督作品への先入観がありますね!)

※竹取物語の話にネタバレも何もないので、思ったことをザザーッと書きます。

◎田舎時代から成り上がりへ
「タケノコ」と揶揄されるほどすくすく育つ姫は、高度経済成長期の日本。出ないはずの乳が出た媼は、まさに焼け跡からの復興。「え?また大きくなったの?」と何度も言われるほどの所得倍増計画。
「天の恵み」とばかりに黄金の特需や着物にはしゃぐ翁の姿は、神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気といった文字通り「天」の景気に沸いた日本人。

翁はそのまま”日本のオジサン”の姿でニューヨークにビルを…いやさ都に豪邸を建ててしまう。都で成り上がりと言われても、そりゃ浮かれます。
そこには同時に媼のような感情も同時にあるわけですが。

◎都
躁鬱としか思えない感情の波に翻弄されるヒステリー持ちのかぐや姫は、たとえば景気の浮き沈み?(という暫定の考え。原典にはない要素、走りまくる姿も含めて、もっと見逃せない何かがあるかも?)

庭に山や木々(に見立てた植物群)を育て楽しんでも、やがてまがいものに過ぎないことに気付き破壊したかぐや姫は、人工的な”自然”への反発?ひょっとすると、おもひでやぽんぽこで自然を描いたつもりになっていた監督自身の反省?(という暫定の考え。これも原典にはない要素、見逃せない何かがあるかも?)

◎バブル到来と破滅への道
満を持して登場する肩パット入りまくりの、いわばバブリーな服を着た帝は、文字通りバブル。バブル以外の何者でもなし。
バブルに抱きすくめられ、そのおぞましさに身の毛もよだつかぐや姫の表情の見事さ!
(ま、世の中にはバブルが好きだという人もたくさんいらっしゃいますが)これは、高畑監督の偽らざる気持ちでしょう?知らないけど。

しかしそこで、かぐやが自分は月から来たのだと気付いたように、ずっと浮かれていた戦後日本の政治・経済はアメリカの属国としてのものだったと、気付いてしまった。
(この辺の流れは一晩か二晩寝かせないと、ちょっとうまく言えないかも)

ついでに、これは原典通りですが、5人の求婚者の欺瞞は、ギラギラしていた頃の日本経済の欺瞞そのもの…とか書くのは、言い過ぎかな。調子にのりすぎちゃったかな。

◎グローバリズム
さて。もはやこの国がTPPやグローバリズムにあらがえないように、日本の経済は、グローバリズム(というかアメリカ中心のアレ)の月に旅立つしかない。かぐや姫が振り返る地球は、地域や国境線に基づく国民国家(グローバルを謳う人々が飛び越えるべき”旧弊”と考えるもの)であり、そんなものを振り返っても、もうかぐやからその記憶は消えました(テヘペロ)という近未来。ちょっとだけノスタルジーくらいはあるかもね。でも一度振り返るだけ。

残される日本人は、ただ月を見上げるしかない。でも、(グローバル経済バンザイな人には伝わらないかもしれませんが)そこに残る人々は、それを悲観することもないし、根付いて生きていけばいいんじゃないでしょうか。ちょっと寂しいけど。
ま、ぽんぽこの生き残りの狸みたいな。そこにいる人々に対しての、実にやさしい目線。

べつに帝が富士山で薬を焼いたりしなくていいんです。
完全に(グローバリズムに)取り残されている姿は、十分に描かれました。

ちなみに、一瞬出た昔地球に行った月の人(たぶん嫦娥)や仏様が迎えに来る図は、平安人にとっての外来の文化は何だったかという話なので、それで十分。

◎罪と罰
チャラチャラした資本主義の繁栄におぼれて浮かれていたら(罪)、グローバリズムに収奪されるんだよ(罰)。


◎オリジナルキャラ・捨丸兄ちゃん
仮定1:
初監督作ホルスのように英雄的に登場した捨丸との、世界名作劇場(カルピスこども劇場?)的生活を経て、泥棒シーンが未完成で叩かれ(火垂るの墓)、都の生活よりも、捨丸との生活を…と望んだのは、ほら「おもひでぽろぽろ」的な「ぽんぽこ」的な?
でも、今となっては、OLが田舎暮らしに憧れるのも、ぽんぽこ的世界も、夢・幻にすぎなかった。でも、ちょっとだけ捨丸とかぐやに夢を見させた。それは、高畑監督自身の自己肯定とか、走馬灯とか、そういうもの?

仮定2:
文字通り日本人が捨てて来たもの?と考えるとぽんぽこで十分じゃないっすか。でも、そういう映画がたくさん…。

仮定3:
社会主義的な世の中への(監督の)未練?

ま、そうは言っても。
捨丸にはとっくに地味なかみさんがいて、地道に木を切って暮らして行く。かぐや姫はそんなもののことは全部忘れて、月(グローバル経済)へ旅立つ。
もちろんそんな捨丸たちに対しても批判的な意味はまったくないし、むしろ好意的(そりゃそうだ)。

◎ざっくりまとめ
そんなこんなで、「なぜ今かぐや姫?」「制作期間8年、総製作費50億円ってどゆこと?」「大コケwww」などと言われるであろうこの作品は、おそらくこれから沈みゆく日本への、高畑監督の哀悼ではないだろうか。

日本の美を極めた…とか言っている人は、幸せです。

==============

★こういう↑いやらしく安易な解釈とは別の解釈の入り口

ほぼ唯一の食事シーン、捨丸とタケノコ(かぐや姫)がウリを食べる場面。
藪の中で密かに、ウリを割って二人で食べる。

文字通り「破瓜」以外の何者でもない。

最初の一口は「うっ…」となるタケノコも、すぐに捨丸とおいしいウリを味わう。
しかもウリ科の植物には詳しくないのですが、あれはマクワウリ?まぐわる?…とか思う私はもうアレですね。心が汚れ切っていますかね。
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政治的・宗教的なことをどうこう言うつもりはないし、中国人の思考パターンにはまったく詳しくないのですが、これを読んだら、なんだか立場や考え方の違いがすごくわかりやすくなった気がするのでちょっとメモ⇒ http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-08/17/content_29746211.htm 日本の政治家が拝むのは「神」ではなく「鬼」_中国網_日本語(中国戦略文化促進会常務副会長・秘書長 羅援さんの記事)。

(※念のため最初に言っておきますが、靖国参拝や戦犯の扱いの是非をここでどうこう言うつもりはありません)

この羅さんは、靖国の戦犯を「鬼」と呼び、「『神』を拝む前に『鬼』を追い払ってもらいたい」とおっしゃる。

ところが日本では大昔からオニ(元ヒト。祟る系)を拝むことでカミにしてきたのはここで指摘するまでもない話。有名なところでは天神様の菅原道真がそうだし、神社の由来を見れば、非業の死を遂げたとか何かを怨んで死んだとか、諸々ヤバい祟りそうな人を神社を建てて祀ったというのはよく目にすると思います。
(※指原道真とまで呼ばれた指原莉乃さんのAKB選挙1位も、その一環かもしれませんね)

ヤバいもの、祟りそうなものほど、拝んで拝んでカミにする。神社だけではなく、たとえば芝居…一部の歌舞伎とか(御霊信仰で忠臣蔵をどうこうとか言いますしね)、よく知らないけど能なんかも、そういう性質はあるんじゃないかな。

それを祀らないと、『呪怨』のあの家になったり、貞子になったりするのは、現代のJホラーにも通じる考え方ですね。だから、たぶんゴーストバスターズのような"退治"ではなく、死体を見つけてあげるとか、残した願いを叶えてあげる(『あの花』も)ような手法で解決する…のかな?よくわかんないけど(怖い映画は苦手なので!)。

ところが中国の人には、こういった考えはなかなか理解してもらえないらしい(羅さんの記事を読む限り)。件の記事がそうだし、そういえばずっとずっと昔、まさにこの「オニ⇒カミ」の話を聞いた大学の社会史(たぶん)の講義で、中国人留学生がなんか文句をつけていた(マジです)のも、今ならかなり納得できます。
とはいえ、昔は中国でも「オニ」に当たる祟る霊を拝む人たちはきっといたと思うんですが(根拠はキョンシーの「霊幻道士」あたりですが…※後述)、

くれぐれも政治的なことをどうこう言いたいわけではないので、戦犯と呼ばれる人たちがオニ(祟る存在)かどうかは「なんもいえね」ですが、件の記事のように靖国に祀られた存在(の一部)を「鬼(オニ)」とする考え方が彼らに普遍的なものだとして、それを拝むことに彼らが疑問を抱くのは、なるほど当然ですよね。根本的に前提が違うんだから。(※中国語の鬼と日本語の鬼は違うはずだけど、これは日本語の鬼と解釈して良いですよね?)

羅さんが言うところの「軍国主義の魂を呼び起こす行為」である参拝。だけど、そんなことを思っているのは日本ではネトウヨさんくらいであって、しかしそれは日本人の拝む行為とは「ぜ~っんぜん。もう、ぜ~んぜん。ハッハッ」と言いたいくらいズレている。むしろ逆!(※もちろん、日本人の拝む意味もいろいろです。現実に、「軍国主義の魂を呼び起」こそうとしているネトウヨさんはたぶん少しだけいます、残念ながら)

何度も言いますが、靖国に祀られているのがオニ(または元オニ)かどうかは知りません。でも、この羅さんのように戦犯を「鬼」と呼び、その「鬼」を拝まず「軍国主義者を厳しく非難すべきである」という主張が中国の知識人に通じる考え方であるのならば、何百年たってもこの溝は埋まらないでしょう。

伝統的に、死者を「厳しく非難すべき」なんてことは、日本人にはあまりそぐわない。(そんなことしたら、余計に祟るだけ!というか、だから中国ではいつも祟られて、同じ歴史パターンの繰り返しとか言われるんだべ…違うかも)。
たとえば東照宮だって、明治維新で破壊されたかといえば、そんなことはないじゃろ?むしろ、会津の殿様を連れて来て、ちゃんと祀り続けた?(じゃ秀吉は、足利は、北条は…うーん、おらよぐわかんね)

しかしその部分での根底となる考え方のズレがあればこそ、日本人が靖国でどんな拝み方をしても、ただそれだけで何度でも糾弾されるのもなるほど納得。こっちから見ればこう見えるものが、そっちから見ればそう見えるよね、という。

「『神』と言い『鬼』を拝むことは決して許されない」(羅さん)
それは、中国の世界観ではまさに「ありえない・理解できない」という話なんでしょう。その世界観のまま日本の拝み方を見るから、大きなズレがあるのは当然。

「鬼」にあたる人物の墓を暴いたり、死者に鞭打ち、祀らないどころかろくな埋葬もしない…それは(たぶん夏の時代以前から)伝統的に中国では当然かもしれない。キョンシーの霊幻道士さんは、まさにこの埋葬の間違いで祟りをなすようになった"オニ"を鎮める人でしたし(と大人になって見て気付いた)、孔子さまもそんなことをしろとは言っていないと思いますが(たぶん)、今ここで羅さんや彼の国の知識人は、日本人に拝まず呪いに呪いを重ねるようなことをしろという。

それは彼らにとっては、疑う余地のない当たり前の行為なんでしょう。
抗日映画や抗日ドラマで、日本人の暴虐を描き、さらにそれをコテンパンにして、呪いを続けるのもついでに納得です。

だけどそれは、彼の国の人たちの思想のことでしかない。

仮に中国の人が言うように、戦犯や戦没者や"軍国主義"が悪であればあるほど(実際にどうかはさておき彼らの目から見れば)、我々はそれを拝んで鎮めなければならない。ずっとそうやってきた。でも、それが彼の国の人の目には「軍国主義の魂を呼び起こす行為」に見えてしまう。

まさに逆転の発想!(違うか?いや、違わないか?)

重ね重ね(すみません!)、ここで宗教的な何かを押し付けたいわけではないし、べつに靖国参拝の是非を云々したいわけではないことは申し上げておきたいのですが、ただもうここには、なるほどこういう考え方なら、何かすればするほど、理解しあうどころか溝が広がりますよね、という何かがあるようです。逆だから。逆。

という話を3ツイートくらいでメモしておこうと思ったら長くなったのでとりあえずここでメモ。

ついでに言うと、この羅さんが「アジア太平洋の人たち」を拝めというのは…それはもしアジア太平洋の人たちの霊が日本人に祟るのであれば、いくらでもそういうことはすると思います。レインボーマンとかゴジラ(をはじめとした怪獣映画の一部)には…その痕跡があるかもしれないけど…。

この週末、「モノマチ」とか銘打って近所(蔵前とか御徒町あたり)の雑貨屋やら革製品の店やら、そういうお店がクラウド的(?)なイベントをやっていたので、普段は人がほとんど歩いていないような道に、ボーダーや水玉や草木染風(?)の服をきて、カメラかショルダーバックを斜めに提げた、普段は下北沢とか高円寺でカジヒデキとかオザケンを聴いているような人たちが集まっていて、妙な気分に。

たとえばアキバ系が集まれば「あ、オタクさんだ」とわかるけど、それ系が集まっても、一目瞭然「あ、雑貨さんだ」とわかるものですね。

集まっているといっても。実際には"祭り"ではないので、特に賑わうという印象もなく、ただ、ポツポツと点在する雑貨屋やら革小物屋やらなにやらに、地図をじーーっと見ながらそれぞれ2人組、3人組という雑貨系ポップな人たちが静かに寄ってきているような雰囲気で…うーん、虫?虫系?林の中で樹液が出ている木にポツポツと虫が寄ってきて黙って樹液をそれぞれで舐めている感じ?
木の葉っぱをよ~く見てみると、毛虫が無言でシャクシャクザワザワと葉っぱを食べている感じ?

最初にクラウド的と書いたけど、むしろ虫系のイベントなのかな?

ま、何はともあれたくさん人が集まってお金が動くのはよいことではないでしょうか。お店以外の地元の人にはまったく縁がないイベントでしたけどね。ほんと、告知も特にないし。

そうか、こう、レイヤーが違う感じ。

たとえば三社や鳥越の祭りであれば、住んでいる人間のレイヤーと一応は地続きのイベントなんだけど、こういうのは、住んでいる人間と「雑貨さん」のレイヤーがあまり結合しない。

だからダメってことはないんでしょうけど。
実際、雑貨や革小物が好きなのは、台東区民よりも吉祥寺とか三鷹とかに住んでいる人でしょうしね。

それにしても、その前段階からして静かすぎて全然気づかなかった。ネットで雑貨情報を敏感にチェックしている人くらいしか知らないでしょう。それでいいんだっけ。ま、いいのか。これからもそうやって虫的に続いていくんでしょう。
今月の月刊ニュータイプから連載再開した『ファイブスター物語』がとにかく理解を超えていた。もちろん最高の意味で!

☆もし、まだ読んでいないのであれば(そしてあなたがFSS読者なら)、今すぐ余計な情報を見る前にニュータイプを買って読んだ方がいいですよ。本当に!

※ネタバレって怒られるかもしれませんが普通に書きます。

これまでも膨大な設定や歴史年表で有名だったこの作品が、ストーリーとキャラクターは連載休止前のものをそのまま引き継ぎながら、物語の根幹をなすその膨大な設定が完全にベツモノ(というか、昨年公開された映画『ゴティックメード』を引き継ぐもの)になっていた。
ネーミングだけじゃなく、デザインの在り方、物語の核となる巨大ロボットの構造、同じく物語を支える人造人間コンピュータも微妙にベツモノ。ロボットやコンピュータの在り方からしてベツモノ。
それが、しかし同じ「世界」の中で何の説明もなく当たり前の顔をして描かれている。

※もう発売されて何日もたったので、もっとわかりやすく書くと…

3ページ目あたりまでは、おなじみの『ファイブスター物語』なんだけど、もう1ページめくると、いきなり、土煙のむこうにいたはずの「モーターヘッド(と呼ばれるロボット)」が、去年の映画に出た「ゴティックメード(と呼ばれる、別の、もっと強くて美しいロボット)」になっている。そして、そこから怒濤のように、デザイン・名称が、本当にいきなり、新しくなっている。

そして、それでいて何の問題もない!

こういう形になってあらためて考えてみれば、9年も間が空いて、しかも『ゴティックメード』という神がかったロボットを生み出した後では、連載休止前のファイブスターやモーターヘッドが、完全にオールドファッションなもの(何より作者にとって)になっているのは当然で、この世界にはじめて出て来た頃(30年近く前)には最先端だったモーターヘッドもゴティックメードと比べれば、圧倒的に「普通」。

いや、普通というか…そりゃ十分以上にかっこいい、そのへんのロボットアニメのロボなんかより100億倍かっこいいのは間違いないのだけど、きっとそう思える時点で作者にとっては遅れているものであろうし、そしてそんなものを、今更描くはずがなかった…。

もちろんそんなことは、何度も言うけど「こういう形」になったものを見ればこそ納得できる話で、3ページ、4ページ目あたりを開くまでは、まったく予想ができなかった。

そしてページを開くと、モーターヘッドが出るはずのところにゴティックメードがドーンと出てきた…あの衝撃といったら!
完全に驚愕し、震えた!会社で読んでいて変な声が出ちゃったもん。

はじめて、コクーン歌舞伎で勘三郎の『夏祭浪花鑑』を見た瞬間と同じくらいの、脳みそを一度メンテナンスに出してきたような感覚。

最近勘三郎追悼番組を見た人が、彼の言葉から「型破り」と「形無し」の違いを語ろうとしたりするのを時折見かけますが。そこに出てくる「型破り」の姿が、まさに今回のファイブスターあるいはゴティックメードにもあるわけですよ、ほんとに。

歌舞伎の話を出したから、もうついでに書きますが。
歌舞伎には「世界」と「趣向」があることは今更ここで知ったかぶりをするまでもなく常識ですが、今回はまさに、緻密につみあげられたファイブスター物語の「世界」の中で、「趣向」が全面的に書き換えられた(というか、ゴティックメードと綯い交ぜにしたのと言っていいのかな)。

あ、そうか。この感覚は、たとえば『盟三五大切』で最後に四十七士とつながる瞬間のアレに近いのかもしれない。まじで。

===
ちょっと余計な話。

ネットニュースやまとめサイトなんかでは、そりゃ煽った方が100倍くらいいろいろ稼げるので「連載再開に困惑するファン続出 」だの「阿鼻叫喚」だの言うわけですが、そこにある否定的な意見のつまらないこと(ま、読者じゃない人が知ったかぶっているだけなのかも?)。

なぜか最近は「ネットの声」なんてどうしようもないものを見る機会が多いのだけど(たぶん、ネットニュース各社さんがネットの声で楽に記事を作っているからさ)、今回の件にしても、あるいは最近だとアニメ版の『惡の華』なんかも、受け入れられない人々の「声」があまりにもワンパターン。

脊髄反射的に定型句(しかもネットならではの定型句)で語ろうとするのは、ま、本人にとってはそれで良いこともあるんでしょうけど、こういった、とんでもないものがやってきたときには、思考の枷にしかならんのですなぁと、偉そうに言ってみる。なんかすみません。
(※自分のことです。あなたのことではありません)
山田洋次監督による「小津安二郎監督に捧げる」(公式サイトより)という映画『東京家族』が公開された。まだ観ていない。観るかどうかわからないし、予告を観た限りだと、あまり観る気にならないが、観もしないで、その作品とは違うことを書く。(なんだそりゃ)


さて、件の小津安二郎監督による『東京物語』(1953年)といえば、昨年イギリスの映画誌か何かで世界一と評されたことも記憶に新しい作品だが、日本語ネイティブではない世界の映画人がどうやってあの作品を解釈した上でそう評したのか、しばらく疑問に思っていた。

といっても、「言葉のわからないやつらが字幕や吹替えで云々…」などと申し上げたいわけではない。そんなことはまったく思っていない。

ただ、『東京物語』という作品は、おっさんになって観てみると…あるいは、東京に住む地方出身者となって観てみると、と言った方が正しいのかもしれないが、子供たちと両親との"エクリチュール"(後述)の断絶が、絶望的なほどに刻まれているように思うのである。

「ありがーとう」と尾道なまり(かどうかはよく判別できないけれど、とにかくあちらのなまり)で話す笠智衆ら"尾道の人"に対し、東京で暮らす長男と長女は、地方から出て来た両親にすら"東京の言葉"で話す"東京の人"になっている。
そして、それは言葉づかいのみならず、両親に対する態度、あるいは感情といった振る舞いまでもが"東京の言葉"と同じく"東京の人"のものとなっている(※原節子演じる、おそらく本物の東京人とはちょっと違う意味での"東京の人"としておきたい)。
あるいは、両親と息子たちの時間感覚、テンポの差は、単に若者と老人の差ではない。"尾道の時間"と"東京の時間"の差でもあろう。

同様に、後半で登場する大阪で働く三男は、大阪弁を話すと同時に、"大阪の人"の振る舞いを体得し、"大阪の人"的な時間感覚を擁し、たとえ尾道の実家に帰ってもそれは変わらない。

ある程度の年齢までは尾道/田舎で過ごしたであろう子供たちが、"東京の言葉"を話す"東京の人"、"大阪の言葉"を話す"大阪の人"になっている。
1953年(昭和28年)という時代において、それは今以上に強く認識される現象だったのかもしれないが(むしろ2013年の現在は、"地方の人"の"地方の言葉"やその"時間感覚"こそ絶滅しかかっているのかもしれない)、この『東京物語』の息子たちの在り方を思う時、私は"エクリチュール"の存在を強く想起してしまう。

その"エクリチュール"について、文字通りのタイトルだが「エクリチュールについて (内田樹の研究室)」より引用してみる。


(※人間の言語活動の)第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。



…実は私ってば、奇遇にも昨年の夏に尾道に行った際、あるお寺で、見るからに"ヤンキー"風のファッション・態度の家族連れがやってきてガラガラと願掛けの巨大な数珠を回しはじめたところに出くわしたのだが、その一家の息子(もちろんヤンキーファッション)が、
「ヤンキーがこんなことできっかよ!」
と数珠を回すことを拒否する瞬間を見てしまった。

東京物語の舞台である尾道で、ここでエクリチュールの具体例として示された「やんきい」がまさに「やんきい」のエクリチュールを選択するその瞬間を目撃したことは、個人的出来事ながらできすぎているほどであるが…それはともかく。

『東京物語』においても、「語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり『パッケージ』で」、"東京の人"や"大阪の人"になった息子たちの姿は、「エクリチュールとは何か」という戯画とすら思えるほどで、小津監督がそれを意識したのか、小津監督特有の何かがそこに導いたのかはともかく、現代よりさらに濃厚であったはずの"地方の人"/"東京の人"における言葉+αの差異が、残酷なほどに(むしろ本当に残酷に)、見て取れるのである(べつにそんなものはテーマでも何でもなく、ただの必然や、演出の結果だったのだろうが)。
※前述の原節子型純粋"東京人"と、"東京の人"の断絶については、今回は割愛する。


さて。
前述の、『東京物語』を世界一とした英誌の評を見てみると


「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」(※日経新聞:世界一の映画に「東京物語」 英誌、各国の監督投票より)


とされている。「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」何かというのが、おそらくここでエクリチュールとして見えているものと同質であると考えても差し支えないだろうか。

ここで、さきほど引用した「エクリチュールについて (内田樹の研究室)」の文章に続く部分をもう少し見てみる。


私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。


…まさに、「『自分が選択したエクリチュール』の虜囚」となった息子たちと、"尾道のエクリチュール"との断絶。「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」何かの一部には、それがあるはずで、特にここに「時間」と「喪失」(間違ってもそれは母が死んだというような意味の喪失ではない)を見いだした世界の映画人の感覚にこそ敬意を評したい。

そして日本語の、尾道弁/標準語/関西弁の差異についてどれほど理解できるかどうかもわからない人々(とはいえ、私でもイギリス英語と米・南部なまりの差異くらいならわかるので、世界の映画人たちも同程度には何かを感じられるのかもしれないが)が、その喪失まで見透かしている可能性、そして、それを可能にしている小津作品の力に、あらためて驚くばかりである。(その良さが少しでもわかったのは"おっさん"になってからだが…)

…と、実はこの文章の冒頭を書いた時に考えていたことと真逆の話になっていて自分でもびっくりだが、それはさておき。

実は、件の日経記事「世界一の映画に「東京物語」 英誌、各国の監督投票」をあらためて眺めてみると、日経の記者による作品解説は「広島から子どもたちに会うために上京するが、つれなくされる老夫婦の姿を通して家族の現実を描いた」という、お粗末なものである。「わかってないんじゃないか」…そうも言いたくなってくる。

そして、なぜか今回『東京家族』の予告を観ていると、同様の、何か違うもの、ズレを感じてしまう今日この頃。山田洋次監督作品なのだから、そんなはずはないのだけれど。

とはいえ、上でも少し触れたように、2013年現在の日本においては、たとえば"九州の人"が九州人のエクリチュールで生きているのかといえば、そんなことはまったくない。むしろ別のレイヤーでのエクリチュール、たとえば「ネトウヨ」「チャラ男」「非リア充」といった括りのものこそが、日本全国どこにいても選択されるエクリチュールであろう。多少は九州人のエクリチュールがあるとしても。

むしろ"そうなっている"現在の形での「『自分が選択したエクリチュール』の虜囚」の姿にこそ、そういった側面からこそ、「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」ものに類する何かが見えるのかもしれないが。


…最後にもうひとつだけ。

果たして、専門誌で世界一と言われたからといって、では小津作品を観て「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」と思える人間が世界中にどれほどの割合でいるのか。そんな疑問もあるかもしれない。

いや、現代の日本人ですら「眠い」「古い」「なんでカメラ目線なの」「なんで同じこと2回言うの」程度の感想しか持てなかったりするのが小津安二郎。日本よりも海外での評価の方が高いとすら言われる小津作品。

だが、それでも『東京物語』は世界一と評されて良いのである…という点については、もし『東京家族』を観たら書くかもしれない。


(…ここまで書くのに2時間くらいかけてしまったが、実は構想6カ月)

追記:
ま、こういうことを思ったのも私が「東京に住む地方出身者」というバイアスがあったせいにすぎず、そうではない人にとっては「まったく意味がわかんねえよ馬鹿」という話かもしれませんが。
▼12/15(土)
出社した気がする。

▼12/16(日)
選挙に行ってから、上野の国立博物館。特別展では中国展のようなものをやっている(なんだかんだで修了間近の今頃になって…)。

ネトウヨ大量発生の昨今、中国系の展示には何かとリスクもあるせいか、手荷物検査つきの入場。海外なら普通か…。手荷物はロッカーに入れているので問題なし。

釈迦三尊像のような仏像が三体並んだ像の前で、いきなり見知らぬおばさんから「三位一体みたいね!」と声をかけられる。ちょうど釈迦三尊像という言葉が出てこなくてぼーっとしていた時だったので「あー…」と妙なうめき声をあげてしまう。

しかし、三位一体といえばキリスト教。言っていることがおかしい、というか、きっと頭が変な宗教観なのかな?とじわじわ思いはじめるも、件の老女は「三位一体」だけ言ってどこかへ行ってしまったので、間違った宗教観に同意の声を上げてしまった頭のかわいそうな男たる私がただ呆然と仏を見るだけの状態になってしまい、心中で歯噛みし、いまだに悶々とする次第。(もちろん今も)

物販にて良いものを見かけるも、高価でなかなか手が出せず。

その後ヨドバシにて家電の修理の相談をするも、買い替えを勧められる。
『狐筋の一族』購入はこの日?

選挙は自民の圧勝。
いつもは自民党に迷わず投票するほどの私も、今回ばかりは、そこに不安を感じずにはいられない。

選挙番組を見ながら『ズッコケ中年三人組age47』読了。ちょうどこちらも選挙の内容で実に面白い。しかも冒頭から衝撃的な回想もあり、なかなかの傑作。ちなみにズッコケ中年で一番の大傑作は山賊のその後の話。

▼12/17(月)
どうぶつの森しかしていない。

▼12/18(火)
最近入社した人の歓迎会。
店員の女性が酒井景人似の美人なれど、我が身には一切関わりのないこと。

▼12/19(水)
『孤独のグルメ』に鈴木先生が登場。

▼12/20(木)
どうぶつの森しかしていない。

▼12/21(金)
『ヨシヒコ』『キョンシーガールズ』ともに最終回。

▼12/22(土)
出社。

▼12/23(日)
ソラマチにて買い物。いろいろ買う。たくさん買う。
夜には大量のカキフライ。

▼12/24(月)
前週に続き国立博物館。常設の浮世絵は忠臣蔵特集。北斎の仮名手本忠臣蔵などはじめて見た。
特別展の物販で、前回もさんざん悩んだある"良いもの"を、またさんざん悩んで閉館ぎりぎりで購入。

▼12/25(火)
クリスマスなど関係なく遅くまで会社。『荒天の武学』など購入。
▼12/8(土)
勘三郎追悼番組のためにブルーレイレコーダー購入。ずっと避けていた録画環境が整うことにより、今後の人生がどんなにテレビに依存するものになるのか…。

▼12/9(日)
朝から夜まで勘三郎三昧。

WOWOWで『め組の喧嘩』、NHKで昼の追悼番組と、夜のEテレでの『髪結新三』『鏡獅子』。

【今日の読了】
勘三郎三昧の合間に『怒る! 日本文化論』(パオロ・マッツァリーノ)を、あまりにつまらなくてペースが落ちていたものを、思い立って一気に読了。

パオロ・マッツァリーノ氏の本は、前に買ってあまりにつまらない内容に呆れたこと(つまらなすぎて何の本だったかすら覚えていない)があったものの、今回は他にいくつか魅力的な本を出しているシリーズ(生きる技術! 叢書)だったのと、最初の方をパラパラ見た感じでよさそうだったので、なんとなく買ったんですよ、これ。

きっと今度はハズレじゃないと思って買いました。

……残念、またハズレでした。

この人は長い文章(というか本)は書かないほうが良いのではないだろうか…とつくづく思います。

べつにどこがダメとか、社会学的にどうだとか言うつもりはありません。"そういう書物"ではありませんし。ただ、ただ、つまらない。社会学としてどうとかいう、"そういう書物"であれば、つまらない本だってかまわないわけですが、"そういう書物"ではないからこそ、このつまらなさは絶望的で…。

有名な『反社会学講座』もずいぶん前に購入して何年も本棚においてありますが、これじゃいつ読むことになるんだか…、むしろ読まないかもしれません。
あ、『つっこみ力』というのも買いっぱなしでした。何年も放置状態ですが、たぶん今回の本で示された"つっこみ力"を見る限り、これは読まないでしょう。

【追記】
今、アマゾンでパオロ氏の著作を眺めてみたら、思い出しました。昔買って読んで呆れた本は『13歳からの反社会学』でございました。しかも、ネットの本のレビュー(素人の)なんて当てにしないほうがいいよと10年くらい前から言っている私ですが、今回、「前半は5つ☆、後半は1つ☆。」というレビューに「そうそう、それそれ!」と共感してしまったので、引用します。

前半はそれこそ時おり噴出しながら、とても楽しく読んでいました。
「これはいい!」と皆に薦めてまわろうと思ってさえいました。
それだけに、後半に入ってからの妙な展開が際立っておかしく感じてしまいます。
結局、その流れは変わらず強引な展開のまま本が終わってしまい、とても残念に思いながら読み終えました…


今回の『怒る! 日本文化論』も、だいたいそんな感じ。

この人に本を書かせるのはやめたほうがいいと思いますよ。ネットの断章くらいだったら、ちょうど良いのかもしれませんが。
むしろ書いている本人も、飽きちゃってるんじゃないですか?

というわけで備忘メモ⇒今後パオロ氏の本は買わない、または、後半を読んでから決める。

▼12/10(月)
『惡の華』(1~3)購入。『よりぬきサザエさん』(1~3)も購入。

▼12/11(火)
どうぶつの森ばかり。

▼12/12(水)
『鈴木先生外典』『惡の華』(4~7)購入。
相棒のため早めに帰宅しおでんを作って食べる。

▼12/13(木)
綿谷りさの新刊(サイン本)、ズッコケの新刊、『物語消費論改』など購入。
『惡の華』は7巻まで読了。

▼12/14(金)
どうぶつの森ばかり。
「十年後二十年後に、あの頃が失敗だったね、と言われることはたぶん間違いない。でも、それすら『まだまし』に思えてしまう事態がやってくるのではないか」
このブログで、3年ほど前(2009.12.24 )にこんなことを書いていました。


壊すといえば、さっき鳩山首相が記者会見を開いていた。
ずっと前から表明している通り民主嫌い(というかべつに好き嫌いの問題じゃないんだけど、わかりやすくそう呼ぶ)のぼくとしては、ずっと鳩山はやめとけって言っているのに、こんな小僧の声なんて誰にも届かないので日本はこの体たらく。
もちろん自民なら万全だったわけではないけれど、選挙前に「一回まかせてみよう」とか言っていたやつらは今何をしているのか。

でも、実は最近(ここ1~2ヶ月くらい)鳩山が辞めたら相当危ない気がしている。
べつに鳩山に続けて欲しいわけじゃなくて。

鳩山の次の政権で、一気にとんでもないことになるような気がして仕方ない(それが小沢か、何か別のものかは知りませんが)。
って、前にも書いた気がするけど。また書いてみました。

十年後二十年後に、あの頃が失敗だったね、と言われることはたぶん間違いない。でも、それすら「まだまし」に思えてしまう事態がやってくるのではないかと。

民主政権の悪い部分・いやな部分・残念な部分(だいたい全部)。そんないろんなものがたまりにたまっても全部鳩山が引き受けて消えていき、そしてそのカタルシスが何に結びつくのか。

万華鏡は打ち壊されねばならない?
それとも回し続けた方がいいのか。いや、ちゃんと回るのか。
=====
「おっぱい歯医者とかディケイドとか鳩山とかクリスマスとか。(2009.12.24)」より

(政権など関係ない頃からの"民主嫌い"だったので、ちょっと雑な書き方ですが、だからといってネトウヨではないどころか、ネトウヨや、簡単に愛国だの反日だの言う人はもっと嫌いです)

さて、ここで言う「鳩山の次」というのは、菅・野田政権のことではなく、民主政権の次、という意味です。当時政権交代から3ヵ月目、その半年後にあっさり鳩山さんがやめて、ころころ総理が変わるとは思っていなかったので…。(菅政権の"とんでもなさ"は、また別ですが)

しかし、どうも本当に「次の政権」でイヤなニオイがするような気がしてなりません。
本当に「民主の方がまだマシだった」と、それもわりとすぐに、言われかねない。

上で引用したものを書いた頃、他にも何度か書いていたように、民主政権を選んだことで「十年後二十年後に、あの頃が失敗だったね、と言われること」という事態は、予想より早く、2〜3年もしないうちにやってきました。
でも…そんなイヤな予感が当たったからといって全然うれしくはありません。
「ほれ見たことか」なんて叫んでも仕方ない。

こういったネガティブな予想が当たることで喜ぶ気持ちがある人はたくさんいると思うのですが、ではその後でよい時代になるかといえば、今日の選挙(まだ結果は出ていませんが)について、そんな気がまったくしないという現実。我がネガティブな予想は外れてくれるくらいでちょうどよかったのに。

今回も、ネガティブな未来予想(次の政権に対しての)をしている人は、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。
というか、いろいろなパターンのネガティブ未来予想(政権ではなく国としての)があって、それはたとえば愛国とか反日とか言うのが好きな人たちにとっての島や隣国に向いたものだったり、あるいは原子力、経済…いろいろでしょうが、それが今のこの状況につながっているんですよね。
だから、北のミサイルだったり反日デモだったりが、追い風になる人たちがいたりする。




とはいえ、内田樹さんがツイッターで

代議制民主制のよいところのひとつは、投票行動が文脈依存的であるために、「暫定的」なものにしかならないことでしょう。今回の投票は、その前の投票と、この次の投票を含めた「文脈」の中でしか意味を持たない。これが「ファイナル・アンサー」ではないと言い切れることが救いです。
=====
https://twitter.com/levinassien/status/280113154393006080(2012.12.16)


とおっしゃっていたのが、なるほど、救いです。

ちなみに岡田斗司夫さんが書いていた"投票戦略"は、私も前からやっていることですが(偶然そうなったというより、こうして見てみると十数年来岡田さんの本などから受けた文化的遺伝子もその一因?)、さてどうするか。

まず、各政党や候補者の意見を調査する。
A: 賛同できる、または応援したい候補者や政党がある場合
 そこに投票する。当たり前だね。
B: 賛同できる、または応援したい候補者や政党がない場合
 日本共産党に投票する。
=====
クラウドシティなう「岡田斗司夫の投票戦略(2012.12.16)」より




余談ですが、
「選挙の日はウチじゃなぜか 投票行って外食するんだ」
という『ザ☆ピ~ス!』(モーニング娘。)の一連の歌詞は、なんだかんだ言って絶望することもなく、ネトウヨみたいに過剰になることもなく(重ねて申しますが、たぶん民主の悪口をいっぱい言っていたから、見る人が見ればネトウヨの仲間みたいに思えるかもしれませんが…でも本当に、ただの民主嫌いだっただけでネトウヨが大嫌いです)、選挙に行って外食して、そして絶望することなく行きていく指針になっていたりします。
▼12/1(土)
『ゴティックメード』2回目鑑賞。
2回目だというのに(むしろそのせいか)開始1〜2分で目がうるむ…。これは何度でも観たい。映画館で観たい。というか映画館でしか観たくない。ラストでも目から液体がこぼれて困った。

そもそも、本物の原作者(FSSの)が本物の監督になって本当にアニメを作ったわけだから、間違えるはずがない。隅から隅まで、映像も映像じゃない部分も、正解しかない。
よく漫画のアニメ化や実写化で「なんでも○○にすればいいってもんじゃない」などとバカのひとつおぼえのようなことを繰り返すアホタレがいるけれど、そもそも『ゴティックメード』については、そんな陳腐な言葉はありえない。すべて正解だから。今年夏から秋冬にかけていろんな名作アニメ映画を観たけれど(なかなかアニメ的に充実したように思う)、その中でナンバーワンは『ゴティックメード』。

その後デパートの食堂で昼食。実に楽しいデパートの食堂。大満足。

それから『ぼくが処刑される未来』鑑賞。しかも小中監督、脚本の長谷川さん、そしてずっと憧れていたプロデューサーの白倉さんのトークショーつき。

▼12/2(日)
出社した気がする。

▼12/3(月)
午前半休、昼に鰻を食してから出社。実に旨い。いつも旨いがこの時期はたぶん特に旨い。

▼12/4(火)
『闇の国々(1)』『キン肉マン(41)』(読了)『カッコカワイイ宣言(4)』『聖☆お兄さん(8)』『わたしは真悟(3)』『わたしは真悟(4)』『式の前日』購入。
ツタヤのポイントが5倍だったので今すぐ買わなくても良い物まで買ってしまったが(最後の3つ)、5倍だからといってそんなに大層なポイント数がつくわけでもない。『闇の国々(1)』はサイン本だから買ってみた。
『式の前日』は、大傑作!大号泣!のような激押し商品だったので、ふと買ってみたが、最初の何作かを読んでも「べつに…」という感じでなんとも。困った。

ひょっとしたら『思考のレッスン』(丸谷才一)、『おジャ魔女どれみ16』(の3冊目)『ウルトラマン妹』(やっと発見した)もこの日購入。いつ読むのかはまったく見当がつかない。

▼12/5(水)
あらためて別に書く。

▼12/6(木)
前日の後遺症かよくおぼえていない…。
夜、DVDで研辰を鑑賞。それですら、「もうこの人はいない」と思うと目がうるんでしまう。

▼12/7(金)
『進撃の巨人(9)』購入、読了。
勘三郎の訃報の後で注文した『歌舞伎座さよなら公演 16か月全記録 第7巻』を受け取る。
11/18(日)
TOEIC。ずっとどうぶつの森しかしていなかったので準備不足。銀座に寄って帰宅。

11/19(月)
どうぶつの森しかしていない。

11/20(火)
どうぶつの森しかしていない。

11/21(水)
どうぶつの森しかしていない。
夜、弟の家で相棒を見て帰る。
『死ねばいいのに(文庫版)』『ZETMAN(18)』『機動戦士ガンダム デイアフタートゥモロー ―カイ・シデンのメモリーより― (2)』購入。

11/22(木)
どうぶつの森しかしていない。
『心の問題』購入&読了、『鬼灯の冷徹(7)』購入。
『<彼女>の撮り方』『すーちゃんの恋』『ペンギンハイウェイ(文庫版)』購入。

11/23(金)
同僚の結婚式。どうぶつの森をしてから行き、二次会でもだいたいどうぶつの森をして、どうぶつの森をしながら夜帰る。

11/24(土)
家に家族くる。

11/25(日)
皆帰る。

11/26(月)
どうぶつの森しかしていない。

11/27(火)
どうぶつの森しかしていない。

11/28(水)
どうぶつの森しかしていない。
『相棒』がなかなか面白い。

11/29(木)
どうぶつの森しかしていない。

11/30(金)
どうぶつの森しかしていない。帰宅が遅くなり、ヨシヒコとキョンシーを見逃す…。
『14歳(3)(4)』『深夜食堂(10)』『おやすみプンプン(11)』購入。重い。

この中のどこかで見た映画
『プリティ・プリンセス』『プリティ・プリンセス2』『魔法にかけられて』『劇場版 さらば仮面ライダー電王 ファイナル・カウントダウン』『アイアン・ジャイアント』。『アンブレイカブル』もかな?あと『劇場版シンケンジャー』 も。
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