先週土曜はまず歌舞伎座。
前回2部3部を見て、今回は1部。

「女暫」(ポニョみたいなのが5人出てきた)にはじまり、中村橋之助の息子が出てくる連獅子(眠かった)、それから、落語の「らくだ」を歌舞伎にしたもの。

らくだは、落語の筋をそのまま歌舞伎にしたようなもので、もちろん面白い。
女暫も、大時代的な舞台や、幕が閉じてからのやり取りがとてもクールで素敵。というか、とても大らかに楽しめる。
三人連獅子は、まあ、眠かった。

歌舞伎はさておき。

その後、夕方からは、新橋演舞場で、有名なつかこうへい大先生の「幕末純情伝」。
幕末純情伝
有名なつかこうへい先生(といっても舞台を何かみたわけではない)の、有名な幕末純情伝(といっても、これまでの舞台や映画を見たわけではない)ということだったので、無知なぼくは迷わず発売日にチケットを買ってしまったわけですが。

幕が開いた直後から、驚くばかりですよ。
いや、幕が開く前、オープニング的な歌が流れたんですが、いきなり琉球弁まじりにティダとかエイサーがどうのこうのとか言っているので、「ん?土佐と琉球を間違えたわけでもあるまいに、なんでティダとか言ってるんだ?」とは思ったんですが、幕が開いてびっくり。高知と沖縄の取り違えどころの話ではなかった。
最初は、間違って全然違う芝居を見に来たのかと不安になり、しかし、どうやら間違ってはいないらしいことに気付くにつれ、目の前にある舞台が、しかし何億光年も遠くのものにしか思えない。

懐かしい顔文字を使うことが許されるなら、
( ゚д゚)ポカーン
というところ。

ひょっとしたら、というか、たぶん、ぼく自身の無知と無教養をさらすだけのような気もするんですが、これは、完全にポスター(画像参照)に騙された。
小劇場とか好きな人には、何を馬鹿なこと言ってるんだこの朴念仁は、というところかもしれませんが、それでも何か書いてみます。

そもそも、「新撰組の沖田総司が女だったという大胆な設定」というのが売りだとばかり勘違いしていたけれど、沖田が女だったどころの話ではない。
そもそも新撰組ではない。いや、そもそも幕末ではない。太平洋戦争が入り交じったり、戦後の焼け野原の中で変な思い入れをやたら長々と語らせたり(というか、もう精神的舞台は戦後の思い出語りで、維新とか明治とか関係ない)。

隊士が隊士ではなく、志士が志士ではない。キャラ設定自体、めちゃくちゃとかそういう生易しい言葉では表現できない。ドレスを着て玉をとりたがっているオカマとか、レストランを開きたがっている板前姿の男とか、裸にふんどしのデブ(しかもデブというだけで罵られるだけの存在)や、なんか首吊って消えるおじさんとか、土方に至っては、カラテカの人がハーフパンツのひ弱キャラで出てきて、しかもアパートの大家に奥さん寝取られたとか言い出す始末。

べつに、その想像力や固定観念の斜め上を行く状況を誉めているのではなくて、いかにもぼくのようなど素人が考えるところの、「サブカル好きとか言っている演劇高校生が文化祭で演じるお芝居に出てきそうなキャラってこんな感じかなー」というのがたくさん出てきている感じ。
まあ、サブカル好きとか言っている演劇高校生が好きなのが、こういう舞台なんでしょうけど。

あと、舞台上で殴り過ぎ。殴る効果音が鳴り過ぎ。2階上手側(位置的には桟敷)端の席で、スピーカーが一番近いような場所だったこともあり、殴る効果音が、もう、うるさいうるさい。ぼくのようなど素人が思う安い芝居のイメージって、たしかに、こう、よく無駄に殴っているものがあるのだけど、これはまた少し殴りすぎ。
世の中のエラい人たちには、ゲームやアニメの影響で暴力性が云々とか言う前に、サブカル芝居の殴り芸のひどさをどうにかしてほしいくらい。べつに、暴力的なものが悪いっていうんじゃない。ただ、殴っときゃいいんだろ的な、とりあえず殴ってみました的な、殴ってみたら芝居の流れもごまかせました的な、そういうのって、どうなんだろう。演出(有名なつかこうへい大先生による)って、そんなもんでいいんだろうか。
良い方に解釈すれば、小さな終止符を繰り返すことでテンポよい芝居になっているのか。というか、スピーディでテンポがよくてさすが有名なつか先生、とか言っている人たちは、このバッドトリップに酔っているのか。
しかし、そうやって小さな物語の断絶、関係性の断絶が繰り返されるたびに、言葉にできないモヤモヤは深まるばかり。

とりあえず殴ってみた。とりあえず殺してみた。とりあえず叫ばせてみた。
たしかに、筋のあわない小ネタの連続でも、殴る殺す叫ぶをやっておけば、まったくつながらない物語、まったくどうしようもない物語でも、力で押し通せることはよくわかった。でも、見てて何も響かないんだよ。

サブカル好きのスノッブでヒップでクールな都会人たちには、ひょっとしたら最高の舞台なのかもしれないけど、オタクカルチャー好きでスクエアで田舎育ちで自称自民党福田派のぼくには、これは、ないだろう、というところ。
下北の小劇場でやるサブカル芝居はこういう感じだろうとは思ったものの、スクエアな新橋演舞場で何の心の準備もなく見せられてしまい唖然、という感じ。

まあ、それはいい。
筋がめちゃくちゃに見えようと、細かい演出(?)の力技が気になろうと、時間と空間の意図的混乱に反吐が出そうになろうと、まあ、これは、うっかり見に行ったぼくが悪いのかもしれない。
まあね、それこそ歌舞伎だって、あるいは能もそうだけど、めちゃくちゃな時空の扱いが出ることだってあるし、見立てだって重要だし、たとえば昼間に見た歌舞伎の女暫ではパラレルなそれを認めて、新撰組ごっこにそれを認めないというのもおかしな話かもしれない。
あるいは「崖の上のポニョ」を見ても、不思議なところ、理屈じゃないところはたくさんある。むしろ、それが魅力だったりするわけで、この、有名なつかこうへい先生の演出も、まあ、そんな感じで大らかに受け止めておけばいいんでしょう、きっと。ぼくには無理ですが。

もう、それはいい。

だけど、変な筋なのはさておき、いまだに引っかかることがあるんですが。

坂本龍馬が憲法9条を作るとか言い出した中で(言い出すんですよこれが。で、周囲は9条なんか作るなとか言い出すんですよこれが)、前述の通り、戦後の焼け野原が主な舞台なんですが、そこで「お前が9条とか言い出すから日本は焼け野原になったんだ、それでもお前9条とか言うのか、ていうか9条とか作らせるわけにいかないからお前死ね」みたいなことを言い出すキャラがいるんですが、えーと、えーと、もうね、たとえ新撰組の自称隊士たちが100年くらいずれた脳内設定でも、やけにスマートな西郷が沖縄の集団自決で息子をどうこうしたとか、桂小五郎が戦後の米兵絡みでめちゃくちゃな自分語りをはじめたり、なぜか自称隊士に島崎藤村がいて「生きて虜囚の辱を受けず」と書いたのはボクだから死にます、とか言って死んだりするのは、まあ…もう、そういうもんだと目をつぶりますよ。理屈じゃないし、ここで近現代史を学ぶつもりもないし。まあ、戦後頭がおかしい人たちが突然自分たちは新撰組だと勘違いして大騒ぎをはじめたんだとでも思えばいいし。今もいますよね。自分はアトランティスの聖騎士団員の転生であり、かつての同士の生まれ変わりを探しておる、みたいな。そういうものでいいや、もう。
でも、なんで戦後憲法の9条のせいで日本は戦争に負けて焼け野原になっているのか。いや、べつに政治的信条がどうとか9条に賛成反対とかいうことではなくて。そもそもの前提としてどうなのか、みたいな。
時代設定が錯誤に基づいているから、全体的に錯覚してしまいがちだけど、ここの本末転倒というか、なんか変な感じ。焼け野原になった時、9条ってあったんだっけ。みたいな。みたいな、というか、そのままですが。

たとえば壊れたパソコンを前に、システムをいじったり、あるいは分解してみようとしている人をつかまえて、「お前が分解するから壊れたんだー」とか言ってもなー、みたいな。ん?ギャグ?一般的に言うシュールな(実際にシュールとは思わないけど)、天才バカボン的な、ギャグなのか?
ギャグだとしても、笑えないけど。


まあね、有名なつか先生のことなので、政治的立ち位置だとか、宗教的立ち位置だとか、民族的立ち位置だとか、ぼくのような凡人には理解できないものがあるのではないかとは思いますが。

とはいえ、まあ、その、芝居が終わってぞろぞろ帰る人並みの中で、すごく満足げにしている人たちは、やっぱり演出や主演や、まあ、そういう人たちと、政治的宗教的、あるいは民族的土壌を共有した上で共感したのかしらん。

あんまり言うと怖いので言いませんが。

まあ、なんちゅーか、昔寄生虫がびっしり詰まった鮎を、子持ち鮎として売っていたことがあったらしいんですが、この舞台は、なんとなくそんな感じでした。
あのポスターを見て、あんな内容だとはまったく思わない…。小劇場の演劇なんてそういうものなんでしょうか。無知ですみません。

幕末2
あ、最後に、ネタバレ的なものになるかもしれないんですが。

龍馬役の真琴つばさが、ただの男役ではなく「実は龍馬も女でした」ということになるのは、考えてみれば、宝塚的な、女優が当たり前のように男になったりひげを生やしたりしているアレに対するアレな感じで云々かもしれないけど、まあ、それくらいかな。べつに取り立てて言うほどのことでもなかった。

=====
追記

芝居が終わった後、カーテンコールで突然「最後にもう一回踊ります」と言い出して"Tank!"(カウボーイビバップのオープニング)を全員で踊ったのは、この、なんだか後味の悪いモヤモヤ芝居をすっきりさせて帰ってくださいという気遣いだったのでしょうか。
まあ、おかげで、芝居が終わった段階ではまったく拍手なんてしなかったぼくが、最後にはビバップと菅野よう子(だけ)に敬意を払い、片手で軽い拍手したほどで。
2008.04.03 ドイツ鍋
つばめグリルによく行くのだけど、いつ行っても「ドイツ鍋」というメニューがないので哀しい。

もう、実際にドイツに行くしか食べる手段はないのかと途方にくれる春の午後です。
mixiから転載
===
間違いやすいカタカナ語ランキング
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=444811&media_id=45

ずっとモヤモヤしていたことをこの機会に言ってしまいたいのだけど、

「○○アワード」

ってよく聞くんですが、「award」って
アワードじゃなくて、アウォードだよなって、実はこの数年ずっと疑問です。

そこそこ権威があると思われる賞なんかでも、アワードアワード言っているし。


以下、ついでに、大したことないメモを載せてみる。

・アウォードとは全然関係ないメモ1。
最近よく、つばめグリルに行っているんですけど、毎回決まって注文するものの、しかしいつ行っても、「ない」もしくは「○○が品切れなのでかわりに野菜をたくさん入れたのでよければ…」と言われるメニューがあります。

その名も「ドイツ鍋」。

アイスバインやらソーセージやらロールキャベツが渾然一体となったドイツの風味溢れるであろう鍋は、何ヶ月も前から常に憧れであり、しかし決して巡り会うことのできない哀しい巡り合わせのぼくとドイツ鍋。

もうこうなったらドイツにでも行くしかない気がする今日この頃。
(でもたぶんドイツに「ドイツ鍋」はないと思う…)


・アウォードとは全然関係ないメモ2。
ハリー・ポッターの新刊(日本語版)がもうすぐ出てしまう。
とっくの昔に原作は読んでしまったけど、結局誰にもネタバレ語ったり、遠回しに「俺知ってんだぜ」的な自慢をする機会がなかった…。

というのも、そもそも、ハリポタ好きっぽい人が、ほとんどいない。

個人的にはすごく大好きなんだけど、しかし本当に人気あるの?的な疑問を拭い去ることができない今日この頃です。

ちなみに上で「原作は読んでしまった」と書いたのは、「日本語版は原書とは全然ベツモノDAYONE」という感じのイヤらしいプチ自慢がしたかったわけですが、こういう、遠回しにプチ自慢する人って、嫌いだなあと思います。
自分のことですが。
あと「ハリポタ7巻って、もう映画の原作であることを前提に、それをかなり意識して書いてるよねー」的な、無駄に上から目線な何かもきっと言いたかったんだけど、ほんと、こういうこと言う人ってやだなー、とつくづく思います。
自分のことですが。


・アウォードとは全然関係ないメモ3。
「おまえの書いた文には主語がない」的なことを言う人って時々いるけど、大抵の場合その文章に必要なのは「目的語」であって、そして、大抵の場合、「主語がない」って言っているおバカさんは目的語を主語と勘違いしていて、これはなんか、かわいそうだなあ…と感じたことについては、随分前にどこかに書いた気がするのだけど、その、こう、主語と目的語の取り違えっていうのは、単にそういう人たちがおバカさんなだけではなくって、むしろ、「目的語」というものを「主」たるものと感じるようになっている、ぼくらをとりまく状況の変化、といったものが関係しているのかもしれない。
と思ったけどべつに根拠はありません。

ちなみに、ぼくは昔から文法というものが嫌いだったので、「主語がない」とか言うおバカさんをこっそり傍で見ていて、言っている意味がまったくもってわからなかったときに、「ああ、きっとぼくがとんでもない低能だから、高尚な文法に関する文学的会話にはまったくついていけないのであるなあ、残念なことだ」と思ったのだけど、実はそれって、単におバカさんが主語と目的語を取り違えている、というか、(たぶん)目的語という言葉すら知らないことによるコミュニケーション不全に原因があったのだと気付き、まあ、そういうものか、とため息をついたある寒い日の夜でした。

ちなみに、たしかに言葉というものは変化するもので、「間違った」使い方を「新しい」日本語なのだからこれはこれでいいんだ、とする考え方って、たしかに間違ってはいないと思うのだけど、「間違った」言葉の使い方しかできないようなおバカさんが、そういう言葉は時代で変化するんだ、なんてことを言い出すと、もう、なんというか、目も当てられないというか当てたくないというか。バカの言い訳は聞き飽きたわ、という気分になります。

この、間違いやすいカタカナ語なんてのもそういう部分があって、突然今思い出したのだけど、「シミュレーション」を「シュミレーション」と言っている人に「シミュレーションじゃね?」と言ってみたら「いや人それぞれだから…」のような言い方をされて、「ん?」と首を傾げざるを得なかった。

たしかに、価値観の多様化という言葉は便利で、価値観が多様であるという概念によって生まれる可能性というのもあると思う。
だけど、どうも「価値観なんて人それぞれだから」と口に出すやつに限って、よく聞いてみると「人それぞれだから俺の意見を認めろよ(そしてお前は自分の非を認めろよ)」というアピールに過ぎなかったりすることがある。
もちろん、まあ、世の中毎日毎日ぶつかってばかりじゃ疲れるので、「ま、人それぞれだし程々にね」という丸い丸いおさめ方というのは便利だし、そういうのって大事だとは思うけど、それを自分の正当化だけのために使おうとする人々が少なからずいるというのは、なんとなく切ない。


・アウォードとは全然関係ないメモ3。
ここまで書いてきたのでこの勢いで変なこと書いてみる。

最近、線路に人をつきおとしたやつのニュースが少なからず話題で、いろんなところでよく目にするわけですが、つくづく思いだすのが、昨年末お茶の水かどこかで中国人二人組がちょっともめた(というか注意された)相手を線路に突き落として大けがさせた事件。
中国人は線路に人を突き落とすという都市伝説の具現化したアレのスルーされっぷりと比べると、すごくアレだなあ、と、感じざるを得ません。
まあ、深い意味はありませんが。
一度は学んでみたい日本の文化ランキング
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=394111&media_id=45

前々から(mixi日記に書き始めたのは比較的最近だけど、サイトには2004年くらいから)書いているように、実は着物女が苦手。
べつに成人式のギラギラモジャモジャしたアレが、という話ではなくて、最近では日常的にそのへんをうろうろするようになった、いわゆる「着物女」のこと。

もちろん、すごく綺麗な着物の人もたくさんいて、そういうの見るのは好きですよ。30年40年眺めてもきっと飽きない。
だけど、大手を振って着物で歩いているような女性(これは、慣用句的意味で大手を振っているのではなく、本当に、物理的に、大手を振りつつ大股な、そういう歩き方をしているという意味)がたくさんいて、そういうのは見ていて本当につらい。
だいたい、普段はジーンズとかジーパンとかデニムしか履かない女性が、突然思い立って着物を着たところで、その立ち居振る舞いはゴールドラッシュな荒くれ男と何ら変わらない。そのアンバランスなキモノガールにトキメけという方が難しいんだ。

今も浅草の近くに住んでいるからアレなんだけど、前はもっと浅草のど真ん中だったので、毎週それ系の荒馬のような着物女を何人も見るような、そんな日々であったこともこの考えにつながっているのかもしれない。そりゃ、嫌なタイプの着物者の数だけはどんどん目につくから。

まあ、そういう人たちは、自分が好きで着てるんだからあんたなんかに何か言われる筋合いはないし、てめえが好きだろうが嫌いだろうが歯牙にもかけないよ、というところだろうけど。ぼくだって自分が好きか嫌いかという、ただの嗜好をこんなところでぶつぶつ書き連ねているだけなので勘弁してください。


着物女って書いたけど、着物男も苦手。
これについても最近よく触れているので詳しくは書きませんが。
着物女(若手)に関して言えば、数年前は1割もいなかった綺麗な着物女性も最近は比較的増えてきていると感じられる昨今ですが、着物男(若手)でまともに見られるやつなんていまだにほとんどいない。
浴衣男もやけに腰履き過ぎる帯とかが気になったりすることもあるけど、まあ、それはゲンダイの風物詩としてさておき、着物の方。
あ、ちなみに着物男でも役者になると、これが抱かれたい男性ナンバーワン(当方男ですが編)になったりするから不思議なのですがそれはさておき。

そのへんに転がっている着物男たちって、やけにオタクっぽいとか(アキバ系って、誰も言わないけどファッションだけじゃなく顔立ちや骨格の類似性もあると思うんですが、その類型につながる雰囲気)、やけに血色がよい数年後とっちゃんぼうやになりそうなアレとか、汚い意味で髪が長いとか(といっても書生風ではない)、背が高い最近の若者が古着を着ているせいかやけにスネが出ているとか、違和感の原因はいくらでも見つかるのだけど、それ以上に言葉にならない嫌な感じが抜けない。
これは単に、長く着てればきっと馴染むよ、という話ではなくて。

ただ、こういうことを書いているからといって、二本の電灯分科(最近こういう単語が誤字っぽかったりカタカナが多くなるのは言うまでもなくわざとです、念のため)が嫌いだとか、アメリカ万歳/欧州こそセカイのブンカのチュウシンだなんていうのでもなくて。その点について言えばむしろ逆かもしれない。

たぶん10年ほど前のぼく、まだ役者の名前もよく知らないくせに、あるいは歌舞伎と日本舞踊と狂言と能の違いもよくわからんくせに(いやそれくらいはわかっていたとしても)、芸能花舞台とか得意気に見ていたころのぼくは、実は、たぶん現在浅草や銀座に着物で繰り出す若年層と、さほど変わらぬメンタリティで生きていたと思う。
アサハカなぼくら(中二病の一種)が思い描く80年代や90年代(つまり当時のことね)のニホンノシャカイは、いわゆる欧米偏重、アメリカナイズされた生活こそ世界一、というロックでポップな渋谷パルコ公園通りなものだった。そして、それに対する反動文化、カウンターなカルチャーとなり得る(と信じていた)ものこそカッコイイニホンのブンカだった。

そのカウンター活動の一つは、アニメやマンガこそニホンの誇る至高の文化とうそぶくことであり(今では周知の通り国を挙げて本当にアレな感じになっていますが、当時はガンダムが好きというだけでそれ系の病院に入れられるかどうかの境目だったほどです)、もう一つが、ニホンブンカカッコイイと謳い上げ、ワビサビとワサビの違いもわからぬまま(この言い方は恥ずかしいけど、それ以上にかつての自分が恥ずかしい)に、「無造作ヘアは造作しまくりじゃないか」と叫びつつ、作為だらけの日本の無作為のブンカを誉め讃える矛盾に満ちた盲目的なニホンモノへの愛だった。まあ、ただの憧れですよ。

実際の話として、かつてのぼくは茶道をアレしたりなんかしちゃって、それは今でも大切な基盤になっているし、細川忠興なんかがテレビやゲームで出てきた日には、おや、師匠じゃないですか、くらいの勢いなのだけど、それでも、いや、だからこそ(?)、なんかアレ。ちゅーかアレ。
ああ、やっぱりそうだ。自分もそうなんだ。

たとえば着物女着物男は、よく下町言葉というか江戸言葉というか、まあ、それっぽい言い回しをよく使うけど、実はぼく自身、ついついそういう言葉を使いがちな傾向がある。昔の日記なんかにそういう言い回しがちょこちょこ出ているのに気づいたりすると、うわぁああって、頭をかきむしってしまうほどに、なんか、いやだ。
たぶん、自分自身の根っこに、そういう、中二病のまま育ってきたジャパニーズカウンターカルチャー賛美の部分があり、それは今も強く残っていて、そしてそれとよくにたニオイのものが、見苦しい方の着物女着物男(若手)からの腐臭としてプンプン臭ってくるんだ。

あるいは、
とりあえず日本ってついてりゃカッコイイ的な、よくわからんけど風流って言えばわかってるっぽいよね的な、先祖は農民だけどおれたちみんなサムライだよね的な、デントウゲイノウって見てもわからんけど見てる俺って最高的な、正座なんて五分もしてられないけどタタミっていいっすよね的な、源氏物語ってどんな話か知らないけど最高の恋愛物語だよね的な、鎌倉の前って何時代か知らないけど実は日本史詳しいよ的な、アニメの原点ってチョージューギガだよね的な、マンガの原点は法隆寺の落書きだよね的な、キモノ着てるあたしってイキだわぁ的な、おれオタクじゃなくて通なんだよね的な、スピリチュアルカウンセリングは日本の古きよき心を伝えるんだよ的な、日本語の乱れが気になるんですって言っておけば何でもまかり通る的な、初詣に行くのは古くから伝わる日本人なら当然の格式ある風習なんだよ的な、スシこそ日本人が先祖代々伝えてきた食文化だよね的な……
…挙げればキリがない、こういった無知蒙昧さやそれってどうなのと言いたくなるこじつけからにじみ出る「ニホンブンカって奥が深い」なんて言葉が、今のそれ系のものブーム(ブーム?)を下支えしているように見える昨今。それがまるで鏡に映った自分をみているようであるだけに、ますます、いやなジトジトした気持ちだけが、心の奥のくらーいところから沸き上がっては消えることなく積み上がっております。

=======
ちなみにこれは、まあ、普通に読めばわかると思うんだけど、ニホンブンカ自体を貶すでも卑下するでも学ぶなと言っているのでもなくって。むしろもっと当然で自然なものであるだけに、じゃあ最近のそういうのって、どうなのよ、みたいな。ちょっと特別視されすぎて、贔屓の引き倒しってこのことじゃないかしら、みたいな。

まあ、上にも書いたように、80年代90年代頃って、ロックでポップな云々というのは端的に過ぎるとしても、日本全体で見れば本当にニホンブンカ的なものってものすごく惨憺たる状況になったように思うし、そんな中で育った、ろくに歌舞伎も能も落語も源氏物語も古事記も古今和歌集も相撲も接点がないまま育った20〜30代というか、自分自身も含めた若年層の生まれの不幸というのは、ぬぐい去ることのできないこの国の汚点だと思う。

そんな文化的空白の時代が、いびつな反動となって、やけに増えたサムライ(ちょっと前にも書いた→http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-136.html)とか妙な愛国心になってしまうのも、これは、やはり仕方のないことかもしれない。



ちなみに、2003年に今日の日記と少し似たようなことを書いていた(→http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-27.html)んだけど、ちゅーか、これ、今読んでみたら文体とか全然今と変わってないのに、言ってることは今ぼくがとても嫌いな着物男的発想に近いことも混じっていたりして、ほんと、うんざりだ。

=============
もう誰も読まないけど追記。(2/1)

どっかで王さんのムスメが結婚をとりやめたおじさんが、「振られた原因は、そばを音を立てて食べることだから、音を立てないように練習しました」とか言い出して、何か本を出した発表にあわせて蕎麦食いを実演する、というニュース(これがニュース?)があったんですよ。この日記書いた翌日に。

で、なんかぐだぐだ言い訳して結局蕎麦は食べなかったようなんだけど(そういうなんかぐだぐだした体面ばかり気にするようなやつだから振られたんだろうな、という実演はできた)、その後それを見ていたモーニングショーのコメンテーター(笑)、というか、とくダネなんだけど、スタジオでも蕎麦を食べだして、ある人が言うことには
「蕎麦を音を立てて食べるのは日本のマナーだからね」
だと。

これは!これこそまさに上で書いた
とりあえず日本ってついてりゃカッコイイ的な、よくわからんけど風流って言えばわかってるっぽいよね的な、先祖は農民だけどおれたちみんなサムライだよね的な、デントウゲイノウって見てもわからんけど見てる俺って最高的な、正座なんて五分もしてられないけどタタミっていいっすよね的な、源氏物語ってどんな話か知らないけど最高の恋愛物語だよね的な、鎌倉の前って何時代か知らないけど実は日本史詳しいよ的な、アニメの原点ってチョージューギガだよね的な、マンガの原点は法隆寺の落書きだよね的な、キモノ着てるあたしってイキだわぁ的な、おれオタクじゃなくて通なんだよね的な、スピリチュアルカウンセリングは日本の古きよき心を伝えるんだよ的な、日本語の乱れが気になるんですって言っておけば何でもまかり通る的な、初詣に行くのは古くから伝わる日本人なら当然の格式ある風習なんだよ的な、スシこそ日本人が先祖代々伝えてきた食文化だよね的な……
…挙げればキリがない、こういった無知蒙昧さやそれってどうなのと言いたくなるこじつけからにじみ出る「ニホンブンカって奥が深い」なんて言葉

の一つですよ。

べつに、蕎麦を音を立てて食べだしたのは、落語を音で伝えるあのメディアが云々で、という誰でも知っているようなことを今さらアレすることはしないけど、言うに事欠いてそんな最近できたようなアレな風習を、日本のマナーと無自覚に言い出すような女。無知蒙昧さをベースにした「日本のマナー」。

いや、だからどうってことでもないんですが。
VOCALOID2の第2弾が、いつの間にか鏡音リンだけじゃなく鏡音レンが増えて鏡音リン・レンになってる!

http://www.crypton.co.jp/mp/pages/prod/vocaloid/cv02.jsp
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0712/03/news043.html
http://japan.cnet.com/news/tech/story/0,2000056025,20362299,00.htm

何ヶ月ぶりかの更新でそれかよ、って感じですが。
旅行中なので、しばらく携帯からちょこちょこと更新します。mixiと並行して投げる予定。
というか、mixiには送ってたけど、こっちはやっとネットカフェで設定したので、これから。


まあ、誰も興味ないとは思いますが。
2007.08.27 テスト
20070827032053
テスト
先日安っぽいコーヒー屋でコーヒーを飲んでいたときに、聞こえてきた隣の客の会話があまりにも印象的だったのでちょっと思い出しながら書いてみる(べつに盗み聞きが趣味ではないけど、あまりに興味深かったので途中から聞き耳をたてるのがメインになりました)。

・隣の客は女性二人(ぼくよりいくらか年上、いや、結構年上。お姉さんというには厳しいけど、おばさんと呼ぶのは失礼な程度)。
・一人はまったく本を読まないらしい。
・もう一人も聞いた感じだとあまり本を読まない感じ(だけど両者を比較すれば、あくまで比較的本を読んでいる方なので、読んでいない方に本の話をしているけど、まあ、ダヴィンチコードが面白かったとか、その人の母親[本人ではなく]が東京タワーに感動でしていたとかその程度)。
・本を読まない方の人は漫画も全然読まないらしい。
・読むなら漫画喫茶か、でも読むのがそもそも遅くて元が取れないから、漫画が揃っている友達の家に行ったら読むかもしれないらしい。
・比較的読む方も似たような状況らしい。
・そもそも本やマンガを買うという発想はないらしい(身なりは貧しくないのでお金がないわけではないらしい)。
・全く読まない方は雑誌も読まないらしい(比較的読む方も年相応のファッション誌程度)。
・全く読まない方は、でも新聞は読む、と、少し申し訳なさそうに言っていた。本当に読んでいるのかどうかはしらない。山積みになっているだけかもしれない。
・まったく読まない方は映画も見ないらしい。最近アンパンマンを見たのが3年ぶりの映画(おそらく映画館では、ということで、テレビやDVDでは見ているのでしょうが…)。ていうかアンパンマンを見たって、子供がいるってこと?
・で、彼女の原体験にあるのは「りぼん」。特にちびまる子ちゃん。そしてその原体験でどうやら止まっている(もう一人もほぼ同じ)。

=====
聞きながら思ったことを思い出しながら書き出してみる。

・文盲という人たちが世の中には実際にいるらしい
・本を読まないとバカになる。
・↑昔の人は、マンガばっかり読んで本を読まないと…と言っていた(たぶん)。でも、マンガでも読めばバカにはならない、と思っていたのだけど、本当にアレな人たちは、なるほど、マンガも読まないというのは本当だったのか。
・収入や住んでいる場所や着ている服がどうなのかは知らないのだけど、文化的に下流の人たちが、コンテンツにお金を出さないというのは、まさに現実のものとしてのっぴきならない状況にあるらしい。しかもそれは、べつに昨日今日はじまったことではなく、結構前から。
・ぼくがスピリチュアルについて昔書き始めたときに、それ(スピリチュアルとか前世とか)を求める心情の基盤にあるのは、自分の人生における「(あるはずだった)物語」の不在と、それを埋めるものとしての「前世」という「物語」ではないか、としたのだけど、とはいえ、そんな簡単に安易な物語にたぶらかされるものだろうか、という疑問も実はあった。でも、なるほど、原体験がりぼんやなかよしでそのままオトナになったようなお嬢様方なら、安易な物語を何の疑問もなく受け入れることだって、大いにあるかもしれない。
・↑つまり本を読まないとバカになる。
・文化的に下流の人たちがコンテンツにお金を出さない、という点に関してもう一つ。
最近流行っていることになっているケータイ小説。なるほど、本を読まないオトナやそんなオトナ予備軍の若年層にとって、こんなにぴったりのものはないかもしれない。
脊髄反射的な安易な物語…がどうこうというのもそうだし、一円もコンテンツにお金を出さない(パケット定額くらいは出してるだろうけど)というのもそうだし、ただもう一つ、自分で忘れる前にメモしておきたいのだけど、ケータイ小説って、たとえば伏線らしい伏線とか設定するのがそもそも難しい。たぶん。それに、気になる箇所に思い当たるようなことがあったとき、(戻り読みはいけないって昔国語の先生は言っていたけど理由は知らない)気軽に読み返すことがなかなかできないケータイ(電子ブックなんかもそうか)という形態は、実は意外と制約が大きい。でも、本もマンガも読まない読者層(書き手もか?)のおかげで、それでも成り立っていける状況。というか、安易なテキストと本を読まない読者の共鳴感応による文字文化堕落の螺旋。
・そうは言いつつも、実はブロードバンドやら常時接続やらが自分の部屋に来て以来、自分自身も驚くほど本を読む量が減っているんですよね。ほんとに。
七夕が近づいている今日この頃。
街を歩けばそこかしこに、多くの短冊を下げた笹を見ることができます。

まあ、現代人、しかもオトナたちが下げたお願いごとなんて、大抵は俗物すぎたり、狙いすぎたネタだったりすることが多いのは、少し大きな神社の絵馬と同じような状況なのですが、そんな楽しめる短冊の他に、毎年のように、どこの笹にも見受けられる願いごとの一つとして挙げられるのが「世界平和」だとか「世界が平和でありますように」だとか、「世界人類が(以下略)」だったりします。

実はぼく自身小4くらいまではそういうセカイヘイワ的なことを書いていたのだけど(かつてぼくが通っていた小学校では、なぜか毎年のように、クラスで短冊に何やら書かされたりとかしていました)、小4のときに小6の優等生っぽい女子が得意げに同じことを書いていたのを見て急に冷めてしまって、それ以来、世界平和なんてつまんないことは書いていません。

けど、まあ、べつに世界平和と唱えること自体を非難したいんじゃない。
じゃあいったい何がこうも気に障るのかといえば、たとえば世界とか平和という言葉を並べるだけで実際には何もしないどころか、その何もしなさが世界を悪い方に進めているかもしれないことに気付かないことであったり、あるいは単に世界平和と言っている自分が好きなだけじゃないか、という部分であったり、実は大して「願う」ような思いもないから、その場しのぎに世界を云々なんて本当にてきとーなことを言っている空しさだとか、セカイ系的なセカイしか持っていない人間が、その自分=セカイ間でのセカイの平和しか意図できていないことだったり(そういえば最近浅草寺で見た絵馬には、「自分が知らない人たちのことは思いやれないけど」と注意書きした上で自分と身の回りの人の幸せを願うものがあって、それには唸ってしまいました。それはおそらく非常に正しい認識で、実際世界平和と記述する人であっても、一個人で幸せを願うことができる意識の範囲なんて、非常に限られているものですよ、きっと)、と、まあ、そんなあれこれもあったりするんですが。


まあ、そういうものを見るたびに、言葉って、弱いなあ、と思います。
「言葉」自体は、もちろん弱くないんだろうけど、なんというか、使われ方が、非常に弱小で。その「世界平和」のように、使いどころによってはきっと強い言葉なのだろうけど、そんなことさえ忘れてしまうほどに、「言っときゃいいんだろ」的なもののなんと多いことか。

たとえばこないだ書いた「みんなが主役」なんていうのもそう。
まあ、これは、「"自分だけ主役"がたくさんあつまっただけ」のものや、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」であったり、あるいはスポーツ、たとえば野球で「みんなが主役」とか言ったって、大抵の場合は、うーん、やっぱピッチャーだよね、みたいなものであったりと、それでも、そう言っとけばキレイに見えないこともない、使い方としてすごく便利なものでもあるのですが。

あるいは、豆腐を豆富と書くとか、ゴミ(塵・芥)を護美と書くとかね。漢字の読みを利用した欺瞞。それって、うまいこと言っているようで、実際はみんな大好きな「日本語の乱れ」ですよね、みたいな。

あ、その「日本語の乱れ」ってのも、言っときゃいいんだろ的な言葉ですよね(昔そういうこと言ってくる人もいた)。
てめえがどうかはさておき、「それって日本語の乱れだと思うんです」とか言っちゃえば、実際に問題なのは言葉が乱れているか否かではなくても、あたかもそれが問題であるかのようにさえ見えてくる。言った者勝ちすぎる。
ちなみに上で挙げた漢字の読みを利用した欺瞞も、「日本語の乱れ」ですよね、って敢えて書いたけど、問題は本当はそこじゃないんですよね。べつに問題ってほどでもないんですが。

日本語の乱れで思い出したけど、「言葉狩り」ってのも、(もちろん正しい使われ方をすることも少なからずあるのだろうけど)そう言うだけで、あたかも自分が日本語の擁護者になったかのように錯覚することもできる便利な言葉ですよね。言葉狩りということで逆に言葉そのものを狩ることすら厭わない(日本語の変化や差別語に関する強者の理論の話)。
↑これ読み直したら、文脈って言葉も、同じ流れのなかでとても便利な言葉になってる。

日本語の云々とか文脈でさらに思い出したけど、(これもこないだ書いたんだけど)「主語がない」とか得意気に言うバカもひどいものですよね。
たしかに、日本語って主語はかならずしも必要じゃないし、毎文毎文主語を入れていたらただうざいだけ。だから、大抵の文章には「主語がない」のも事実で、それゆえに「なんとなく違和感があるなあ」という文章に大して「主語がない」と言うのは、事実認識としては十中八九間違ってはいない。だけど、そこに主語が入ったからと言って、実は十中八九大した意味もない。エンジンもタイヤもなくて動かない車に「カーナビが足りない」とか言うようなもので、たしかにガソリンもないんだけど、問題はそこじゃない。それじゃ動かん。
ほんと、言っときゃなんとか偉そうな態度は取り繕える、というだけの言葉ですね、これは。傍で聞いている人には十中八九バカがばれるけど。

さらに日本語の乱れというのでなぜか思い出したけど、美しい国、とかね。言ったもの勝ちすぎる。美しい国もだけど、骨太の方針とか。痛みを伴うなんちゃらとか、聖域なきなんちゃらとか。それにしても美しい国って、ほんと、言ったもの勝ちなことをてきとーに言ってるなあ。それってネタなんですか?今更だけど。
もう何もかも言葉ありきで、たとえば骨太であることが正しいかどうかの認識はさておき、まず骨太(って何ですか?)であることが問われるとか、ネタっぽすぎる。ネタなんですよね?

そもそも政治とかそれに似たようなことは(べつに政治じゃないけど)、あんまりこのブログでは言いたくなかったんだけど。なんで七夕の話したかっただけなのに、こんなの書いてるんだろう。
こういう話って、ここまで来るととてもありきたりなので、どうにかしたいんですが、そもそも話自体が言っときゃいいんだろワードという浅く表面的なものなので、如何ともしがたい…。


それにしても、この言葉(の使われ方)の表面的すぎる軽さ。これは、いったい何なんだろう。コピーライターとか、自称コピーライターとか、ちょっと多過ぎるんじゃないですか、世の中に。といってもべつにそういう職業の人を悪く言いたいわけじゃなくて、その中にある、なんかそれっぽいこと言っときゃいいんだろ的なコピーとかが、我慢できなくなってくる。
ぼくはあんまり電車とか乗らないのだけど、たまに地下鉄に乗ると、車内も、駅の壁や柱や改札や、もう、言っときゃいいんだろ的な言葉があふれすぎて。なんでどの広告もキャッチコピーとか出すんだろう。耳ざわりのいい聞こえのいい、そんなてきとーなこと言うだけならやめときゃいいのに。やめてるのもたまにあるけど、その方がいい。


ああ、なんか泥沼になってきたので、話を七夕の短冊にもどします。


小4までは世界平和を書いていたぼくも、前述の急速冷却の後、小5からは「背があと10cm伸びますように」とか、さらにベタなことを書き始めました。もちろん、大して効果はありませんでしたが。

まあ、その身長系も、あるいはそれ以前のセカイ系も、実は特に願いごともない無気力無関心(?)を「ありがち」なお願いごとで覆い隠す、子供なりのいやらしい知恵でしたけどね。
そうか、自分自身が昔からずっと、言っときゃいいんだろ系だったんだ。
こないだ書いた、ラーメンに指入れてくるおばちゃんみたいな人(というたとえ話、いや、フィクションですけど)なんですが、おばちゃん(のような人)が、ますます見苦しい。

以下、ただの見苦しい愚痴です。
古いジョーク(たぶん)の一つに、古ぼけたラーメン屋でラーメンを注文したところ、運んできたおばちゃんの指がラーメンに浸かっていて「おばちゃん!指!」と指摘すると「平気平気、熱くないよ」と返される、というものがあります。

かつて、通っていた高校の目の前にあるラーメン屋の伝説として聞いたのが最初だったのだけど、『帰ってきた時効警察』の最終回でも言われていたし(話がつまらない男の話として)、かなりベタなネタのようではあります。

気になってちょっと見てみたら(参照:Google)、単に「笑い話」の一つとして挙げているところもあるのだけれど、時には具体的な場所や店名を挙げつつ、自分が体験した「実話」として、日本各地どころかアメリカの事例(それも公的なサイトで)が紹介されているなど、なんというか、都市伝説的な様相を呈しているようで。
あるいは一部の人間の脳というものは、そもそもそういうふうにできているのでしょうか。

少し前に書いたアレではないけれど、こんな感じかな。
「この世には、二種類の人間がいる。ラーメンに入った指を指摘された時、謝って新しいラーメンを持ってくる人間と、熱くないよ〜と"心配"してくれた客の優しさに喜ぶ人間だ。」みたいな。さらに、「そしてオレは、決してラーメンに指を入れない人間だ!」とか言うと(てめえで二種類とか言ったくせにね)ちょっとかっこいいですね。大した事言ってないのに。




ラーメンの指といえば、今身近に、ラーメンに指を入れて運ぶおばちゃんのような人がいて、実は本当に困っています。そう、本当に、困っている。

お願いだから指入れるのやめてくれと何度頼んでも、熱くない熱くないとまた入れてくる。下手すると、じゃあ今度お前もラーメンに指入れていいよ、なんて的外れな事を言う。等価交換というものが、(単にデータ上は等量のものに見えても)共通する価値観の中でしか成り立たないということをしっかり実感することはできたけど、そのために失ったものが大きすぎるわけで。

すごく大切にしていた価値観や関係性や、あるいはずっと大事にしていた、もう手に入らない限定版のスタバの紙コップ(勝手におばちゃんのような人の鼻水入れにされて最後にはまとめてゴミ箱にポイ)。本当はもっと大切なものをダメにされているのだけど、それはちょっとここには書けません。

無自覚なおばちゃん(のような人)のおかげで本当にやってられないのだけど、実は困るのって、単純に被害が出ていることだけではありません。

一つは、おばちゃん(のような人)は自分のことをかわいいいたずらっこくらいにしか思っていないこと。いい年したおっさんなのに。これは普通に気持ち悪い。

もう一つ困るのが、おばちゃん(のような人)がラーメンに指を入れて熱くない(ような行為をする)というのは、被害者にしてみればひどく悲しくつらい出来事であっても、傍から見ている他人にしてみれば、とても笑えるギャグにしか見えなかったりすること。『サラリーマンNEO』のコントの一部にも通じるものがあります。

まあ、ただの愚痴だけど全部フィクションです。念のため。
いつも行くスーパー(秋葉原にある)のレジのアルバイト(女子)が非常にアニメ声アニメ口調という点について(それも二人。しかも二人同時にレジに入っているときは、それぞれのアニメ語尾が競い合うかのようにさらに加熱する)、声優学校のライバル二人を主人公にした妄想物語(地味な苦学生でアキバにいながら時給の安いメイドカフェではなく敢えてスーパーのレジを選んだ、夢と才能に満ちあふれ演技派声優を目指す主人公と、ちょっとかわいい上にお金持ちで何不自由なく育ったが、アイドル声優デビューを目指して入った声優学校で出会った主人公に衝撃を受け、彼女を追いかけるようにレジのバイトに入ったライバルの織り成す、恋の鞘当てありアキバノンフィクションドラマありの青春声優サクセスストーリー)を書いていたのだけど、しばらく放置しているうちに、いつのまにかどす黒い枕営業の実態みたいなのがどんどん出てきて大変なアレで、そんな平和な妄想書いてる場合じゃなくなってしまっていました。

事実は小説より奇なりとはよく言ったもので。べつにぼくだって「銭」の声優の話くらいは読んでいましたが。
・ツンデレ男と萌え(的な意味を含んだ存在を要求される)女の国、熊本。
男のツンデレはキモイだけ、という事実と、昔ぼくが、まだアキバに通い始める前に考えていた、萌えとは「そこにセックスが介在する・しないに関わらず、『女』というものに対する『男』の優位性、あるいは旧来の意味での過剰な女性性の要求ではないのか」(東京メトロ日比谷線秋葉原駅。)、という視点に立ったとき、男尊女卑でもっこすな肥後の国は、非常に現代アキバ用語で説明できてしまう気がしています。(もちろんあの国も「現在」は多少異なる様相を見せているとはいえ。)
(↑イトコの結婚式で実家に帰ることになって思いついた話)

・秋葉原をめぐる言説というか伝説。というか伝聞の形。
山手線に乗っていると、住処の都合上秋葉原の前後の区間を電車の中で過ごすことが多いのだけど、聞くともなしに聞こえてくる乗客の立ち話の中に、時折、「異界アキハバラ」をめぐる「言説というか伝説。というか伝聞」が混じっていることがある。
大抵の場合、それは自分が行ってみた話ではなく、「お兄ちゃんが行ってみたら…」だとか「友達の友達が行ってみたら…」というもの。

実際にアキバを歩いていると、毎日毎日飽きもせずに一見さんや観光的な人々がいるけれど、しかしそれでも、「多数派」にとってアキハバラとは異界?
電車に乗って通過しつつも、東京という平面の、なおかつ山手線の中にありながら、「誰某が行ったらしい」という伝説をもってのみ語られる地。

たしかに、本当に駅を出た途端「メイドさん」がいるという現実は、伝説として語られるものなのかもしれない。むしろそれが日常になりすぎてしまったぼくらは、何かおかしいんじゃないだろうか。
いや、こんなことが言いたかったわけではないのだけど。

問題にしたかったのは、もっと別の事。
なんとなく読み返してみたら、意外と昔書いたこれが面白い。

ウルトラマンと怪獣のアレ[第六回]
(ウルトラマンネクサスの話)

さらにいえば、五回六回七回というこの後半部分(コスモス〜ネクサス〜マックス・メビウス)が意外と読める。
ウルトラマンと怪獣のアレ[第五回]
ウルトラマンと怪獣のアレ[第七回]

しかし自分で書いておいてなんだけど、こんなの書いたことすっかり忘れていた。

さらについでにアレすると、第七回ではこんなことを書いていたのだけど

そして、もしメビウスを「大いなる物語」(大いなる破局)が包むこむことがあるとすれば、あるいはこんなぼくたちの生き様がもたらし得る世界の危機を、そこに見つけることができるのではないだろうか。

さて、ウルトラマンメビウスが"大いなる破局"を打ち壊して終わった昨今、はたしてそこに「ぼくたちの生き様がもたらし得る世界の危機」は見つけられただろうか。あの、皇帝さんに。

どうも、なんかいろんな力とかがなくなっている気がしてならない。
しばらく更新していなかったので、昔のmixi日記から一つコピペ。コメント欄は、一部抜粋です。