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最近の響鬼に登場するマカモウ(魔化魍)たち。

プロデューサー・脚本が変わったのとほぼ時を同じくして、その有り様も変わったかのように言う一派がいないわけではないが、果たして本当にそうなのか。
(…ということについて数ヶ月前に考えた事を書きかけていたんだけど、すっかり忘れていました。今更思い出して書き足してアップしてみますが、かなり時期外れな気がしますね…。)

たしかに、ぱっと見た感じでは、出てくるのはかつてのような山奥や海・川、人工物の少ない、何か得体のしれないものが住んでいるかもしれない、そんな場所だったかもしれない。かつてぼくもそんな「場」に惑わされ、

突然現れる漢字の演出や、奇抜なライダーデザイン、ベテラン俳優の起用、何度か試みられてそれっきりのミュージカル的表現なども、確かに平成ライダーの文脈では突飛なもので、目を引くかもしれない。しかし、平成ライダーの中で本当に新しく、その物語のあり方に重要な意味をもたらしているのは、その舞台ではないのだろうか。その舞台と、そしてそれに連なるいくつもの物語、関係性。


こんなことまで言いながら、響鬼の舞台が持つ場と物語の連続性について評価しつつあった。

(あらためてまとめてみると、
・平成ライダーの怪人たちはたしかにとてもスタイリッシュだが、実は個々に持つ物語というのは旧来の怪人が狂言回し的な位置にあったのとは大いに異なり、非常に薄い、というか皆無。ただのやられ役。個々の怪人に物語性はなく、ただモードを追うのみ。
・そして、怪人に代わり狂言回しとなったのは、やはり仮面ライダーたちヒーロー。人間ドラマがどうのこうのという評価のもとにそれはみんな知っていることだろうけど、話の中心は、ライダーたちヒーロー側の青春群像劇であり、それと時を同じくして、怪人の存在も薄くなった。
・同時に、平成ライダーの戦いの舞台となる「場」も、小綺麗な街だったり、海辺の倉庫街だったり、なんちゃらスタジアムとかアリーナみたいな場所で、とてもスタイリッシュだが、実は物語との関連性はゼロ。べつにどこが舞台になろうが関係ないし、どこで戦っても同じではないか。そして、怪人の物語性との断絶も、舞台のあり方と無縁ではない。
・その舞台、物語、怪人の断絶には、実は東京とその周辺の街のあり方が反映されているのではないか。単純に、物語のあり方の変化が怪人のスタイルを変えただけではなく、舞台となる「場」の変化が、それらを規定してしまっているのではないか。
・それに対して、響鬼という新しい仮面ライダーはどうかといえば、舞台を鄙におき登場するのはその場と縁続きの妖怪たち、主人公たちの本拠となるのも設定上柴又という、寅さんのイメージを借りたまさに人情の下町。その場へのこだわりは、実はこれまでの平成ライダーとは一線を画すものではないのか。


2005年7月の段階でこんなことを言っていました。)


しかし、本当にそうだったのか。
たしかに、「鄙」に登場するマカモウの存在は、表面ばかり綺麗に飾った「街」にあらわれたそれまでの怪人とは異なり、いかにも物語性があるように見えるものだった。

しかし、本当に彼らに物語はあったのか。
ここで言う物語とは、マカモウがあらわれてライダーに倒されるまでのお話ということではない。彼らが、単にライダーに倒されるヤラレ役というだけでなく、独自に持ちうる何らかの物語はあったのか。それは具体的に語られることはなくとも、それを持ち得た可能性が、そこにあったのか。

結論から言えば、それは、なかった。
たしかに、鄙を舞台とすることで、それまでの平成ライダーとは一線を画すように見える何かがあるように、ぼくも錯覚した。
人工的に物語を作りあげたような「街」ではなく、それぞれの時間の流れと、土地土地の物語を、未だ持ちつづけているように見える鄙から生じるマカモウの姿は、順当に考えればその土地の物語性を背負い、その土地が持つアウラを寓喩的に示しうる可能性すら持ち得たはずだった。
しかし、実際にはどうだったか。
時には○○の××という形で、地名+妖怪的な名称で語られるマカモウだが、しかし、彼らがその土地固有のものである意味が物語内に織り込まれるわけではなく、そもそもマカモウ自体、謎の変態集団が地中に変な汁を流し込んで生み出すような、そもそもどういう出自なのやら不明なものであることが、明かされた。
そこにいる「マカモウ」には明らかに、妖怪というものが本来持っていた物語性、あるいはその土地の「場」が持つ力は欠けていたといえよう。

プロデューサー・脚本の交代により、突如マカモウが小綺麗な街中に現れることも増えたが、しかし、特にその「場」と関連性はない、何の物語性も持たないような人にあらざる何かが、特に脈絡もなく人を襲い、ヒーローに倒されるという、ごくごく基本的な部分において、埼玉にあるスーパーアリーナのマカモウも、屋久島にあらわれたマカモウも、あるいは、オルフェノクも、トランプの怪人も、ミラーワールドのモンスターも、その他もろもろの最近の怪人たちも、何ら変わりはない。そこに、彼らの物語はなく、彼らが安住できる地は、どこにもない。
街にいようが、鄙にいようが、それは同じだった。


とはいえ、それは決しておかしなことではなく、むしろ正しくぼくらの価値観をあらわしているのかもしれない。

人工物に囲まれたぼくらが想う「自然」。
それって、本当に自然なのかといえば、大抵の場合は人工的に整えられたものであったり、そもそもその土地が育んできた種とは、何の脈絡もないおかしなものが持ち込まれたり、本来のその土地のアウラを持ち得ない世界なのかもしれない。
それは、何千年も前から人類が森と戦って切り拓いて云々、というお話ではなく、むしろ、今ぼくらが「アウトドア」的に考える自然。

以前の文章では、東京という「場」の中に、それまでの文脈を断ち切るようにあらわれた新しい「街」と、それを象徴する存在としての新しい「怪人」について思いを馳せた気がするけれど、それとまったく同様に、山や川や海や旧来の「鄙」があり、しかし、その場にぼくらが求める「自然」というのは、むしろその地誌学的な物語を切り裂き、脈絡なくつくられるような、もっと人工的な、心地よい自然ではないのか。そして、それは、この響鬼という作品に登場するマカモウのように、「どこにいてもいい」「どこにそれがあってもいい」、その土地とは何の関係もない、物語性のないものなのかもしれない。
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