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政治的・宗教的なことをどうこう言うつもりはないし、中国人の思考パターンにはまったく詳しくないのですが、これを読んだら、なんだか立場や考え方の違いがすごくわかりやすくなった気がするのでちょっとメモ⇒ http://japanese.china.org.cn/politics/txt/2013-08/17/content_29746211.htm 日本の政治家が拝むのは「神」ではなく「鬼」_中国網_日本語(中国戦略文化促進会常務副会長・秘書長 羅援さんの記事)。

(※念のため最初に言っておきますが、靖国参拝や戦犯の扱いの是非をここでどうこう言うつもりはありません)

この羅さんは、靖国の戦犯を「鬼」と呼び、「『神』を拝む前に『鬼』を追い払ってもらいたい」とおっしゃる。

ところが日本では大昔からオニ(元ヒト。祟る系)を拝むことでカミにしてきたのはここで指摘するまでもない話。有名なところでは天神様の菅原道真がそうだし、神社の由来を見れば、非業の死を遂げたとか何かを怨んで死んだとか、諸々ヤバい祟りそうな人を神社を建てて祀ったというのはよく目にすると思います。
(※指原道真とまで呼ばれた指原莉乃さんのAKB選挙1位も、その一環かもしれませんね)

ヤバいもの、祟りそうなものほど、拝んで拝んでカミにする。神社だけではなく、たとえば芝居…一部の歌舞伎とか(御霊信仰で忠臣蔵をどうこうとか言いますしね)、よく知らないけど能なんかも、そういう性質はあるんじゃないかな。

それを祀らないと、『呪怨』のあの家になったり、貞子になったりするのは、現代のJホラーにも通じる考え方ですね。だから、たぶんゴーストバスターズのような"退治"ではなく、死体を見つけてあげるとか、残した願いを叶えてあげる(『あの花』も)ような手法で解決する…のかな?よくわかんないけど(怖い映画は苦手なので!)。

ところが中国の人には、こういった考えはなかなか理解してもらえないらしい(羅さんの記事を読む限り)。件の記事がそうだし、そういえばずっとずっと昔、まさにこの「オニ⇒カミ」の話を聞いた大学の社会史(たぶん)の講義で、中国人留学生がなんか文句をつけていた(マジです)のも、今ならかなり納得できます。
とはいえ、昔は中国でも「オニ」に当たる祟る霊を拝む人たちはきっといたと思うんですが(根拠はキョンシーの「霊幻道士」あたりですが…※後述)、

くれぐれも政治的なことをどうこう言いたいわけではないので、戦犯と呼ばれる人たちがオニ(祟る存在)かどうかは「なんもいえね」ですが、件の記事のように靖国に祀られた存在(の一部)を「鬼(オニ)」とする考え方が彼らに普遍的なものだとして、それを拝むことに彼らが疑問を抱くのは、なるほど当然ですよね。根本的に前提が違うんだから。(※中国語の鬼と日本語の鬼は違うはずだけど、これは日本語の鬼と解釈して良いですよね?)

羅さんが言うところの「軍国主義の魂を呼び起こす行為」である参拝。だけど、そんなことを思っているのは日本ではネトウヨさんくらいであって、しかしそれは日本人の拝む行為とは「ぜ~っんぜん。もう、ぜ~んぜん。ハッハッ」と言いたいくらいズレている。むしろ逆!(※もちろん、日本人の拝む意味もいろいろです。現実に、「軍国主義の魂を呼び起」こそうとしているネトウヨさんはたぶん少しだけいます、残念ながら)

何度も言いますが、靖国に祀られているのがオニ(または元オニ)かどうかは知りません。でも、この羅さんのように戦犯を「鬼」と呼び、その「鬼」を拝まず「軍国主義者を厳しく非難すべきである」という主張が中国の知識人に通じる考え方であるのならば、何百年たってもこの溝は埋まらないでしょう。

伝統的に、死者を「厳しく非難すべき」なんてことは、日本人にはあまりそぐわない。(そんなことしたら、余計に祟るだけ!というか、だから中国ではいつも祟られて、同じ歴史パターンの繰り返しとか言われるんだべ…違うかも)。
たとえば東照宮だって、明治維新で破壊されたかといえば、そんなことはないじゃろ?むしろ、会津の殿様を連れて来て、ちゃんと祀り続けた?(じゃ秀吉は、足利は、北条は…うーん、おらよぐわかんね)

しかしその部分での根底となる考え方のズレがあればこそ、日本人が靖国でどんな拝み方をしても、ただそれだけで何度でも糾弾されるのもなるほど納得。こっちから見ればこう見えるものが、そっちから見ればそう見えるよね、という。

「『神』と言い『鬼』を拝むことは決して許されない」(羅さん)
それは、中国の世界観ではまさに「ありえない・理解できない」という話なんでしょう。その世界観のまま日本の拝み方を見るから、大きなズレがあるのは当然。

「鬼」にあたる人物の墓を暴いたり、死者に鞭打ち、祀らないどころかろくな埋葬もしない…それは(たぶん夏の時代以前から)伝統的に中国では当然かもしれない。キョンシーの霊幻道士さんは、まさにこの埋葬の間違いで祟りをなすようになった"オニ"を鎮める人でしたし(と大人になって見て気付いた)、孔子さまもそんなことをしろとは言っていないと思いますが(たぶん)、今ここで羅さんや彼の国の知識人は、日本人に拝まず呪いに呪いを重ねるようなことをしろという。

それは彼らにとっては、疑う余地のない当たり前の行為なんでしょう。
抗日映画や抗日ドラマで、日本人の暴虐を描き、さらにそれをコテンパンにして、呪いを続けるのもついでに納得です。

だけどそれは、彼の国の人たちの思想のことでしかない。

仮に中国の人が言うように、戦犯や戦没者や"軍国主義"が悪であればあるほど(実際にどうかはさておき彼らの目から見れば)、我々はそれを拝んで鎮めなければならない。ずっとそうやってきた。でも、それが彼の国の人の目には「軍国主義の魂を呼び起こす行為」に見えてしまう。

まさに逆転の発想!(違うか?いや、違わないか?)

重ね重ね(すみません!)、ここで宗教的な何かを押し付けたいわけではないし、べつに靖国参拝の是非を云々したいわけではないことは申し上げておきたいのですが、ただもうここには、なるほどこういう考え方なら、何かすればするほど、理解しあうどころか溝が広がりますよね、という何かがあるようです。逆だから。逆。

という話を3ツイートくらいでメモしておこうと思ったら長くなったのでとりあえずここでメモ。

ついでに言うと、この羅さんが「アジア太平洋の人たち」を拝めというのは…それはもしアジア太平洋の人たちの霊が日本人に祟るのであれば、いくらでもそういうことはすると思います。レインボーマンとかゴジラ(をはじめとした怪獣映画の一部)には…その痕跡があるかもしれないけど…。

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