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自己探求とか自分探しとか言っている人は、探した挙げ句何も無いことに気付いたらどうするの?死ぬの?

と思っていたけど、いまだにそれで死んだって話は聞かない。

バカは死ななきゃ治らないとは言いますが。死なないから治らないまま生き続けるのか。

まあ、探すとか探求するというのは、その先に何かある場合には意味のあることだろうけど、自分を"探す"ってそもそもの下地もできていない小僧・小娘が探して何か出てくるわけもなく(スピリチュアルの前世じゃあるまいし)死ぬまで何か出るわけもなく。

あるいは"探し"ベースで"成長"とか言ったって、そもそもの素養を作らずに探すだけなら何一つ成長なんてしないし、そんなこといってるやつは何しても成長なんてしないから諦めた方がいい。

(全部自分のことです。決して、同年代で自分探求とか自己成長とか言って遊んでいる人の日記を見て呆れたとかそういう事情はありません)

10年前から思っていたけど10年経ってもやっぱり何か発掘されたって話は聞かないから(転落する一方という話はたくさんある)、そろそろ皆さん見つけにくいものをカバンの中や机の中から探すのはやめたらどうですか。
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↓3行で判断したい人のための説明
みんな大好きなオバマさんに対する空気が気持ち悪いなあ、という気分を先週つづった時代遅れでスイーツな徒然日記。
べつにこれを読んでも何も解決しない。
打ち水が何かおかしい。

ということを、すっかり涼しいどころか肌寒ささえ感じる今日この頃に、考えてみる。
※2010/02/06追記
やけに「湾曲表現」で検索している人が多いので最初に言っておきますが、ここでは「"湾曲表現"って一般的に使う言葉としてはおかしいよね」ということを言っています。
==本文ここから=====


今週のL25(2008/09/04)の恋愛特集のような文章の中で、恋愛に関する著書多数の"心理コーディネーター"(心理の何をコーディネートするのか知らないけど。出会い系とかですかね)のセンセイが「湾曲表現湾曲表現」と何度も繰り返している。
たとえば、そもそも女性は"湾曲表現"になりやすいとか、男は直接的に物事をとらえるけど女は"湾曲表現"を好むとか。

この"湾曲表現"という言葉、「婉曲」(エンキョク)のことじゃないのか。
あるいは、婉曲という言葉から現代で派生した新語?
たとえば、婉曲という文字が読めない人がワンキョクワンキョク言い出したところから、意味合いとしてわからないわけではない湾曲表現という言葉が飛び出したとか(婉曲の「婉」はお椀の「椀」に似てるし)。

"心理コーディネーター"のセンセイが出している事例も、女の子が言葉の裏の意味をわかってほしくて"湾曲表現"で伝えた真意が、男にうまく伝わらないという話で、まあ、婉曲の問題かといえば実際婉曲というより、たしかに"湾曲"なのかもしれないけど。
つまり、(婉曲の勘違いではなくわざと使っているのであれば)女の子が本音を別の言葉に隠して伝えること―婉曲よりさらに一歩進んだかもしれない表現形式―を、このセンセイは湾曲表現としているらしい(たぶん)。
7月7日の七夕、“恋の日”に認定
http://www.oricon.co.jp/news/ranking/55932/

元祖・遠距離恋愛の2人である織姫と彦星が年にたった一度だけ再会できる、そんな七夕はまさに“恋の日”。日本記念日協会は今年の七夕から正式に、『7月7日は“恋の日”』と認定した。織姫と彦星のための七夕と違い、恋をがんばる全ての人それぞれが主役になれるのがこの“恋の日”なのだという。この“恋の日”は、7月2日(水)に発売されるコンピレーションアルバム『恋のうた』がきっかけとなり、認定された。



レコード会社が宣伝がてらてきとーに作った日を、田舎のおじさんが勝手に作った個人協会(その名も高き日本記念日協会:http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html)に5万円くらいで認めさせておめでとうというニュース。

ずっと前にも一度書いたことだけど([違和感メモ] 日本記念日協会)、日本記念日協会なんて、いかにも公的な組織というか、たとえば総務省だか文部科学省だかが関わっていそうに聞こえるかもしれないけど、その実、長野の自称放送作家のおじさん(一応、昔記念日に詳しいという特技があったらしい。いわば林家ぺーが誕生日協会を設立する感じ?)が勝手につくって、認めてやるから金よこせという、うまい商売をはじめただけの個人(加瀬さん)のアレで、何の法的根拠もなければ、ここで「認定」があったからといって、べつに何がどうなるというわけでもないし、むしろ何もどうにもならない。大抵の場合は、記念日協会(というか加瀬さん)のデータベースの肥やしになるばかりという。
あるいは、件の記念日協会のサイトで、どうしようもなくひどい「記念日俳句(川柳ではなく俳句と言っておる)」を読まれてビミョーな感じになるオプション付き。加瀬さん、俳句の会に入っているのかね。

まあ、虚業虚業ってよく言いますけど、これはものすごくわかりやすい虚業ですね。

それにしても、記念日協会の検索サイト(http://www.kinenbi.gr.jp/)を見ていると、たとえば記念日の説明が、昔の言い方をすれば香ばしすぎて逆に面白い。金儲け大好きそうに見えて、まあ、たぶん大して儲かっている気もしないけど、結構がんばっている感じが垣間見えます。

日本記念日協会様の所在地(グーグルマップ)


ちゅーか、アンチな内容であれ、それに触れた日記を書く時点で先方の思うつぼにも関わらず、つい書いてしまった…。
こないだ、「家でやろう。」のポスターについて日記に書いたんですけど、いまだに地下鉄に乗ると、家でやろうのコピーが印象的なメイク中の女性をアレしたポスターが目につきます。
(東京メトロの家でやろうページ:http://www.tokyometro.jp/anshin/kaiteki/poster/index.html

東京メトロとか関係ない人には、どうでもいい日記ですみません。


そもそもおマナーというお言葉がぼくは好きではないのでアレなんですが、何度そのポスターを見ても、わざわざ少なくない予算を使ってまで車内メイクを槍玉にアレするのってどうなの?という気持ちは変わりません。

べつに、車内メイクを推奨して、みなさん是非車内でやりましょうねーというつもりは毛頭ないけど、わざわざ電車の中でメイクすることが「おマナー」にお違反しておる、とかいうおじさん(おばさんも?)たちの感覚は、こないだはキャバクラでキャバ嬢にお説教するおじさんのような、と書いたけど(そんなの本当にいるのか知らないけど)、なんというか、やっぱり気持ち悪い。
どうもそこでは、女子はかわいくて当然、おねえさんは美人で当然、もしくは、それなりの人はそれなりで当然、というのが前提のようになっている気がします。
(ちなみに、なぜか海外に行くとものすごく残念な女子の割合が非常に高いのは、普段の完全版メイクではないことが大きな原因だと思うんですが、どうなんでしょうか。鬼みたいな顔の3人組が、ビデオで自分撮りしながら「いまぁ~ライン川くだりぃのフネに乗ってまぁ~すギャー」とか言っていると、呆然と、国辱とはこのことだっけ、とすら思ったりするんですが)

たしかに、女子はかわいい。できることなら女子になりたい。
けど、それって一朝一夕で成り立っているものではなくて(いや、実際はまさに一朝だったり、人によっては一夕だったりで作っているものですけど、そういう意味ではなくて)。
だけど、電車の中でメイクするのはけしからんと高らかに謳うおじさんたちの精神の根底には、女子はかわいくて然るべきもの、あるいは、それなりの人はもともとそれなり、という甘えがある気がしてならない。
とりあえず、そういういやらしい甘えは捨てた方がいい。
いや、もちろん皆様もとから大変お美しいのは存じ上げておるわけですが、ただ、メイク様のおかげをもって、この世界が光り輝いておるということも忘れてはならないと思うわけで。


たしかに、電車の中で人目もはばからず(あるいはそこにある人目は、もはや”人目”ではない)メイクするというのは、公共心の低下をあらわす指標の一つだというのはぼくだって納得できるし、そこに象徴された公共心の低下というのは、全体的に見て由々しき問題だとは思います。メイク女子に限らず。
それは、単純に公共心が低下したということよりも、電車を降りて辿り着く目的地(学校だったり会社だったり)にある小さな「セカイ」のみが各個人の世界の全てであり、電車の中は、セカイを構成する要素ではない、もしくは無視しても構わない超下位要素にすぎないという、セカイ系的価値観のあらわれなのかもしれません。
ただ、そこで問題とすべきは、その、ごく狭小な価値観でこそあれ、車内メイクという行為ではない。断じて違う。
仮に、この東京メトロ様のお達しの力で、誰もが家でしかメイクしないようになったとしても、そのセカイ系的アレの蔓延には何の関係もない。
(自分用参考リンク:http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/?q=%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF 過去に書いたセカイ系的価値観のアレ)

で、なんでしたっけ。
そうそう、車内メイク自体が、そこまで槍玉にあげるほどのものだとは、何度考えても思えない。そもそも、マナーとかエチケットの範疇だと思えないし。
むしろ、その行為に対して「家でやろう」なんて狂信的おマナーの押しつけを行ってしまう傲慢、あるいは、そういうポスターを見て「ほ~らオレが今まで言ってた通りだ」とあたかもシャカイセイギの追い風を受けたかのように追随する偏狭な価値観。
そちら側にこそ、自分の価値観のセイギを信じてしまえる幸福な愚かさと、その貧相なセイギによって成り立ち得るセカイの息吹を感じてしまいます。

しかし、今までは、無邪気に女性本来の美(メイクに頼らない)のみを妄信できた人たちが勝手に、「大和撫子の嗜み云々」「醜女は何しても無駄だから云々」と言っていたに過ぎないことが、いつのまにか東京メトロ様の大いなる意思によって、悪決定、となった、いわば公認悪の誕生を迎えてしまったわけで。

そもそも車内でメイクすることを「悪」「マナー違反」と断じている人たちは、きっと本当はメイクする女性の良識とか公共心を問題視しているわけじゃなくて、むしろ、自分がその「セカイ」の範疇の外にいること、他人にとってはたとえばジャガイモと変わらない程度の重みですらない存在になってしまうこと、そんな当たり前の事実、あるいは人間そのものが持つ真の孤独をつい認識させられてしまうことに我慢できないんじゃないでしょうか。
しかしそれを自ら理解しているのかどうか、はずかしげもなくメイクガールたちのセカイに、自分のセカイをぶつけてしまう大人気なさ。
実はそれこそ、「家でやれよ」と言われるべきものかもしれませんね。

とりあえず、そのへんのブログとかmixi日記の多くがこのポスターを賞賛し、「アチキもそう思っていたでやんす」とか口々に褒めそやしても、ぼくは徹底的にこのポスターは認めたくない(前の日記に書いたような、偏屈な老人たちが「電車でお化粧する女性はヤマトナデシコとして恥ずべき行為であり、家でやろう」と朝日新聞に投稿するような言論の自由は認めますが、それを悪公認してしまうのは違うだろうと)。

たとえそのデザインは大好きで、少なくともここ数年のマナーポスターとは雲泥の差であることは間違いないにしても、そこにある、すごくいやらしい感じが露骨にあらわれている限り、今後もこっそりアンチ日記を書き続けると思います。
mixiから転載
===
iede

久しぶりに東京の地下鉄に乗ったら、新しいポスターが(画像のアレ)。

「家でやろう」ということで、ぼくの記憶が正しければ以前は席を占領して何か食べながら本を読んでいる少年の図だったのだけど、今度はメイク中のお姉さんを槍玉にアレしたらしい。

だけど、そんなのわざわざお金かけて大々的に告知までして、家でやれって言うようなことか?
べつにぼく自身が電車でメイクするわけでも、メイク中の女性を見て興奮する性癖があるわけでもないけれど、何か違う気がしてならない。

そもそも、実は電車の中でメイクする人なんて見たことないし、いたとしても(いや、たくさんいるんでしょうけど)、それに対してわざわざ家でやれなんて、キャバクラでキャバ嬢にお説教するおじさん(これも本当にいるのかどうか知らないけど)的な感覚にしか思えなくて。
もちろん、アサヒ新聞の投書欄なんかに「電車でお化粧する女性はヤマトナデシコとして恥ずべき行為であり、家でやろう」という類のものが載るのは、まあ、そういうものなので仕方ないし、そういった言論の自由も守られるべきなのだけど、しかし、地下鉄を運営しているような会社に、「おい、そこの下衆な乗客ども、わしらの電車に乗るんやったらメイクは中でするな、家でやろう」と言われてしまうというのは、あまり気持ちのいいものではない。

まあ、前のバージョンの「家でやろう」ポスターが、簡潔でわかりやすいウィットに富んだスノッブなアレだったので(ぼくも個人的にすごく好きでしたが)、きっと評判もよかっただろうし、そこで調子に乗って、同じコピーで違うバージョンを作ってしまった的なうっかり感があるのかもしれないけど、それにしても、このままじゃそのうち、携帯をカチャカチャやるのはおろか、周囲に迷惑をかけない程度の音量で伊集院光や爆笑問題のポッドキャストを聞きながらニヤニヤするとか、いい年したおじさんがコバルト文庫を読みながらニヤニヤするようなことまで、家でやろうと言われてしまうんじゃないかと、気が気でない。
身じろぎもせず、口を開くこともなく、姿勢を正して、東京メトロ様のお電車に乗らせていただく、いや、まあ、きっとそういうことなんでしょうけど…そういうものなのか。

あと、家で「やれ」、でも、家で「やってください」、でもなく、家で「やろう」という、ビミョーな呼びかけ(ほら、おれって君のことわかってるじゃん的アピールをしつつ、しかし実際かなり押し付けがましいタイプのアレ)というのが腹立たしくなってきた。


=====
上の内容とは関係ないんですが、個人的には、こんなメイクやら何やらよりも(ずーーっと前にミクシィ日記にも書いていたんだけど)座席に座っているおじさんと若い男たち(どちらも大抵スーツ着てるタイプ)の股の開き具合が気になり続けていて(しかしこれは銀座線だけの問題か?)、しかもその手の牡犬たちときたら、大抵の場合、席をつめたりゆずったりしないし、もうね、これは法規制してもいいんじゃないかというくらい、脚の長さ、もしくは股間のビッグジョン(マラ、逸物、暴れん坊、etc)の存在をアピールする男性性のアレが、ほんと、家でやってよって感じなんですけど。
「価値基準は人それぞれだから…」
「受け取り方は人によって違うから…」

何か自分に都合が悪くなると、そういうことを言い出す人がいる。

物事の価値基準が相対的であることは、べつに今更キミたちに言われることではないよ。と思うのだけど、それよりも気になるのが、そこで言われる「人それぞれ」が、単に価値の相対性に言及しているのではなく、「価値基準は人それぞれだからオレのやり方に文句をつけるな」「オレのこのやり方でも正しいという人はいるはずだからケチつけるな」という傲慢さの発動のための予防線になってしまいがちなこと。

あるいは、「う…うん、そうだね、人それだからキミのその方法でもいいんじゃないだろうか…たぶん」という、非常に遠慮がちな、争いや議論を避けるためだけの逃げの方便になってしまいがちなこと。

それでいいのだろうか。


ついでに言ってしまうと、「価値基準は人それぞれだから…」なんて予防線をはる人にかぎって、ご自分はものすごく、頑迷なほどに、自分自身の価値基準を絶対的に、というか純粋に、信じきっている、相対化できていない、ことが少なくない。
たまにスタバの前なんかを通ると、すかしてコーヒー飲んでる人たち、たくさんいますよね。自分が中に入っちゃうと意外と見えないけど、まあ、みんなすかしてる。

で、もっと見ていると、外国…というか、主に欧米から来たと思われる人たちがたくさんいて、まあ、みんなかっこいい。老若男女ことごとくかっこいい。べつにかっこつけてるわけでもないんだろうけど、佇まいからして、悔しいことにかっこいい。

たとえばぼくがよく前を通っている浅草のスタバにいるのなんて、ほとんど観光で来てる人たちですよ。観光で浅草なんて、そういうベタなこをとする人たち。日本人なら、パリに観光に行って凱旋門やエッフェル塔に登り、ニューヨークでは自由の女神やエンパイアステートビルに登り、北京旅行で万里の長城に登り、韓国に行けば冬ソナで有名な壁を登り、ローマではスペイン広場の階段を登ってジェラート。そんなベタなジャンルの人たちですよね。
しかも、そうやってせっかくニホンのアサクサに来ているというのに、レトロ系「喫茶店」に行くでもなく、ましてや有名な老舗(のように見える店)に行くでもなく、わざわざ自分の国にも腐るほどあるようなスタバを選ぶ小市民たち。
これが日本人なら、得意気にパリに行きながら、毎日あっちの「スシ」や「ウドン」を食べて、かといって現地とニホンとのギャップを愉しんでいるでもなく、「やっぱりニホン人はワショクだよね~」なんてさらに得意気に言って薄いお茶でもすすっているような、なんか残念な人たちですよ。あるいは香港旅行で小腹がすいた昼下がりに、わき目も振らずマクドナルドでチーズバーガーを食べているようなものですよ。それが悪いとは言わない。むしろ、そういう生き方は強くて素敵かもしれない。でも、なんか残念。特に観光ガイドとにらめっこしながら海外で和食屋を探す人とか、なんかとても残念。
しかし、スタバを覗くと、そんな残念な人たちの欧米版が、なぜかあまりにも自然でキマっている。

それにひきかえ、その周りですかしているぼくも含めた日本人たちの姿の、なんと惨めなことか。
なぜか洋書(絵本みたいな)を懸命に読んでいる人とか、なぜかエンパイアステートビルの上で食べたチーズケーキの方がおいしかったと力説しているアメリカかぶれのおのぼりさん(←本当にいた)とか、努力すればするほどに、惨めさが際立っている現実。
もう、ぼくら日本人は、スターバックスなんかに入っちゃいけないんじゃないだろうか。百歩譲って家や会社に持ち帰って飲むのなら許されるとしても、店内でコーヒー飲んじゃいけないんじゃないだろうか。
そんなことさえ考えてしまうほどに、この不似合いな現実。

これはべつに日本人としての生まれの不幸を呪っているわけでも、脱亜入欧で欧米列強に並び立つべしと言っているわけでもなくて。ただ、彼らと同じ方法でかっこつけようとしたって、どうにも滑稽で哀れなものになってしまうんじゃないだろうか、というどうしようもない諦観かもしれません。

まあ、べつにそれは仕方ないしどうでもいいんだけど。

というか、ここまではほんの前振りなので、実は今回はスタバとかはどうでもいいです(それにしては長かった)。

ただ、その、前述のような状況(もちろんそれを感じる機会はいくらでもあるのだけど)で、欧米人と同じ手法で生きてもなんかかっこわるいよね、ということに気づいたときに、後天的に西洋的「磨き」をかけようとする人もいる一方で、逆に、まさに逆に、「日本人的」であることを強く表明しようという人たちも、実はたくさんいますね。
明治以降、昔からそういう、ニホンニホンと言っている人たちはたくさんいたけど、最近、といってもここ十年くらいかな、また変な方向で、多くなっている気がします。

もちろん、その考え方に反対するわけではありません。
下手に国際感覚だとか、海外(というかそこで言っているのは欧米的感覚のことでしょうけど)でも通用するように、なんて言いだすくらいなら、もっと内側を深めた方がいいのは間違いない。

だけど、そこで持ち出す「日本人的」状況っていうのは、いったいどういうものなのか。

たまに見かけてとても残念な気分になるのが、武士道がどうしたとか、日本の伝統的考え方でどうするとか、下手すると、外国に対して、自分たち日本人を「サムライ」と表明しちゃったりする、にわか武士団。
最近のメジャーなところで言えば、サムライジャパンだとかサムライブルーだとか。こないだのカンヌでは、特に侍映画でもないスマップ系映画のプロモーションで、サムライスピリッツとか言ってたんですって?

あたかも、日本人=サムライの心みたいに言っちゃってるけど、はたしてその体にサムライの血は流れているのか。いや、血筋の話はさておくとしても、口先だけのサムライや武士道や葉隠でよいのか。刀差してちょんまげなら、誰もがサムライだったわけでもないのに。
浅草で模造刀やギラギラした着物を買って喜ぶ外国人と、サムライの心を口先のみで自称するこの島国の民族に、何の違いがあるのか。

自称サムライの民族は、決して『ラストサムライ』を笑うことはできない。

一億総サムライ化とさえ思える現在。おそらく"サムライ"は死んだ。死んだがゆえに、数多の野武士があらわれ、サムライを名乗り始めてしまった。歴代徳川将軍の名前の半分もわからないようなサムライたちの仕える主君は、いったい誰なのか知らないけれど。(ふと、もしやこの風潮は、たとえば企業に仕える企業戦士をサムライに喩えているのか?という見立てかと思ったけど、違いますよね…)

どうもこの「サムライ」には、「前世」と称して中世ヨーロッパの騎士やら王侯貴族を「自らに連なるもの」と見立ててしまうあの感覚(スピリチュアルという危機)に近いものを感じてしまいますが、そっち方面については今日考えることじゃない。

だけど、"魂"とやらで現在の自分が数奇な運命を辿った中世の王族の息子とつながる感性と、ただこの島国に生きているだけで、かつてこの島国(というか当時はあんまりニホンジンって感じじゃなかったと思うんですが)で勢力を誇った階級の呼称(たとえ自分の直接の先祖は、それに支配される民であったとしても)を恥ずかしげもなく使える感性は、決して関係のないものではない。たぶん。
先日書いた、漱石の文章が日本語が乱れている/いない、あるいは変化している/いないの基準になりがちな話は実はどうでもよかったのですが。

○○が言っていたからこれは正しいんだ、○○にそう書かれていたから真実はこうなんだ、みたいなことを平気で言っちゃう人が、よくいます。

幼稚園や小学生くらいだったら、センセイが言っていたから、お母さんが言っていたから、なんてのはたくさんいると思いますが、まあ、それはいずれ大人になるまでに、先生も親も大抵の場合は、無知蒙昧なるただのバカ、だとわかるものです。ですよね?少なくとも、常にその言動が絶対的に正しいものではない。

あるいは少し上の世代になってくると、テレビで言っていたこと、新聞に書かれていたことが、正しいの基準としてある。
もちろんそれは、ぼくら世代(20~30代くらい)にもわりと多めに残っているのだけど。

でも、ここ数年で言えば、ネットやら何やらの普及とともに、テレビや新聞、本などで言っていることにウソ大げさ紛らわしい情報が満ち満ちていることは周知の事実となる一方で、ネット、特に有名ブロガーなんかの言う事が、絶対的に正しい疑うべくもない真実のように受け入れられていますよね。

というか、ネットの情報もゴミだらけ、という認識はたしかに多くの人にあると思います。ただ、そのゴミの中に正しいことや貴重な真実があるという認識も同様に広く存在し、そしてそれは、人気ブロガーの大人気ブログであったり、自分と同じような考え方をする無名のなんちゃら君だったり。

たとえば日本語の変化に関して漱石がなぜか基準として引き合いに出されるようにして、ブロガーのなんちゃらさんみたいな人の書いたことが、きっと普通に歩いてたらそのへんのおっさんなのに、「正しい情報」「真実」「啓示」のように語られる。いや、そういうこともあるらしい。

「テレビとか大手メディアはウソを言うことを知りながら、大手サイトはウソを言わないと考える中途半端な大衆」http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-69.html
というのは、ブログがここまで普及するより少し前に書いたことなのだけど、これは当時一部で流行っていた(?)テキストサイトと呼ばれる世界では、「なんちゃらさんが言ったこと」が特に裏づけもなく権威を持ちつつあった状況に、ふと疑問が湧いてしまった結果、出てきた言葉でした。

それが今では、やはりさらに悪化、というのが適切でしょうか、ブログやら何やらの広がりとともに、なんだか大変なことになっている気がします。
ブログのクチコミマーケティングももちろんそうだし、そんな一部の話ではなく、もっと何と言うか広いところで。
日本語の乱れとか日本語の変化というときに、よく夏目漱石が出てくる気がします。たとえば漱石がこう書いているから、この(現在乱れているといわれる)表現は実は昔から正しかったんだとか、そんな感じ。

たしかに、素人目に見ても、日本語業界(?)における漱石の功績というのは大きいのかもしれません。
たとえば単語レベルで見ても、ちょっと調べてみると現在日常的に使われている言葉の中に、漱石の造語や当て字というのが実は沢山あって、たとえ無意識のうちにであっても、日本語を使う上でぼくらが漱石に受けた価値には、兎に角計り知れないものがあります。

だけど、漱石が使っていた言い回し、というのが必ずしも現代において日本語を語る基準となってよいものなのか。

べつにぼくは、日本語乱れてる派ではなく、どちらかといえばむしろ乱れてないよね派なんですが、単純に、乱れてないよねという時に、漱石を引用するだけで片付けるというのには、ちょっとだけ疑問があります。

当時の日本において、漱石の表現が完全に「正しい」ものであったかどうか、という裏付けもなく、しかし漱石が使ったというだけで権威になる。

なんだか今日は、我ながらものすごく間違った、あるいはいつにも増して的外れな事を言っている気がしますが…。というか、漱石が正しいという裏付けとか根拠とか、そういうの、実はたくさんありそう。

まあ、でも、「漱石がこんな変な使い方した」ではなく「漱石が使っているからこの表現は正しい」と言われる、それほどの存在になれるって、すごいことですよね。

まあ、イマドキは自分基準で自分自身がそういう「偉大なる」存在になってる人とかたくさんいますけど。
イマドキスピリチュアルを底辺で支える要素の一つとして、「みんなが主役」のような学校教育的言説があったんじゃないかな~くらいのことを書いたことがあったんですが、↓

ひょっとしたらぼくらは、「物語的な何か」を与えられすぎたのかもしれません。
「個性」が重視され、うっかり「みんなが主役」(←Googleで十万件以上出てくる言葉です)だなんて勘違いさせてしまうようなのんきな学校教育を経て、個々の人生は、個々の物語を持たなければならなかった。

だけど、そこに思い描いた物語はなかった。

物語の存在しない断絶感。
今も、これまでも、これからも、物語のない自分の人生。

それはそれとして、今を幸福に生きられるのであれば問題ないでしょう。おそらく大抵の人はそうしていると思います。

それでも物語を必要とし、たとえば過去の栄光という「物語」を語り続けて死ぬまで生きる人もいるでしょう。ガンダムSEEDにはまったのは逃避だったと語るガンダムファンの女性を以前NHKで見ましたが、そうやってフィクションの「物語」に走ることも可能です。また、決して自分では届かない世界、いかにも「物語」のありそうな人々、タレントや社長やアイドル、そんなところに思いを重ねる人もいるでしょう。

この物語なき物語の時代、それでも何かの物語に寄りかかって生きる人は少なくないはずです。

そして、この物語なき物語の時代の、自らに連なる物語の一つとして、前世や魂の「物語」が、江原的な感覚とともに異常な浸透を続けています。仏教でも神道でもキリスト教でもないようなちぐはぐなものでありながら、しかしぼくらの文化的遺伝子にぴったりのそれは、確実に今でも勢いを増している

ファーストコンタクト[1] はじまりは、江原あるある(やらせ)問題日記。

ちなみに、ぼくが通った小学校では、べつに「みんなが主役」なんてムチャクチャな言葉はありませんでしたが。
というか昔は誰もそんなこと言ってなかった気はするんですが。

ただ、小学校ってのは、すくなくとも今スピリチュアルに影響されている世代以降であれば、「みんなが主役」的な、表面的ロジック(ロジックでもないけど、言葉いじり?)の影響は、どこかで受けていますよね。

というか、ためしに検索してみると気づくのだけど、学校どころか、普通にオトナの人たちのあつまりであったり、あるいはお役所関係(地方分権とか)でも、平気で「みんなが主役」とか言ってるの、たくさんありますからね。

もちろん、「自分だけ主役」がたくさんあつまっただけの「みんなが主役」(スピリチュアル的)と、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」の「みんなが主役」(オトナ社会的)は、結構違うものだろうけど。


今日は最後の一文だけが言いたかった。

今回はほんの前振り。
次回は、みんなが主役と同様に、スピリチュアル派的な考え方に影響を与えている、あるいは関連が深いと考えられる、ある小学校的事象をとりあげる予定です。
(つまり、スピリチュアル派ってのは小学生レベルだよね、という話になるかもしれません…)
レトロフューチャーという概念がある。

ダサ未来という言葉もある。

昔の人たちが夢想した「未来」。それはやってこなかった「未来」として、レトロフューチャーだとかダサ未来として今に伝わっているのだけど、果たしてそれって、ただ単に昔それを夢想した人たちの感覚がハズレだっただけなのか。

それとも彼らがデザインした「未来」の姿・予言が、感覚的に、たとえば60年代・70年代の「流行」が時がたつごとに古臭く見えてくるのと同様に、「未来」予想図ではありながら、同時に「過去」のものとなる中で、現実の社会が、その古さの漂ってしまった「未来」像から無意識にであれ、かけはなれるように進んでしまったのではないか。

「未来」のイメージは、未だ来たらざるもの、まだ見ぬもの、であって、決して過去ではない。

しかし「未来」予想は、それが世に出た時点で「現在」となり、その瞬間から「過去」となっていく。

つまり、当然「未来」のイメージであっても、そこにはそれが考えられた「現在」の在り様が反映されるわけだけど、たとえ「現在」を乗り越えた「未来」イメージが出てきても、それが受容された「現在」が過去になる中で、その「未来」イメージも「過去」イメージとなってしまう。

(なんてことは、きっと過去に何百万人もの人が考えてきたんじゃないかとも思うけど…)

そうなると、そもそも「未来デザイン」なんてしないほうがいいのではないか。
とすら思えてしまう。どんなに先鋭的・未来的なデザインであっても、三日で現在になり、過去になってしまう。そしてぼくらの未来への欲望は、「まだ見ぬ未来」へと向かう。一度世に出た未来は、既に見た過去でしかなく、その姿での未来の可能性を閉じたものにしていく。

つまり、「未来」的なるデザインが世に出るほどに、その、世に出た「未来」の可能性が消えてしまうことで、実際には、「未来」の可能性はひたすら狭くなってしまうのではないか。

時代の行き詰まり、閉塞感は、そこからやってくる?というのは蛇足か。

=====
※補足:
文中で言明しなかったので誤解されそうですが、ぼく自身はレトロフューチャーやダサ未来であったり、その流れを汲むものは、大好きです。大好きであるがゆえに考えてしまった事が、上の文章です。
この世には二種類の人間がいる。○○が好きな人間と、○○が好きではない人間だ。

…みたいな言い回しをここ数年時折見かけます。
ここ数年というか、最初に違和感を感じたのが7~8年前で、そこで違和感スイッチが入ったから気づきやすくなっただけのことで、本当はもっとずっと前からあるのだろうけど。

もちろん、「二種類の人間がいる」部分はべつにどうでもいいんですが。
(二種類の…とか言ってると、大したこと言ってなくても、いかにも名言っぽいですね…)

ただ、それに続く部分が、たとえば
「カレーが好きな人間と、ラーメンが好きな人間だ」
くらいの二本柱を立ててくれるのならよいのだけど、そうではなく、
「カレーを好きな人間と、カレーが好きではない人間だ」
みたいな、そりゃ、好きかそうじゃないかで区切ったら、当然二つに分けられちゃうよ!的な、当たり前の事しか言っていないのに、もっともらしいことを言っているかのように得意げになっている人が、結構多い。

「この世にカレーが嫌いな人間などいないだろう」みたいな、自分勝手な決め付けも困ったものではあるのだけど、「人間には二種類いて、それはカレーを好きな人間と、カレーが好きではない人間だ」になると、それって、結局何も言ってませんからね。

もちろん「カレー?う~ん、そうね~取り立てて好きでもないんだけど…あ、いえね、嫌いってわけじゃないのよ。食べる時には食べるし。ただね、そう、最近はカレーの気分じゃないっていうか~…もちろん出てきたら食べるんだけどね~…」的な層を、敢えて無視したり、あるいは好きではない側に押し込んだりして、全人類を強引に二分化してしまうその強気さにポイントがあるというのであれば、もう何も言いませんが。

ちなみに、カレーの例でいえば、そもそもカレーを知らない民族とかも二分化しちゃう、その平和なグローバル感覚もすごいです。


まあ、こういう賢く見えて実は全然賢くない言い回しというのは少なからずあります。
「○○の日」とか「○○記念日」っていろんなものにあって、たとえばポッキーの日だとかパンツの日だとか、ちなみに今日は雨漏りの点検の日らしいのだけど、実はそれって勝手に言っているだけではなく、一応の「認定」はされた記念日だったりする。

だけど、それってほとんどは、べつに公的に認定されたものではなくて、ちょっと記念日に詳しかった長野県のおじさんが勝手に「協会」を名乗って認定をはじめたら(結構高い金を取って)、いつの間にかそこで「認定」された記念日があたかも公的な認定のようになったというものでしかない。

…ということをここ数年ずっと言いたくて、でも機会がなくて忘れていたんだけど(それとも、ひょっとして書いたことありましたっけ?)、昨今の検定ブーム(?)で思い出しました。というか実は検定がブームだったことは最近知ったのだけど。

まあ、だからといって、その、記念日商売が悪いってことではなくて。
その記念日のおじさんも、まあ、うまくやったなあ、と感嘆こそしますが。
だって、一個人が認定とかしちゃうんですよ。そして信じられないくらいの大企業や組織が、それをまともに相手にして、下手したら大金払ってお願いとかしちゃうんですよ。さらに国民が、その認定記念日をさらに認めて生きているわけですよ。今日は○○の日だから○○を買わなきゃ、とか言っちゃうわけですよ。それも、たぶんインターネットもまともにないような時代から。

でも、なんか、違和感があるんだ。ちょっとした引っ掛かりがあるんだ。

日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html


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まあ、認定とか協会なんて言った者勝ちで。
ずっと前にできたメイド協会(情報が遅い人が突然あたかも最新情報のように言い出したので思い出した)も、メイド検定とかセミナーとか言ってるけど、百花繚乱たるメイド業界において、いくつかの店舗を多角経営している小さな会社の人と、聞いた事も無いコスプレ雑誌の人が言い出しただけ、みたいなアレですからね。

日本メイド協会
http://www.n-m-a.jp/


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協会って、なんかいいですね。
「日本人は、協会に弱い」(日本以外だとかどうか知らないけど)とか言ってみたいですね。
協会商法とか。


ほんと、言った者勝ち認定した者勝ちの記念日業界であっても、たとえば「雨漏りの点検の日」なんてものを目にしたときに、
「へーっ、そんな日があるんだあ、すげえなあ」
という言葉は出ても、
「なんかおかしい」
という方向にはなかなかいかない。
べつにおかしいわけじゃないのだけど。

メイド協会だって、情報に疎い人から見れば、
「へーっ、メイド業界もそこまできたんだあ、すげえなあ」
なんて的外れな感想は出ても、
「なんかおかしい」
という方向にはなかなかいかない。
べつにおかしいわけじゃないのだけど。


認定とか、協会とか、あと検定もだけど、言葉の強さとしてはかなりのものですね。言ったもの勝ち度も。
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