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「価値基準は人それぞれだから…」
「受け取り方は人によって違うから…」

何か自分に都合が悪くなると、そういうことを言い出す人がいる。

物事の価値基準が相対的であることは、べつに今更キミたちに言われることではないよ。と思うのだけど、それよりも気になるのが、そこで言われる「人それぞれ」が、単に価値の相対性に言及しているのではなく、「価値基準は人それぞれだからオレのやり方に文句をつけるな」「オレのこのやり方でも正しいという人はいるはずだからケチつけるな」という傲慢さの発動のための予防線になってしまいがちなこと。

あるいは、「う…うん、そうだね、人それだからキミのその方法でもいいんじゃないだろうか…たぶん」という、非常に遠慮がちな、争いや議論を避けるためだけの逃げの方便になってしまいがちなこと。

それでいいのだろうか。


ついでに言ってしまうと、「価値基準は人それぞれだから…」なんて予防線をはる人にかぎって、ご自分はものすごく、頑迷なほどに、自分自身の価値基準を絶対的に、というか純粋に、信じきっている、相対化できていない、ことが少なくない。
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たまにスタバの前なんかを通ると、すかしてコーヒー飲んでる人たち、たくさんいますよね。自分が中に入っちゃうと意外と見えないけど、まあ、みんなすかしてる。

で、もっと見ていると、外国…というか、主に欧米から来たと思われる人たちがたくさんいて、まあ、みんなかっこいい。老若男女ことごとくかっこいい。べつにかっこつけてるわけでもないんだろうけど、佇まいからして、悔しいことにかっこいい。

たとえばぼくがよく前を通っている浅草のスタバにいるのなんて、ほとんど観光で来てる人たちですよ。観光で浅草なんて、そういうベタなこをとする人たち。日本人なら、パリに観光に行って凱旋門やエッフェル塔に登り、ニューヨークでは自由の女神やエンパイアステートビルに登り、北京旅行で万里の長城に登り、韓国に行けば冬ソナで有名な壁を登り、ローマではスペイン広場の階段を登ってジェラート。そんなベタなジャンルの人たちですよね。
しかも、そうやってせっかくニホンのアサクサに来ているというのに、レトロ系「喫茶店」に行くでもなく、ましてや有名な老舗(のように見える店)に行くでもなく、わざわざ自分の国にも腐るほどあるようなスタバを選ぶ小市民たち。
これが日本人なら、得意気にパリに行きながら、毎日あっちの「スシ」や「ウドン」を食べて、かといって現地とニホンとのギャップを愉しんでいるでもなく、「やっぱりニホン人はワショクだよね~」なんてさらに得意気に言って薄いお茶でもすすっているような、なんか残念な人たちですよ。あるいは香港旅行で小腹がすいた昼下がりに、わき目も振らずマクドナルドでチーズバーガーを食べているようなものですよ。それが悪いとは言わない。むしろ、そういう生き方は強くて素敵かもしれない。でも、なんか残念。特に観光ガイドとにらめっこしながら海外で和食屋を探す人とか、なんかとても残念。
しかし、スタバを覗くと、そんな残念な人たちの欧米版が、なぜかあまりにも自然でキマっている。

それにひきかえ、その周りですかしているぼくも含めた日本人たちの姿の、なんと惨めなことか。
なぜか洋書(絵本みたいな)を懸命に読んでいる人とか、なぜかエンパイアステートビルの上で食べたチーズケーキの方がおいしかったと力説しているアメリカかぶれのおのぼりさん(←本当にいた)とか、努力すればするほどに、惨めさが際立っている現実。
もう、ぼくら日本人は、スターバックスなんかに入っちゃいけないんじゃないだろうか。百歩譲って家や会社に持ち帰って飲むのなら許されるとしても、店内でコーヒー飲んじゃいけないんじゃないだろうか。
そんなことさえ考えてしまうほどに、この不似合いな現実。

これはべつに日本人としての生まれの不幸を呪っているわけでも、脱亜入欧で欧米列強に並び立つべしと言っているわけでもなくて。ただ、彼らと同じ方法でかっこつけようとしたって、どうにも滑稽で哀れなものになってしまうんじゃないだろうか、というどうしようもない諦観かもしれません。

まあ、べつにそれは仕方ないしどうでもいいんだけど。

というか、ここまではほんの前振りなので、実は今回はスタバとかはどうでもいいです(それにしては長かった)。

ただ、その、前述のような状況(もちろんそれを感じる機会はいくらでもあるのだけど)で、欧米人と同じ手法で生きてもなんかかっこわるいよね、ということに気づいたときに、後天的に西洋的「磨き」をかけようとする人もいる一方で、逆に、まさに逆に、「日本人的」であることを強く表明しようという人たちも、実はたくさんいますね。
明治以降、昔からそういう、ニホンニホンと言っている人たちはたくさんいたけど、最近、といってもここ十年くらいかな、また変な方向で、多くなっている気がします。

もちろん、その考え方に反対するわけではありません。
下手に国際感覚だとか、海外(というかそこで言っているのは欧米的感覚のことでしょうけど)でも通用するように、なんて言いだすくらいなら、もっと内側を深めた方がいいのは間違いない。

だけど、そこで持ち出す「日本人的」状況っていうのは、いったいどういうものなのか。

たまに見かけてとても残念な気分になるのが、武士道がどうしたとか、日本の伝統的考え方でどうするとか、下手すると、外国に対して、自分たち日本人を「サムライ」と表明しちゃったりする、にわか武士団。
最近のメジャーなところで言えば、サムライジャパンだとかサムライブルーだとか。こないだのカンヌでは、特に侍映画でもないスマップ系映画のプロモーションで、サムライスピリッツとか言ってたんですって?

あたかも、日本人=サムライの心みたいに言っちゃってるけど、はたしてその体にサムライの血は流れているのか。いや、血筋の話はさておくとしても、口先だけのサムライや武士道や葉隠でよいのか。刀差してちょんまげなら、誰もがサムライだったわけでもないのに。
浅草で模造刀やギラギラした着物を買って喜ぶ外国人と、サムライの心を口先のみで自称するこの島国の民族に、何の違いがあるのか。

自称サムライの民族は、決して『ラストサムライ』を笑うことはできない。

一億総サムライ化とさえ思える現在。おそらく"サムライ"は死んだ。死んだがゆえに、数多の野武士があらわれ、サムライを名乗り始めてしまった。歴代徳川将軍の名前の半分もわからないようなサムライたちの仕える主君は、いったい誰なのか知らないけれど。(ふと、もしやこの風潮は、たとえば企業に仕える企業戦士をサムライに喩えているのか?という見立てかと思ったけど、違いますよね…)

どうもこの「サムライ」には、「前世」と称して中世ヨーロッパの騎士やら王侯貴族を「自らに連なるもの」と見立ててしまうあの感覚(スピリチュアルという危機)に近いものを感じてしまいますが、そっち方面については今日考えることじゃない。

だけど、"魂"とやらで現在の自分が数奇な運命を辿った中世の王族の息子とつながる感性と、ただこの島国に生きているだけで、かつてこの島国(というか当時はあんまりニホンジンって感じじゃなかったと思うんですが)で勢力を誇った階級の呼称(たとえ自分の直接の先祖は、それに支配される民であったとしても)を恥ずかしげもなく使える感性は、決して関係のないものではない。たぶん。
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