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こないだNHKを見ていたら、しょこたんが出てたんですよ。
「通(つう)」

そしたらなんか焼肉の「通」の極意に迫るとかいう番組で、ちゅーか、ぼくって肉は好きだけど、焼肉としゃぶしゃぶとステーキはあんまり好きじゃないと公言して憚らない野暮な男なので、いくらしょこたんが出ているとはいえ、心中苦虫を噛み潰しながら見ていたのですが、焼肉というものや、それにこだわりを見出す人々への疑問については既に何度も飯のアレに書いたので今更どうこう言うまでもないのですが、そんなことより、最近、通とか粋とか、そういう言葉が流行ってますよね。

流行っているというか、安易に使われすぎているような気がする。
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テトリスDSのwi-fi対戦で、ついにしょこたんとアレしたお。
shoko01

↑奇遇にも、この瞬間レーティングが同じ!

個人的にはかなり接戦だったと思うのだけど、しょこたんとしてはどうだったんでしょうか。最終的には7-6くらいで電波が途切れて終わってしまったのですが、仮にしょこたんでなくてもまた対戦したい好敵手でした。ましてや、しょこたんですからね。またしょこたんを求めてwi-fiにつなぐ夜が続きそうな今日この頃です。

shoko02

=====
ちなみに、あたいのフレンドコードはこれですお。
773660
851834
→[第一回]
→[第二回]
→[第三回]
→[第四回]
→[第五回]
→[第六回]

○[2005-:マックス:メビウス:怪獣の復活:これから]
不振に終わったネクサスの後を受け、原点回帰(王道回帰?)と言うべきか、かつてのウルトラシリーズ(一期・二期)のイメージを強く持ったウルトラシリーズが作られ始めた。
『ウルトラマンマックス』『ウルトラマンメビウス』である。

この二作には、マックス第二話のエレキングにはじまり、かつてのシリーズに登場した怪獣たちが数多く登場している。特にウルトラマンメビウスに至っては、一期・二期の時間軸を引き継ぐ物語として、その歴史観だけでなく、「怪獣のデータベース」までも引き継いだ設定で描かれている。

以下自己引用([響鬼とネクサスとマックスに関する下書き。])
ところで原点回帰を遂げるウルトラマンマックスの怪獣と人類の間で、異者理解的なテーマは果たしてどう描かれるのか。エレキングやゼットンをはじめ、かつての名うての怪獣たちが続々と登場するようだが、しかし60年代に彼らが持ち得ていた寓話、その物語性・アウラは、もう消失してしまっているのではないだろうか。
少なくとも、科学への思いも、進歩への期待も、何もかもがかつてとは異なる現代において、あらためて彼らが背負い、人類に叩きつけてくる何か新しいトピックスでもあるというのだろうか。
マックス放送前には、自分自身このようなことを書いていたが、あらためて考えてみると、実はこのオールドタイプな怪獣たちの復活には、重要な命題があるのかもしれない。

かつて、物語上は輝ける超人たちが、現実には人間たちが、その場しのぎで置き去りにしてきた数々の破局の可能性。それはそのまま変わらず、あるいはより根深いものとして、"いま、ここ"に残されている。

たしかに、初期の怪獣たちは、現代ではある意味神格化され(あるいは仏?)、かつてのままの破局のイメージを持ち続けてはいない可能性は高い。
しかし、敢えて、過去の怪獣の復活を行なったマックス・メビウスの二作、特にかつてのシリーズ(一期・二期)から続く歴史観とデータベースを持つメビウスのそれは、これまでの人類・怪獣そしてウルトラマンが、結局解決できずに先送りしつづけた問題にあらためて立ち向かうということ、ひいては、かつての人類がそのままにしつづけた数々の危機を見据えなければならないということを、その陽気な物語とは裏腹に、提示しようと試みているのかもしれない。

とはいえ、ウルトラセブン「狙われた街」に登場したメトロン星人が現代に再登場したマックスのエピソード「狙われない街」のように、怪獣たちの側が人類に絶望することもあるかもしれないし、あるいは、結局新しいウルトラマンも、昔のウルトラマンと同様に怪獣と人類の和解の芽を摘み取るような"救済"を行なうだけかもしれない。
だが、そこで描かれる人類と怪獣(とウルトラマン)の関係性もまた、"いま、ここ"にある世界の姿である。

(ひとまずここで終わろうと思ったけど、もう少し続く)

伝統的怪獣を出したところで、そこに新しい展開は何もないかもしれない。かつて現代性が抱える"破局"を体現し、人類と葛藤を演じた怪獣が、2006年には、寓喩性ではない、ただの偶像になっている可能性もある。
人類と葛藤する存在ではない、むしろ、「認められた」モノであるかもしれない。

だがそれは、単に話題作りやフィギュア販売といった安易な考えに基づくだけのものではないだろう。
一度は現代における葛藤として浮上したものであっても、一旦(無理矢理にであれ)片がついてしまえば、「もうそうなってるから仕方ないじゃん」と放り投げる我々の姿(例:もう自衛隊はイラクに派遣したんだから、その可否を議論したって仕方ないじゃん。/もう男の子が生まれたんだから女性天皇・女系天皇なんて話す必要ないじゃん。)がそこに描かれているのかもしれない。
一度怪獣という姿を借りて描かれた物語であっても、もう今更どうこう言っても仕方ないじゃん、と。

そして、もしメビウスを「大いなる物語」(大いなる破局)が包むこむことがあるとすれば、あるいはこんなぼくたちの生き様がもたらし得る世界の危機を、そこに見つけることができるのではないだろうか。

それは制作者の意識/無意識に関わらず。
第一回から第六回までに見てきた過去の作品も同様で、必ずしもそれは、確信犯的に時代を切り取ろうとしたわけではなかったかもしれない。むしろ、そう意識することの方が少なかったのではないか。
しかし、それでも、怪獣とウルトラマンというモチーフは、"いまここ"を切り取り映し出してきた。
時代がそうさせるのか、ヒーローあるいは怪獣というモチーフが、呼び寄せるのか。
たとえばガンダムにおける富野由悠季のような一人の天才(と敢えて言おう)が作り上げたわけではない、ウルトラマンという「カミ」に向かう現代の集合意識が、そう仕向けているのかもしれない(その点においては、誰もが光になれることを示した『ティガ』の最終回が象徴的?)。

だからこそ、「ウルトラマン」の物語は、時代ごとに、それぞれの"現在"が持つ葛藤を切り取り映し出してきた。
時にそれは、誰も想像し得なかったほど的確に世界を丸裸にする、"寓話"であった。

だけど、どこか遠い星から来たような巨人は、決してそこにある問題の答えは出してくれない。それはこれまでも、これからも、変わることはないだろう。
では、一体、誰が、いまここにある何かに向き合わなければならないのか。



「『戦争と平和』を読んでただの冒険譚だと思う者もいれば、チューインガムの包み紙を見て宇宙の真理を悟る者もいる。」
クリストファー・リーヴが主演していた頃のスーパーマン(1作目)を見ていたら、レックス・ルーサーがそんなことを言っていた(細部はうろおぼえ)。

見る人によっては、ウルトラマンはいつの時代も変わらず、怪獣と超人によるただのプロレスごっこかもしれない。
あるいは別の人にとっては、"大人の鑑賞に耐え得る""アツい人間ドラマ"で、その"人間ドラマ"の割合が作品の評価になるものかもしれない。
あるいは。それはおもちゃ会社の姑息なマーケティングにしか見えないかもしれない。夢に満ちあふれた光の国の物語かもしれない。SFくずれのお話かもしれないし、"科学的におかしな""ツッコミどころ満載"の"ジャリ番"かもしれない。かわいい男の子が出てくる萌えドラマかもしれないし、組織における人間のあり方を問うものかもしれない。もしかしたら"教育番組"だと思いつづけている人もいるだろう。

多種多様な見方のどれもが正しい、なんてとんでもないことを言うつもりはない(そんなことありえない。というか、いくら価値観が多様と言ったって、この場合大半は何かおかしい気がする)けど、そんなんじゃ、だめじゃん、と正直思ったり思わなかったり思ったり。
かといって、ぼくの見方が正しいなんて言うわけでもないし、宇宙の真理どころかガムの包み紙のサイズすら測りきれていないのだけど。


まあ、べつにウルトラマンなんて、娯楽作品としてのんきに楽しめればいいと思いますが。(と敢えて言っておく。)
ちゅーか、ただのおもちゃ屋の子供番組だしね。
(↑さんざんここまでいろいろと書いてきたけど、たぶん全体的なところでの反応とかは期待できない。だけど、下手するとこういう部分にのみ"アツく"反応しがちなのが、特撮ファンのやばいところだと思う。今回はそんなことありませんように。)


[とりあえず今のところ、おわり]
→[第一回]
→[第二回]
→[第三回]
→[第四回]
→[第五回]

○[2004-2005:ネクサス:時代の閉塞感:善と悪:光と影:メタフィールド:受け継がれる光:共存なき切実さ]
コスモスから約2年後、『ウルトラマンネクサス』の放送が開始された。

それまでのウルトラシリーズとは「一風変わった」「斬新な」「ハードな」とも表現されるその物語は、まず怪獣の描かれ方そのものが、旧作とは一線を画していた。

特に初期や90年代の怪獣たちは、怪獣自身があらわれる「場」と多少なりともつながりを持ち、そのつながり自体が、たとえば破局であり進歩に伴う危機の物語を象徴していた。また後には、怪獣と登場人物との関係性が、「人間ドラマ」と称される物語をつくりだしたこともあったかもしれない。

だが、ネクサスに登場する「ビースト」たちは、そもそも「場」や「人」との物語上のつながりを一切持たない存在、そして、自らの物語をも一切持たない、「物語的に断絶した」怪しい獣であった。(※ちなみに、それらは人間の恐怖や不安を象徴するような存在だった気がするけど忘れた)
そんな怪獣とウルトラマンが戦うのは、「メタフィールド」あるいは「ダークフィールド」と呼ばれる閉塞空間。
ネクサスで語られたのは、既に人類と何らかの寓話性を持った怪獣との葛藤の果てにある調和などではなく、単に獣を「駆除」するだけのウルトラマンの、果て無き死闘でしかなかった。
そしてネクサスの物語は、全ての「ビースト」や"悪"のウルトラマンを操っていた"悪"の象徴とでも言うべき「ダークザギ」と、ネクサスの進化系であり"善"の象徴であるかのような「ウルトラマンノア」の、善と悪、光と影の戦いに回収されてしまう

こう書いてしまうと、ただの勧善懲悪ものにしか見えないが、しかしネクサスの戦いは、単に勧善懲悪という一言に回収されるだけの安易なものだったのだろうか。

たしかに、直近の作品で描かれたような怪獣と人類の「共存」はどこにもない(かといって、前述のようにウルトラマンコスモスの「共存」が本当に共存であったのかどうかといえば、それは大いに疑問ではあるが)。同様に、現実の世界にも、実は「共存」の可能性が(建前としてすら)なくなってしまっていたのかもしれない。
同時多発テロ以降世界に問われたのは、「正義」か「悪」かの二者択一。既にそこにある「悪」、そこにある「破局」は、正義の力が打ち滅ぼさなければならないものであった。そこに調停者は必要ない。
ただ正義さえあればいい。そんな風潮が世界に溢れた。
その風潮を反映するかのごとく出現したような、悪の「ビースト」と、それを撃滅する「ウルトラマンネクサス」。

しかし、そもそも、中二病の青少年が好きな(もちろんぼくも好きな)、正義の多元化だとか、主観によっては正義と悪が云々だとかいうことですらなく、怪獣と人類の葛藤に、正義や悪の観念なんてほとんどなかったはずだ。
悪を体現したような宇宙人が出る事もあったし、ウルトラマンは絶対的な善を象徴する存在であるかのように語られもするが、しかし、怪獣という存在は、決して悪ではなく、だからこそ「葛藤」も「共存」も、リアリティを持って語られることが可能であった。

だが、ネクサスに登場した怪獣は、意思も寓話も持たないようなただの「悪」のケダモノであり、ひたすら駆除されていった。
悪であれば容赦なく滅ぼしてもいいという姿勢は、実は前述のようにコスモスも持っていたものであったが、世界がその傾向を強めるのと同様に、ネクサスにおけるその姿勢はコスモス以上に徹底されていた。もはや「ビースト」が何者であり何を目的としているかなんて関係ない。悪であるから倒す。その果てに、純粋悪たるダークザギを、純粋善たるウルトラマンノアが打ち砕く最終章が待っていた。
そこに、人間と怪獣との共存はない。「正義」と「悪」は、決して相容れるものではない。

ウルトラマン、仮面ライダー、あるいは数々のアニメーション作品の中で、揺らぎつづける「正義」と「悪」の概念。何が正義で何が悪かなんて一概に言えないことは誰でも知っている。しかしそれとは逆行するように、現実の世界は、強固な「正義」と「悪」の価値観を見定めようとし、そしてなぜか、大衆はその風潮に従いつつある。
その中で、ネクサスは敢えて「正義」と「悪」の価値観を物語の中心に取り込み、しかし、かつてコスモスが「悪」に力を振るう事は肯定し予定調和的破壊を続けていたのとは異なり、ただその苦悩を、自らの身に受ける道を選んだ。

"正義"の価値観がいびつなものになろうとする世界。
そこに問題提起する方法として、多元的な正義の価値観を提示する物語もあったかもしれない。
だが、ネクサスはその道を選ばず、ただ閉塞的になる現実を象徴するかのように、メタフィールドという閉塞空間で、怪獣との共存の可能性の欠片もない戦いを続けた。
そこにあったのは、カタルシスでも正義の快感でもない、ただ息詰まるような閉塞感と、傷つき続ける切実さだった。
(もちろん、5人のウルトラマンが複数の陣営に別れそれぞれの正義のために戦う、なんて展開はありえないわけで、ここにウルトラマン自身が持つ息詰まるような正義もあるわけだが。)

かつてのウルトラマンではありえないほどに苦戦し、幾たびも限界まで戦い続けたネクサス。最終回間際でようやくパワーの限界を感じはじめたセブンやコスモスとは違い、毎回のように傷つき、文字通り何度も死にかけた。
「受け継がれる光」として、幾人もの「デュナミスト(適能者)」の身体を渡り歩いたウルトラマンネクサスの「光」は、「魂の絆」といえば聞こえはいいものの、実際には死の限界ギリギリまで適能者を使い捨て、その果てに受けつがれるものであった。
それは、ひょっとしたら、この世界の閉塞感や切実さが、「いま、ここ」だけのものではない、このままでは永遠に受け継がれていくという危機感ではなかったか。

ウルトラマンネクサスが、その身を呈して示し続けてくれたものは、単純な勧善懲悪ではない。正義肯定の物語でもない。ただ、「正義」を名乗る事(べつに本人はそんなこと言っていないが)に伴う地獄と、それを選んだ現実が連なる、共存を認めない時代の切実さ、だったのかもしれない。

[つづく]
→[第七回]
→[第一回]
→[第二回]
→[第三回]
→[第四回]
○[2001-2002:コスモス:怪獣保護:傲慢さ:テロリズム:911:カオスヘッダー:ウルトラマンジャスティス:宇宙正義:怪獣であることの困難]
90年代3部作と呼ばれるシリーズにおいて、一度共闘してしまった人類と怪獣。
ウルトラマンという物語は、怪獣が現れないことには始まらないが、しかし共に戦った怪獣と人間の関係を無視し、ふたたび一方的に人類・ウルトラマンが怪獣を破壊し殺戮する物語をはじめるのではさすがにお話にならない。ガイアの数年後に放送が開始された『ウルトラマンコスモス』では、また新たな両者の関係が描かれることになる。
ご記憶の方も多いであろう、怪獣を保護する人類・怪獣を保護するウルトラマンの誕生である。

賛否両論はあったものの、一応は"暴力的な"番組を嫌う母親たちに受け入れられたことになっているその物語では、怪獣は人間により保護(捕獲)され、南の島の見えない檻の中に隔離され、怠惰な生を貪るだけの巨大な生き物になってしまった。

しかしこれほどまでに、人類の驕りが高まったことがあっただろうか。
物語上では怪獣を共存できるものとして「保護」することになっていたようだが、果たしてそれが共存なのか。
前述の『ウルトラマンガイア』では、同じ地球の上の存在として、怪獣との共存への意思が示されていた。しかし、コスモスのそれは、既に共存ではない。ただ単に飼いならし、あるいは飼い殺しているだけの人類の驕りではなかったか(さらに後の映画版では、もはや地球上にも置かず宇宙の果てに追いやってしまう体たらく)。
かつては、人類の目の前にあった破局の寓喩であったはずの怪獣たちを、動物園の見世物のように「保護」する人類。そしてその片棒を担ぐだけの、最早調停者でも何でもない滑稽な超越者

その滑稽さは、単にコスモスという作品に問題があるわけではない。
時は21世紀を迎え、現実に、人類の驕りそのものが、異様なほどに高まっていたのかもしれない。環境問題もほどほどに忘れられ、戦争はテレビの中の一コンテンツとなり、より卑近な、都市化や人間のコミュニケーションの問題も、携帯電話の普及やインターネットの一般化により、まだそこに新たな破局の可能性を見ることもなく、全能感に近い感覚すら持ちえていたかもしれない人類。
その驕りに満ちた時代の空気が、「怪獣」を「保護」するという傲慢な態度を生み出していたとは言えないだろうか。(それは、ひょっとしたら京都議定書における排出量取引のような、先進国の途上国に対する姿だったのかもしれない。)

あるいは、既に怪獣に寓意的に破局のイメージを表現すること自体が困難、というより陳腐化してしまった現実もあったかもしれない。
単に怪獣が一般化し、誰もそこに破局のイメージを見ることが出来なくなったというだけではない。現実が、怪獣を超越してしまったことも、その要因として挙げられるだろう
それを象徴するかのように、コスモス放送開始から2ヵ月後、9.11と称される同時多発テロが発生する。そこにあった破局は、最早怪獣ではない、怪獣を越えた現実であった。

同時多発テロ以降一部の人間がテロを悪として認識し、躊躇うことなく武力報復や戦争に突入していったように、ウルトラマンコスモスに登場する人間、そしてウルトラマンも、カオスヘッダーと呼ばれる「悪」を据え、その「悪」に対してはより暴力的に戦う事を厭わない道を選んだ。

一見、怪獣と人類との共存をテーマにしたかのようなウルトラマンコスモス。しかし、それは傲慢と欺瞞に歪んだ人間の驕りに過ぎず、そして本来調停者であったウルトラマンが、そこでは「怪獣」を迫害し、「悪」と呼ばれるものを攻撃する急先鋒となっていた。
また、偶然にではあるが、あたかもそのいびつさを代弁するかのように、主人公役の俳優が暴力事件で逮捕され、その後ちょっと不可解な釈放(不起訴)をされたことを覚えている人もいるかもしれない。その結果、終盤の物語は慌しさの中無理矢理に放送されたが、たとえそのような事件がなかったとしても、そこにあった物語は「カオス」そのものであった気がしてならない。

怪獣は共存という建前のもとに追放し、「悪」は迷わず打ち砕く。かつて、ガイアが見せてくれた人類と怪獣の可能性は、そこには見る影もなかった。
繰り返すが、これは単に物語上の構成に責任がある話ではない。少なからず時代の空気が映し出され、それに流されるままに、コスモスは突き進んだだけなのではないか。

一般的には、このコスモスの物語は「屈指の人気」だとか「作品の主な視聴者である子ども達とその親に概ね歓迎され」などと言われることもあるが、もし本当にそうだとしたら、この国の、いや、世界の将来を憂えなければならない日がくるかもしれない。

[つづく]
→[第六回]
→[第一回]
→[第二回]
→[第三回]

○[90年代:ティガ:ダイナ:ガイア:超人の復権:人間ウルトラマン:根源的破滅:大きな物語として、世界を包む破局](ガイアを中心に)
時は過ぎ、ウルトラマンの存在を誰もが忘れかけた90年代。
環境問題は悪化する一方。都市化は進み、そこに集う意思は、60年代70年代など比較にならないほどに荒廃(と、敢えて書こう)。戦争はいつまでもなくならないし、核の脅威も消える事はない。高齢化、少子化、経済的な不安、階層化、犯罪の悪質化、かつては想像もしなかったものまで含めた「破局」の足音が、両手で塞ぎつづけた人類の耳にもようやく響いてきた(と、これも敢えて書こう)。

かつて怪獣の姿で表現された現代が抱える危機は、より深刻なものとしてそこに存在続けていた。
そんなことに誰もが気付き始めた90年代に始まったティガ~ガイアまでの3部作に登場するウルトラマンは、かつてのウルトラマンたちとは全く異なった存在として描かれていた。
一期二期に代表される旧来のウルトラマンのような、M78星雲やしし座L77から、つまり宇宙のどこか遠くからやってきたような、超越者、あるいはよそ者の巨人ではなく、人間が、人間として変身したウルトラマン。それはつまり、かつてのウルトラマンのように、人間と怪獣との葛藤をほとんど無視し、その力で無理矢理救済することが許されないという意味でもあった。
宇宙人のウルトラマンであれば、「なんで遠い星から来た巨人が人間なんかのために戦うの?」という疑問さえ気にしなければ、あとは人類と怪獣がそれまでどういう経緯を経てどのような葛藤を持ち、なぜ今ここで大変なことになっているのか、などということは気にせず戦えばよかった。
しかし、地球人として戦う90年代のウルトラマンにとって、人類の問題は無視できないものであり、人類と怪獣の葛藤は、単にカタルシスの前振りではない、自らも背負わなければならない重荷でもあった。

超越者であり、同時に人間でもあったウルトラマン。その結果、90年代シリーズではウルトラマンとしての戦いの有り様自体が変容を遂げていた。

以下に挙げるのは、人間の兵器が呼び起こした怪獣と、それに対する人間およびウルトラマンの振る舞いを一期/二期/90年代シリーズそれぞれに見た、人間のミサイルと怪獣というモチーフを同様に持ちながら、それぞれのシリーズでの三者の関係を象徴するかのような例である。
(7年くらい前のアレから自己引用 http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-5.html[ウルトラマンの物語構造に関する考察:序章])
『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」。惑星攻撃用の超破壊兵器R1号を地球防衛軍が完成させた。強力な対侵略者兵器にウルトラ警備隊員は喜ぶが、主人公モロボシ・ダン(=ウルトラセブン)は地球を守るためなら何をやってもいいのかと疑問をなげかけ、兵器開発競争を皮肉って「それは血を吐きながら続ける哀しいマラソンですよ」とまで言う。その後、R1号の実験がギエロン星で行われ、ギエロン星は消滅するが、生命がいないといわれていたこの星の生物が突然変異して地球に襲来する。このギエロン星獣は地球で進行しつつある兵器開発競争そのもののもたらしうる破局の観念をアレゴリー的に示しつつ、地球上を破壊し、それに対し地球防衛軍がR1号の数倍の威力を持つR2号を使おうとまですることにより、アレゴリー的物語作りが徹底される。しかし、実験を中止させられなかったことを悔やみつつもウルトラセブンに変身したモロボシ・ダンは、それまでの苦悩などなかったかのように怪獣を倒し、唐突に物語を消し去る。その後参謀が超兵器Rシリーズの開発中止を考えるところでその回は終わるが、結局それ以前の人間の葛藤は消し去られたまま意味を為し得ていない。

このセブン第26話と同様、兵器による破局の脅威が語られた怪獣が第二期シリーズの『ウルトラマンT(注:タロウ)』第24話「これがウルトラの国だ!」・第25話「燃えろ!ウルトラ6兄弟」に登場する。この話に登場する怪獣ムルロアは、某国のトロン爆弾(人類終末兵器)の実験が行われたムルロア星から地球に襲来する、という第二期には珍しくアレゴリー的物語性を背負った怪獣であり、地球全土を黒煙で覆い闇にするその力はまさに破局の観念にふさわしい。しかし、サブタイトルを見てもわかるようにこの物語の主体はムルロアにはない。一度はウルトラマンタロウを倒したその脅威も、すべてはウルトラの国を描くための小道具に過ぎなかった。第25話でテレビに初登場するウルトラの国に戻ったウルトラマンタロウは、そこで他のウルトラ兄弟との6重合体を経てウルトラの国のシンボル、宇宙の平和を守るウルトラの国の中心にあり宇宙のあらゆる平和を作り出す「ウルトラベル」を手に入れると、地球に向かいウルトラベルでムルロアの黒煙を消し去る。この時人間の行動は、怪獣に直接新兵器AZ1974をはりつけ爆発させる、という隊員の勇気ある行動に重点が移行し、結局トロン爆弾を使用したことやその脅威について語られることはなく、物語の最後に至ってはウルトラ兄弟のあだなを持つ6兄弟が怪獣により両親を失っても元気に暮らしている姿が示され、アレゴリー的物語性を背負って出てきたムルロアはシンボル的世界観と人間ドラマに物語の重点を奪われた形になった。

以上、両者に共通して言えるのは、人類の進歩(この場合は兵器開発という負の面の進歩だが)がもたらした破局が、外部からの救済により本来継続されるべき人間の問題とともに物語構造から排除されているということである。

しかし、そういったに構造に疑問を与える試みが、後のシリーズにおいて行われる。


前章で取り上げた人類の兵器使用を扱った物語は、平成版ウルトラシリーズにも登場する。『ウルトラマンガイア』第38話「大地裂く牙」で使用される地底貫通弾は、地中深く眠っている地球怪獣を地上に出現する前に殺してしまうための兵器であるが、結局主人公はその使用を止められず遂に発射されてしまう。しかし怪獣を殺すには至らず、眠りから覚めた怪獣ティグリスが傷つきつつも地上へ出現する。ここで変身し容赦なく殺してしまうのがかつてのウルトラマンであったが、ウルトラマンガイアは変身しながらも、なす術なくただの傍観者となってしまい、人類により葬り去られた怪獣を地中に戻すだけである。かつてのような外部からの半ば強引な救済がここには存在しない。

(ちなみに、この後に続くガイア第44話 『宇宙怪獣大進撃』では、怪獣がやってくると目される惑星への"ワームジャンプミサイル"を打ち上げようとする人類に対し、ウルトラマンガイアがミサイル発射をついに制止した、と思うけど記憶がアレなのでよく覚えてません。ネットで見てもきちんとした解説とかないし。ひとまず詳細は保留。)

第一期では悩みつつも結局は問答無用で怪獣を倒し、第二期では完全に怪獣の寓話性は無視したウルトラマン。それに対し、ガイアにおいては、人類が傷つけ目覚めさせてしまった怪獣に対し、まったく成す術がないウルトラマンの姿が登場する。

そこに、かつてのような輝ける純粋無垢な銀色の巨人はいないかもしれない。
しかし、単に全てを救済(今更だが、これは怪獣の命を救うだとかいう意味ではない)しひたすら戦いつづけるだけではない、自ら葛藤しそこにある破局に立ち向かおうとする「人間ウルトラマン」(と呼ばれるもの[場合によっては、"人間ドラマ"中心となり家族もでき、より"人間的"になった第二期シリーズのウルトラマンを「人間ウルトラマン」と呼ぶこともあるようで、この呼称自体どうかとも思うのですが、便宜上今回は90年代をそう呼んでいます])が、そこには存在した。
それは、問答無用に怪獣たちを破壊することでとりあえずの平和を見出したかつての宇宙人とは違い、常に怪獣たちとの共存の道を模索しようとする一人の人間の姿でもあった。

だが、その姿をあざ笑うかのように、大いなる破局が、物語を包み込む。
根源的破滅将来体。
最早世界を包む破局の可能性は、一体の怪獣に寓意的に収めることができないほどに巨大で絶望的なものだったのかもしれない。これまでは怪獣一体にその都度収められてきた破局の寓話が、「根源的破滅」という大きな物語に回収されていた。

そして、その「根源的破滅」のイメージを体現した根源破滅天使に対し、これまで幾多の葛藤を繰り返しつづけてきたウルトラマン・怪獣・人間が共に戦うことで、大いなる破局を回避する。

それは、巨大な力で全てをねじふせる銀色の巨人でもなければ、兄弟で力を合わせて巨大な敵を打ち滅ぼすファミリーの物語でもなく、時に葛藤し、時にそこから目をそらしてしまった人間と怪獣が共存する可能性であった。そこにいたウルトラマンは、本当の意味で、調停者として存在していたのかもしれない。
それは同時に、真摯に環境や戦争、コミュニケーションや人間のエゴが生み出す問題と向き合おうという、ほんの一瞬訪れた時代の空気の表出だったのかもしれない

(ガイアについて、および第一回からここまでは、別項の方が詳しいかも)

[つづく]
→[第五回]
→[第一回]
→[第二回]

○[1970年代前半:第二期:帰ってきたウルトラマン:エース:タロウ:レオ:人間ドラマ:「人」の怪獣:私的な怪獣:強い怪獣:視野の矮小化]
高度経済成長を経て、安定成長期に入った時代。ふたたび怪獣たち、そしてウルトラマンが活動を開始した(第二期シリーズ。『帰ってきたウルトラマン』『エース』『タロウ』『レオ』)。しかし、ここにあらわれた怪獣とウルトラマン、そして人類の、以前と変わらないかに見えたその関係は、次第にその様相を変化させていく。
かつては、人類が持つ物語の延長線上にある破局の概念としての怪獣が、物語の軸となり、物語を動かしていた。しかし、いつの間にか、物語の中心はウルトラマンの側、あるいは人間間のドラマに移り、さらにはそれに並行してウルトラマンの兄弟化、ファミリー化が進んでいた。

たとえるなら、第一期の怪獣は主に「場」との関係性に主体があったのに対し、第二期の怪獣は「人」との関係に重点が置かれ始めた(ような気がする。とりあえずふと思いついたから書いておくけど、どうだろうか。それ以外ではスペック重視というのもあるけど)。人との関係性に基づく怪獣は、人のドラマの引き立て役でしかない。また、ウルトラマンのファミリー化の中で、物語の中心は完全にヒーローの側に移っていた

そこには既に、かつてのように破局の概念を寓話的に有した怪獣の物語はなく、ただ、やられ役、引き立て役としての巨大な獣がいるだけであった。

これはもちろん、単にお話作りの手法が変わったということではない。
かつて、怪獣というフィルターを通して描かれた、様々な問題に対峙しようとしていた人間の関心が、いつの間にか、そこにある「破局」から目をそらし、環境や世界、戦争や平和から、家庭や個人の問題に収縮してしまったこと、社会が持つ視野の矮小化こそが、怪獣と人類の関係にも大いにあらわれていたのではないだろうか。
だからこそ、なまけものの怪獣や、もっとくれもっとくれと食べまくる怪獣、あるいはもちをつくウスやなまはげの怪獣でさえ、私的なものに関心のベクトルが向かった時代をリアルに映し出したものとして、大きな存在感を持ち得ている
しかし、当然ながらその怪獣と人間の間には、今ここに迫りつつある破局に対峙する試みはほとんどない。そこにあるはずの破局は私的領域の問題に隠蔽され、常に先送りされたまま、解消されることなくただ継続されてしまう。

それは、物語上は一時的な救済を繰り返し続けたかつての救済者、ウルトラマンやウルトラセブンにも責任の一端があるかもしれない。そもそもの問題に対峙する努力からも救済され続けた人類は、いつしか怪獣たちが伝えようとした寓話を忘れ、そこに築かれた表面上の安定の上にあぐらをかき、その後のヒーローの活躍やその家族の物語に一喜一憂し続けた。地球環境の悲鳴を代弁する怪獣の叫び声などより、ウルトラマンタロウと愛犬のハートフルなドラマの方が、はるかにリアルであり、必要とされていた"お話"だった
そして、現実に、人間は迫りつつある破局の足音から耳を塞ぎ続け、その後訪れるバブルやそれに連なる享楽的な時代を生き続けることになる。

ちなみに、その浮かれた時代の中で、ウルトラマンの物語は、単発的に数作が制作されるのみとなり、いつの間にか時代に対する求心力を失っていく。
(ついでながら、80年代を中心に語られるサブカルやオタク文化の文脈の中に特撮が含まれる事がほとんどない理由のひとつには、この失敗があるような気がしてきたけれど、ひとまず今回は置いておく。)

[つづく]

→[第四回]
→[第一回]
○[1960年代後半:第一期:ウルトラマン:ウルトラセブン:ヒーローによる救済:「場」の怪獣:デウスエクスマキーナ]
その後、ついにウルトラマンというヒーローの出現をもって、破局や危機を寓話として背負った怪獣と、それに対峙してきた人類の関係は大きく変わり始める。

第一期シリーズと呼ばれる『ウルトラマン』『ウルトラセブン』においても、そこにある破局の身代わりとして、怪獣が出現することは少なからずあった。
そして、一度現れた問題=怪獣が、それをなんとか解決しようとする科学特捜隊や人間との間の葛藤を収めきれず、ついには大いなる破局を出現させる展開は、たしかに、人間と、そこにある破局との関係を的確に表現したパターンかもしれない。
しかし、現実とは違い、そこには、ウルトラマンがいた。

最終的にウルトラマンにより破局からの救済が与えられる展開は、たしかに、その瞬間の破局からは脱しているように見えるが、しかし、根本的な解決がなされたとは言いがたいその場しのぎの救済でしかなかった。
そしてあたかも永遠に回り続ける万華鏡のように、怪獣による破局とウルトラマンによる救済が繰り返し出現する

破局と救済は幾たびも繰り返されるが、人類の文明が、進歩すると同時に常に破局の可能性を伴っていることは、何ら変わっていない。そしてそれは、ウルトラマンの物語という大きな万華鏡に覆い隠されて見えなくなっていた。
ただ、そこに描かれた人間たちに、迫り来る破局に対峙する意思があったことは、見逃す事の出来ない事実である。
(万華鏡については別項を参照。破局や救済についても詳細は省略。)

[つづく]

→[第三回]
わけあってウルトラシリーズの内容とか怪獣とかについてすっかり記憶がこぼれていたので、ちょっとリハビリ的な意味を込めて誰でも書けるようなものを書いてみました。

全七回くらい。(一度mixiにアップしたのを小分けにしてます←ちょっと修正しながらアレしてます)
最初の四回は昔書いたやつのまとめみたいな感じです。


○[昔の話:ゴジラ:マンモスフラワー:ウルトラQ:博士:進歩と破局:怪獣と人間:葛藤と和解]
1954年のゴジラが、水爆や、あるいは戦争のイメージを寓意的に含んだ存在としてあらわれたことを想起するまでもなく、大昔(1960年代頃)の怪獣たちの多くは、単に巨大なケダモノではなく、その時代に人間が直面しつつあった危機や破局の寓喩であることが少なくなかった。

科学的進歩が社会の進歩にそのまま結びつくと信じられた時代、しかしその科学的な進歩が、進歩と同時に、そこでは怪獣という寓喩で表現される脅威を生み出す。
たとえば公害や環境問題。都市化やそれに伴う人間関係の変化。冷戦時代、あるいは太平洋戦争の記憶が残る中で今よりはるかに現実味を帯びていた戦争や、兵器の脅威。そんな具体的なものだけではなく、漠然とした進歩に伴う破局の概念、あるいは、それに伴い大きく変動する社会状況に対する不安。それこそが怪獣のイメージには付随していた。

今にして思えば不思議なことかもしれないが、かつては怪獣があらわれたところで、それに対峙するヒーローは存在していなかった。ヒーローではなく人間が(後には怪獣同士が、だが)、怪獣と常に対峙していた。それは同時に、怪獣が寓喩的に抱える破局に対し、人間が葛藤し続けることでもあった。
そして、ウルトラマン以前、怪獣を倒し得るヒーローが登場するまでの時代は、ひょっとしたら、人間が、数々の問題に対して正面から向き合うことができた最後の時代だったかもしれない。

たとえば『ウルトラQ』制作上の第一話、マンモスフラワーの物語。
東京のど真ん中に、ビル群を突き破り毒を撒き散らす巨大な花(古代植物)が出現。
まだ科学特捜隊やウルトラ警備隊という概念すら出現していなかったその現場では、それを貴重な研究材料として保護すべしと考える「博士」と、人を襲い毒をふりまく以上早急に排除すべしとする「博士」の真摯な葛藤があった。

後のウルトラマンやそれに続くシリーズにも「博士」が登場し、物語上重要な位置に立つことも多いが、それは単に科学的説明役であったり、あるいは科学のマッドな面を提示するものではないだろうか。
しかし、まだマンモスフラワーの時点では、「博士」とそれが象徴するサイエンスは、葛藤を繰り返し、しかし人類自らの力で、進む道を模索していたのかもしれない。物語上のではない、現実に世界の科学そのものが、人類の進歩とそれを破局に導き得るマッドなものの両面を持ち、そこで一進一退の葛藤を繰り返しながら、前に進んでいた。
輝ける宇宙開発のロケットが同時に兵器開発に続くものであり、次代のエネルギー原子力が原子爆弾に連なるものであったように、ここでの二人の博士の葛藤は、怪獣を問題としながらも、しかし、60年代の輝ける科学とマッドな科学の葛藤を代弁したものであったことは、言うまでもない。

[つづく]
→[第二回]
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