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『かぐや姫の物語』見た。

前情報もなしにあまり深く考えずに見ると、かぐや姫は戦後日本の経済や戦後民主主義、それが回帰する月はアメリカ発のグローバル経済の象徴、この映画は、そんな日本への高畑勲監督による鎮魂歌?葬送歌?というにはまだ早いかもしれないけど、ま、なんかそういうアレじゃないんですか?
…という実に安易な考えが浮かんでしまったので、いったんメモ。
(先入観なしに、って言おうと思ったけど、どう考えても高畑監督作品への先入観がありますね!)

※竹取物語の話にネタバレも何もないので、思ったことをザザーッと書きます。

◎田舎時代から成り上がりへ
「タケノコ」と揶揄されるほどすくすく育つ姫は、高度経済成長期の日本。出ないはずの乳が出た媼は、まさに焼け跡からの復興。「え?また大きくなったの?」と何度も言われるほどの所得倍増計画。
「天の恵み」とばかりに黄金の特需や着物にはしゃぐ翁の姿は、神武景気・岩戸景気・いざなぎ景気といった文字通り「天」の景気に沸いた日本人。

翁はそのまま”日本のオジサン”の姿でニューヨークにビルを…いやさ都に豪邸を建ててしまう。都で成り上がりと言われても、そりゃ浮かれます。
そこには同時に媼のような感情も同時にあるわけですが。

◎都
躁鬱としか思えない感情の波に翻弄されるヒステリー持ちのかぐや姫は、たとえば景気の浮き沈み?(という暫定の考え。原典にはない要素、走りまくる姿も含めて、もっと見逃せない何かがあるかも?)

庭に山や木々(に見立てた植物群)を育て楽しんでも、やがてまがいものに過ぎないことに気付き破壊したかぐや姫は、人工的な”自然”への反発?ひょっとすると、おもひでやぽんぽこで自然を描いたつもりになっていた監督自身の反省?(という暫定の考え。これも原典にはない要素、見逃せない何かがあるかも?)

◎バブル到来と破滅への道
満を持して登場する肩パット入りまくりの、いわばバブリーな服を着た帝は、文字通りバブル。バブル以外の何者でもなし。
バブルに抱きすくめられ、そのおぞましさに身の毛もよだつかぐや姫の表情の見事さ!
(ま、世の中にはバブルが好きだという人もたくさんいらっしゃいますが)これは、高畑監督の偽らざる気持ちでしょう?知らないけど。

しかしそこで、かぐやが自分は月から来たのだと気付いたように、ずっと浮かれていた戦後日本の政治・経済はアメリカの属国としてのものだったと、気付いてしまった。
(この辺の流れは一晩か二晩寝かせないと、ちょっとうまく言えないかも)

ついでに、これは原典通りですが、5人の求婚者の欺瞞は、ギラギラしていた頃の日本経済の欺瞞そのもの…とか書くのは、言い過ぎかな。調子にのりすぎちゃったかな。

◎グローバリズム
さて。もはやこの国がTPPやグローバリズムにあらがえないように、日本の経済は、グローバリズム(というかアメリカ中心のアレ)の月に旅立つしかない。かぐや姫が振り返る地球は、地域や国境線に基づく国民国家(グローバルを謳う人々が飛び越えるべき”旧弊”と考えるもの)であり、そんなものを振り返っても、もうかぐやからその記憶は消えました(テヘペロ)という近未来。ちょっとだけノスタルジーくらいはあるかもね。でも一度振り返るだけ。

残される日本人は、ただ月を見上げるしかない。でも、(グローバル経済バンザイな人には伝わらないかもしれませんが)そこに残る人々は、それを悲観することもないし、根付いて生きていけばいいんじゃないでしょうか。ちょっと寂しいけど。
ま、ぽんぽこの生き残りの狸みたいな。そこにいる人々に対しての、実にやさしい目線。

べつに帝が富士山で薬を焼いたりしなくていいんです。
完全に(グローバリズムに)取り残されている姿は、十分に描かれました。

ちなみに、一瞬出た昔地球に行った月の人(たぶん嫦娥)や仏様が迎えに来る図は、平安人にとっての外来の文化は何だったかという話なので、それで十分。

◎罪と罰
チャラチャラした資本主義の繁栄におぼれて浮かれていたら(罪)、グローバリズムに収奪されるんだよ(罰)。


◎オリジナルキャラ・捨丸兄ちゃん
仮定1:
初監督作ホルスのように英雄的に登場した捨丸との、世界名作劇場(カルピスこども劇場?)的生活を経て、泥棒シーンが未完成で叩かれ(火垂るの墓)、都の生活よりも、捨丸との生活を…と望んだのは、ほら「おもひでぽろぽろ」的な「ぽんぽこ」的な?
でも、今となっては、OLが田舎暮らしに憧れるのも、ぽんぽこ的世界も、夢・幻にすぎなかった。でも、ちょっとだけ捨丸とかぐやに夢を見させた。それは、高畑監督自身の自己肯定とか、走馬灯とか、そういうもの?

仮定2:
文字通り日本人が捨てて来たもの?と考えるとぽんぽこで十分じゃないっすか。でも、そういう映画がたくさん…。

仮定3:
社会主義的な世の中への(監督の)未練?

ま、そうは言っても。
捨丸にはとっくに地味なかみさんがいて、地道に木を切って暮らして行く。かぐや姫はそんなもののことは全部忘れて、月(グローバル経済)へ旅立つ。
もちろんそんな捨丸たちに対しても批判的な意味はまったくないし、むしろ好意的(そりゃそうだ)。

◎ざっくりまとめ
そんなこんなで、「なぜ今かぐや姫?」「制作期間8年、総製作費50億円ってどゆこと?」「大コケwww」などと言われるであろうこの作品は、おそらくこれから沈みゆく日本への、高畑監督の哀悼ではないだろうか。

日本の美を極めた…とか言っている人は、幸せです。

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★こういう↑いやらしく安易な解釈とは別の解釈の入り口

ほぼ唯一の食事シーン、捨丸とタケノコ(かぐや姫)がウリを食べる場面。
藪の中で密かに、ウリを割って二人で食べる。

文字通り「破瓜」以外の何者でもない。

最初の一口は「うっ…」となるタケノコも、すぐに捨丸とおいしいウリを味わう。
しかもウリ科の植物には詳しくないのですが、あれはマクワウリ?まぐわる?…とか思う私はもうアレですね。心が汚れ切っていますかね。
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今月の月刊ニュータイプから連載再開した『ファイブスター物語』がとにかく理解を超えていた。もちろん最高の意味で!

☆もし、まだ読んでいないのであれば(そしてあなたがFSS読者なら)、今すぐ余計な情報を見る前にニュータイプを買って読んだ方がいいですよ。本当に!

※ネタバレって怒られるかもしれませんが普通に書きます。

これまでも膨大な設定や歴史年表で有名だったこの作品が、ストーリーとキャラクターは連載休止前のものをそのまま引き継ぎながら、物語の根幹をなすその膨大な設定が完全にベツモノ(というか、昨年公開された映画『ゴティックメード』を引き継ぐもの)になっていた。
ネーミングだけじゃなく、デザインの在り方、物語の核となる巨大ロボットの構造、同じく物語を支える人造人間コンピュータも微妙にベツモノ。ロボットやコンピュータの在り方からしてベツモノ。
それが、しかし同じ「世界」の中で何の説明もなく当たり前の顔をして描かれている。

※もう発売されて何日もたったので、もっとわかりやすく書くと…

3ページ目あたりまでは、おなじみの『ファイブスター物語』なんだけど、もう1ページめくると、いきなり、土煙のむこうにいたはずの「モーターヘッド(と呼ばれるロボット)」が、去年の映画に出た「ゴティックメード(と呼ばれる、別の、もっと強くて美しいロボット)」になっている。そして、そこから怒濤のように、デザイン・名称が、本当にいきなり、新しくなっている。

そして、それでいて何の問題もない!

こういう形になってあらためて考えてみれば、9年も間が空いて、しかも『ゴティックメード』という神がかったロボットを生み出した後では、連載休止前のファイブスターやモーターヘッドが、完全にオールドファッションなもの(何より作者にとって)になっているのは当然で、この世界にはじめて出て来た頃(30年近く前)には最先端だったモーターヘッドもゴティックメードと比べれば、圧倒的に「普通」。

いや、普通というか…そりゃ十分以上にかっこいい、そのへんのロボットアニメのロボなんかより100億倍かっこいいのは間違いないのだけど、きっとそう思える時点で作者にとっては遅れているものであろうし、そしてそんなものを、今更描くはずがなかった…。

もちろんそんなことは、何度も言うけど「こういう形」になったものを見ればこそ納得できる話で、3ページ、4ページ目あたりを開くまでは、まったく予想ができなかった。

そしてページを開くと、モーターヘッドが出るはずのところにゴティックメードがドーンと出てきた…あの衝撃といったら!
完全に驚愕し、震えた!会社で読んでいて変な声が出ちゃったもん。

はじめて、コクーン歌舞伎で勘三郎の『夏祭浪花鑑』を見た瞬間と同じくらいの、脳みそを一度メンテナンスに出してきたような感覚。

最近勘三郎追悼番組を見た人が、彼の言葉から「型破り」と「形無し」の違いを語ろうとしたりするのを時折見かけますが。そこに出てくる「型破り」の姿が、まさに今回のファイブスターあるいはゴティックメードにもあるわけですよ、ほんとに。

歌舞伎の話を出したから、もうついでに書きますが。
歌舞伎には「世界」と「趣向」があることは今更ここで知ったかぶりをするまでもなく常識ですが、今回はまさに、緻密につみあげられたファイブスター物語の「世界」の中で、「趣向」が全面的に書き換えられた(というか、ゴティックメードと綯い交ぜにしたのと言っていいのかな)。

あ、そうか。この感覚は、たとえば『盟三五大切』で最後に四十七士とつながる瞬間のアレに近いのかもしれない。まじで。

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ちょっと余計な話。

ネットニュースやまとめサイトなんかでは、そりゃ煽った方が100倍くらいいろいろ稼げるので「連載再開に困惑するファン続出 」だの「阿鼻叫喚」だの言うわけですが、そこにある否定的な意見のつまらないこと(ま、読者じゃない人が知ったかぶっているだけなのかも?)。

なぜか最近は「ネットの声」なんてどうしようもないものを見る機会が多いのだけど(たぶん、ネットニュース各社さんがネットの声で楽に記事を作っているからさ)、今回の件にしても、あるいは最近だとアニメ版の『惡の華』なんかも、受け入れられない人々の「声」があまりにもワンパターン。

脊髄反射的に定型句(しかもネットならではの定型句)で語ろうとするのは、ま、本人にとってはそれで良いこともあるんでしょうけど、こういった、とんでもないものがやってきたときには、思考の枷にしかならんのですなぁと、偉そうに言ってみる。なんかすみません。
(※自分のことです。あなたのことではありません)
NMR ポニョ都市伝説、ポニョには宮崎駿のマル秘メッセージが含まれている!?
http://npn.co.jp/article/detail/32897853/(元記事)
http://news.livedoor.com/article/detail/3848065/

この"ポニョ解読"があまりにもひどすぎる…。

意見があうあわない以前に、そもそもまともな大人の書く内容じゃない。
きっと釣りで載せている記事だと思うけど、つい目にとまったので、取り急ぎ何か書きたくなってしまった。
引用ばかりで、大変読みづらいのですが…。
ぼくにとってのガンダムって、まともに見始めた(これがどういう意味かはあらためて説明はしませんが)のは中二の頃放送されたVガンダムからで、当時は主人公ウッソ・エヴィンと非常に近い年齢であったこともあり、たしかウッソに対し強く感情移入していたように思います。

その後、再放送がはじまったテレビ版のガンダム(第一作)を通して見た時(高2頃)には、間違いなく、アムロやホワイトベースの側から見ていました。

ガンダムといえば、ぼくが幼い頃は何度も再放送されていたのですが、何もわからなかった幼稚園児時代に見たときには、シャアが非常に憎く、ガルマの件の後一時いなくなる時には本当に嬉しく思ったことを覚えています。前述のようにその頃は何度も再放送されていたので、シャアがまた出るのも子供なりに知っていたけど、子供なりにバカだから、時系列がよくわからず、わからないなりに不可解さを持ちながら、シャアの退陣を喜んでいたわけですが。
それからさらに時は過ぎ、まだSDガンダムのカードダスを集めていたような小4~小6の頃、シャアというのはまったくもって悪役にしか見えていませんでした。ちなみに、その小4の頃にもガンダムは再放送されていましたが、ランバ・ラルのあたりで退屈になって見ないようになっていました。
浅薄といえば浅薄ですが、この浅薄さはまだまだ続きます。

 
むかしむかし、まだ携帯電話なんてFOMAとか第三世代なんて言葉すらなく、携帯端末がやっとカラーになったような頃に、書いた文章(ニュータイプの条件)がありました。

まあ、これはべつになんてことない、というか、今読むといったい何をぐだぐだアニヲタが書いてるんだか、というアレなんですが、その数年後、まだブログなんて日本人の0.01%くらいしか知らなかったような時代に、懐かしのこのサイトで、ニュータイプ的なものを欲望する日本人のコミュニケーションと携帯電話の関係について、すごく恥ずかしいことを書いたりもしていました。

その恥ずかしい短文については、恥ずかしすぎるのでもう消したわけですが、それから時が過ぎ、さらにニュータイプ的な方向へ、今でも外部から働きかけてくれているコミュニケーションメディアについて、なんとなくお風呂に入りながら考えたことをなんとなく思い出しながら今日は書いて見ようと思います。
過去ログ掘り起こし。

ガンダムSEEDの話とか。
こんなの書いてたんだ…って感じですが。

過去ログ掘り起こし。
アトムのアニメの感想です。

過去ログ掘り起こし。

アトムのアニメの感想です。
過去ログ掘り起こし。

エヴァもドラゴンボールも、実写化の話が出たまま、何年経っても続報はありません。

まあ、そんなもんです。

 
過去ログ掘り起こし。
武士沢レシーブとかうすた京介についてちょっと触れた話。

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