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先日書いた、漱石の文章が日本語が乱れている/いない、あるいは変化している/いないの基準になりがちな話は実はどうでもよかったのですが。

○○が言っていたからこれは正しいんだ、○○にそう書かれていたから真実はこうなんだ、みたいなことを平気で言っちゃう人が、よくいます。

幼稚園や小学生くらいだったら、センセイが言っていたから、お母さんが言っていたから、なんてのはたくさんいると思いますが、まあ、それはいずれ大人になるまでに、先生も親も大抵の場合は、無知蒙昧なるただのバカ、だとわかるものです。ですよね?少なくとも、常にその言動が絶対的に正しいものではない。

あるいは少し上の世代になってくると、テレビで言っていたこと、新聞に書かれていたことが、正しいの基準としてある。
もちろんそれは、ぼくら世代(20~30代くらい)にもわりと多めに残っているのだけど。

でも、ここ数年で言えば、ネットやら何やらの普及とともに、テレビや新聞、本などで言っていることにウソ大げさ紛らわしい情報が満ち満ちていることは周知の事実となる一方で、ネット、特に有名ブロガーなんかの言う事が、絶対的に正しい疑うべくもない真実のように受け入れられていますよね。

というか、ネットの情報もゴミだらけ、という認識はたしかに多くの人にあると思います。ただ、そのゴミの中に正しいことや貴重な真実があるという認識も同様に広く存在し、そしてそれは、人気ブロガーの大人気ブログであったり、自分と同じような考え方をする無名のなんちゃら君だったり。

たとえば日本語の変化に関して漱石がなぜか基準として引き合いに出されるようにして、ブロガーのなんちゃらさんみたいな人の書いたことが、きっと普通に歩いてたらそのへんのおっさんなのに、「正しい情報」「真実」「啓示」のように語られる。いや、そういうこともあるらしい。

「テレビとか大手メディアはウソを言うことを知りながら、大手サイトはウソを言わないと考える中途半端な大衆」http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-69.html
というのは、ブログがここまで普及するより少し前に書いたことなのだけど、これは当時一部で流行っていた(?)テキストサイトと呼ばれる世界では、「なんちゃらさんが言ったこと」が特に裏づけもなく権威を持ちつつあった状況に、ふと疑問が湧いてしまった結果、出てきた言葉でした。

それが今では、やはりさらに悪化、というのが適切でしょうか、ブログやら何やらの広がりとともに、なんだか大変なことになっている気がします。
ブログのクチコミマーケティングももちろんそうだし、そんな一部の話ではなく、もっと何と言うか広いところで。
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日本語の乱れとか日本語の変化というときに、よく夏目漱石が出てくる気がします。たとえば漱石がこう書いているから、この(現在乱れているといわれる)表現は実は昔から正しかったんだとか、そんな感じ。

たしかに、素人目に見ても、日本語業界(?)における漱石の功績というのは大きいのかもしれません。
たとえば単語レベルで見ても、ちょっと調べてみると現在日常的に使われている言葉の中に、漱石の造語や当て字というのが実は沢山あって、たとえ無意識のうちにであっても、日本語を使う上でぼくらが漱石に受けた価値には、兎に角計り知れないものがあります。

だけど、漱石が使っていた言い回し、というのが必ずしも現代において日本語を語る基準となってよいものなのか。

べつにぼくは、日本語乱れてる派ではなく、どちらかといえばむしろ乱れてないよね派なんですが、単純に、乱れてないよねという時に、漱石を引用するだけで片付けるというのには、ちょっとだけ疑問があります。

当時の日本において、漱石の表現が完全に「正しい」ものであったかどうか、という裏付けもなく、しかし漱石が使ったというだけで権威になる。

なんだか今日は、我ながらものすごく間違った、あるいはいつにも増して的外れな事を言っている気がしますが…。というか、漱石が正しいという裏付けとか根拠とか、そういうの、実はたくさんありそう。

まあ、でも、「漱石がこんな変な使い方した」ではなく「漱石が使っているからこの表現は正しい」と言われる、それほどの存在になれるって、すごいことですよね。

まあ、イマドキは自分基準で自分自身がそういう「偉大なる」存在になってる人とかたくさんいますけど。
七夕が近づいている今日この頃。
街を歩けばそこかしこに、多くの短冊を下げた笹を見ることができます。

まあ、現代人、しかもオトナたちが下げたお願いごとなんて、大抵は俗物すぎたり、狙いすぎたネタだったりすることが多いのは、少し大きな神社の絵馬と同じような状況なのですが、そんな楽しめる短冊の他に、毎年のように、どこの笹にも見受けられる願いごとの一つとして挙げられるのが「世界平和」だとか「世界が平和でありますように」だとか、「世界人類が(以下略)」だったりします。

実はぼく自身小4くらいまではそういうセカイヘイワ的なことを書いていたのだけど(かつてぼくが通っていた小学校では、なぜか毎年のように、クラスで短冊に何やら書かされたりとかしていました)、小4のときに小6の優等生っぽい女子が得意げに同じことを書いていたのを見て急に冷めてしまって、それ以来、世界平和なんてつまんないことは書いていません。

けど、まあ、べつに世界平和と唱えること自体を非難したいんじゃない。
じゃあいったい何がこうも気に障るのかといえば、たとえば世界とか平和という言葉を並べるだけで実際には何もしないどころか、その何もしなさが世界を悪い方に進めているかもしれないことに気付かないことであったり、あるいは単に世界平和と言っている自分が好きなだけじゃないか、という部分であったり、実は大して「願う」ような思いもないから、その場しのぎに世界を云々なんて本当にてきとーなことを言っている空しさだとか、セカイ系的なセカイしか持っていない人間が、その自分=セカイ間でのセカイの平和しか意図できていないことだったり(そういえば最近浅草寺で見た絵馬には、「自分が知らない人たちのことは思いやれないけど」と注意書きした上で自分と身の回りの人の幸せを願うものがあって、それには唸ってしまいました。それはおそらく非常に正しい認識で、実際世界平和と記述する人であっても、一個人で幸せを願うことができる意識の範囲なんて、非常に限られているものですよ、きっと)、と、まあ、そんなあれこれもあったりするんですが。


まあ、そういうものを見るたびに、言葉って、弱いなあ、と思います。
「言葉」自体は、もちろん弱くないんだろうけど、なんというか、使われ方が、非常に弱小で。その「世界平和」のように、使いどころによってはきっと強い言葉なのだろうけど、そんなことさえ忘れてしまうほどに、「言っときゃいいんだろ」的なもののなんと多いことか。

たとえばこないだ書いた「みんなが主役」なんていうのもそう。
まあ、これは、「"自分だけ主役"がたくさんあつまっただけ」のものや、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」であったり、あるいはスポーツ、たとえば野球で「みんなが主役」とか言ったって、大抵の場合は、うーん、やっぱピッチャーだよね、みたいなものであったりと、それでも、そう言っとけばキレイに見えないこともない、使い方としてすごく便利なものでもあるのですが。

あるいは、豆腐を豆富と書くとか、ゴミ(塵・芥)を護美と書くとかね。漢字の読みを利用した欺瞞。それって、うまいこと言っているようで、実際はみんな大好きな「日本語の乱れ」ですよね、みたいな。

あ、その「日本語の乱れ」ってのも、言っときゃいいんだろ的な言葉ですよね(昔そういうこと言ってくる人もいた)。
てめえがどうかはさておき、「それって日本語の乱れだと思うんです」とか言っちゃえば、実際に問題なのは言葉が乱れているか否かではなくても、あたかもそれが問題であるかのようにさえ見えてくる。言った者勝ちすぎる。
ちなみに上で挙げた漢字の読みを利用した欺瞞も、「日本語の乱れ」ですよね、って敢えて書いたけど、問題は本当はそこじゃないんですよね。べつに問題ってほどでもないんですが。

日本語の乱れで思い出したけど、「言葉狩り」ってのも、(もちろん正しい使われ方をすることも少なからずあるのだろうけど)そう言うだけで、あたかも自分が日本語の擁護者になったかのように錯覚することもできる便利な言葉ですよね。言葉狩りということで逆に言葉そのものを狩ることすら厭わない(日本語の変化や差別語に関する強者の理論の話)。
↑これ読み直したら、文脈って言葉も、同じ流れのなかでとても便利な言葉になってる。

日本語の云々とか文脈でさらに思い出したけど、(これもこないだ書いたんだけど)「主語がない」とか得意気に言うバカもひどいものですよね。
たしかに、日本語って主語はかならずしも必要じゃないし、毎文毎文主語を入れていたらただうざいだけ。だから、大抵の文章には「主語がない」のも事実で、それゆえに「なんとなく違和感があるなあ」という文章に大して「主語がない」と言うのは、事実認識としては十中八九間違ってはいない。だけど、そこに主語が入ったからと言って、実は十中八九大した意味もない。エンジンもタイヤもなくて動かない車に「カーナビが足りない」とか言うようなもので、たしかにガソリンもないんだけど、問題はそこじゃない。それじゃ動かん。
ほんと、言っときゃなんとか偉そうな態度は取り繕える、というだけの言葉ですね、これは。傍で聞いている人には十中八九バカがばれるけど。

さらに日本語の乱れというのでなぜか思い出したけど、美しい国、とかね。言ったもの勝ちすぎる。美しい国もだけど、骨太の方針とか。痛みを伴うなんちゃらとか、聖域なきなんちゃらとか。それにしても美しい国って、ほんと、言ったもの勝ちなことをてきとーに言ってるなあ。それってネタなんですか?今更だけど。
もう何もかも言葉ありきで、たとえば骨太であることが正しいかどうかの認識はさておき、まず骨太(って何ですか?)であることが問われるとか、ネタっぽすぎる。ネタなんですよね?

そもそも政治とかそれに似たようなことは(べつに政治じゃないけど)、あんまりこのブログでは言いたくなかったんだけど。なんで七夕の話したかっただけなのに、こんなの書いてるんだろう。
こういう話って、ここまで来るととてもありきたりなので、どうにかしたいんですが、そもそも話自体が言っときゃいいんだろワードという浅く表面的なものなので、如何ともしがたい…。


それにしても、この言葉(の使われ方)の表面的すぎる軽さ。これは、いったい何なんだろう。コピーライターとか、自称コピーライターとか、ちょっと多過ぎるんじゃないですか、世の中に。といってもべつにそういう職業の人を悪く言いたいわけじゃなくて、その中にある、なんかそれっぽいこと言っときゃいいんだろ的なコピーとかが、我慢できなくなってくる。
ぼくはあんまり電車とか乗らないのだけど、たまに地下鉄に乗ると、車内も、駅の壁や柱や改札や、もう、言っときゃいいんだろ的な言葉があふれすぎて。なんでどの広告もキャッチコピーとか出すんだろう。耳ざわりのいい聞こえのいい、そんなてきとーなこと言うだけならやめときゃいいのに。やめてるのもたまにあるけど、その方がいい。


ああ、なんか泥沼になってきたので、話を七夕の短冊にもどします。


小4までは世界平和を書いていたぼくも、前述の急速冷却の後、小5からは「背があと10cm伸びますように」とか、さらにベタなことを書き始めました。もちろん、大して効果はありませんでしたが。

まあ、その身長系も、あるいはそれ以前のセカイ系も、実は特に願いごともない無気力無関心(?)を「ありがち」なお願いごとで覆い隠す、子供なりのいやらしい知恵でしたけどね。
そうか、自分自身が昔からずっと、言っときゃいいんだろ系だったんだ。
こないだ書いた、ラーメンに指入れてくるおばちゃんみたいな人(というたとえ話、いや、フィクションですけど)なんですが、おばちゃん(のような人)が、ますます見苦しい。

以下、ただの見苦しい愚痴です。
前のエントリ([違和感メモ] みんなが主役説(スピリチュアルの前振りとして))では、「ある」とされていた物語の欠如がスピリチュアル化に与えたものを考えたときの話として、以前書いた「みんなが主役」説について、また少し触れたのですが、今回もスピリチュアル派の傾向につながりそうな、小学校的事象をもう一つ見てみます。


「みんなが主役説」と同様に小学生くらいの頃、クラスの係決めってありましたよね。学級委員にはじまり生き物係(飼育係?)だとか掲示係だとか配り係だとか。なんかもう、どんな小さく無意味な「係」でもいいから、とにかくなにがしかの「係」=「役割」が割りふられた。特に小学校低学年とか(みんなが主役説も、小学校低学年くらいのものだとは思うんですが)。もう少し上になると、図書委員とか保健委員とかになるのかな。

なんというか、たとえば一部のスピリチュアル一族であったり、浅草は雷門の前にある新興宗教(このブログでも過去に何度か出したアレ)が、「あなたが生まれてきた意味」がどうしたこうしたと言っているんですが、実際、生まれてきた意味なんて、べつにないですよね。少なくとも、生まれてきただけで意味なんてあるものかよ。

だけど、そこに意味を見いださなければならない人たちがいる。自分がこのセカイに存在することでなさなければならない「役割」が、必要になる、らしいですよ。

そういう考え方って、なんかもう、小学校の係決めとか委員決めみたいなレベルの話だなあ、と思うんですが、どうなんでしょうか。
小学校の場合、それによって自主性をなんちゃらかんちゃらとか、集団の中で自己のなんちゃらをどうするだとかいう名目があるんでしょうが、その考え方のまま、大人になっちゃったんだろうか。


小学生って、まだみんな世界がきちんと見えていなくて、というか、自分とセカイの間にある社会とか世の中というものがよくわかっていなくて、せいぜいクラスとか学校とか、あるいは家族、その向こうに「セカイ」があるような「感覚」だったように思います。賢しい(さかしい)子供たちは、知識として「社会」の存在を知っていたというかもしれないけれど、そんなの知識にすぎなくて。大抵の場合は「セカイ」系的なセカイを生きていた。

そんな「感覚」、小学生、それも低学年ならまだ許される。
中学生で、まだそんな感覚でいたら恥ずかしい。けど、まあ、それでもまだ仕方ないというところはある。中二病なんて言葉もあるくらいだし、それはもう中学生の専売特許と言っていいかもしれない(それでも後で気づいて恥ずかしくなるものだけど)。

だけど、いい年した大人になって、いまだにそんなセカイ認識の感覚を持ち合わせてしまった人たちが少なからずいて、特にスピリチュアル派の言説の中に、それはよく見受けられてしまう。

そういう人たちだから、自分の「セカイ」でも、そのセカイにおける「役割」という言葉がリアリティを持ち得てしまったり、何らかの「役割」を提示されることによって、自分の中での「足りなさ」や不安が埋められてしまうのも仕方ないのだろうけど、それって、大人として大丈夫なんだろうか。小学校レベルの欺瞞で満足しているだけですからね。

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まあ、これは、べつにスピリチュアル派だけの話ではなくって、たとえばスピリチュアル派ではない「普通の」サラリーマンだとかそういう人たちでも、今自分のしている仕事だとかそんなものに、セカイにおける「役割」だとか自分が生きる「意味」を見出す事は珍しくないことだと思います。たとえそれが幻想にすぎないとしても。

ただその「役割」的な幻想を抱きながら、それを普段の生活に見出せない、あるいは現状に満足できない人もいる。そこで、実際はまったくもってナンセンスであっても、「高尚な役割」を必要とする人の受け皿として、スピリチュアル的な何かが機能しているとも言えるわけで。

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ついでに言うと、上の方で書いた「生まれてきた意味」なんだけど、自分が「セカイ」に対して何ができるかって考えている善男善女ならまだ(比較的)マシなんですよ。

だけど中には、他人、それも、たとえば自分に対する態度があまり好意的でなかったり、いつも悩みのタネになっている他者が「自分に対して」どういう「役割」を持って生まれてきたか…なんて、とんでもない(けど彼らにとってはとても自然)考え方にいっちゃう人もいるようですからね。「あの人がいつも私に迷惑なことをするのは、私の魂の成長をなんちゃらかんちゃらという役割なのだから感謝して優しく見守りましょう」とかそんなの。

自分がセカイに直結しすぎるのも、ここまできたら尊敬しちゃうぜ、ってくらいなんですが、これは、魂のおせっかいだ。スピリチュアルハラスメント、スピハラと言っていいかもしれない。

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スピハラ(ためしに検索したら何件か出てきたので、普通に使います)はさておき、単にスピリチュアル派といってもいろんな流派があるし、濃さによっても内容も変わってくるんですよね。多少は人間社会に溶け込めるものもあれば、既に見えないお友達(会話可能)が100人くらい常駐している人もいる。スピリチュアルの視点で見れば…と考え方だけのものと割り切る人もいれば、波動によってセカイを変えちゃった(と言い張る)強者も珍しくない。

このブログや、あるいはmixi日記では、単に「スピリチュアル」だとか「スピリチュアル派」という言い方でまとめて考えてきたし、おそらく世の中の多くの反スピリチュアル的言説もそうなのだと思うけど、いつまでも単一のものとして話すのでは、多少の差異やズレのみを以て「自分はお前の言うものとは違うからお前は間違ってる」とか、それこそアナタ=セカイなのですね、みたいな物言いすらされかねない。
自分のことを言っていないから間違ってるって…。べつに言われたわけじゃないけど、そう思われている気はします。

仏教だってチベット仏教と日本仏教は違うし、同じ日本でも、たとえば浄土真宗と日蓮宗、あるいは仏教をもとにしたと言い張るどこかの新興宗教では全然考え方も歴史も違ってくる。釈迦の教えを純粋に研究したところで、現代仏教の信仰者の生き様が見えてくる気もしない。
スピリチュアル派も、実はある程度流派(宗派)を分けて考えるべきなのか、それとも、それでも敢えて、ひとつの「スピリチュアル」的な何かとして、話をすすめるべきなのか。

と、どちらにしてもこう書いたところで、次からは各派閥ごとに…というわけにはいかないのだけど、一応覚え書き程度に。
イマドキスピリチュアルを底辺で支える要素の一つとして、「みんなが主役」のような学校教育的言説があったんじゃないかな~くらいのことを書いたことがあったんですが、↓

ひょっとしたらぼくらは、「物語的な何か」を与えられすぎたのかもしれません。
「個性」が重視され、うっかり「みんなが主役」(←Googleで十万件以上出てくる言葉です)だなんて勘違いさせてしまうようなのんきな学校教育を経て、個々の人生は、個々の物語を持たなければならなかった。

だけど、そこに思い描いた物語はなかった。

物語の存在しない断絶感。
今も、これまでも、これからも、物語のない自分の人生。

それはそれとして、今を幸福に生きられるのであれば問題ないでしょう。おそらく大抵の人はそうしていると思います。

それでも物語を必要とし、たとえば過去の栄光という「物語」を語り続けて死ぬまで生きる人もいるでしょう。ガンダムSEEDにはまったのは逃避だったと語るガンダムファンの女性を以前NHKで見ましたが、そうやってフィクションの「物語」に走ることも可能です。また、決して自分では届かない世界、いかにも「物語」のありそうな人々、タレントや社長やアイドル、そんなところに思いを重ねる人もいるでしょう。

この物語なき物語の時代、それでも何かの物語に寄りかかって生きる人は少なくないはずです。

そして、この物語なき物語の時代の、自らに連なる物語の一つとして、前世や魂の「物語」が、江原的な感覚とともに異常な浸透を続けています。仏教でも神道でもキリスト教でもないようなちぐはぐなものでありながら、しかしぼくらの文化的遺伝子にぴったりのそれは、確実に今でも勢いを増している

ファーストコンタクト[1] はじまりは、江原あるある(やらせ)問題日記。

ちなみに、ぼくが通った小学校では、べつに「みんなが主役」なんてムチャクチャな言葉はありませんでしたが。
というか昔は誰もそんなこと言ってなかった気はするんですが。

ただ、小学校ってのは、すくなくとも今スピリチュアルに影響されている世代以降であれば、「みんなが主役」的な、表面的ロジック(ロジックでもないけど、言葉いじり?)の影響は、どこかで受けていますよね。

というか、ためしに検索してみると気づくのだけど、学校どころか、普通にオトナの人たちのあつまりであったり、あるいはお役所関係(地方分権とか)でも、平気で「みんなが主役」とか言ってるの、たくさんありますからね。

もちろん、「自分だけ主役」がたくさんあつまっただけの「みんなが主役」(スピリチュアル的)と、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」の「みんなが主役」(オトナ社会的)は、結構違うものだろうけど。


今日は最後の一文だけが言いたかった。

今回はほんの前振り。
次回は、みんなが主役と同様に、スピリチュアル派的な考え方に影響を与えている、あるいは関連が深いと考えられる、ある小学校的事象をとりあげる予定です。
(つまり、スピリチュアル派ってのは小学生レベルだよね、という話になるかもしれません…)
レトロフューチャーという概念がある。

ダサ未来という言葉もある。

昔の人たちが夢想した「未来」。それはやってこなかった「未来」として、レトロフューチャーだとかダサ未来として今に伝わっているのだけど、果たしてそれって、ただ単に昔それを夢想した人たちの感覚がハズレだっただけなのか。

それとも彼らがデザインした「未来」の姿・予言が、感覚的に、たとえば60年代・70年代の「流行」が時がたつごとに古臭く見えてくるのと同様に、「未来」予想図ではありながら、同時に「過去」のものとなる中で、現実の社会が、その古さの漂ってしまった「未来」像から無意識にであれ、かけはなれるように進んでしまったのではないか。

「未来」のイメージは、未だ来たらざるもの、まだ見ぬもの、であって、決して過去ではない。

しかし「未来」予想は、それが世に出た時点で「現在」となり、その瞬間から「過去」となっていく。

つまり、当然「未来」のイメージであっても、そこにはそれが考えられた「現在」の在り様が反映されるわけだけど、たとえ「現在」を乗り越えた「未来」イメージが出てきても、それが受容された「現在」が過去になる中で、その「未来」イメージも「過去」イメージとなってしまう。

(なんてことは、きっと過去に何百万人もの人が考えてきたんじゃないかとも思うけど…)

そうなると、そもそも「未来デザイン」なんてしないほうがいいのではないか。
とすら思えてしまう。どんなに先鋭的・未来的なデザインであっても、三日で現在になり、過去になってしまう。そしてぼくらの未来への欲望は、「まだ見ぬ未来」へと向かう。一度世に出た未来は、既に見た過去でしかなく、その姿での未来の可能性を閉じたものにしていく。

つまり、「未来」的なるデザインが世に出るほどに、その、世に出た「未来」の可能性が消えてしまうことで、実際には、「未来」の可能性はひたすら狭くなってしまうのではないか。

時代の行き詰まり、閉塞感は、そこからやってくる?というのは蛇足か。

=====
※補足:
文中で言明しなかったので誤解されそうですが、ぼく自身はレトロフューチャーやダサ未来であったり、その流れを汲むものは、大好きです。大好きであるがゆえに考えてしまった事が、上の文章です。
古いジョーク(たぶん)の一つに、古ぼけたラーメン屋でラーメンを注文したところ、運んできたおばちゃんの指がラーメンに浸かっていて「おばちゃん!指!」と指摘すると「平気平気、熱くないよ」と返される、というものがあります。

かつて、通っていた高校の目の前にあるラーメン屋の伝説として聞いたのが最初だったのだけど、『帰ってきた時効警察』の最終回でも言われていたし(話がつまらない男の話として)、かなりベタなネタのようではあります。

気になってちょっと見てみたら(参照:Google)、単に「笑い話」の一つとして挙げているところもあるのだけれど、時には具体的な場所や店名を挙げつつ、自分が体験した「実話」として、日本各地どころかアメリカの事例(それも公的なサイトで)が紹介されているなど、なんというか、都市伝説的な様相を呈しているようで。
あるいは一部の人間の脳というものは、そもそもそういうふうにできているのでしょうか。

少し前に書いたアレではないけれど、こんな感じかな。
「この世には、二種類の人間がいる。ラーメンに入った指を指摘された時、謝って新しいラーメンを持ってくる人間と、熱くないよ~と"心配"してくれた客の優しさに喜ぶ人間だ。」みたいな。さらに、「そしてオレは、決してラーメンに指を入れない人間だ!」とか言うと(てめえで二種類とか言ったくせにね)ちょっとかっこいいですね。大した事言ってないのに。




ラーメンの指といえば、今身近に、ラーメンに指を入れて運ぶおばちゃんのような人がいて、実は本当に困っています。そう、本当に、困っている。

お願いだから指入れるのやめてくれと何度頼んでも、熱くない熱くないとまた入れてくる。下手すると、じゃあ今度お前もラーメンに指入れていいよ、なんて的外れな事を言う。等価交換というものが、(単にデータ上は等量のものに見えても)共通する価値観の中でしか成り立たないということをしっかり実感することはできたけど、そのために失ったものが大きすぎるわけで。

すごく大切にしていた価値観や関係性や、あるいはずっと大事にしていた、もう手に入らない限定版のスタバの紙コップ(勝手におばちゃんのような人の鼻水入れにされて最後にはまとめてゴミ箱にポイ)。本当はもっと大切なものをダメにされているのだけど、それはちょっとここには書けません。

無自覚なおばちゃん(のような人)のおかげで本当にやってられないのだけど、実は困るのって、単純に被害が出ていることだけではありません。

一つは、おばちゃん(のような人)は自分のことをかわいいいたずらっこくらいにしか思っていないこと。いい年したおっさんなのに。これは普通に気持ち悪い。

もう一つ困るのが、おばちゃん(のような人)がラーメンに指を入れて熱くない(ような行為をする)というのは、被害者にしてみればひどく悲しくつらい出来事であっても、傍から見ている他人にしてみれば、とても笑えるギャグにしか見えなかったりすること。『サラリーマンNEO』のコントの一部にも通じるものがあります。

まあ、ただの愚痴だけど全部フィクションです。念のため。
いつも行くスーパー(秋葉原にある)のレジのアルバイト(女子)が非常にアニメ声アニメ口調という点について(それも二人。しかも二人同時にレジに入っているときは、それぞれのアニメ語尾が競い合うかのようにさらに加熱する)、声優学校のライバル二人を主人公にした妄想物語(地味な苦学生でアキバにいながら時給の安いメイドカフェではなく敢えてスーパーのレジを選んだ、夢と才能に満ちあふれ演技派声優を目指す主人公と、ちょっとかわいい上にお金持ちで何不自由なく育ったが、アイドル声優デビューを目指して入った声優学校で出会った主人公に衝撃を受け、彼女を追いかけるようにレジのバイトに入ったライバルの織り成す、恋の鞘当てありアキバノンフィクションドラマありの青春声優サクセスストーリー)を書いていたのだけど、しばらく放置しているうちに、いつのまにかどす黒い枕営業の実態みたいなのがどんどん出てきて大変なアレで、そんな平和な妄想書いてる場合じゃなくなってしまっていました。

事実は小説より奇なりとはよく言ったもので。べつにぼくだって「銭」の声優の話くらいは読んでいましたが。
mixi日記から移行です。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=464142789&owner_id=26047



ごめん、また江原。
2007年06月13日 02:41


また江原ネタだけど勘弁してください。江原系ニュースに言及日記書くのが趣味みたいなものなので。

俊輔の守り神はヤタガラス?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=230119&media_id=8


前の日記(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=460883207&owner_id=26047 これも江原関連)では、言及日記を俯瞰するだけで、いろんな流れとかパターンが見えておもしろい(笑えるという意味ではないです←詳細は前回日記のコメント欄参照)と書いたのだけど、今回の言及日記(http://news.mixi.jp/list_quote_diary.pl?id=230119)は、少なくとも午前二時時点ではほとんどまともな意見…というと一部の方には語弊があるかもしれませんが、江原はバカじゃないのだろうか、的なものに終始しているようです(これはこれで、そういう「流れ」になっているということでしょうか)。

それはそれで、なんだかいつものおかしな面々(信者)が突然いなくなったようで、ちょっと寂しい気持ちもある今日この頃ではありますが。
とはいえ、さすがに今回のネタ(ヤタガラスもそうだけど、弟っていうのもな)は、露骨にひどすぎて、たとえ信者といえども、擁護のしようがないのではないでしょうか。


まあ、江原がスピリチュアルネタの芸人に過ぎない、オーラのなんちゃらはただのお笑い番組、というのは(受け売りだけど)前からわかっていたことなんですが。それはそれとして、江原っておかしいんじゃないの?という意見がここまで人の口に上るようになったのはとても嬉しいことなのだけど、個人的にはちょっと難しい一面もあります。


今時のスピリチュアルが表出させた問題は、何も江原一人が元凶ではなく、また彼一人が消えれば終わるものではない、というのは前々から言っていたことなのだけど(http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-category-7.html)、江原というのは、そう、霊やスピチリュアルな存在のヨリシロというよりも、現代社会やぼくら現代日本人が抱える問題のヨリシロというべき存在だったように考えています。江原やその信者が示し続けてくれた、「なんか残念な感じ」は、べつに彼ら特有の問題ではなく、非スピリチュアルやアンチである人間にも無縁の問題ではなかったし、それを容認し、あるいは容認可能な土壌を作り続けた責任は、べつに信者だけのものではなかった。

江原(とその周辺)を見続けることで、これは好きな言い方じゃないけど、社会の病理とかそういうのは、結構簡単に見えるものでした。たぶん。

それが、まだ一応自分の番組を持っていたりと、そこそこ成功しているように見えて、実は社会的評価とでも言うべきものは地に落ちかけていたり、今すぐ目につく部分でも、mixi言及日記が手のひらを返したかのように批判ばかりになるという、惨憺たる状況(まあ実際は、叩きやすくなったから叩く人が表に出るようになっただけで、信者:アンチの比率がそれほど変わったわけでもないのでしょうが。それでも、表に出ているそんな部分だけで、傍から見ているとセカイの状況が変わったかのようにすら思われかねないのだけど)。

まあ、ぼくが江原の立場なら、もう絶対表に出たりしませんが、愉快な彼のこと、まだまだ大活躍して(むしろ悪あがきが増えるか?)、そのたびに地の底に落ちて行くように思います。

そしてそれは、あくまで個人的にはですが、喜ばしいことであると同時に、少し残念なことではあるわけです。

ひょっとしたらこのまま江原が君臨し続けることで誰の目にも明らかになったかもしれないとんでもない何かが、おそらく江原がこれから地に落ちるほどに、また誰の手にも届かないところに行ってしまう。


まあ、雷門の前の変な宗教とかもあるので、仮想敵には事欠かないのがこのセカイのいいところではありますが。

本格的スピリチュアル派になると江原とかそういうセカイじゃないですしね。


なんか今日は眠いのでとんでもないことを書いている気がする。
とりあえず、しばらくまともに江原ネタ書くの忘れていたので、そろそろ何かアレしないと


=====
ちゅーか、記事の書き方も、たとえばこれ、どうなんだろうか。

俊輔は、身近であり誇りを感じるシンボルマークが自分の人生に強くかかわっていることに

って、江原が、相談者の言ってほしいことを言うのはまだ普通というかいつものことなんだけど(でも今回は露骨すぎ)、記事まで「自分の人生に強くかかわっている」って。江原はともかく、メディアの側まで(いくらスポーツ誌のヨイショ記事とはいえ)一点の曇りもなく全肯定かよ、みたいな。しかもこのアンチ江原旋風時代に。
この世には二種類の人間がいる。○○が好きな人間と、○○が好きではない人間だ。

…みたいな言い回しをここ数年時折見かけます。
ここ数年というか、最初に違和感を感じたのが7~8年前で、そこで違和感スイッチが入ったから気づきやすくなっただけのことで、本当はもっとずっと前からあるのだろうけど。

もちろん、「二種類の人間がいる」部分はべつにどうでもいいんですが。
(二種類の…とか言ってると、大したこと言ってなくても、いかにも名言っぽいですね…)

ただ、それに続く部分が、たとえば
「カレーが好きな人間と、ラーメンが好きな人間だ」
くらいの二本柱を立ててくれるのならよいのだけど、そうではなく、
「カレーを好きな人間と、カレーが好きではない人間だ」
みたいな、そりゃ、好きかそうじゃないかで区切ったら、当然二つに分けられちゃうよ!的な、当たり前の事しか言っていないのに、もっともらしいことを言っているかのように得意げになっている人が、結構多い。

「この世にカレーが嫌いな人間などいないだろう」みたいな、自分勝手な決め付けも困ったものではあるのだけど、「人間には二種類いて、それはカレーを好きな人間と、カレーが好きではない人間だ」になると、それって、結局何も言ってませんからね。

もちろん「カレー?う~ん、そうね~取り立てて好きでもないんだけど…あ、いえね、嫌いってわけじゃないのよ。食べる時には食べるし。ただね、そう、最近はカレーの気分じゃないっていうか~…もちろん出てきたら食べるんだけどね~…」的な層を、敢えて無視したり、あるいは好きではない側に押し込んだりして、全人類を強引に二分化してしまうその強気さにポイントがあるというのであれば、もう何も言いませんが。

ちなみに、カレーの例でいえば、そもそもカレーを知らない民族とかも二分化しちゃう、その平和なグローバル感覚もすごいです。


まあ、こういう賢く見えて実は全然賢くない言い回しというのは少なからずあります。
「○○の日」とか「○○記念日」っていろんなものにあって、たとえばポッキーの日だとかパンツの日だとか、ちなみに今日は雨漏りの点検の日らしいのだけど、実はそれって勝手に言っているだけではなく、一応の「認定」はされた記念日だったりする。

だけど、それってほとんどは、べつに公的に認定されたものではなくて、ちょっと記念日に詳しかった長野県のおじさんが勝手に「協会」を名乗って認定をはじめたら(結構高い金を取って)、いつの間にかそこで「認定」された記念日があたかも公的な認定のようになったというものでしかない。

…ということをここ数年ずっと言いたくて、でも機会がなくて忘れていたんだけど(それとも、ひょっとして書いたことありましたっけ?)、昨今の検定ブーム(?)で思い出しました。というか実は検定がブームだったことは最近知ったのだけど。

まあ、だからといって、その、記念日商売が悪いってことではなくて。
その記念日のおじさんも、まあ、うまくやったなあ、と感嘆こそしますが。
だって、一個人が認定とかしちゃうんですよ。そして信じられないくらいの大企業や組織が、それをまともに相手にして、下手したら大金払ってお願いとかしちゃうんですよ。さらに国民が、その認定記念日をさらに認めて生きているわけですよ。今日は○○の日だから○○を買わなきゃ、とか言っちゃうわけですよ。それも、たぶんインターネットもまともにないような時代から。

でも、なんか、違和感があるんだ。ちょっとした引っ掛かりがあるんだ。

日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/index2.html


=====

まあ、認定とか協会なんて言った者勝ちで。
ずっと前にできたメイド協会(情報が遅い人が突然あたかも最新情報のように言い出したので思い出した)も、メイド検定とかセミナーとか言ってるけど、百花繚乱たるメイド業界において、いくつかの店舗を多角経営している小さな会社の人と、聞いた事も無いコスプレ雑誌の人が言い出しただけ、みたいなアレですからね。

日本メイド協会
http://www.n-m-a.jp/


=====

協会って、なんかいいですね。
「日本人は、協会に弱い」(日本以外だとかどうか知らないけど)とか言ってみたいですね。
協会商法とか。


ほんと、言った者勝ち認定した者勝ちの記念日業界であっても、たとえば「雨漏りの点検の日」なんてものを目にしたときに、
「へーっ、そんな日があるんだあ、すげえなあ」
という言葉は出ても、
「なんかおかしい」
という方向にはなかなかいかない。
べつにおかしいわけじゃないのだけど。

メイド協会だって、情報に疎い人から見れば、
「へーっ、メイド業界もそこまできたんだあ、すげえなあ」
なんて的外れな感想は出ても、
「なんかおかしい」
という方向にはなかなかいかない。
べつにおかしいわけじゃないのだけど。


認定とか、協会とか、あと検定もだけど、言葉の強さとしてはかなりのものですね。言ったもの勝ち度も。
泣いたら死亡
http://imihu.blog30.fc2.com/blog-entry-2867.html


これの109以降なんですが。

109 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2007/06/10(日) 01:59:17.59 ID:oBW2vDWc0
山の中に、一人の赤鬼が住んでいました。赤鬼は、人間たちとも仲良くしたいと考えて、
自分の家の前に、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます。」
と書いた、立て札を立てました。

けれども、人間は疑って、誰一人遊びにきませんでした。赤鬼は悲しみ、
信用してもらえないことをくやしがり、おしまいには腹を立てて、
立て札を引き抜いてしまいました。
そこへ、友達の青鬼が訪ねて来ました。
青鬼は、わけを聞いて、赤鬼のために次のようなことを考えてやりました。

青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、
青鬼をこらしめる。そうすれば、人間たちにも、赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう、
と言うのでした。しかし、それでは青鬼にすまない、としぶる赤鬼を、
青鬼は、無理やり引っ張って、村へ出かけて行きました。

111 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2007/06/10(日) 02:00:07.55 ID:oBW2vDWc0
計画は成功して、村の人たちは、安心して赤鬼のところへ遊びにくるようになりました。
毎日、毎日、村から山へ、三人、五人と連れ立って、出かけて来ました。
こうして、赤鬼には人間の友達ができました。赤鬼は、とても喜びました。
しかし、日がたつにつれて、気になってくることがありました。
それは、あの日から訪ねて来なくなった、青鬼のことでした。

ある日、赤鬼は、青鬼の家を訪ねてみました。青鬼の家は、戸が、かたく、しまっていました。
ふと、気がつくと、戸のわきには、貼り紙がしてありました。
そして、それに、何か、字が書かれていました。

「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。
もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。
それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。
さようなら、体を大事にしてください。どこまでも君の友達、青鬼。」

赤鬼は、だまって、それを読みました。二度も三度も読みました。
戸に手をかけて顔を押し付け、しくしくと、なみだを流して泣きました

113 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2007/06/10(日) 02:01:47.45 ID:8GnrbU8Y0
>>111
ありがちだが地味にくる

116 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2007/06/10(日) 02:05:07.31 ID:xI/7rcAk0
>>111
ガチで鳥肌たった

125 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします。 2007/06/10(日) 02:13:38.51 ID:L67qFXWp0
>>111
悲しすぎるぞこれ(´;ω;`)



泣いた赤鬼を知らないやつが少なくとも3人もいるとは。
これが、「ゆとり」ってやつか…。

特に113。
「ありがち」って…。
SEEDファンが『機動戦士ガンダム』(1979)を見て「ベタなロボットもの」って言うようなものか。
たまに「主語がない」とか言いだす人がいるんだけど、大抵の場合そこに必要なのは、実は主語じゃなく「目的語」や「指示語」だったりする。

追記:
「主語がない」が口癖のやつの書くものにろくな文章はない(ぼくの知る限り、ですが)。
アンチスピリチュアルメモ

1.「スピリチュアリズムの倫理と資本主義の精神」

スピリチュアル派は予想以上にたくさんいるようだけど、その中で、「来世」があるからといって、それがたとえば(超将来["生まれ変わった"後]の自分のために)地球温暖化を防ぐだとか木をたくさん植えるという方向には、少なくとも大規模な動きとしては向かっていない。
もちろん、個人レベルでスピリチュアルを信奉しながら環境問題に関心がある人もたくさんいるだろうけど、それはぼくらのような非スピリチュアル派でも、たとえば「不都合な真実」を見てちょっとエコについて考え出すのと同じこと。スピリチュアルの流れとして向かっているわけではない。

たとえば江原が砂漠の緑化を呼びかけるとか、排気ガスをどうにかしようとか言うことは、もちろん、ない(ひょっとしたらメディアがそれを報じないだけかもしれないけど)。言えば結構影響あると思うんだけど。

そもそも現代日本のスピリチュアルに関して言えば、それも当然のことで。
何度か書いたように(たぶん)、端的に言えば現世利益の肯定や自分(だけ)の成長だか進化だかを目的とした江原的スピリチュアリズムにおいて、実は未来の地球だとか子供たちの未来は、あまり重要ではない。
前述のように、スピリチュアルと並行して、エコな感覚を持ちうる人はいると思う。しかしそれはそれ。カレーを好きな人がラーメンも好き、というのと同じこと。カレー屋がラーメンを出すわけではない(カレーラーメンは関係ない)。いや、たとえが悪い。カレーを好きな人がガンダムを好きなのと同じこと。みたいな。全然つながってないんだ。

一般的スピリチュアルが、それを心のよりどころにする人たちに対して呼びかけるのは、大抵の場合お金だとかハッピーライフだとか、現世における救いだとか癒しだとか。

ひょっとしたら、(スピリチュアル派の言説ではないけれど)ぼくは「目に見える部分」しか気付いていないだけで、つまり本屋のそういう一角の目につく部分だとか、テレビの偶然見た時間帯だとか、ちょっとしたネット上の情報だけで考えているのかもしれない。「目に見えないもの」…というとスピリチュアル派はすぐに霊だとかなんだとか言うけど、そうではなく、単に目につかない部分、目を見開いていても見えてこない部分(本屋の棚の下の引き出しの中に眠っている本だとか江原の出ない時間のテレビとか)では、実は世界規模なスピリチュアル的環境対策が進行しているのかもしれない。あるいは、実は世界的環境保護団体がその思想の根底に江原的スピリチュアリズムを隠しているかもしれない。ただそれを表に出すとみんなひいちゃうから言わないだけで。それなら謝る。

まあ、たぶんそれはないけど。

現世利益・個人救済がすべての彼らの活動に未来はない。
あ、いや、先行きという意味の未来はまだ長いと思うけど、「未来」の地球という視点はあんまりない。

と、環境の話はただの前ふりで。

では、現世での幸福の追求を肯定してくれるスピリチュアル派の流れ(それが、単に江原信者やスピリチュアル派だけの問題ではなく、非スピリチュアル人やアンチを自称するぼくのような者にとっても共通の感覚をもとにしていることは今更言うまでもない。つまりスピリチュアルに象徴される、現代感覚というもの)が、セカイに関する考え方だとか、経済活動であったり、もちろんさっきの環境問題であったり、世界平和であったり、あるいは道ばたのおじさんのたばこのポイ捨てであったり、憲法改正であったり、意外と小さなことから大きなことまで、何か別の流れに向かう「現代」の考え方に結びついているのではないか。
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」的な意味であったりそうでなかったり。よくおぼえてないけど。なんかそんな感じで。


突然環境の話に戻るけど、とはいえ、未来の地球をよりよく、というのは、本当に転生の概念があるのなら、ものすごく利己的な部分からの発想としてでも出て来るものだけど、でも出ない。
単にアリとキリギリスのキリギリス的すぎるのか、あるいは、信者たちも、信者と呼ばれてはいても、実はそこまで現実感やリアルさを持っていない、求めていないのか。後者の可能性は高い(あ、前者の可能性ももちろん高い)。
安易な救いという意味でもそうだし、転生的な考え方が一般的に根付いた理由を見てもそう。

そうなると、やはり、今のスピリチュアリズムをカルト的に見るのはちょっと間違っている気はする。
(↑これは肯定するって意味じゃないですよ。)

2.スピリチュアリズムとセカイ系

セカイ系とスピリチュアル派的感覚についてのメモは何回か書いたけど、今度きちんとそこを見直さないと。読み返したら本当にただのメモだった。

たぶんそれって、上で書いたようなものともつながってくると思う。
・ロボットの手ってやわらかいの?
随分前から思ってて、人に話すと「まあまあ、そんな大人気ないこと言うなよ」と言われるんだけど、よくロボットものなんかで、高いところから落ちた人を主人公の乗ったロボットが手で受け止めてホッとする場面があると思うんですが、あれって絶対痛いですよね。ロボットの手って、絶対ガンダリウム合金とかなんちゃらチタンですよね。間違いなく全身骨折しまくる。

08小隊か何かでは、手首の角度を微調整して相対速度をあわせて…って感じの描写があったような気がするけど、それくらいかな、やさしく受け止めてくれたのは。
いや、マクロスの愛・おぼえていますかでミンメイ助ける時も、なんかそういうのあったか。
なんだ、結構みんな気を遣ってはいるのかな。

でも、最近も何かのロボットアニメでそういうシーン見て思い出したので、また忘れる前にメモした今日この頃です。


・シュールとか言い過ぎ。
最近まわりで「これシュールなんですけどー」みたいな声を聞くことがなぜか増えた。
そういう言いざまって10年くらい前のものかな、と思っていたけど、どうなんだろう。

『男はつらいよ』の、随分前の話のラストで、どこかのお祭りでおなじみの口上を述べた寅さんに、通りがかりの若い女子が「このおじさんユニーク~」とか言っていて、それを見ていたぼくは「"このおじさんユニーク"なんて言い回し、すごく古いなあ」と思ったんだけど、その「古い言い回しだなあ」という感覚が、現在「シュール」という表現にはあるような気がしてならない。
10年前にはきっとシュールって言葉はまだ生きていたはずなんだけど、今使うのはなんだかカビ臭い。

なんというか、その、きっと、シュールって、べつにシュールレアリスムを意識したものではなくて、なんとなく文脈と離れているとか、意図的に外しているものなんかに、すごくソフトに使われているんだろうけど、そういう外し方そのものが、実はものすごく陳腐になっているのかもしれない。


・スピリチュアル関連の違和感。
昔どこかに書いたけど、スピリチュアルや江原に対して「中立」な立場とか、「ニュートラル」な視点とか言っている人は、大抵の場合スピリチュアル寄り。特に声高にその中立性を言う人であればあるほど、これはほぼ間違いない。

べつにぼくがアンチ寄りだから、そっち側から見れば誰だって…ということではなく。

まあ、これはたとえば政治的なところでも、自称中立とか言う場合はどちらかといえば左寄りであることが多い(気がする)ような事象と同じかな。

スピリチュアルに戻ると、仮に、完全に"中立"なポジションがあるとして(ないけど)、立場を明確にしろとは言わないけど、中立である時点でスピリチュアル派や江原の存在を肯定し黙認し、そしてそれこそが現状を生み出していることに気付かない能天気な中立野郎は、やっぱり非難されてしかるべきだと思えてならない。ましてや自称中立の肯定派ともなれば…。


・新しいガンダムって、沈黙の艦隊の影響下にありますか?
と思ったけど、今見た情報がガセかもしれないから、ただの変な感じのメモです。
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