何週間か前の日曜(6/8)に歌舞伎を見に行ったあたりのちょっと前からのログ。
そろそろほとぼりも冷めてきたかもしれないのでこっそり書いてみる。

・5/13
6月歌舞伎座の歌舞伎会先行販売。いつもどおりウェブで購入。
ワーキングプアな現実の中での予算を考えると、さすがに今月は1階というわけにはいかないものの、3階Aでは既にめぼしい席はかなりとられてしまっていて、かろうじて、6月8日昼の部(11時〜15時半くらい)で、まあ、それほど後ろすぎない席は購入でき、一安心。
ちなみに昼の部か夜の部かで悩むも(演目はどちらも魅力的)、席の位置を見比べたり曜日の関係で、その時点でのベストと思われるポジションが得られたため、この「6月8日の昼の部」を確保。
それにしても、最近本当に席がとりづらい。まあ、自分自身その波に乗っているわけですが。

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・5月最終週頃
バニラビーンズ(北欧風アイドルユニット。以下、バニビと略すこともあります)のアキバでのイベント(握手会、撮影会的な)の詳細が公開される。なんと、「6月8日14時〜」。
歌舞伎と同様にバニラビーンズのことも大好きなので、本来なら是非行くべきイベントであるにも関わらず、先に購入した歌舞伎の日程と、ぴったりかぶる。
先の日記でも書いた通り(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=824829046&owner_id=26047)、どうしてこうも狙いすましたかのように「間が悪い」状況が発動するのかと、人智を超えた力を呪おうとさえ思ってしまった。
たとえばこれが他の日なら何も問題ないのはもちろん、あの時同じ日の夜の部(4時半〜)でクリックしていれば、秋葉原・バニビイベント→東銀座・歌舞伎座(日比谷線利用で乗り換えなし)というパーフェクトタイミング・パーフェクトルートな一日が送れたのに、と、心底悔やみ、紙一重のタイミングを本気で気に病む(これはその日記に書いた通り)。
↓前の日記から引用

それはさておき、6月も歌舞伎座のチケットは早々におさえたのだけど、そう、いつもいつも間が悪いねえでおなじみのぼくなので、今回もその「間が悪いね」が発動してしまい、バニラビーンズ(http://music.mixi.jp/view_artist.pl?id=2035608)のアキバでのイベントとかぶってしまった!しかもめずらしく昼の部のチケットがあるところに、ジャストタイミングで!これが夜の部なら、間違いなくバニビの後で歌舞伎という最高に望ましい一日を送れる状況だったというのに!

本当にもうね、なんというか、間が悪いのって自分のせいもあるんでしょうねきっと、とは思っていましたけど、ここまでくると、何かの悪意すら感じてしまいますよ。お岩の祟りとか。(※注:それは間違ってもお岩の祟りなんかではなかった)



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・6月1〜7日
歌舞伎のチケットは捨て置いてバニビに行こうかと本気で悩み続ける(払い戻し等は当然できない)。

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・6/8(歌舞伎・およびバニビイベント当日)
バニラビーンズに後ろ髪を全力で引かれる思いをしながらも、結局朝から歌舞伎に向かう。
「新薄雪物語」と「俄獅子」。
薄雪一幕目の秋山大膳(いわば悪役)が登場したあたりからが俄然面白い。
特に一幕終盤の染様(しゃぶりた男性第一位/当方男ですが篇)の立ち回りは、やばい。やばいとしか言いようがない。というわけでもないけど、というかべつにやばいって、そんなに大した表現でもないけど。とにかくすごくいい。
三幕目の幸四郎と吉右衛門もかなりかっこよかったけど、染様にはあらためて惚れ直してしまう。
さらに俄獅子での染五郎と福助の、この最強タッグがまたすばらしい。超人タッグトーナメント優勝間違いなし。金のマスクも銀のマスクも関係ない。福助の動きなんて、レベルが高すぎてもはや笑ってしまうしかないくらいに、こういう言い方はアレなんですけど、粋な感じ。
先月から、この、福助と染五郎にはひたすら感銘し平伏するばかり。3階なんて上の方から見下ろすのが申し訳ないくらい。
バニラビーンズの二人組も、もちろんオシャレでかわいくて素敵なコンビネーションなのだけど、さすがにこの二人と比べると、そりゃ、ね。みたいな。

そのまま余韻にひたりながら、4時頃、銀座・中央通りから横に入った道でショーウィンドウを眺めていると、後ろの方で、携帯のニュース(iチャネル的な?)を(「なんかすげーことが起きている」という感じで)朗読している男がいるが(というか連れの女子に読み聞かせている)、「秋葉原にトラックが突っ込み…」という、今となってはおなじみのニュースも、その時点ではまったく意味が分からない。何かのゲームの話でもしているのかと思うものの、そこで携帯の電源を入れてみるとますます意味不明な状況になっている。

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・6/8「たら・れば」の話
もし直前までこっそり悩んでいたように、歌舞伎は捨て置き、バニラビーンズを選んだとしたら、いや、むしろ、そうであればと強く望んだように、歌舞伎は夜の部を選択していてバニビ(14:00〜)→歌舞伎(16:30〜)という黄金ルートがとれようとしていたら。

バニビ後の寄り道が時間的に難しいことから早めに秋葉原へ行き(自宅とアキバの位置関係から、中央通りには末広町側から入る)→まず秋葉原MADを覗きつつ路上アイドルを眺めたり途中の店に立ち寄りながら、ドンキの横から一本裏の道に入るか、もしくは、もう少し中央通りを進んで(路上アイドル等が多い休日はこの線が濃厚)、「中央通りと神田明神通りの交差点」を曲がり、どちらから曲がったとしても、神田明神通りからヨドバシ側へ抜けるルートを進むという定番ルートを(神田明神通り横の駐輪場に自転車を置きつつ)、12時〜13時くらいに通ったことは、日頃のアキバ生活でパターン化されている自分自身の様式と、その後の時間配分やタイミングの妙を鑑みるに、十中八九間違いない。

染五郎>バニビ というバランスだったから現実は今ある通りだけど、染五郎<バニビ というバランスだったとしたら、たぶん全然違う現在を過ごして、あるいは当事者になった可能性も想像に難くないどころか、むしろその方が現実なんじゃないかとすら思えて仕方がない。
今ある現実の方が、ズレてしまっている、そんな感じ。

ちなみに、同じ苗字の人がまきこまれて亡くなっていたので、「ひょっとして3116さんのことかと思った」と何人かに言われたのだけど、たしかに、それが自分でもおかしくなかった状況で、ぼく自身結構モタモタして間が悪い方なので、たぶん、タイミング次第では何が何だかわからないうちに、どうなっていたかというのは、いまだに想起するのをやめることができない出来事のひとつではあったりします。

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・また別の話

それとはまったく別の当事者感覚(当事者じゃないか。時代的な共感?違う、まあ、なんかそういうやつ)というのもあって。
それはぼくに限らず、「殺すのは絶対ありえないし許せないけど、ただあいつの言っていることがわからないわけじゃない」的な感覚を持っている人が、実は今少なからずいるらしく、そしてぼくも、多少それに近い感覚を持ってしまっています。

ただそれは、よく聞くような「社会に対する云々」とかそういうのとは少し違う。

以前しばらく江原ネタ(というかアンチ江原ネタ)ばかり日記に書いていたことがあったのだけど、その出発点のひとつが「ぼくの未来ってこんなんだっけ?」という(これはハレンチパンチの歌の歌詞なんだけど)感覚のズレで、「自分の人生の"こんなはずじゃなかった感"」というのは、時には埋めがたい深い絶望につながっていたりするように思えて、特に下手に希望とか夢とか言い出しちゃう中で育ち、「自分が主人公」の物語を生きているはずが、気づけば、どう考えてもド脇役の人生。
そんな中で、一部の人はエハラ的スピリチュアルの「物語」に身を沈めることで、「今でこそこんなだけど本当はこういう壮大な物語の主人公なのよ」という錯覚を得ることができたり、今ド脇役であるところの理由付けまで手に入れちゃったりしている。ただし、まあ、そういう人たちはえたして教養がない。申し訳ないけど。
だけど、そこに身を沈めることができるのは、あらためて考えてみると幸せなことなのかもしれない(といっても。全然うらやましくないですけど)。

今回のアキバの彼の場合、きっと彼自身もド脇役であるところの人生に、特に途中までは物語の主人公としての自分を錯覚できていたであろうものだけに、感覚のズレがあったことは想像に難くない。というか彼に限らず、今の自分自身に物語構造的なズレを感じてしまう人はたくさんいて、「社会が云々」とか言い出す人たちも、たぶんそういう、状況の「こんなはずじゃなかった感」というものを持っている気はします。まあ、そういうものを持たされてしまう時点でアレなんだけど、それはまた別の話。

ただ、まあ、大抵の場合はそんなズレがあっても無意識にあきらめたり、人生ってこういうもんだよね、って思ったり、ネット人格で構造上の逆転を図ってみたり(それで結構成功している人もいるだろうし)、また最近のアニメファンは、そこに「逃避」の可能性を見出すようなこともできているらしいのだけど、まあ、そういう逃避ができる人はうらやましいですね。あるいは、そもそも身動きができない「こんなはずじゃなかった感」があったとしても、でも、だからってどうこうできなくてじっとするしかなかったり、また他方では、エハラ的スピリチュアルや生まれてきた意味がどうこうという新興宗教に身を浸したり、という方向に行ったりして解消するしかない。

ただ、そういったことに忸怩たる思いを持ってしまったり、でも抜け出しようのないド脇役のその人生に感じるズレが限界に達してしまったときに、もちろん、他人を殺すのは論外だけど、でも、そこに如何ともしがたい閉塞感があったことだけは、感覚の肯定はできなくても、ただ、爆発してしまった人がいるというのは、必ずしもアキバ通り魔に限定したことではなく、他の人間の身に起こったかもしれない、あるいは、これからまた起きるかもしれないという危惧は少なからずあります。

特に、アンチ江原日記の中でセカイ系的感覚とスピリチュアルについても何度か触れたのだけど、いわゆるセカイ系的な偏狭な世界観しか持てない人々、というか、まあ、教養がないってことなんですけど、そういう場合、他人から見ればごく狭小なその「セカイ」を壊すことの重みが、その教養のなさゆえに尋常ではなく重いものになるわけで、たとえばアキバ通り魔程度の教養では、それはアキバを破壊することだったのかもしれないけど、それこそ江原信者程度の、ろくに本も読めないような、それでいてエハラ的スピリチュアリズムを持ち出して「見えないものが云々」とか、仮想メモリのような学歴中心主義の裏返しのような話で、世の中一般の教養より自分たちの方が優れているとか言い出すような、あの恥ずかしい人たち程度のセカイ感がいまだに偏在しているこの国では、そのうち親の子殺しくらいのこと(それは、そう、エハラ的スピリチュアルの重みではセカイを中心から崩壊させるような現象)が、どんどん起きてしまうんじゃないかという確信めいたものが、どうも最近頭から離れない。

セカイを崩壊させる試みは、たとえば昔の詩人は、本屋に爆弾に見立てたレモンを置くことで満足できたことかもしれないわけだけど、まあ、そんなフィクションはさておき、教養が薄ければ薄いほど偏狭になっていくであろうその「セカイ」で、たとえばアキバ殺傷は、まあ、あれは頭がおかしいとしかいえないのだけど、でも、たぶん「セカイ」を破壊しようとしたんじゃないかとも思えるし、そして今日本で一番教養がないくせにそれを認められない江原信者たちの「セカイ」=ごく卑近な家族やら何やら程度の「セカイ」が満ちる中で、今でこそ仮想メモリ上の「ニセ物語」物語で危うい均衡を保っていても、何かの弾みにそのバランスが崩れれば、できれば起きないほうがそれは当然いいのだけど、「セカイ」の息の根を止めるために子殺し(あるいは親殺し、夫殺しetc.)というのが近い将来頻発する、あるいはすでに起きているのではないか(もちろん、そういうセカイ系的感覚を共有できていない人たちの捜査や報道では、まったくべつの事象として出てくるのだろうけど)。
そんな危機感も、少し想起してしまうようになったのが、あの事件のごく卑近なところでの影響だったりもします。


というか、今回の日記は話が飛び飛びになりすぎていて、たぶんきちんと考えていることが書けていないので、この内容で怒られなかったらまたどこかで書きます。
特に、テレビでの露出はいろいろあって減ったように見えるものの、息詰まるような(つまりエハラ的スピリチュアルの鴨になりやすい人々がたくさんいる)地方都市巡業を繰り返す江原を見てしまった今日この頃なので、また、なんか、どんよりと暗い気持ちになってしまったりして。
mixi日記から転載

江原氏番組の誤り認める報告書
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=450083&media_id=2

2年くらい前から江原とかスピリチュアルには書いてきて(といっても、最初は今でもそのへんの「おれ、いろいろわかってるじゃん」的な人が言いそうな「まあ、それで癒される人がいるんじゃないならいいんじゃないすか」のような何もわかってないダメ人間の主張だったんですけど)、気づくといろんなところで江原的な何かに対して逆風が吹き始めていた昨今。

たとえばmixi日記で江原的なニュースが流れたとき、ほら、mixiニュースって、なんちゅーかツッコミ的なブンカというか、あんまりニュースを肯定するような印象ってなくて、むしろ「なにいっとるんじゃわれ」的なものが多い気がするんですが、その中にあって、江原ニュース(昔はバッシングなんてなかった)に関しては、(昔は)かなりの人が「江原センセイすごいお」的なことを、敢えて日記で主張していて、そういうの気持ち悪いんだよ、って感じだったんですが、この数ヶ月は、江原バッシング記事なんかも出始めて、ニュース日記も、江原バッシングの時流に乗るものが多くなったりしていたんですよね。

そんな中、フジテレビが江原のアレを認めたとかいうこのニュースなんですが。
フジのサイトを見てみると、まあ、べつに大したことは言ってない。
今後スピリチュアルがどうこうというわけではなくて、素人を出すときには気をつけろ、というだけの発表みたいな。
↓こういう感じ。

<番組制作ハンドブック>
第1章 番組制作の姿勢
■ 演出・表現に関して注意するべきこと
1・一般人出演企画は出演者の人権に配慮し、慎重に進めていきましょう
一般人は所謂「芸能人」と異なり出演に際し特段の配慮が必要です。当人の人権を損なうような演出・表現を避けることは言うに及ばず、当人及び家族・親族・関係者にまで、心情に気を配った番組を仕上げていかねばなりません。十分な情報の裏づけを取った上で、きめ細かい同意作業を詰めていき、番組と出演者との信頼関係を築いていくことが必要です。

・一般人にとってテレビに出演することは、我々が考えるより遥かに重い意味を持っていることを十分に自覚し、番組制作にあたっては、細心の注意を払うこと。
・出演する一般人との間に心情のずれを生じ、過度の期待感を抱かせるような説明は避ける。
・所謂「サプライズ」という演出手法を一般人に対して用いる際は、当人やその周辺を傷つけることがないよう、十分な裏づけを取る。
・収録時、収録後、放送前など、さまざまな段階で当人や周辺の心情を配慮した、きめ細かい同意作業を重ねるように心がける。
・できれば、放送後の反応にも気を配ることが望ましい。

http://wwwz.fujitv.co.jp/fujitv/seisyonen/kaitou.html

まあ、つまり「一般人」を出すと、やらせ的な何かをする場合にいろいろ空気読まなかったりして面倒なことになるから気をつけろ、ということですかね。
まさに「放送後の反応」で「実はあれは…」なんて言われて面倒なことになったわけで。
基本的には「一般人」はKYだから気をつけましょうということで、べつに江原がどうこうという内容ではない。


この件をとりあげた他のニュースの見出しなどで、場合によってはフジが江原の非科学性を云々、のようなものも見たのだけど、それについては唯一顧問弁護士か誰かが、
一番の問題点は、スピリチュアル・カウンセリングと称する非科学的、荒唐無稽な霊視を番組の中核に置いたことである。日本民間放送連盟が定めた「放送基準」は、その第54において、「占い、運勢判断およびこれに類するものは、断定したり、無理に信じさせたりするような取り扱いはしない」としている。たしかに、本件番組は、「断定したり」「無理に信じ込ませ」るような取り扱いにはなっていないが、全体として霊視を肯定的に扱っているとの批判は免れがたいようだ。これは、バラエティ番組だから許される、大目に見られるというレベルの問題ではないことを付言しておくとともに、「放送基準」が骨抜きされないよう望みたい。

という部分に言及しているくらいで、実際には、これってフジの意見でも今後の方針でもないわけですが。


とはいえ、そもそも江原が科学的か非科学的かということは、実は何の意味もなさないわけで。

江原が科学的かどうかなんて、議論する時点ですでに江原的な何かの泥沼にはまっているのだけど(議論するまでもなく科学じゃないし)、そもそもスピリチュアル的な人たちは「目に見えないものを否定する人たちっていやーねー」と、あたかも自分たちが「目に見えないものを理解する賢者」であるかのように振舞っているわけで、そこに科学的/非科学的なんて持ち出しても、馬の耳に念仏(あ、念仏っていってもべつに彼らが宗教的にそれって何なのと疑問を抱かざるを得ない死生観を持っているから持ち出したわけではありません)。
むしろ「ゲンダイジンは目に見えないものを…」と、もう聞き飽きたようなことを言って調子に乗るばかり。まじで。

たしかに、「目に見えるものしか信じられない」人は、アレなのかもしれない。
だけど、「目に見えるものだけが真実ではない」ということが「真」だとして、それは、「目に見えないものが真実である」ことにはならない。あたりまえのことですけど。
柴犬だけが犬ではないからと言って、三毛猫は決して犬ではない。それくらいの話。

だけどスピリチュアル派、江原派にしてみれば、「目に見えるものだけが真実ではない」ということが、すなわち「目に見えないこと(=彼らが大好きな江原センセイたちのスピリチュアルなアレ)」が全て真実でありセカイの真理であることに他ならない。

そう、そのりくつはおかしい。

だけど彼らに、その理屈はおかしいと言う言葉は通じない。
科学的/非科学的と言う言葉も、「科学だけが真実ではない」(ここで大昔のキリスト教やらガリレオやらが登場する)⇒「ゲンダイジンにとっての科学」ではない江原肯定への思いをより強固にするばかり。

だけどそれは、たぶんフジテレビの番組がどうとか、江原がどうとか、そんな単純な問題によっておかしな人たちが出てきたのではなく、もともと、下地としてあったもののはずです。

これは前に江原日記を書いた時に書いたもので、というか同じようなことはそれまでもずっと書いていたのだけど↓

江原は、たまたまスピリチュアルというネタが一発当たった芸人にすぎない気がします。
ただ、それを必要以上に信じ、どうにもならない自分の人生、働き蟻、社会の歯車としての匹夫の生に我慢できないものの、しかしどうにも動かしようがない自分の人生を、江原的な前世や来世に仮託してしまう人が多くいること、そして、そういう人を多く生み出してしまう現代。本当は、そういうところに目を向けないといけないのに、今もまた、単に江原一人を糾弾する(するのか?)のみで終わってしまうかもしれない。

本当は、そんなトカゲのしっぽ切り的な、思考の断絶した世の中の方が、気になりますよぼくは。

たとえば、セカイ系なんて言葉がどうも最近かなり廃れている気がするので、そういう単語を使うのが難しい今日この頃なのだけど、たとえば、そのへんの地方都市の郊外からさらにひとまわり外に出たあたりに住んでいる主婦が、43歳くらいになって、ふと、自分の人生における物語の欠如に気付く。半径数メートル以内のセカイとの接触のみで繰り返される日々の営み。自分は「物語」の主役じゃなかったのか。こんなはずじゃなかった。冴えない夫と、ものにならない子供たち(ここで多少夢を持てればまだいい)。自分をここから救い出す昼ドラ・韓流的王子の出現なんてあるわけない(その非現実性には気付ける)。家とジャスコの往復だけで、一生終わってしまうのか。
ふりかえっても前を見ても、闇、闇、闇。
おそらく日本中にかなりの数がいる、そんな物語の欠如に絶望した人たちにとって、今唯一救いの「物語」を提示しているのが、江原であり、あるいはそれに類似したスピリチュアルなんちゃらと呼ばれるような人たちや、スピリチュアル的なセカイそのもの。
あるはずだった「物語」が、前世や来世という不確実なものの、その不確実さ(でっちあげやすさ)ゆえに、救いを与える物語として機能する。

ちゅーか、救いとか物語とかずっと前から書いてきたのだけど、こないだ本田透(『電波男』とか書いた人)のケータイ小説に関する新書を読んでいたら、ほぼ同じようなことを言っていたので、まあ、なんというか、ほんと、誰でも思いつくものなんだなあ、って感じで、もう、今更ぼくが書くことでもないような気がしてきました。
文化的遺伝子ってものもありますしね。

というわけで、なんかもうどうでもよくなってしまった。

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↓全部自分用参考資料

スピリチュアルという危機
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-category-7.html

ファーストコンタクト[1] はじまりは、江原あるある(やらせ)問題日記。
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-108.htmlスピリチュアルという危機に関するメモ。やりすぎセカイ系。
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-109.htmlスピリチュアリズムの倫理と資本主義の精神
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-117.html
[違和感メモ] みんなが主役説(スピリチュアルの前振りとして)
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-126.html小学校レベルの欺瞞とスピリチュアル。他
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-125.html本を読まないとバカになる。
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-139.html
いろいろニュースになったおかげで、やけに多くの人が「江原 やらせ」について検索しているみたいですが、そんなの、何を今更って感じです。

ちゅーか、やらせって言っている時点で、「江原には騙されないけど江原的な何かは愛する」と意識する/せざるに関わらず宣言するようなものなんですけどね。(※これは言い過ぎた。実際やらせですしね。この検索は何も間違ってないわ)


江原は、たまたまスピリチュアルというネタが一発当たった芸人にすぎない気がします。
ただ、それを必要以上に信じ、どうにもならない自分の人生、働き蟻、社会の歯車としての匹夫の生に我慢できないものの、しかしどうにも動かしようがない自分の人生を、江原的な前世や来世に仮託してしまう人が多くいること、そして、そういう人を多く生み出してしまう現代。本当は、そういうところに目を向けないといけないのに、今もまた、単に江原一人を糾弾する(するのか?)のみで終わってしまうかもしれない。

本当は、そんなトカゲのしっぽ切り的な、思考の断絶した世の中の方が、気になりますよぼくは。

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過去の江原日記はここで

スピリチュアルという危機(このブログ内のカテゴリです)

思えば二年前からこんなこと書いてたんですね…。
最初は、「スピリチュアルって何?⇒まあ、それで救われる人がいるならいいじゃん」的なところからはじまったんだけど(なので初期のエントリを読むと、まるで江原肯定派のようです)だんだん、「江原っておじさん、やばくね?ていうか何教?」となり、完全アンチ宣言はしたものの、そもそも江原は入り口、あるいはその目隠しにすぎず、本当はその奥というか底というか、もっと見えない部分にあるものの方がやばい、という感じの流れになっています。

あと、ブログに移してないエントリも、mixiの方に残っていたりするけど、どこに何があるか自分でも把握できていません。
http://mixi.jp/show_profile.pl?id=26047
前のエントリ([違和感メモ] みんなが主役説(スピリチュアルの前振りとして))では、「ある」とされていた物語の欠如がスピリチュアル化に与えたものを考えたときの話として、以前書いた「みんなが主役」説について、また少し触れたのですが、今回もスピリチュアル派の傾向につながりそうな、小学校的事象をもう一つ見てみます。


「みんなが主役説」と同様に小学生くらいの頃、クラスの係決めってありましたよね。学級委員にはじまり生き物係(飼育係?)だとか掲示係だとか配り係だとか。なんかもう、どんな小さく無意味な「係」でもいいから、とにかくなにがしかの「係」=「役割」が割りふられた。特に小学校低学年とか(みんなが主役説も、小学校低学年くらいのものだとは思うんですが)。もう少し上になると、図書委員とか保健委員とかになるのかな。

なんというか、たとえば一部のスピリチュアル一族であったり、浅草は雷門の前にある新興宗教(このブログでも過去に何度か出したアレ)が、「あなたが生まれてきた意味」がどうしたこうしたと言っているんですが、実際、生まれてきた意味なんて、べつにないですよね。少なくとも、生まれてきただけで意味なんてあるものかよ。

だけど、そこに意味を見いださなければならない人たちがいる。自分がこのセカイに存在することでなさなければならない「役割」が、必要になる、らしいですよ。

そういう考え方って、なんかもう、小学校の係決めとか委員決めみたいなレベルの話だなあ、と思うんですが、どうなんでしょうか。
小学校の場合、それによって自主性をなんちゃらかんちゃらとか、集団の中で自己のなんちゃらをどうするだとかいう名目があるんでしょうが、その考え方のまま、大人になっちゃったんだろうか。


小学生って、まだみんな世界がきちんと見えていなくて、というか、自分とセカイの間にある社会とか世の中というものがよくわかっていなくて、せいぜいクラスとか学校とか、あるいは家族、その向こうに「セカイ」があるような「感覚」だったように思います。賢しい(さかしい)子供たちは、知識として「社会」の存在を知っていたというかもしれないけれど、そんなの知識にすぎなくて。大抵の場合は「セカイ」系的なセカイを生きていた。

そんな「感覚」、小学生、それも低学年ならまだ許される。
中学生で、まだそんな感覚でいたら恥ずかしい。けど、まあ、それでもまだ仕方ないというところはある。中二病なんて言葉もあるくらいだし、それはもう中学生の専売特許と言っていいかもしれない(それでも後で気づいて恥ずかしくなるものだけど)。

だけど、いい年した大人になって、いまだにそんなセカイ認識の感覚を持ち合わせてしまった人たちが少なからずいて、特にスピリチュアル派の言説の中に、それはよく見受けられてしまう。

そういう人たちだから、自分の「セカイ」でも、そのセカイにおける「役割」という言葉がリアリティを持ち得てしまったり、何らかの「役割」を提示されることによって、自分の中での「足りなさ」や不安が埋められてしまうのも仕方ないのだろうけど、それって、大人として大丈夫なんだろうか。小学校レベルの欺瞞で満足しているだけですからね。

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まあ、これは、べつにスピリチュアル派だけの話ではなくって、たとえばスピリチュアル派ではない「普通の」サラリーマンだとかそういう人たちでも、今自分のしている仕事だとかそんなものに、セカイにおける「役割」だとか自分が生きる「意味」を見出す事は珍しくないことだと思います。たとえそれが幻想にすぎないとしても。

ただその「役割」的な幻想を抱きながら、それを普段の生活に見出せない、あるいは現状に満足できない人もいる。そこで、実際はまったくもってナンセンスであっても、「高尚な役割」を必要とする人の受け皿として、スピリチュアル的な何かが機能しているとも言えるわけで。

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ついでに言うと、上の方で書いた「生まれてきた意味」なんだけど、自分が「セカイ」に対して何ができるかって考えている善男善女ならまだ(比較的)マシなんですよ。

だけど中には、他人、それも、たとえば自分に対する態度があまり好意的でなかったり、いつも悩みのタネになっている他者が「自分に対して」どういう「役割」を持って生まれてきたか…なんて、とんでもない(けど彼らにとってはとても自然)考え方にいっちゃう人もいるようですからね。「あの人がいつも私に迷惑なことをするのは、私の魂の成長をなんちゃらかんちゃらという役割なのだから感謝して優しく見守りましょう」とかそんなの。

自分がセカイに直結しすぎるのも、ここまできたら尊敬しちゃうぜ、ってくらいなんですが、これは、魂のおせっかいだ。スピリチュアルハラスメント、スピハラと言っていいかもしれない。

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スピハラ(ためしに検索したら何件か出てきたので、普通に使います)はさておき、単にスピリチュアル派といってもいろんな流派があるし、濃さによっても内容も変わってくるんですよね。多少は人間社会に溶け込めるものもあれば、既に見えないお友達(会話可能)が100人くらい常駐している人もいる。スピリチュアルの視点で見れば…と考え方だけのものと割り切る人もいれば、波動によってセカイを変えちゃった(と言い張る)強者も珍しくない。

このブログや、あるいはmixi日記では、単に「スピリチュアル」だとか「スピリチュアル派」という言い方でまとめて考えてきたし、おそらく世の中の多くの反スピリチュアル的言説もそうなのだと思うけど、いつまでも単一のものとして話すのでは、多少の差異やズレのみを以て「自分はお前の言うものとは違うからお前は間違ってる」とか、それこそアナタ=セカイなのですね、みたいな物言いすらされかねない。
自分のことを言っていないから間違ってるって…。べつに言われたわけじゃないけど、そう思われている気はします。

仏教だってチベット仏教と日本仏教は違うし、同じ日本でも、たとえば浄土真宗と日蓮宗、あるいは仏教をもとにしたと言い張るどこかの新興宗教では全然考え方も歴史も違ってくる。釈迦の教えを純粋に研究したところで、現代仏教の信仰者の生き様が見えてくる気もしない。
スピリチュアル派も、実はある程度流派(宗派)を分けて考えるべきなのか、それとも、それでも敢えて、ひとつの「スピリチュアル」的な何かとして、話をすすめるべきなのか。

と、どちらにしてもこう書いたところで、次からは各派閥ごとに…というわけにはいかないのだけど、一応覚え書き程度に。
mixi日記から移行です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=464142789&owner_id=26047



ごめん、また江原。
2007年06月13日 02:41


また江原ネタだけど勘弁してください。江原系ニュースに言及日記書くのが趣味みたいなものなので。

俊輔の守り神はヤタガラス?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=230119&media_id=8


前の日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=460883207&owner_id=26047 これも江原関連)では、言及日記を俯瞰するだけで、いろんな流れとかパターンが見えておもしろい(笑えるという意味ではないです←詳細は前回日記のコメント欄参照)と書いたのだけど、今回の言及日記(http://news.mixi.jp/list_quote_diary.pl?id=230119)は、少なくとも午前二時時点ではほとんどまともな意見…というと一部の方には語弊があるかもしれませんが、江原はバカじゃないのだろうか、的なものに終始しているようです(これはこれで、そういう「流れ」になっているということでしょうか)。

それはそれで、なんだかいつものおかしな面々(信者)が突然いなくなったようで、ちょっと寂しい気持ちもある今日この頃ではありますが。
とはいえ、さすがに今回のネタ(ヤタガラスもそうだけど、弟っていうのもな)は、露骨にひどすぎて、たとえ信者といえども、擁護のしようがないのではないでしょうか。


まあ、江原がスピリチュアルネタの芸人に過ぎない、オーラのなんちゃらはただのお笑い番組、というのは(受け売りだけど)前からわかっていたことなんですが。それはそれとして、江原っておかしいんじゃないの?という意見がここまで人の口に上るようになったのはとても嬉しいことなのだけど、個人的にはちょっと難しい一面もあります。


今時のスピリチュアルが表出させた問題は、何も江原一人が元凶ではなく、また彼一人が消えれば終わるものではない、というのは前々から言っていたことなのだけど(http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-category-7.html)、江原というのは、そう、霊やスピチリュアルな存在のヨリシロというよりも、現代社会やぼくら現代日本人が抱える問題のヨリシロというべき存在だったように考えています。江原やその信者が示し続けてくれた、「なんか残念な感じ」は、べつに彼ら特有の問題ではなく、非スピリチュアルやアンチである人間にも無縁の問題ではなかったし、それを容認し、あるいは容認可能な土壌を作り続けた責任は、べつに信者だけのものではなかった。

江原(とその周辺)を見続けることで、これは好きな言い方じゃないけど、社会の病理とかそういうのは、結構簡単に見えるものでした。たぶん。

それが、まだ一応自分の番組を持っていたりと、そこそこ成功しているように見えて、実は社会的評価とでも言うべきものは地に落ちかけていたり、今すぐ目につく部分でも、mixi言及日記が手のひらを返したかのように批判ばかりになるという、惨憺たる状況(まあ実際は、叩きやすくなったから叩く人が表に出るようになっただけで、信者:アンチの比率がそれほど変わったわけでもないのでしょうが。それでも、表に出ているそんな部分だけで、傍から見ているとセカイの状況が変わったかのようにすら思われかねないのだけど)。

まあ、ぼくが江原の立場なら、もう絶対表に出たりしませんが、愉快な彼のこと、まだまだ大活躍して(むしろ悪あがきが増えるか?)、そのたびに地の底に落ちて行くように思います。

そしてそれは、あくまで個人的にはですが、喜ばしいことであると同時に、少し残念なことではあるわけです。

ひょっとしたらこのまま江原が君臨し続けることで誰の目にも明らかになったかもしれないとんでもない何かが、おそらく江原がこれから地に落ちるほどに、また誰の手にも届かないところに行ってしまう。


まあ、雷門の前の変な宗教とかもあるので、仮想敵には事欠かないのがこのセカイのいいところではありますが。

本格的スピリチュアル派になると江原とかそういうセカイじゃないですしね。


なんか今日は眠いのでとんでもないことを書いている気がする。
とりあえず、しばらくまともに江原ネタ書くの忘れていたので、そろそろ何かアレしないと


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ちゅーか、記事の書き方も、たとえばこれ、どうなんだろうか。

俊輔は、身近であり誇りを感じるシンボルマークが自分の人生に強くかかわっていることに

って、江原が、相談者の言ってほしいことを言うのはまだ普通というかいつものことなんだけど(でも今回は露骨すぎ)、記事まで「自分の人生に強くかかわっている」って。江原はともかく、メディアの側まで(いくらスポーツ誌のヨイショ記事とはいえ)一点の曇りもなく全肯定かよ、みたいな。しかもこのアンチ江原旋風時代に。
アンチスピリチュアルメモ

1.「スピリチュアリズムの倫理と資本主義の精神」

スピリチュアル派は予想以上にたくさんいるようだけど、その中で、「来世」があるからといって、それがたとえば(超将来["生まれ変わった"後]の自分のために)地球温暖化を防ぐだとか木をたくさん植えるという方向には、少なくとも大規模な動きとしては向かっていない。
もちろん、個人レベルでスピリチュアルを信奉しながら環境問題に関心がある人もたくさんいるだろうけど、それはぼくらのような非スピリチュアル派でも、たとえば「不都合な真実」を見てちょっとエコについて考え出すのと同じこと。スピリチュアルの流れとして向かっているわけではない。

たとえば江原が砂漠の緑化を呼びかけるとか、排気ガスをどうにかしようとか言うことは、もちろん、ない(ひょっとしたらメディアがそれを報じないだけかもしれないけど)。言えば結構影響あると思うんだけど。

そもそも現代日本のスピリチュアルに関して言えば、それも当然のことで。
何度か書いたように(たぶん)、端的に言えば現世利益の肯定や自分(だけ)の成長だか進化だかを目的とした江原的スピリチュアリズムにおいて、実は未来の地球だとか子供たちの未来は、あまり重要ではない。
前述のように、スピリチュアルと並行して、エコな感覚を持ちうる人はいると思う。しかしそれはそれ。カレーを好きな人がラーメンも好き、というのと同じこと。カレー屋がラーメンを出すわけではない(カレーラーメンは関係ない)。いや、たとえが悪い。カレーを好きな人がガンダムを好きなのと同じこと。みたいな。全然つながってないんだ。

一般的スピリチュアルが、それを心のよりどころにする人たちに対して呼びかけるのは、大抵の場合お金だとかハッピーライフだとか、現世における救いだとか癒しだとか。

ひょっとしたら、(スピリチュアル派の言説ではないけれど)ぼくは「目に見える部分」しか気付いていないだけで、つまり本屋のそういう一角の目につく部分だとか、テレビの偶然見た時間帯だとか、ちょっとしたネット上の情報だけで考えているのかもしれない。「目に見えないもの」…というとスピリチュアル派はすぐに霊だとかなんだとか言うけど、そうではなく、単に目につかない部分、目を見開いていても見えてこない部分(本屋の棚の下の引き出しの中に眠っている本だとか江原の出ない時間のテレビとか)では、実は世界規模なスピリチュアル的環境対策が進行しているのかもしれない。あるいは、実は世界的環境保護団体がその思想の根底に江原的スピリチュアリズムを隠しているかもしれない。ただそれを表に出すとみんなひいちゃうから言わないだけで。それなら謝る。

まあ、たぶんそれはないけど。

現世利益・個人救済がすべての彼らの活動に未来はない。
あ、いや、先行きという意味の未来はまだ長いと思うけど、「未来」の地球という視点はあんまりない。

と、環境の話はただの前ふりで。

では、現世での幸福の追求を肯定してくれるスピリチュアル派の流れ(それが、単に江原信者やスピリチュアル派だけの問題ではなく、非スピリチュアル人やアンチを自称するぼくのような者にとっても共通の感覚をもとにしていることは今更言うまでもない。つまりスピリチュアルに象徴される、現代感覚というもの)が、セカイに関する考え方だとか、経済活動であったり、もちろんさっきの環境問題であったり、世界平和であったり、あるいは道ばたのおじさんのたばこのポイ捨てであったり、憲法改正であったり、意外と小さなことから大きなことまで、何か別の流れに向かう「現代」の考え方に結びついているのではないか。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」的な意味であったりそうでなかったり。よくおぼえてないけど。なんかそんな感じで。


突然環境の話に戻るけど、とはいえ、未来の地球をよりよく、というのは、本当に転生の概念があるのなら、ものすごく利己的な部分からの発想としてでも出て来るものだけど、でも出ない。
単にアリとキリギリスのキリギリス的すぎるのか、あるいは、信者たちも、信者と呼ばれてはいても、実はそこまで現実感やリアルさを持っていない、求めていないのか。後者の可能性は高い(あ、前者の可能性ももちろん高い)。
安易な救いという意味でもそうだし、転生的な考え方が一般的に根付いた理由を見てもそう。

そうなると、やはり、今のスピリチュアリズムをカルト的に見るのはちょっと間違っている気はする。
(↑これは肯定するって意味じゃないですよ。)

2.スピリチュアリズムとセカイ系

セカイ系とスピリチュアル派的感覚についてのメモは何回か書いたけど、今度きちんとそこを見直さないと。読み返したら本当にただのメモだった。

たぶんそれって、上で書いたようなものともつながってくると思う。
正直、江原云々の日記というのは、今更感が漂うのかもしれないけれど、今更だからこそ、敢えて2ヶ月近くも前にmixiに書いた物を、こっちに移してみる。

2007年02月09日 20:57 の日記を抜粋。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=341864254&owner_id=26047


オーラの泉ゴールデンに湧く
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=157502&media_id=8

もう散々アンチ江原については書いてきたし、オーラの泉がただのバラエティだということも有名なのだけど、それはさておき。

こういうニュースが出ると、前にも書いたように江原は消えろとかきもいとか、まあ、そういうみんな思っていることが出てきます。

それはそれとして、大いに同意するけれど、では、江原さえ消えればどうでもいいのかといえば、たぶんそれは違う。

確かに、江原には現代日本のスピリチュアル的な何かをここまで築き上げた責任があり、それがここまで幅を利かせている現状というのは、(2〜3年のうちにはいずれみんな忘れる程度のものだとしても)受け入れがたい。

だけど、江原だけが消えれば、今のこのいかんともしがたい状況が変わるのかといえば、それは違う。

前に書いた江原関連日記では、スピリチュアル派の人がやってきて、意味不明な言葉を並べた挙句、自分の日記でぼくを悪役に仕立てながらも、その悪役の存在を受け入れる素晴らしい自分の成長物語を記していらっしゃいました。

まあ、そっちの日記にこちらからコメントしたら、あんた小学生かい、と思うような反応を返されて、ぽかーんとしてしまったんですけどね。

↓こんな感じ。
1.こっちで書いた江原日記。コメント覧が盛り上がった。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=337428600&owner_id=26047
2.先方が"悪役"を設定し、仲間たちにちやほやされた日記。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=338620803&owner_id=8246332
3.先方が設定した"悪役"を受け入れ、"自己責任"で"成長"し、みんなにちやほやされた日記。(終盤こちらからのコメントと、それに対する、そこまでの流れを見ていたら人格を疑ってしまうような反応あり)
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=339724079&owner_id=8246332
4.ついでに先方の日記に対してこっちで書いた日記。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=340401545&owner_id=26047

まあ、上の、先方の日記や、その仲間たちのコメントを見ていると実感するのだけど、江原派、というか実は厳密には彼らは江原単一神を信仰しているわけではなく、スピリチュアル派と言う方がよいような存在なのですが、そんな彼らに共通しているものの一つが、「自分」中心主義とでも言うべき何か。

自分の"成長"が価値観の中心となり、まったく隠そうとしない自分大好き発言。
ぼくも以前はネタ的に、「おれって自分大好き人間だからメシの写真を撮ってるんです」くらいのことを言っていたけど、もはや自分大好きというのはネタとして通用しなくなっている。こんなにも、「本当に自分大好き」な人たちがいるなんて。

それと同時に、何度も書いてきたように、そこにパブリックな概念は通用しない。

セカイ系、という言葉が数年前に流行ったけれど、今の江原派、いや、スピリチュアル派の中には、リアルにセカイ系の概念が通用している。

wikipediaにいい説明があった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%82%AB%E3%82%A4%E7%B3%BB
セカイ系は文字通り世界的規模の大事を扱う。しかし壮大なスケールであるはずの世界は総人口数十人程度の箱庭でしかない場合が多い。世界は主人公を初めとした極めて少数の意志や感情だけで運命や未来が決定される。また、その決定をする人間は全て主人公と深い関係を持った人物である。それにより、セカイ系の作品の不思議な世界観より、ご都合主義の側面が大きく見えてしまうという批判もある。

本来個人と世界の間には世間や家庭・国家といった段階的な社会・共同体があり、個人がいきなり世界に干渉することは出来ない。しかしセカイ系ではそれら個人と世界を繋ぐコミュニティは非常に軽視されるか、若しくは存在しないものとして扱われる。これは社会に出ていない少年少女の考える世界観に近く、非現実的である。

はてなダイアリーキーワードにもいい説明があった。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%BB%A5%AB%A5%A4%B7%CF
過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識・行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称。

そういえば、雷門の前に修行所が出来たスピリチュアル系新興宗教が、「自分が変われば世界が変わる」的なことを言っていたけれど、その考え方の中にあるのは、セカイであり、自分。それをつなぐものとして、"江原大先生"や類似品も介在するかもしれないけれど、「そこには『中景』にあたる『社会』や『イデオロギー』が存在しない」。(これもはてなから引用)

あるいは、自己責任自己責任と、件のスピリチュアル派の人は繰り返す。ちなみに別のスピリチュアル派の人が、ブログで「自己波動責任」とかとんでもない事を言っていたけど、それについてはまた別の機会に語るとして、その、彼らの自己責任って、いったいどういうことなんだろうか。
自己責任なら何でもやっていい自己責任なのか。自己責任だから他人には関知しない自己責任なのか。

あるいは別件でブログの方に書いた江原関連エントリで引用した、江原信者が、江原版あるある問題に関連して述べた言葉
「自分にとって利益になるかどうかで判断するべき」
「見ていて楽しいのだからそれでいいと思います。」
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-105.html

彼らの中には、自分と、セカイしかない。あと"江原大先生"や愉快な仲間たち。

こうして、私や個を重んじ、公を忘れ去る人々があふれかえる。本当に、いつの間にかあふれかえっている。

この点が、よく並び称される、あるいは並び貶される江原と細木というアレ系二大巨頭に関し、ぼくはただ江原についてアンチの声をあげる理由の一つであると同時に(細木にそこまでの絶望的な影響力はない)、ただ江原さえ消えればいいという問題ではなくなっている、という思いにもつながります。

とはいえ、それもこれもスピリチュアル派の人々だけでなく、ぼくら現代人全体に蔓延した公共心の低下と密接なものだとは思いますけどね。


今思い出したけど、ずいぶん前に、ぼくは仮面ライダーブレイドと公共心の云々というのを書いていたな。今読むとどうしようもなく何か足りないけど。
http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-8.html
なかなか更新の時間がとれないので、ちょっとずつメモしたものをそのまま載せます。


・近況報告
3週間ほど前になりますが、涼宮ハルヒの憂鬱(アニメ版)、一気に見ました。

なんというか、いままで、「なんかもっさりして好きじゃない」なんて言ってしまって、大変申し訳ない気持ちでいっぱいです。なんですかあの傑作は。原作も出てる分全巻買って今読んでいます。
=====
・近況報告2
江原はただのスピリチュアルというネタをもった芸人に過ぎない、というのは、本当にその通りですが、いったん今はそれはそれとして、わかりやすいように「江原的な何か」として考えます。
===
・ここからただのメモ

それぞれの関連性
江原的な何かと、セカイ系
江原的な何かと、メトセク的"自分磨き"
江原的な何かと、密教

江原的なものと「自己責任」の関係
→他人に依存しないというのはまだ捨て置くとして、それは果たして世界(社会)を無視する事ではないのか。
↓スピリチュアル派の言葉
>そして、全ては自己責任。江原さんや、スピリチュアリズムに責任転嫁しないこと。

「自己責任の法則・償いの法則」(というものがあるらしい)
それはいったいどういう「法則」なのか。

彼ら(江原派)を見ていく中でよく目にする
「ヒーリング 癒し 患者」という言葉。
…患者?

スピリチュアル派はよく「気づき」というようだけど、
一体何に気づくのか?

セカイ系の件。
「自己責任の法則」とは何かを調べる中で発見した、あまりにもスピリチュアル派に対するイメージ(セカイ系の話をどこかで書いた時に考えていた)に近い姿。

スピリチュアル派の言葉
(注:べつに感銘して引用しているわけではない。あまりにも予想通りの方向に彼らが突出しはじめている例として。)
>「自分の外側ではなく、自分の中の意識を変えること」
>「分離感を超えること。つまり自分の外に見える人や状況などが、
まさしく自分の一部でしかないと気づくことによってしかこの世界は救われない」
>「私は彼らを創りだした自分の中の部分(パート)を癒していただけです」
>言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。
>あなたの内面からの投影である以外には。
 ↓全体的に、やりすぎ言いすぎの感あり。
 ttp://plaza.rakuten.co.jp/spiritualshion/diary/200612190000/
 (見るかどうかは「自己責任」で。あまりおすすめしない)

どうやらスピリチュアル派の中では、本当に道を極めてしまうと、外界とまったく接触しなくても、セカイが思うままに変えられるという話を真に受けた人のブログから引用したもの。どうやら彼らにとって、他人というものも社会というものもすべて実際に個として存在するのではなく「自分」の一部にすぎないんだってさ。もちろん「個」とか「セカイ」を考える中で、便宜上そういう見方もできる。だけど、ちょっと彼らのは、それを曲解しすぎではないだろうか。対象と一言も言葉を交わすことなく、その対象を念じるだけで変えてしまえるとして、それは果たしてどういうセカイなのだろう。

これは、涼宮ハルヒではない。
涼宮ハルヒが、このスピリチュアル的状況により生み出されたものとは思えないが、しかし、同時代に存在し、こうして語られる現実とは?

自分が変われば世界が変わる的な言葉や何かを、最近見た中からいくつか。
○涼宮ハルヒ
└むしろハルヒが変える
○仮面ライダーカブト最終回
└わりと社会的な意味だったと思う
○スピリチュアル派(深刻系)
└どうも、本当に自分が変われば「セカイが変わる」ことになるらしい。
 そういえば、雷門の前の新興宗教もそんなことを言っていた。
 ほんのたとえ話だと思っていたけれど、上のリンク先を見る限り、彼らの「セカイ系化」はとんでもないところまで進んでいるらしい。もはや、「じゃあなんでこの世から争いはなくならないの?」とか「なんで環境破壊は止まらないの?」なんてソフトな揚げ足取りをしているようなレベルじゃない。

=====
最近またやけにスピリチュアル的なトラックバックがあったりして、うんざりしながら一応見に行ったりもするのだけど、なんというか、あれですね、やっぱ、結構、スピリチュアル派というのは、お金が好きみたいですね。文字で書かれてこそいないものの、お金大好きって雰囲気に満ち満ちているのが少なくない。江原さん江原さんとみっともなく叫ぶのとはまた別の意味で、恥ずかしくないんだろうか。ないんだろうね。
以前からここにも書いているように、ぼくはときどきmixi日記にも、アンチ江原スピリチュアル関連のものを載せています。

主に、mixiニュースに江原関連記事が出たタイミングでアップしているそれは、ニュース関連日記という形をとることで、多少なりともスピリチュアル派の目につくことを考えて書いていたりもしますが、その甲斐あってか、スピリチュアル的な人々と直接の接触を持つことができました。

それは、一度や二度のコメントのやりとりにとどまらず、あちらの領域に拡大する事で、スピリチュアル的なメンタリティの片鱗を垣間見ることができた貴重な経験になったのですが、その経緯について、一度ここで触れておこうと思います。

少し前に話題になりそうでならなかった、「カリスマ霊能師 江原啓之にも『あるある』疑惑」というニュースに関連して、おなじみmixiに書いた日記と、それに続くコメント覧を、今回はここに転載してみようと思います。

ニュースはここから。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070204-00000001-gen-ent
ずいぶん前に書いたスピリチュアルという危機4 完全アンチ宣言。に、変なコメント(http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-97.html#comment53)がついたのですが、ちょっと流暢な日本語が話せる人ではないようで、実は理解に苦しんでいます。

かといって、それをこちらで勝手に解釈して返答しても、またmixi日記のスピリチュアル派(そのファーストコンタクトについてはいずれまた書きます。今はこれこれ を参照。申し訳ないけどmixi日記です)のようなことになるので、今回は、公開質問という形で、[53]のsさんに再度説明を乞いたいと思います。
(2008/1/24追記)
このエントリは、ずいぶん前に「江原やらせ」がニュースになった頃のものです。

まだ断続的に、「江原 やらせ」で検索してくる人が多いようですが、そもそも江原はスピリチュアというネタで売れた一発芸人なので、やらせとかいう以前に、仕込みは当然じゃないでしょうか。テレビだし。
その仕込みは前提として、江原的な何かを信奉しおかしなことになっている人たちはたくさんいて、このブログでは、江原を含めて江原的な何かとその周辺を問題にしていた時期がありました。

というか、それじゃ江原がやらせで、それ系のスピリチュアルなんちゃらはどうなのか。テレビ的な力や予算がない彼ら、「仕込み」をしたくてもできないような彼らはホンモノなのかといえば、そんなことないですよね?
相談者(?)の言ってほしいことをそれっぽく言って、心の隙間を埋めてあげて(というかつけこんで)、それは癒しだって言うこともできるけど(ぼくも昔はそう言ってたけど)、それってどうなの?みたいな。

ちなみに、信じるやつがバカってことを言いたいんじゃなくて、そういう状況を生み出している現代こそが…とぼくは言いたいのですが。

あと、コメント等大歓迎です。
下のコメント欄にもいろいろ書いてみました。

(2008/1/22追記)
過去の江原日記はここで

スピリチュアルという危機(このブログ内のカテゴリです)

============
↓ここからが2007年2月時点でのこのエントリの記事です↓

江原氏に関して、トラックバックをいただいた先の人(江原派)が、やらせ疑惑の件に関してこんなことをおっしゃっていました。

ここ。

あやうし江原啓之さん

(テレビなんてほとんどやらせという話に続いて)

でも視聴者はわかっています。
だけど見ていて楽しいのだからそれでいいと思います。

ヤラセだからどうのこうのというのではなく、自分にとって利益になるかどうかで判断するべきでしょう。

江原啓之さんの発言などはとても勉強になります。
カウンセリングの方法を熟知しています。

最近忘れられたよき日本人の考え方が勉強できます。



…「よき日本人の考え方」って何よ、という話はさておき。

これって実はすごく重要なこと(江原的な何かを考える上で)を言っているんですよね。(※もちろん、江原大センセイの教えがすごく重要って話ではありません)

「自分にとって利益になるかどうかで判断するべき」
「見ていて楽しいのだからそれでいいと思います。」

まさにそういった現世利益追求的な言葉にこそ、今のスピリチュアルな風潮を読み解くカギがあるようです。

人生における物語の不在と、それを埋める前世や魂による「物語」の出現。あるいは「あなたが生まれてきた理由」(←浅草に本拠地を置く新興宗教の看板にある言葉。江原ブームにうまく乗ったのか、大通りに修行所がオープンし今もにぎわっているようです)のようになぜか自分がそこにいることについてすら「理由」や「意味」が求められること。
それが満たされることにより安らぎを得るのは、結局誰なのか。
口先ではそのことによってセカイに対して云々とか言うかもしれんけど(それすら言わんかもしれんけど)、要は現世利益さえ得られればいいってことじゃないのか。

べつに、いまどき、自分さえ(あるいは自分とその周囲さえ)幸せならそれでいいという考え方は、江原信奉者やスピリチュアル派だけに限ったことではないのでしょうが、実は意外と、スピリチュアル派を見ていると、その傾向は強い。ある種の密教的なものかな。

その点についてはいずれまた触れます。
===

ちなみに、前述のあるある疑惑については、またmixiに日記書いてますよ。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=337428600&owner_id=26047

このmixi日記の中のどこか(コメント欄かも)でも、江原的な感覚が「私」や「個」にこだわりすぎ、ただでさえ虫の息だった「公」の概念にとどめをさしたとか書いているんだけど、要は、上で引用した人のような観念が広がってしまったということですね。
変なトラックバックがつきがちなので、mixi日記から転載。
2回に分けて書いた物をまとめています。
=======

江原啓之が細木数子に噛みついた
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=151272&media_id=10(というニュースに関連して書いた日記。)
=====
ぼくは細木信者でも江原信者でもなく、むしろアンチ江原と常々公言しています。アンチ江原コミュにも入っています。

で、まあ、世の中で言われているほど江原氏も人気があるわけではないようで、こういう余汰話でも出てくると、意外なほどに江原氏を叩く人も多いようです。

ただ、とても不思議なのが、江原氏自体は否定しながらも、前世の存在・霊の存在に言及し、否定する人は意外なほどに少ないこと。たぶん。
むしろ「江原の前世は○○」「江原は地獄に堕ちる」など、"あっち側"の言説を以て貶す者すらいるということ。少なからず。

なんだこのおかしな現実は。

ちゅーか、それはいったい何教だ。

今一般に言われている"前世"とか"スピリチュアル"への疑問についてはブログにも書いてきたし、そもそもそこから始まって江原の不可思議さ、おかしさに触れだした今日この頃なのだけど、やっぱり意外と当たり前のものとして、前世とかスピリチュアルなものの存在は認められている?
(暫定版エントリ)
前世は「中世の賢者と貴族」ばかり 江原啓之の「摩訶不思議」というニュース(?)を見たところ、ようやく表立って江原批判を口にする人も増えてきたように思える今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。

とはいえ、件の記事では
「週刊文春」の07年2月1日号には「テレビの中の『わるいやつら』」という特集で江原さんが4ページにも渡って紹介されている。そこには「7つの疑問」が掲載されていて、その一つが「前世や守護霊はどうして中世の賢者や貴族ばかりなのか」という疑問だ。
テレビ朝日系で放送されている「オーラの泉」に出演する芸能人への霊視では公家、武士、巫女、貴族、修道士、思想家などの「職種」が多出している。地理的には日本、英、仏、伊に偏りアジアやアフリカは滅多に出ない。

という程度の、ぼく自身まだまだ認識が甘かった去年の夏から書いているような話で、何を今更というところではあるのですが。

ただ、そのニュースに反応した人たちのコメントやブログのエントリ、匿名掲示板のやり取りを見ていると、たとえアンチ江原であっても、なんだかそれは違うよね、と言いたくなるものが少なくありません。もちろん、江原氏を肯定するという意味ではない、その独善的で上から見たような叩き方で、本当にいいの?という感覚。

とはいえ、誰にも読まれないままでは意味がないので、2〜3年前にさんざん批判した「ブログランキング」を、今でも大嫌いだけど活用させていただこうと思います。

[人気blogランキング]
ここをクリックすると、スピリチュアルな人たちがこのブログに入りやすくなります。


(ちなみに、このランキングのクリックはアンチスピリチュアル以外の活動には1ポイントも使いません。また、今でもブログランキング大好きっ子・「ポチッと」とか言ってクリックを最大の目的にしている人たち・あるいは騙しリンクを使ってまでランキングを上げようとする人・知り合いにクリックしてとお願いする節操のない人、そんな破廉恥な面々は大嫌いだ、という考えは変わっていません。)

念のため、次のアンチエントリを書くまでのつなぎとして。
このブログで書いてきたアンチスピリチュアルな話は以下のようなものです。

◆スピリチュアルという危機4 完全アンチ宣言。
◆スピリチュアルな物語3 これは…やばいんじゃ…
◆スピリチュアルな物語2 ちぐはぐなぼくらのアレ
◆スピリチュアルな物語、あるいは王様の耳はロバの耳

本格的にスピリチュアルという危機が、単に信者や取り巻きだけの問題ではなく、それを無意識に見過ごしているぼくらの中にもあることに気づいたのは「4」くらい。

最初の2回などは、まだぼくも考えが甘かったので「それで救われる人がいるなら、まあどうでもいいんじゃね?」程度に考えていました。

続く。
江原氏に関するメモまとめ。

ぼくはこのサイトで何度もアンチ江原氏(とその仲間たち)としてのエントリを書いているのですが、ついでにSNSのアンチ江原コミュニティにも入っていたりします。

ただ、それを見ていると、単に胡散臭いからとか太っているからとか、その程度のアンチが多い気がします。

だけど本当は、そんな生理的嫌悪感だけでなく、もっと何か、根源的危機のようなものがある、ような気がしてならない。

ということで、なんとなく思いついた事を書いてみようと思います。
まだメモまとめ段階。
スピリチュアルがどうのこうのという話を何度も書いてしまったので、ひょっとしてあまりにもダメな人生のためにぼく自身が前世の物語へと夢を仮託してしまったのではないかと危惧する人がいるかどうかは知りませんが、今日もまたスピリチュアル関連でちょっと無駄な文字を垂れ流そうと思います。

(ちなみに、今回は前章でちょっと触れたように、最後に現代のスピリチュアル派のあり方と怪獣たちの物語の変遷を照らし合わせるように書くつもりだったのですが、途中で面倒な流れにしてしまったので、また人としてヤバい系の話に終始してしまいました。思いつくままに書いていると本当に思いもしないことになってしまいます…。)