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年初にこんなことを言っていたけど、全然何も書いてなかった…。

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takekumamemo

誰もがうらやむたけくまメモの一周年記念オフに行ってきました。

オフ会というか、記念講演会みたいな感じの素敵な一夜だったんですが、こんなサイトをやっていながら、人脈の薄さや何やらできちんと見る機会のなかったいろんな映像、そう、本当に見たくて見たくてたまらなかったあんな映像やこんな映像がてんこもりという、本当に素晴らしい会でした。ほんとに。


プレイ日記というより、プレイするぼくの日常を記録する、どうぶつの森日記-第1回。
2005.12.14 DS買った。
最近ニンテンドーDSというものを買ってしまいました。
最近の響鬼に登場するマカモウ(魔化魍)たち。

プロデューサー・脚本が変わったのとほぼ時を同じくして、その有り様も変わったかのように言う一派がいないわけではないが、果たして本当にそうなのか。
(…ということについて数ヶ月前に考えた事を書きかけていたんだけど、すっかり忘れていました。今更思い出して書き足してアップしてみますが、かなり時期外れな気がしますね…。)

たしかに、ぱっと見た感じでは、出てくるのはかつてのような山奥や海・川、人工物の少ない、何か得体のしれないものが住んでいるかもしれない、そんな場所だったかもしれない。かつてぼくもそんな「場」に惑わされ、

突然現れる漢字の演出や、奇抜なライダーデザイン、ベテラン俳優の起用、何度か試みられてそれっきりのミュージカル的表現なども、確かに平成ライダーの文脈では突飛なもので、目を引くかもしれない。しかし、平成ライダーの中で本当に新しく、その物語のあり方に重要な意味をもたらしているのは、その舞台ではないのだろうか。その舞台と、そしてそれに連なるいくつもの物語、関係性。


こんなことまで言いながら、響鬼の舞台が持つ場と物語の連続性について評価しつつあった。

(あらためてまとめてみると、
・平成ライダーの怪人たちはたしかにとてもスタイリッシュだが、実は個々に持つ物語というのは旧来の怪人が狂言回し的な位置にあったのとは大いに異なり、非常に薄い、というか皆無。ただのやられ役。個々の怪人に物語性はなく、ただモードを追うのみ。
・そして、怪人に代わり狂言回しとなったのは、やはり仮面ライダーたちヒーロー。人間ドラマがどうのこうのという評価のもとにそれはみんな知っていることだろうけど、話の中心は、ライダーたちヒーロー側の青春群像劇であり、それと時を同じくして、怪人の存在も薄くなった。
・同時に、平成ライダーの戦いの舞台となる「場」も、小綺麗な街だったり、海辺の倉庫街だったり、なんちゃらスタジアムとかアリーナみたいな場所で、とてもスタイリッシュだが、実は物語との関連性はゼロ。べつにどこが舞台になろうが関係ないし、どこで戦っても同じではないか。そして、怪人の物語性との断絶も、舞台のあり方と無縁ではない。
・その舞台、物語、怪人の断絶には、実は東京とその周辺の街のあり方が反映されているのではないか。単純に、物語のあり方の変化が怪人のスタイルを変えただけではなく、舞台となる「場」の変化が、それらを規定してしまっているのではないか。
・それに対して、響鬼という新しい仮面ライダーはどうかといえば、舞台を鄙におき登場するのはその場と縁続きの妖怪たち、主人公たちの本拠となるのも設定上柴又という、寅さんのイメージを借りたまさに人情の下町。その場へのこだわりは、実はこれまでの平成ライダーとは一線を画すものではないのか。


2005年7月の段階でこんなことを言っていました。)


しかし、本当にそうだったのか。
たしかに、「鄙」に登場するマカモウの存在は、表面ばかり綺麗に飾った「街」にあらわれたそれまでの怪人とは異なり、いかにも物語性があるように見えるものだった。

しかし、本当に彼らに物語はあったのか。
ここで言う物語とは、マカモウがあらわれてライダーに倒されるまでのお話ということではない。彼らが、単にライダーに倒されるヤラレ役というだけでなく、独自に持ちうる何らかの物語はあったのか。それは具体的に語られることはなくとも、それを持ち得た可能性が、そこにあったのか。

結論から言えば、それは、なかった。
たしかに、鄙を舞台とすることで、それまでの平成ライダーとは一線を画すように見える何かがあるように、ぼくも錯覚した。
人工的に物語を作りあげたような「街」ではなく、それぞれの時間の流れと、土地土地の物語を、未だ持ちつづけているように見える鄙から生じるマカモウの姿は、順当に考えればその土地の物語性を背負い、その土地が持つアウラを寓喩的に示しうる可能性すら持ち得たはずだった。
しかし、実際にはどうだったか。
時には○○の××という形で、地名+妖怪的な名称で語られるマカモウだが、しかし、彼らがその土地固有のものである意味が物語内に織り込まれるわけではなく、そもそもマカモウ自体、謎の変態集団が地中に変な汁を流し込んで生み出すような、そもそもどういう出自なのやら不明なものであることが、明かされた。
そこにいる「マカモウ」には明らかに、妖怪というものが本来持っていた物語性、あるいはその土地の「場」が持つ力は欠けていたといえよう。

プロデューサー・脚本の交代により、突如マカモウが小綺麗な街中に現れることも増えたが、しかし、特にその「場」と関連性はない、何の物語性も持たないような人にあらざる何かが、特に脈絡もなく人を襲い、ヒーローに倒されるという、ごくごく基本的な部分において、埼玉にあるスーパーアリーナのマカモウも、屋久島にあらわれたマカモウも、あるいは、オルフェノクも、トランプの怪人も、ミラーワールドのモンスターも、その他もろもろの最近の怪人たちも、何ら変わりはない。そこに、彼らの物語はなく、彼らが安住できる地は、どこにもない。
街にいようが、鄙にいようが、それは同じだった。


とはいえ、それは決しておかしなことではなく、むしろ正しくぼくらの価値観をあらわしているのかもしれない。

人工物に囲まれたぼくらが想う「自然」。
それって、本当に自然なのかといえば、大抵の場合は人工的に整えられたものであったり、そもそもその土地が育んできた種とは、何の脈絡もないおかしなものが持ち込まれたり、本来のその土地のアウラを持ち得ない世界なのかもしれない。
それは、何千年も前から人類が森と戦って切り拓いて云々、というお話ではなく、むしろ、今ぼくらが「アウトドア」的に考える自然。

以前の文章では、東京という「場」の中に、それまでの文脈を断ち切るようにあらわれた新しい「街」と、それを象徴する存在としての新しい「怪人」について思いを馳せた気がするけれど、それとまったく同様に、山や川や海や旧来の「鄙」があり、しかし、その場にぼくらが求める「自然」というのは、むしろその地誌学的な物語を切り裂き、脈絡なくつくられるような、もっと人工的な、心地よい自然ではないのか。そして、それは、この響鬼という作品に登場するマカモウのように、「どこにいてもいい」「どこにそれがあってもいい」、その土地とは何の関係もない、物語性のないものなのかもしれない。
ハニーがオタク世界にちょっと興味が湧いたようだったのでとりあえずガンダムを見るようにすすめてみました。うちにビデオもあるので。

とはいえ、これまでは、決して、ガンダムを無理矢理見せようとしたことはないんですよ。一度香港映画の「金枝玉葉」を見せようとした時の全然興味がない姿を見て以来、そのへんの無理強いはしていないはずです。

ただ、仮面ライダー響鬼を見ているうちに、なんだかひねくれた見方がしたいようなことを言っていたので、あんまり変な見方をするのはおすすめできないけど、どうしてもというのなら、と、入口として、必修科目としてのガンダム視聴をすすめたわけです。
最近浅ヲタのガンダムファンが増えているとはいえ、未だそのアウラは消失していないと、ぼくは思うわけです。

と、そんなことを言っていたら。

彼女は突然態度を硬化させ、「将来やっていける自信がない」「なんで今まで気付かなかったんだろう」「もう別れよう」な~んてことを言われてしまいました☆

豆腐の角に頭をぶつけて死んでしまおうかと思いました。
(本来もうちょっと長々と書くつもりだった話なのですが、とりあえず覚え書きの断章をつなぎあわせた感じで公開しておきます。そのうちまたいろいろまとめて書く予定です。時間があれば。ちゅーか、長くてアレなんですが追記もあります。念のため。)
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日本社会が高収入と低収入の人種に別れて、階層が云々とかいうちょっと前から出ていた話に紛れて、「オタク文化の普及」とその階層化を結びつける話を、最近見かけることがあります。(ARTIFACT:オタク趣味は金をかけなくてもできるようになった

たしかにそれはある意味おっしゃる通りで、もちろん「低収入の層がオタクカルチャーに手を出しやすいから分化するんだ」と言われただけでは、「乱暴な話だなぁちゅーかべつに階層化関係ないじゃん」と思ってしまうわけですが、たしかに収入の二極化と趣味の二極化が、いかにも関係あるように見える事象が、オタクの一般化以外にも見受けられます。

その一つの事例が、メトロセクシャルに代表される小金持ちの動きなのかもしれません。
◆二極化した別の層は?
下流社会がオタク化する一方で、上流となりつつある層は、どこへ向かうのか。あるいは、どのような言葉で規定される存在になろうとしているのか。
すごくマイナーな、メトロセクシャル的なムーブメント(http://www.metro-sexual.jp/あるいはhttp://blog.livedoor.jp/metrosexual/)に、その答えがあるのかもしれません。

たぶん「メトロセクシャル?はぁ?そんなのはじめて聞いたぜ」というご意見も多いというか、ほぼ100%ではないかと思いますが、ひとまず続けます。

それなりにいい服を着てそれなりにジムで身体を鍛えてそれなりに雑誌とかテレビに出ているような店で高い飯喰って…それなりに都会生活者としての享楽を分かりやすい形で愉しむメトロセクシャル的ライフスタイル。わかりやすく言えば、それはオタク的なぼくらが手に入れられないそれなりに裕福な都市生活者のステイタス。

自分磨きがどうこうとか自分大好きのような精神的な部分はさておき、その基盤にあるのは、それなりに生活に(資金面でも時間の面でも)余裕ができ、あるいは物理的にそういった「場」が近くにあること。ツメを磨いたりメンズエステに行ったり、トータルワークアウトがどうのこうの、なんてことは、下流の人間にも、地方在住の人間にも、ちょっと軽い気分では真似できない。

オタクカルチャーの低価格化と、ネットの普及や流通の変化による地方格差の解消が生み出した多数の下流オタクとは、まさに好対照となるメトロセクシャル。

とはいえ、そんなメトセク的なあり方って、実はそんなに底が深いものではなくて。オタク(本来的な意味での)的な「深さ」というのは、そこには必要ない、なんとなくそれっぽい表層をなぞっただけで成立することは、前述のサイトを見てもわかる通りです。

たとえば彼らが憧れる雑誌「LEON」の見出しや、そのへんの本屋の店頭をちょいと見てみればわかることですが、「ちょい不良(わる)」だとか「ちょいモテ」的な「ちょい」の広がりは、最早誰もが知るところでしょう。
その「ちょい」は、手軽さと同時に、表層の問題、底の浅さ、軽さにつながることも、見逃す事はできません。
(余談ですが、その浅さは、前々から「3cm」とぼくは形容していて、広く浅く3cm掘り下げたらそれ以上掘ることはなく、そこで満足する。というよりむしろ3cm以上の深さはそもそも必要ないという彼らのスタンスへのアレなんですが、今回はそういう印象の話は置いておきます。)

果たして本人たちは、その浅さ・薄さを認識した上でメトロ活動を続けているのか、あるいはそれにすら気付かないものなのか。

ただ、それは、べつにメトセクがどうという話しではなく、むしろ東京(あるいは大都市)の現代を見る上での一つのキーワードなのかもしれません。

◆じゃあオタクは深いのか?
そもそもオタクって何だったんでしょうか。
その答えってとても説明が難しいものだと思うし、おそらく時期によって、その定義は大きく変わってきている気がしますが、少なくとも、アニメがちょっと好きだとか、フィギュアをたくさん持っているだとか、そういうものでもオタクと呼ばれるようになったのはつい最近のこと。かつては、ファンだとかマニアだとか浅ヲタだとか呼ばれていたような存在だったのではないでしょうか。
(※これを書いている途中で知ったんですが、奇しくも「ちょいオタ」だか「ちょいヲタ」だかいう言葉があるらしいですよ。)

とはいえ、ここで問題になるのは、オタクの定義の問題ではなく、現在「オタク的と称される人々」がたくさんいて、その「オタク的活動」にかかるコスト、あるいは地理的な格差も小さくなることで、都市生活者や富裕層でなくても、それなりに「オタク的活動」が可能になり、また事実下流の文化として、それが認識されつつある、ということです。

あらためて考えるまでもなく、オタク文化が広まったように見えるというのは、オタクになる人間が増えたというより、オタクの基準そのものの敷居が、限りなく低くなった、というだけのこと。
人間なんて本質的にはなかなか変わらない。ただ環境の変化がその定義を変えてしまう中で、オタクがより一般的になりました。それでは、上述のメトロさんたちも、結局そういうことではないのかな?

◆浅さの共通性
オタクになり、あるいはメトロになるためのインフラが存在しない時代には、それは「ただの人」だったのかもしれません。しかし、いろんなものの敷居が低くなる事により、「オタク」あるいは「メトロ」のような何かにカテゴライズされることが簡単になってきているのではないでしょうか。というより、むしろそこにあるカテゴライズされたい欲求の方が、ちょっと気になります。

そこには、必要以上に自分が何者かを問われ、あるいは自ら問う中で、何者かに自らをカテゴライズすることで容易に手に入れられる安定性というものが云々…と定義してしまうことも簡単でしょうが、そんな現代性の定義はさておき、結局そうやって、オタクあるいはメトロ的存在に「ただの人」が変化し、あるいはそれが現代性を象徴するものとして語られることで生じるのは、現代そのものの「浅さ」「薄さ」に他なりません。

上流下流の分化がどうのこうのとは言いつつも、その浅さにおいて、オタク的グループとメトロ的グループは非常に似通った精神性を持ち、現代の浅さを担う共犯者になりつつあるのかもしれません。

いつかこの時代を振返ったとき、何においても浅いものばかりだった、と、それだけですめばいいのですが。
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