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(1)の続き。
もともと1ヶ月くらい前にmixiに書いたものですが。
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最近、NHKで、ウルトラマンの元企画であった「Woo」をもとにした青春ドラマ(『生物彗星WoO』http://www.nhk.or.jp/woo/)を2、3回見たのだけど、あの番組の、"ドラマ部分"と"怪獣バトル"との関連のなさは異常。
(実は既にNHKハイビジョンで放送が終わったものなのでどうこう言っても仕方ないのだけど、いろいろとアレします。)

本来、ウルトラマンや仮面ライダーを見ているとき、ぼくは、あんまり個々の放送のストーリーやセリフはあまり気にしないのだけど、この生物彗星に関しては、あまりにそれが激しすぎて気にせざるを得ない。語らざるを得ない。

はじめて見た回(第4回「WoO、死なないで」http://www.nhk.or.jp/woo/yotei/story04_06.html#04)がたまたまそうだっただけで普段は違うのかもしれないけれど、主人公の少女や変な登場人物のドタバタ劇(本当にひどい。暴力団の下っ端や片言の日本語を話す日本人と主人公とのふれあいを描いたNHK史上最悪とも思えるクソドラマであり、ではただの"子供向けドラマ"かといえば、無意味な暴力や生命の軽視など、子供にも見せられない内容)があり、さらにそのドタバタとは無関係なところで、終盤に突然巨大怪獣があらわれ、変身した「WoO」に倒され、さらにそれとは無関係なところで主人公たちのドタバタ劇もめでたしめでたしという対象年齢不明、作者の意図不明な、ひどい番組。

かつての怪獣とウルトラマンの物語では、まず怪獣と人間の対立やコミュニケーションの問題が生じ、それが頂点に達したところでウルトラマンが登場し、物語の調停者として、強大な力を振るった。それは時にデウス・エクス・マキーナ(古代ギリシアの演劇において、劇の内容が錯綜してもつれた糸のように解決困難な局面に陥った時、いきなり絶対的な力を持つ神が現れ、混乱した状況に解決を下して物語を収束させるという手法を指した。/wikipediaより)的と評されるものでもあるが、それでも物語と地続きの怪獣であり、ヒーローであった。つながる物語を断ち切る者であったからこそ、ウルトラマンをデウスエクスマキーナと呼ぶことも可能であった。
(20070206注:読み直して気付いたけど、怪獣がデウスエクスマキーナ的なのか。)

しかしこの生物彗星では、そもそも怪獣や巨大ヒーローの存在が、物語と断絶してしまっている。デウス(以下略)ですらない、敢えて言えば劇中劇のようなもの。
それは、もはや現代において、怪獣やヒーローが正当な物語を持ち得ないことを制作者自ら認め、メインの物語と地続きにすることを最初から放棄したような作品であった。

(もうこの時点で制作者による怪獣のアウラの消失の話の続きとしては十分な気がするのだけど、まだ無駄話を続けますよ。)


公式サイト内の制作日記(http://www.nhk.or.jp/woo/diary/diary16.html)では、「異文化コミュニケーション」が生物彗星のテーマの一つと言い、
40年前の「WoO」では、“異文化コミュニケーション”というテーマは、我々が当時の企画書や台本から読み取るほどは強く意識されていなかったのかもしれません。それに比べて「生物彗星 WoO」では、かなり強く“異文化コミュニケーション”というテーマを意識しているのです。

とまで説明しているけれど、実際は、現代の生物彗星における"異文化コミュニケーション"というのは、少なくとも4話・5話の時点では、主人公の少女とWooを騙るぬいぐるみが異なる種族にも関わらずコミュニケーションできてよかったねというだけの話でしかない。強く意識しているそうだけど。

では、現代の生物彗星をつくった人が「強く意識されていなかった」と考えた昔の作品では、本当に異文化コミュn(略)が意識されていなかったのかといえば、たぶんそうではない。

少なくともWooの思想と直接的につながっているはずのウルトラQ-ウルトラマン-ウルトラセブンの物語を見る限り、"怪獣"と"人間"の葛藤が、Wooの制作者が言うところの"異文化コミュニケーション"的なものを寓話として表現し続けていた。
もちろんそれはWooと少女のように安易にわかりあえるようなものではなく、異者同士のコミュニケーションの難しさ、あるいは不可能性が、人間と怪獣の対立となり、そして多くの場合、その葛藤は克服されることなく、ウルトラマンというデウスエクスマキーナによって消し去られてきた。

その最終的な銀色の力による解決が正しかったのかどうかはまた別に議論されるべきところではあるけれど、とりあえず女の子とぬいぐるみが心を通わせるだけで"異文化コミュニケーション"を名乗る現代のWoOよりは、40年前の人々の方が、いくらかそのありようについて思いを馳せるだけの想像力を持ち得ていたのではないか。

あるいは40年前のそれは、「異文化コミュニケーション」のような狭い領域の問題ではない、それを含みつつ、もっと広汎な問題を示していたのかもしれない。かもしれないというか、たぶん間違いなくそう。

そう考えると、現代の"クリエイター"や"プロデューサー"の想像力は、とりあえずWooや怪獣に関しては、とても狭小なものになっていると言えるかもしれない。かもしれないというか、これもたぶん間違いない。というか、そもそも異文化コミュn(以下略)ってなんですか?


もちろん、40年前の人々はその葛藤を生物彗星の制作者のように"強く意識"はしていなかったかもしれない。あるいは、"強く意識"する必要がなかったのかもしれない。

そもそも、"異者の対立"は今に始まったことではなく40年前から既にあり(いや、実際はもっともっともっともっと昔から)、そして、そこではまだ現実と地続きのものとして、それが夢想できていた。
単に他人同士のコミュニケーションだけではない。新しい科学技術の登場とそれに伴う負の側面、都市問題と伝統的日本社会との摩擦、社会そのものの進化(変化)とそれへの戸惑い、兵器と戦争、冷戦や安保、以下略。そしてウルトラの制作者だけでなく、大衆が、その葛藤を、時代の空気として感じていたのではないか。ぼくは当時生まれてないから知らないけど。まあ、なんか、そういう感じ。
そこでは意図するしないに関わらず、作品にその空気は反映されるものだし、視聴者側にも、その空気は自然に受け止められる。

だけど現代では、決して40年前と比べていろいろな問題が解決しているわけでもなく、むしろ悪化しているかもしれないのに、それがこの時代の"空気"の中には決して含まれていない。むしろ、より卑近な、明日の飯のおかずや、ちょい不良でモテるモテない、負け犬、株で儲ける、アフィリエイトで小遣い稼ぎ、コンビニのアイスのラインナップ、以下略…そんなことの方が、人生のメインテーマになりがち。
その結果、40年前は、世界規模の問題だった異者の葛藤が、とりあえず隣の外国人とコミュニケーションできるか、世代のはなれた上司に話をあわせられるか、男と女の友情は云々、渋谷のギャルと以下略、そんな"異文化コミュニケーション"に限定されてしまった。セカイ系とかもね。

こんな時代なら、異文化コミュニケーションがテーマと銘打ってしまう生物彗星の制作者の態度も仕方ない。

だけど、今ぼくが気にしているのはそんなことではない。
(これだけ長々書いておいて?)


仮に、かつては異者理解の難しさと不可能性を寓意的に表現していた怪獣の物語が、「異文化コミュニケーション」というテーマに縮小されただけならまだいい。
問題は、その語り部が、Wooと主人公の少女だけに担われていること、「怪獣」が、べつになんでもない大きな邪魔者でしかない、ということ。

もはやここにおいて、「怪獣」のアウラは消失し、ただの造形物でしかない。
それを見る者は、決してそこに、40年前の怪獣に感じ得たアウラを、見いだすことはできない。

かつての怪獣のアウラは、前述してきたような物語とのつながり、ひいては、時代の空気とのつながりがあればこそのものであった。

http://homepage.mac.com/kaizyu_hakase/toku/ultrakaizyu.html
↑昔こっちの日記で、「場」の怪獣・「人」の怪獣という概念に少しだけ触れたのだけど、前述の40年前の怪獣たちは、「場」の怪獣であり、それゆえのアウラを持ち得ていた。それが、70年代以降のシリーズになると、また異なる様相を呈することになる。

以下、一期(ウルトラマンやセブン)二期(帰ってきた以降)の怪獣のあり方について書いた者を自分で引用
たとえるなら、第一期の怪獣は主に「場」との関係性に主体があったのに対し、第二期の怪獣は「人」との関係に重点が置かれ始めた(ような気がする。とりあえずふと思いついたから書いておくけど、どうだろうか。それ以外ではスペック重視というのもあるけど)。人との関係性に基づく怪獣は、人のドラマの引き立て役でしかない。また、ウルトラマンのファミリー化の中で、物語の中心は完全にヒーローの側に移っていた。

そこには既に、かつてのように破局の概念を寓話的に有した怪獣の物語はなく、ただ、やられ役、引き立て役としての巨大な獣がいるだけであった。

これはもちろん、単にお話作りの手法が変わったということではない。
かつて、怪獣というフィルターを通して描かれた、様々な問題に対峙しようとしていた人間の関心が、いつの間にか、そこにある「破局」から目をそらし、環境や世界、戦争や平和から、家庭や個人の問題に収縮してしまったこと、社会が持つ視野の矮小化こそが、怪獣と人類の関係にも大いにあらわれていたのではないだろうか。
だからこそ、なまけものの怪獣や、もっとくれもっとくれと食べまくる怪獣、あるいはもちをつくウスやなまはげの怪獣でさえ、私的なものに関心のベクトルが向かった時代をリアルに映し出したものとして、大きな存在感を持ち得ている。
しかし、当然ながらその怪獣と人間の間には、今ここに迫りつつある破局に対峙する試みはほとんどない。そこにあるはずの破局は私的領域の問題に隠蔽され、常に先送りされたまま、解消されることなくただ継続されてしまう。
こういうことをいちいち自己引用しなくても、昔書いたんだからいいだろうと言える人になれればいいのだけど、という話はさておき。

この「人」の怪獣の段階でも、「人」と物語上の関係をもつことによって、怪獣はまだ物語の構成要素であった。

しかし、今回個人的に問題にしている生物彗星では、もはや怪獣は、場とも人とも、何ら関わりを持たない、巨大で邪魔なよそ者でしかない。
そういえば、この意味のなさ、物語のなさ、邪魔具合は、時代をウルトラマンネクサスのビーストにも似ている。

以下、さっきの日記からまた自己引用
だが、ネクサスに登場する「ビースト」たちは、そもそも「場」や「人」との物語上のつながりを一切持たない存在、そして、自らの物語をも一切持たない、「物語的に断絶した」怪しい獣であった。(※ちなみに、それらは人間の恐怖や不安を象徴するような存在だった気がするけど忘れた)

そんな怪獣とウルトラマンが戦うのは、「メタフィールド」あるいは「ダークフィールド」と呼ばれる閉塞空間。
ネクサスで語られたのは、既に人類と何らかの寓話性を持った怪獣との葛藤の果てにある調和などではなく、単に獣を「駆除」するだけのウルトラマンの、果て無き死闘でしかなかった。
そしてネクサスの物語は、全ての「ビースト」や"悪"のウルトラマンを操っていた"悪"の象徴とでも言うべき「ダークザギ」と、ネクサスの進化系であり"善"の象徴であるかのような「ウルトラマンノア」の、善と悪、光と影の戦いに回収されてしまう。


だが、メタフィールドに「ひきこもって」戦ったネクサスやビーストとは異なり、生物彗星の怪獣とWoOは、もはや、メタフィールドを必要としていない。ひきこもることなくそのままで、物語との断絶を可能にしている。
これは一体どういうことなのか。
たとえば、現代人の傍若無人さ?引きこもり・ニートやその予備軍の寓喩?
いや、そんなどうでもいいことではない。何も考えずに、"強く意識"せずに、怪獣を描こうとした(あるいは描こうとしていない)からこそ、この断絶が生まれたのではないか。

怪獣の意味自体、70年代から薄れ続け、その現象がコスモス、ネクサス、マックス、メビウス、と、近年のウルトラマンのにおいても続いていることは、今更書くまでもないが、そのまま自然消滅するかのように、この生物惑星において、怪獣のアウラは消え去ったようである。
(ここまでひどいと、ただの怪獣ヲタの[空想科学なんちゃらや、なんちゃら研究序説が好きな方の]NHKの職員が、趣味が高じて[あるいは職権濫用]円谷に安易に話を持ちかけただけとしか思えない。というか実際そんなニオイがしますが。こういうのを、受信料の無駄遣いというのかな?)

そういえば、ネクサスにおける物語の断絶について、かつてぼくはこう書いた(というか今読み直すまで実は書いたことをよく覚えていなかった…。むしろネクサスの存在自体忘れてた…)。
ウルトラマンネクサスが、その身を呈して示しつづけてくれたものは、単純な勧善懲悪ではない。正義肯定の物語でもない。ただ、「正義」を名乗る事に伴う地獄と、それを選んだ現実、共存を認めない時代の切実さ、だったのかもしれない。
(そこにいたる経緯は前述の日記本文に記載)

それは、ネクサスの物語が善と悪、光と影を示すものであったからこそたどり着いたものであり、生物彗星に同じ種類の「断絶」を見ることは出来ない。

では、生物彗星の持つ断絶はいったい何なのか。
もちろん最終回まで見ないとどうこう言えないものでもあるのだけど(と言いつつ、ストーリー説明はまだ見ない…)、異文化コミュニケーションをテーマに持つその物語が、絶望的断絶を抱え込んでいることが、既に現代の危機を示している気がしてならない。

(とりあえず、この、物語と怪獣やそういう怪な存在の現代的断絶について、さらに続く)
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