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政治的・宗教的なことをどうこう言うつもりはないし、中国人の思考パターンにはまったく詳しくないのですが、これを読んだら、なんだか立場や考え方の違いがすごくわかりやすくなった気がするのでちょっとメモ⇒ http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-08/17/content_29746211.htm 日本の政治家が拝むのは「神」ではなく「鬼」_中国網_日本語(中国戦略文化促進会常務副会長・秘書長 羅援さんの記事)。

(※念のため最初に言っておきますが、靖国参拝や戦犯の扱いの是非をここでどうこう言うつもりはありません)

この羅さんは、靖国の戦犯を「鬼」と呼び、「『神』を拝む前に『鬼』を追い払ってもらいたい」とおっしゃる。

ところが日本では大昔からオニ(元ヒト。祟る系)を拝むことでカミにしてきたのはここで指摘するまでもない話。有名なところでは天神様の菅原道真がそうだし、神社の由来を見れば、非業の死を遂げたとか何かを怨んで死んだとか、諸々ヤバい祟りそうな人を神社を建てて祀ったというのはよく目にすると思います。
(※指原道真とまで呼ばれた指原莉乃さんのAKB選挙1位も、その一環かもしれませんね)

ヤバいもの、祟りそうなものほど、拝んで拝んでカミにする。神社だけではなく、たとえば芝居…一部の歌舞伎とか(御霊信仰で忠臣蔵をどうこうとか言いますしね)、よく知らないけど能なんかも、そういう性質はあるんじゃないかな。

それを祀らないと、『呪怨』のあの家になったり、貞子になったりするのは、現代のJホラーにも通じる考え方ですね。だから、たぶんゴーストバスターズのような"退治"ではなく、死体を見つけてあげるとか、残した願いを叶えてあげる(『あの花』も)ような手法で解決する…のかな?よくわかんないけど(怖い映画は苦手なので!)。

ところが中国の人には、こういった考えはなかなか理解してもらえないらしい(羅さんの記事を読む限り)。件の記事がそうだし、そういえばずっとずっと昔、まさにこの「オニ⇒カミ」の話を聞いた大学の社会史(たぶん)の講義で、中国人留学生がなんか文句をつけていた(マジです)のも、今ならかなり納得できます。
とはいえ、昔は中国でも「オニ」に当たる祟る霊を拝む人たちはきっといたと思うんですが(根拠はキョンシーの「霊幻道士」あたりですが…※後述)、

くれぐれも政治的なことをどうこう言いたいわけではないので、戦犯と呼ばれる人たちがオニ(祟る存在)かどうかは「なんもいえね」ですが、件の記事のように靖国に祀られた存在(の一部)を「鬼(オニ)」とする考え方が彼らに普遍的なものだとして、それを拝むことに彼らが疑問を抱くのは、なるほど当然ですよね。根本的に前提が違うんだから。(※中国語の鬼と日本語の鬼は違うはずだけど、これは日本語の鬼と解釈して良いですよね?)

羅さんが言うところの「軍国主義の魂を呼び起こす行為」である参拝。だけど、そんなことを思っているのは日本ではネトウヨさんくらいであって、しかしそれは日本人の拝む行為とは「ぜ~っんぜん。もう、ぜ~んぜん。ハッハッ」と言いたいくらいズレている。むしろ逆!(※もちろん、日本人の拝む意味もいろいろです。現実に、「軍国主義の魂を呼び起」こそうとしているネトウヨさんはたぶん少しだけいます、残念ながら)

何度も言いますが、靖国に祀られているのがオニ(または元オニ)かどうかは知りません。でも、この羅さんのように戦犯を「鬼」と呼び、その「鬼」を拝まず「軍国主義者を厳しく非難すべきである」という主張が中国の知識人に通じる考え方であるのならば、何百年たってもこの溝は埋まらないでしょう。

伝統的に、死者を「厳しく非難すべき」なんてことは、日本人にはあまりそぐわない。(そんなことしたら、余計に祟るだけ!というか、だから中国ではいつも祟られて、同じ歴史パターンの繰り返しとか言われるんだべ…違うかも)。
たとえば東照宮だって、明治維新で破壊されたかといえば、そんなことはないじゃろ?むしろ、会津の殿様を連れて来て、ちゃんと祀り続けた?(じゃ秀吉は、足利は、北条は…うーん、おらよぐわかんね)

しかしその部分での根底となる考え方のズレがあればこそ、日本人が靖国でどんな拝み方をしても、ただそれだけで何度でも糾弾されるのもなるほど納得。こっちから見ればこう見えるものが、そっちから見ればそう見えるよね、という。

「『神』と言い『鬼』を拝むことは決して許されない」(羅さん)
それは、中国の世界観ではまさに「ありえない・理解できない」という話なんでしょう。その世界観のまま日本の拝み方を見るから、大きなズレがあるのは当然。

「鬼」にあたる人物の墓を暴いたり、死者に鞭打ち、祀らないどころかろくな埋葬もしない…それは(たぶん夏の時代以前から)伝統的に中国では当然かもしれない。キョンシーの霊幻道士さんは、まさにこの埋葬の間違いで祟りをなすようになった"オニ"を鎮める人でしたし(と大人になって見て気付いた)、孔子さまもそんなことをしろとは言っていないと思いますが(たぶん)、今ここで羅さんや彼の国の知識人は、日本人に拝まず呪いに呪いを重ねるようなことをしろという。

それは彼らにとっては、疑う余地のない当たり前の行為なんでしょう。
抗日映画や抗日ドラマで、日本人の暴虐を描き、さらにそれをコテンパンにして、呪いを続けるのもついでに納得です。

だけどそれは、彼の国の人たちの思想のことでしかない。

仮に中国の人が言うように、戦犯や戦没者や"軍国主義"が悪であればあるほど(実際にどうかはさておき彼らの目から見れば)、我々はそれを拝んで鎮めなければならない。ずっとそうやってきた。でも、それが彼の国の人の目には「軍国主義の魂を呼び起こす行為」に見えてしまう。

まさに逆転の発想!(違うか?いや、違わないか?)

重ね重ね(すみません!)、ここで宗教的な何かを押し付けたいわけではないし、べつに靖国参拝の是非を云々したいわけではないことは申し上げておきたいのですが、ただもうここには、なるほどこういう考え方なら、何かすればするほど、理解しあうどころか溝が広がりますよね、という何かがあるようです。逆だから。逆。

という話を3ツイートくらいでメモしておこうと思ったら長くなったのでとりあえずここでメモ。

ついでに言うと、この羅さんが「アジア太平洋の人たち」を拝めというのは…それはもしアジア太平洋の人たちの霊が日本人に祟るのであれば、いくらでもそういうことはすると思います。レインボーマンとかゴジラ(をはじめとした怪獣映画の一部)には…その痕跡があるかもしれないけど…。

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ドラゴンボールエボリューション、先行上映(渋谷で、30人弱くらいしか客が入ってない)を見てきたので、思い出したことをメモしてみます(順不同)。
ねたばれねたばれと騒ぐような人はいないと思いますが、作品の核心(あれば)に触れる部分があるかもしれません。念のため。

ハリポタ最終巻発売 書店に列
http://mainichi.jp/photo/news/20080723k0000e040023000c.html

世界67カ国の言語に翻訳され、累計4億部を超えるベストセラー小説「ハリー・ポッター」シリーズの最終第7巻「ハリー・ポッターと死の秘宝」(J・K・ローリング著、松岡佑子訳、静山社、上下セット3990円)が、23日発売された。初版は180万部。開店時間を早めた書店には早朝から熱心なファンが詰めかけた。

 日本では99年の第1巻以降の6巻で計2247万部を販売。主人公ハリーの運命が明かされる最終巻は、ファンの関心も特に高い。

 東京都八王子市のくまざわ書店八王子店は発売解禁時刻の午前5時に開店。168人が列を作り、発売を待ちわびた。

 開店前には翻訳者の松岡さんが魔女のコスプレで登場し、「今までで一番おもしろい本がみなさんのもとに届きます。一日で読んでしまわないでね」とメッセージ。ファンと一緒のカウントダウンのあと、1セットずつ手渡した。

 22日正午ごろから並んだ東京都葛飾区の会社員、青木千晶さん(29)は「一気に魔法の世界に運んでくれるハリー・ポッターが大好き。少しでも早く読みたくて並びました。物語が終わってしまうのはさびしい」。胸のうちは複雑なようだ。

 国内最多の販売部数が予想されるツタヤは、予約が過去の約2倍になったことから過去最大の14万部を仕入れた。


mixi日記等を眺めていると、ぼくみたいないやらしいタイプの人間はいやらしいことを書いているので、同様にぼくもいやらしく書くのだけど、もうとっくに原書で読んだよ☆

邦訳版は、文章がカビ臭いので、もう読めない。5巻までは喜んで読んでいましたが。
翻訳の人が税金でトラブル起こしたアレもあるから、あんまり買いたくないし。
装丁や絵もダサいし(英語版のアダルトエディションみたいなやつは、かなりマシな装丁)。
ハリポタなればこそみんな買っているけど、今後あの出版社が何か別の翻訳モノでも出したとき、買う人なんているんだろうか(まあ、本来こういう本の出版を手がける会社じゃなかったと思いますが)。
しかもあの訳のわりに、結構強気なお値段!

ということもあり、買わない。


英語の方は、原書といっても、わざわざ原書なんて畏まるようなものでもなく、中2くらいのレベルの英語なんだけど(たとえば受験生が長文読解の力をつけようと思って手にとっても逆効果なくらい生ぬるい。いや、あたいは大学受験のとき、某流行哲学乙女小説の英語版を手に取りましたけど)、たぶん毎回第一章があんまり盛り上がらない、というか暗いところからはじまる(ハリーとか出てこない)ので、そこで面倒くさくなって読むのをやめる人が多いことで有名(うそですが。ぼくが勝手に言っているだけですが)な英語版ハリポタ。そこだけ超えれば楽なんだけどね…という話を誰かにしたいしたいと思っていたのだけど、どうもまわりにハリポタ読んでいる人がいなくて、全然できなかったー。
誰が死んで誰がアレするのか、6巻最後のアレは実はアレだったとか、死の秘宝ってタイトルどうかと思うよね、とか、もうこれって映画の原作であることを念頭に置きすぎじゃね?とか、オールスター総出演魔法使い大進撃ですね、とか、アンブリッジが出てきて安心したとか、そもそもの前提となる話を共有できない以上誰にもできなかったし、「うわーネタバレすんな殺す」的なやり取りすらできなかった。
邦人落書きの処分 伊では驚き
http://mainichi.jp/photo/news/20080702k0000m040123000c.html
「教員、大聖堂に落書きで解任の危機」--。イタリア・フィレンツェの大聖堂に落書きをした日本人が、日本国内で停学や務めていた野球部監督の解任など厳しい処分を受けていることに対し、イタリアでは「わが国ではあり得ない厳罰」との驚きが広がっている。

 イタリアの新聞各紙は1日、1面でカラー写真などを使い一斉に報道。メッサジェロ紙は「集団責任を重んじる日本社会の『げんこつ』はあまりに硬く、若い学生も容赦しなかった」と報じる。

 フィレンツェに限らず、イタリアでは古代遺跡はスプレーにまみれ、アルプスの山々には石を組んだ文字があふれる。その大半がイタリア人によるものだ。同紙は「日本のメディアによる騒ぎは過剰だ」と、日本人の措置の厳しさに疑問を投げ掛けた。コリエレ・デラ・セラ紙も「行為はひどいが、解任や停学はやり過ぎ」と論評した。


落書きの件、前の日記とその前の日記に書いた通り、そのへんの大聖堂(世界遺産クラス)なんて落書きだらけで、実際わざわざ日本の新聞様がニュースとして取り上げるのも異常。これ言うの3回目ですけど。
イタリア落書きの件
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-197.html再びイタリア落書きの件
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-199.html

で、2回目の日記にも書いた通り、
「良い悪いでいえばもちろん悪い方に振り切れた行為とはいえ、やっぱりいまさらニュースにすることではないし、なんだろう、なんというか、得体の知れない気持ち悪さがある。 最初に短大生の落書きをみつけて大学に文句つけたのが、たとえば左よりの新聞記者かその身内だったんじゃないかとか、なんかそういう、気持ち悪さ。 」
という、むにゅむにゅした感触が、その後の野球部の監督が落書きで解任とかいうヒステリックな対応を見てもそうなんだけど、どうしてもつきまとう。

イタリア世界遺産落書き:京産大生も名前落書き--同じ聖堂
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080626dde041040005000c.html

京都産業大(京都市北区)2年の男子学生3人が今年3月、世界文化遺産に登録されている地区にあるイタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の石柱に氏名や大学名を油性ペンで落書きしていたことが分かった。大学は26日にも処分を決める。聖堂では岐阜市立女子短大の学生の落書きが発覚したばかり。大学によると「あこがれの場所で興奮していた。他に落書きがたくさんあり、ついやってしまった」と話しているという。



(画像は世界遺産のある大聖堂の落書きです)
koln3今日も大して海外なんて行ったことがないぼくが、昨日の実名入り日記(写真オリジナルに修正しました)に引き続きまた何か書いてしまうんですけど、「他に落書きがたくさんあり、ついやってしまった」と今回の学生も言っているとおり、教会とか大聖堂の落書きって、本当に多い。


koln2もちろん、だから落書きしてもいいってことではなくて、ただ、わざわざニュースというか新聞沙汰にするほどのものでもないだろうと。
ピサ落書き


■岐阜市立女子短大生6人、フィレンツェの大聖堂壁に落書き(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080624-OYT1T00570.htm

 岐阜市の市立女子短大(松田之利学長)は24日、学生6人が今年2月に海外研修旅行でイタリア・フィレンツェ市を訪れた際、13世紀から15世紀にかけて建設された「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁に落書きしたと発表した。


 同短大はイタリア大使館と大聖堂に謝罪し、学生6人と引率教員2人を学長厳重注意処分にした。

 発表によると、6人はいずれも現在2年生。大聖堂の大理石の壁に縦約30センチ、横約20センチにわたって、日付や自分の名前、短大名などを油性フェルトペンで落書きした。 同3月、日本人旅行者が発見、同短大に連絡して発覚した。6人は「気分が高揚して書いてしまった」などと話しているという。

 同短大は修復費用の負担を申し出たが、大聖堂側から「謝罪してもらえば責任は問わない。費用負担は不要」と連絡があったという。

 大聖堂のあるフィレンツェ市中心部は世界遺産(文化遺産)に登録され、景観や環境の保全が義務付けられている。

(2008年6月24日21時05分 読売新聞)



ぼくもそんなに海外とか行ったことないんだけど、数少ない経験で回ったヨーロッパでも(今回のニュースの舞台フィレンツェを含め)、そのへんの道端はもちろん、歴史的な建物(それこそ世界遺産級)でも、かなり落書きってされていて、もちろん日本人の落書きも相当な数があるけど、中国人のも結構ひどいし、ハングルも目立つし、それ以上にアルファベット(もう何語か判別つかない)のものも、かなりの数があるわけで。
こないだNHKを見ていたら、しょこたんが出てたんですよ。
「通(つう)」

そしたらなんか焼肉の「通」の極意に迫るとかいう番組で、ちゅーか、ぼくって肉は好きだけど、焼肉としゃぶしゃぶとステーキはあんまり好きじゃないと公言して憚らない野暮な男なので、いくらしょこたんが出ているとはいえ、心中苦虫を噛み潰しながら見ていたのですが、焼肉というものや、それにこだわりを見出す人々への疑問については既に何度も飯のアレに書いたので今更どうこう言うまでもないのですが、そんなことより、最近、通とか粋とか、そういう言葉が流行ってますよね。

流行っているというか、安易に使われすぎているような気がする。
更新を重ねるたびにアクセス数が減って行くおかしなサイトへようこそ。
(↑と、こんなことを言っている時点で時代遅れの前世紀のダメな遺物なのですがそれについては後述、するかもしれない。)
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以前、なかなかよそのサイトやブログを他人様には紹介しないこのぼくが、いろんな意味で大絶賛した「僕の離婚バトル~仁義無き戦い~」が、ついに(ひとまずは)完結したようです。


まあ、読めば読むほどかつて一世を風靡した堕落誌のヒカル先生にしか見えないんですけどね。真偽はさておき。
最近突然リニューアルをはじめたようで、一部読めなくなったテキストもあるけど、http://ameblo.jp/kindannoai/とか、どう見ても同じ人が書いた文章にしか見えない。真偽はさておき。

以前も同じようなことを書いたけど…
「…」ではなく「・・・」を異常に多用し(「・・・」が多いというのはどこかのコメント欄でも言っている人がいました。ちなみにぼくじゃないです。あと、最近の更新では突然「。。。」が飛び出したりしていますが)、必要以上の行間(改行)と、昨日今日はじめたような人間には真似できない、品を落とさない程度の適度なフォントいじり。
続き物としての焦らし方のうまさ、というかやりすぎ感すら漂うアレ。
かなり前の記憶を呼び起こしている割に、かなり細かいセリフの描写。
そして物語を進めるのは、どう見ても同じ人間の考えにしか見えない、モノローグ。

そんな数々の記号もそうだけど、それが全体的に醸し出す空気。
記号的な「・・・」や小説家志望の人が書きそうなセリフのスタイルは、真似しようと思えばいくらでもできるけど、多少でもいろんな人の書いたものを読んだことがある人間なら、その共通する空気に気付くんじゃないかしら。
2ちゃんでも、自作自演とかやってるやつがいると、文体とか全体的なスタイルで大体わかりますよね。
それと同じような感じ。

といっても、R25とか地下鉄のフリーペーパーに書いてるライターさんの文章の7割くらいが同じスタイルにしか見えないぼくの言うことなので、あてにはなりませんけどね。

  
最近、ちょっと翳りは見えつつあるとはいえ、やっぱり韓流の勢いってすごいですよね。

こないだあっちの四天王か何かが兵役でどうのこうのというニュースを見ていて思い出したんですが、ほんの数年前までは、日本におけるアジアンポップカルチャーの勢いとしては、香港や台湾の方が遥かに上を行っていたんですよ。ほんとに。アジアンポップカルチャー専門誌のようなものも昔からあったんですが、中を見るとそのほとんどが、香港系の記事で占められていました。ほんとに。韓国の記事なんて、5%もなかったかもしれない。いや、ほんとに。今では完全に逆転していますが。

そんな記事の中に、各国のポップカルチャー状況を俯瞰したようなものがありました。当時のその文章の中で言われていたのが、「韓国では兵役があって、いい感じの若い男性アイドルも大事な時期にいなくなってしまうので、人気も実力も育ちにくく、いまいち」という話。うーん、なるほど、と当時は納得していました。しかし、気づいてみるとその地位は完全に逆転し(ただし四天王のうち三人は兵役に行っていないんですが)、日本に流入するアジアンポップカルチャーは、ほとんどが韓流、申し訳程度に香港台湾がちょこんと顔を出している程度、という現実。

それはもう仕方ないのだけど、なぜここまで中華圏のカルチャーが圧迫されてしまったのかを、なんとなく、考えてみようと思います。
ここだけの話、ともだちコードは
3307-7617-2783
であります。

かいじゅう村
はじめ

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場合によっては管理者にしか見えない形でコメントするといいと思います。
ハニーがオタク世界にちょっと興味が湧いたようだったのでとりあえずガンダムを見るようにすすめてみました。うちにビデオもあるので。

とはいえ、これまでは、決して、ガンダムを無理矢理見せようとしたことはないんですよ。一度香港映画の「金枝玉葉」を見せようとした時の全然興味がない姿を見て以来、そのへんの無理強いはしていないはずです。

ただ、仮面ライダー響鬼を見ているうちに、なんだかひねくれた見方がしたいようなことを言っていたので、あんまり変な見方をするのはおすすめできないけど、どうしてもというのなら、と、入口として、必修科目としてのガンダム視聴をすすめたわけです。
最近浅ヲタのガンダムファンが増えているとはいえ、未だそのアウラは消失していないと、ぼくは思うわけです。

と、そんなことを言っていたら。

彼女は突然態度を硬化させ、「将来やっていける自信がない」「なんで今まで気付かなかったんだろう」「もう別れよう」な~んてことを言われてしまいました☆

豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまおうかと思いました。
(本来もうちょっと長々と書くつもりだった話なのですが、とりあえず覚え書きの断章をつなぎあわせた感じで公開しておきます。そのうちまたいろいろまとめて書く予定です。時間があれば。ちゅーか、長くてアレなんですが追記もあります。念のため。)
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日本社会が高収入と低収入の人種に別れて、階層が云々とかいうちょっと前から出ていた話に紛れて、「オタク文化の普及」とその階層化を結びつける話を、最近見かけることがあります。(ARTIFACT:オタク趣味は金をかけなくてもできるようになった

たしかにそれはある意味おっしゃる通りで、もちろん「低収入の層がオタクカルチャーに手を出しやすいから分化するんだ」と言われただけでは、「乱暴な話だなぁちゅーかべつに階層化関係ないじゃん」と思ってしまうわけですが、たしかに収入の二極化と趣味の二極化が、いかにも関係あるように見える事象が、オタクの一般化以外にも見受けられます。

その一つの事例が、メトロセクシャルに代表される小金持ちの動きなのかもしれません。
◆二極化した別の層は?
下流社会がオタク化する一方で、上流となりつつある層は、どこへ向かうのか。あるいは、どのような言葉で規定される存在になろうとしているのか。
すごくマイナーな、メトロセクシャル的なムーブメント(http://www.metro-sexual.jp/あるいはhttp://blog.livedoor.jp/metrosexual/)に、その答えがあるのかもしれません。

たぶん「メトロセクシャル?はぁ?そんなのはじめて聞いたぜ」というご意見も多いというか、ほぼ100%ではないかと思いますが、ひとまず続けます。

それなりにいい服を着てそれなりにジムで身体を鍛えてそれなりに雑誌とかテレビに出ているような店で高い飯喰って…それなりに都会生活者としての享楽を分かりやすい形で愉しむメトロセクシャル的ライフスタイル。わかりやすく言えば、それはオタク的なぼくらが手に入れられないそれなりに裕福な都市生活者のステイタス。

自分磨きがどうこうとか自分大好きのような精神的な部分はさておき、その基盤にあるのは、それなりに生活に(資金面でも時間の面でも)余裕ができ、あるいは物理的にそういった「場」が近くにあること。ツメを磨いたりメンズエステに行ったり、トータルワークアウトがどうのこうの、なんてことは、下流の人間にも、地方在住の人間にも、ちょっと軽い気分では真似できない。

オタクカルチャーの低価格化と、ネットの普及や流通の変化による地方格差の解消が生み出した多数の下流オタクとは、まさに好対照となるメトロセクシャル。

とはいえ、そんなメトセク的なあり方って、実はそんなに底が深いものではなくて。オタク(本来的な意味での)的な「深さ」というのは、そこには必要ない、なんとなくそれっぽい表層をなぞっただけで成立することは、前述のサイトを見てもわかる通りです。

たとえば彼らが憧れる雑誌「LEON」の見出しや、そのへんの本屋の店頭をちょいと見てみればわかることですが、「ちょい不良(わる)」だとか「ちょいモテ」的な「ちょい」の広がりは、最早誰もが知るところでしょう。
その「ちょい」は、手軽さと同時に、表層の問題、底の浅さ、軽さにつながることも、見逃す事はできません。
(余談ですが、その浅さは、前々から「3cm」とぼくは形容していて、広く浅く3cm掘り下げたらそれ以上掘ることはなく、そこで満足する。というよりむしろ3cm以上の深さはそもそも必要ないという彼らのスタンスへのアレなんですが、今回はそういう印象の話は置いておきます。)

果たして本人たちは、その浅さ・薄さを認識した上でメトロ活動を続けているのか、あるいはそれにすら気付かないものなのか。

ただ、それは、べつにメトセクがどうという話しではなく、むしろ東京(あるいは大都市)の現代を見る上での一つのキーワードなのかもしれません。

◆じゃあオタクは深いのか?
そもそもオタクって何だったんでしょうか。
その答えってとても説明が難しいものだと思うし、おそらく時期によって、その定義は大きく変わってきている気がしますが、少なくとも、アニメがちょっと好きだとか、フィギュアをたくさん持っているだとか、そういうものでもオタクと呼ばれるようになったのはつい最近のこと。かつては、ファンだとかマニアだとか浅ヲタだとか呼ばれていたような存在だったのではないでしょうか。
(※これを書いている途中で知ったんですが、奇しくも「ちょいオタ」だか「ちょいヲタ」だかいう言葉があるらしいですよ。)

とはいえ、ここで問題になるのは、オタクの定義の問題ではなく、現在「オタク的と称される人々」がたくさんいて、その「オタク的活動」にかかるコスト、あるいは地理的な格差も小さくなることで、都市生活者や富裕層でなくても、それなりに「オタク的活動」が可能になり、また事実下流の文化として、それが認識されつつある、ということです。

あらためて考えるまでもなく、オタク文化が広まったように見えるというのは、オタクになる人間が増えたというより、オタクの基準そのものの敷居が、限りなく低くなった、というだけのこと。
人間なんて本質的にはなかなか変わらない。ただ環境の変化がその定義を変えてしまう中で、オタクがより一般的になりました。それでは、上述のメトロさんたちも、結局そういうことではないのかな?

◆浅さの共通性
オタクになり、あるいはメトロになるためのインフラが存在しない時代には、それは「ただの人」だったのかもしれません。しかし、いろんなものの敷居が低くなる事により、「オタク」あるいは「メトロ」のような何かにカテゴライズされることが簡単になってきているのではないでしょうか。というより、むしろそこにあるカテゴライズされたい欲求の方が、ちょっと気になります。

そこには、必要以上に自分が何者かを問われ、あるいは自ら問う中で、何者かに自らをカテゴライズすることで容易に手に入れられる安定性というものが云々…と定義してしまうことも簡単でしょうが、そんな現代性の定義はさておき、結局そうやって、オタクあるいはメトロ的存在に「ただの人」が変化し、あるいはそれが現代性を象徴するものとして語られることで生じるのは、現代そのものの「浅さ」「薄さ」に他なりません。

上流下流の分化がどうのこうのとは言いつつも、その浅さにおいて、オタク的グループとメトロ的グループは非常に似通った精神性を持ち、現代の浅さを担う共犯者になりつつあるのかもしれません。

いつかこの時代を振返ったとき、何においても浅いものばかりだった、と、それだけですめばいいのですが。
いろいろとアレで、更新が滞りがちだったこのサイト(旧バージョン)ですが、とりあえずブログでアレしてみようかと思ったので、しばらくこれでやってみます。
まあ、あの、ちょこちょこといじりながら。

まあ、アレだけどな。ほんとにつまんない、まったくもって世の中の役には立たないことをだらだらと書き流すだけなんだけどな。
2005.01.05 2005年問題。
2005年のテーマについていろいろと。
2005.01.01 キモノ。
過去ログ掘り起こし。

ただの日記です。

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