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山田洋次監督による「小津安二郎監督に捧げる」(公式サイトより)という映画『東京家族』が公開された。まだ観ていない。観るかどうかわからないし、予告を観た限りだと、あまり観る気にならないが、観もしないで、その作品とは違うことを書く。(なんだそりゃ)


さて、件の小津安二郎監督による『東京物語』(1953年)といえば、昨年イギリスの映画誌か何かで世界一と評されたことも記憶に新しい作品だが、日本語ネイティブではない世界の映画人がどうやってあの作品を解釈した上でそう評したのか、しばらく疑問に思っていた。

といっても、「言葉のわからないやつらが字幕や吹替えで云々…」などと申し上げたいわけではない。そんなことはまったく思っていない。

ただ、『東京物語』という作品は、おっさんになって観てみると…あるいは、東京に住む地方出身者となって観てみると、と言った方が正しいのかもしれないが、子供たちと両親との"エクリチュール"(後述)の断絶が、絶望的なほどに刻まれているように思うのである。

「ありがーとう」と尾道なまり(かどうかはよく判別できないけれど、とにかくあちらのなまり)で話す笠智衆ら"尾道の人"に対し、東京で暮らす長男と長女は、地方から出て来た両親にすら"東京の言葉"で話す"東京の人"になっている。
そして、それは言葉づかいのみならず、両親に対する態度、あるいは感情といった振る舞いまでもが"東京の言葉"と同じく"東京の人"のものとなっている(※原節子演じる、おそらく本物の東京人とはちょっと違う意味での"東京の人"としておきたい)。
あるいは、両親と息子たちの時間感覚、テンポの差は、単に若者と老人の差ではない。"尾道の時間"と"東京の時間"の差でもあろう。

同様に、後半で登場する大阪で働く三男は、大阪弁を話すと同時に、"大阪の人"の振る舞いを体得し、"大阪の人"的な時間感覚を擁し、たとえ尾道の実家に帰ってもそれは変わらない。

ある程度の年齢までは尾道/田舎で過ごしたであろう子供たちが、"東京の言葉"を話す"東京の人"、"大阪の言葉"を話す"大阪の人"になっている。
1953年(昭和28年)という時代において、それは今以上に強く認識される現象だったのかもしれないが(むしろ2013年の現在は、"地方の人"の"地方の言葉"やその"時間感覚"こそ絶滅しかかっているのかもしれない)、この『東京物語』の息子たちの在り方を思う時、私は"エクリチュール"の存在を強く想起してしまう。

その"エクリチュール"について、文字通りのタイトルだが「エクリチュールについて (内田樹の研究室)」より引用してみる。


(※人間の言語活動の)第三の層として「エクリチュール」というものが存在する。
これは「社会的に規定された言葉の使い方」である。
ある社会的立場にある人間は、それに相応しい言葉の使い方をしなければならない。
発声法も語彙もイントネーションもピッチも音量も制式化される。
さらに言語運用に準じて、表情、感情表現、服装、髪型、身のこなし、生活習慣、さらには政治イデオロギー、信教、死生観、宇宙観にいたるまでが影響される。
中学生2年生が「やんきいのエクリチュール」を選択した場合、彼は語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり「パッケージ」で「やんきい」的に入れ替えることを求められる。
「やんきい」だけれど、日曜日には教会に通っているとか、「やんきい」だけれど、マルクス主義者であるとか、「やんきい」だけれど白川静を愛読しているとかいうことはない。
そのような選択は個人の恣意によって決することはできないからである。
エクリチュールと生き方は「セット」になっているからである。



…実は私ってば、奇遇にも昨年の夏に尾道に行った際、あるお寺で、見るからに"ヤンキー"風のファッション・態度の家族連れがやってきてガラガラと願掛けの巨大な数珠を回しはじめたところに出くわしたのだが、その一家の息子(もちろんヤンキーファッション)が、
「ヤンキーがこんなことできっかよ!」
と数珠を回すことを拒否する瞬間を見てしまった。

東京物語の舞台である尾道で、ここでエクリチュールの具体例として示された「やんきい」がまさに「やんきい」のエクリチュールを選択するその瞬間を目撃したことは、個人的出来事ながらできすぎているほどであるが…それはともかく。

『東京物語』においても、「語彙や発声法のみならず、表情も、服装も、社会観もそっくり『パッケージ』で」、"東京の人"や"大阪の人"になった息子たちの姿は、「エクリチュールとは何か」という戯画とすら思えるほどで、小津監督がそれを意識したのか、小津監督特有の何かがそこに導いたのかはともかく、現代よりさらに濃厚であったはずの"地方の人"/"東京の人"における言葉+αの差異が、残酷なほどに(むしろ本当に残酷に)、見て取れるのである(べつにそんなものはテーマでも何でもなく、ただの必然や、演出の結果だったのだろうが)。
※前述の原節子型純粋"東京人"と、"東京の人"の断絶については、今回は割愛する。


さて。
前述の、『東京物語』を世界一とした英誌の評を見てみると


「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」(※日経新聞:世界一の映画に「東京物語」 英誌、各国の監督投票より)


とされている。「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」何かというのが、おそらくここでエクリチュールとして見えているものと同質であると考えても差し支えないだろうか。

ここで、さきほど引用した「エクリチュールについて (内田樹の研究室)」の文章に続く部分をもう少し見てみる。


私たちは「どのエクリチュールを選択するか」という最初の選択においては自由である。けれども、一度エクリチュールを選択したら、もう自由はない。
私たちは「自分が選択したエクリチュール」の虜囚となるのである。


…まさに、「『自分が選択したエクリチュール』の虜囚」となった息子たちと、"尾道のエクリチュール"との断絶。「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」何かの一部には、それがあるはずで、特にここに「時間」と「喪失」(間違ってもそれは母が死んだというような意味の喪失ではない)を見いだした世界の映画人の感覚にこそ敬意を評したい。

そして日本語の、尾道弁/標準語/関西弁の差異についてどれほど理解できるかどうかもわからない人々(とはいえ、私でもイギリス英語と米・南部なまりの差異くらいならわかるので、世界の映画人たちも同程度には何かを感じられるのかもしれないが)が、その喪失まで見透かしている可能性、そして、それを可能にしている小津作品の力に、あらためて驚くばかりである。(その良さが少しでもわかったのは"おっさん"になってからだが…)

…と、実はこの文章の冒頭を書いた時に考えていたことと真逆の話になっていて自分でもびっくりだが、それはさておき。

実は、件の日経記事「世界一の映画に「東京物語」 英誌、各国の監督投票」をあらためて眺めてみると、日経の記者による作品解説は「広島から子どもたちに会うために上京するが、つれなくされる老夫婦の姿を通して家族の現実を描いた」という、お粗末なものである。「わかってないんじゃないか」…そうも言いたくなってくる。

そして、なぜか今回『東京家族』の予告を観ていると、同様の、何か違うもの、ズレを感じてしまう今日この頃。山田洋次監督作品なのだから、そんなはずはないのだけれど。

とはいえ、上でも少し触れたように、2013年現在の日本においては、たとえば"九州の人"が九州人のエクリチュールで生きているのかといえば、そんなことはまったくない。むしろ別のレイヤーでのエクリチュール、たとえば「ネトウヨ」「チャラ男」「非リア充」といった括りのものこそが、日本全国どこにいても選択されるエクリチュールであろう。多少は九州人のエクリチュールがあるとしても。

むしろ"そうなっている"現在の形での「『自分が選択したエクリチュール』の虜囚」の姿にこそ、そういった側面からこそ、「家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な」ものに類する何かが見えるのかもしれないが。


…最後にもうひとつだけ。

果たして、専門誌で世界一と言われたからといって、では小津作品を観て「その技術を完璧の域に高め、家族と時間と喪失に関する非常に普遍的な映画をつくり上げた」と思える人間が世界中にどれほどの割合でいるのか。そんな疑問もあるかもしれない。

いや、現代の日本人ですら「眠い」「古い」「なんでカメラ目線なの」「なんで同じこと2回言うの」程度の感想しか持てなかったりするのが小津安二郎。日本よりも海外での評価の方が高いとすら言われる小津作品。

だが、それでも『東京物語』は世界一と評されて良いのである…という点については、もし『東京家族』を観たら書くかもしれない。


(…ここまで書くのに2時間くらいかけてしまったが、実は構想6カ月)

追記:
ま、こういうことを思ったのも私が「東京に住む地方出身者」というバイアスがあったせいにすぎず、そうではない人にとっては「まったく意味がわかんねえよ馬鹿」という話かもしれませんが。
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