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2004.01.01 都市を歩く
過去ログ掘り起こし。

都市を歩くことと怪獣について。

都市を歩く

(2004/3/7)

ちょっと引っ越す関係で部屋の整理をしていたら、テレビの下から昔書いたレポートみたいなものが出てきたんですよ。ま、とりあえずその中の一つをなんとなく載せてみるテスト。2ちゃん語のテストとかじゃなくてほんとにテスト。
といっても、19の小僧っ子の頃、時代的にも1999年の初夏に書いたようなやつなので、内容も、対象としている作品の時代も、まあそのへんを踏まえてふんわかと見てくだされば幸いです。
あと、文章それ自体はほとんどいじっていないんですけど、()をつけて説明的に書いていることはほとんどが今付け加えたものです。

あ、ちなみに、都市を歩くこととかそんなテーマで書いたものだった気がしますが、あまりそれは関係ないかもしれません。

あと、部屋の整理とかでなかなか更新の時間もとれないし、こうやって過去のを載せると楽でいいかなあ、とか思ったけど実際そうでもなかった。

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夏休みが近づきつつあるが(まあ、元はそういう時期に書いたってことで、今ならさしずめ卒業旅行とでも考えれば筋も通るかと)、今年も多くの日本人が様々な都市を闊歩することであろう。その時彼らは旅人としてその都市を歩くことになるのであるが、しかしその様態と速度はもちろん多種多様である。
たとえば、パリ3泊4日パッケージツアーを考えてみると(いや、別にそれに参加したことはないので憶測ですが)、それはごく限られた時間の中で、重要なポイントを(エッフェル塔→凱旋門→ルーヴル→サクレクールなんちゃら…みたいな観光ルートと、その合間にお土産屋とかブランド屋みたいな感じで)バスかなにかでつなぎひたすら駆け抜けて行くものであり、この場合、たしかに地に足をつけてその土地を歩いてはいても、実際本当にその都市を「歩いて」いるのかといえば、むしろ「歩かない」と言ったほうがしっくりくるのではないだろうか。

一般に都市を旅することとは、地下鉄やバスなどを使うことがあっても、基本的に、その都市を歩くことがその中心となる。とは言え、発達した旅行産業が作り出す様々なガイドブック的なものが、その旅の形をステレオタイプなものにしてしまった。たとえば旅立つ前に日本でしっかりガイドブックや地図を見てパリに行ったとすれば、おそらくは既に知識として得た情報を確認するために観光スポットを巡る旅となり、たとえそれがどんなに時間をもてあまし、亀を連れて全行程を歩いても(昔パリで遊歩者[フラヌール]とか呼ばれる人たちの間で、亀を連れてパサージュを歩くことが流行ったりしたんだってさ、ということを踏まえての話)、根本的にパッケージされたものと変わらない性質を持つ(これを書いた当初は、何冊ものガイドブックを熟読し、重さも気にせず全部わざわざ持って旅に行き、観光地の確認のためだけに行ったようなある知り合いを念頭に置いていたんですけど、実はこれを書いた直後、ヨーロッパに一ヶ月くらい行ったら、その度合いは様々でも本当にそういう人ってたくさんいるんですよね。地球の歩き方を読みながら道を歩いてるやつとか。本しか見てないやんみたいな。日本人に限らず。そういや前に紛争まっただ中のイスラエルの教会にふらふら入っていった日本人バカップルの話もあったっけ)
そんな現代的旅の性質は、つまり現代の都市が、一時的にその都市へ流れてくる外部の観光客(べつに日本人に限定した話でもなく)にとっては、点と線のみで描かれた虫喰い状態の地図としてしかあらわれないということであり(空間としての広がりがまったく無いってことですね)、その結果たとえば凱旋門の上からパリの街並みを見たとしても、それは単にパノラマ的な商品化された風景でしかなく、決して都市そのものの姿としてあらわれるわけではない。(その点と線とかについては旅人に限った話でもなく、それだけで話を膨らませたら…と今になって思ったんですが、それはこのサイトでやることじゃないんで…)

ところで(いきなり話は変わっていますが、まあふんわかいこうよ)、1954年に突然日本を襲ったあの有名な怪獣ゴジラは、都市東京を存分に歩いた。そしてそれ以降様々な怪獣があらわれ、東京、大阪…と、都市住民にその影を落としつつ、様々な都市を歩いてきた。彼ら怪獣たちの歩みの速度は、大抵の場合、必要以上にスローモーションで重量感を強調された、ある意味遊歩者的なものであったと言えるであろう。また、怪獣にとっての歩きとはそもそも遊歩者的な意味合いすら感じられるものであり、それに対して移動に速度を求める場合は、たとえば亀(この場合の亀とはガメラ)までもがそうしたように飛行したり、泳いだり、地中を進んだり、と地に足を着けて歩むことをやめるものが殆どであり、実際一度はあのゴジラも、口から吐く放射能を利用して後ろ向きに飛行した(そんなバカな!と思われるような本当の話。『ゴジラ対ヘドラ』において)。しかし、そういった者たちの速度をともなう移動は、福岡に飛んできたラドンのように歩くことがあまり得意ではないものなどを除けば、その移動能力を以て都市から離れていく傾向にあったのではないだろうか。そして、都市破壊は専ら都市を歩くことによるものとなっていった。

しかし、特に怪獣映画において、怪獣を怪獣としての脅威とともに見る者に示し得るのは、それが都市のパノラマの中で描かれることによるであろう。それゆえ、たとえ都市を歩かない、歩く必要のない怪獣でも、たとえば『ガメラ3』のガメラとイリスのように、両者とも飛行を得意とし、実際見事な空中戦を一度は展開しながらも、結局最後には地に足を着け古都を炎上させながら戦う必要性があったと言えるし、また東京のど真ん中に突如現れ、ビル群の中でその花を咲かせたマンモスフラワーの姿は、ビルの中にあってこそひきたつものであり、我々見る者の心を引きつけてやまない。
つまり、都市を歩く怪獣にも、歩かない怪獣にも、都市とはその存在と威容を示し得る最大の道具であると言えよう。そしてまた都市も、怪獣とともに描かれることにより、そこにある存在感を発露させている。
(たとえば日本以外でも、キングコングと聞いて真っ先に思い浮かぶのは、未開の森に住むそれではなく、やはりエンパイアステートビルの頂上からニューヨークのパノラマに咆哮するその姿であろう。あるいは、都市をのろのろ歩くわけではない怪獣にしても、たとえばモスラで象徴的なのは東京タワーに繭をかけた情景であったり、あるいは東京タワーといえば平成ガメラ一作目におけるギャオスの姿も、記憶に残るものであった。逆に、怪獣たちが南の島に集められて管理されているような後のゴジラなどでは、怪獣の脅威も威容も消失してしまっている。怪獣としてのアウラが、そこにはなかった。その点でも怪獣映画における都市の存在の意味がわかるのではないだろうか。あるいは「ちゅーか都市に怪獣が来るのってべつに都市にこだわるわけじゃなくってただ人=エサが多いからとかエネルギーが云々だからじゃーん」という反論も可能かもしれないけど、実はその問いは全て都市とはどういうものか、という考察になるんじゃないかな、たぶん)

ところで、近年(これ書いたときはたしかGODZILLA公開の次の年くらいだった)制作されたアメリカ版のGODZILLAでは、怪獣(とは呼べないと言う人間も多いが)が大都市ニューヨークをとにかく駆け抜けていた。あの速度は、それまで都市を歩いていた怪獣のものとはもちろん明確に区別されなければならない。
数十年前に東京をゴジラが歩いたとき、焼け跡と化した東京を重量感溢れるゴジラが踏みしめる、それだけでその光景は、いわば怪獣としてのアウラを持っていた。それ以降の怪獣たちも、多くの場合前述のように都市とともにあることで、そのアウラを見る者に示したと言えるであろう。また、破壊される都市のアウラも、破壊されることによって逆説的にだが、そこにあらわれている。
しかし、大都市に出現しながらも、ただ走り、地下に潜伏し、果ては大量生産品の子供たちまで生み出したGODZILLAには、誰が見てもそれまでの怪獣映画が持っていたアウラが無いことは言うまでもなく、その結果あれは怪獣映画ではない、と評されることになる。
しかし、本当にそうなのだろうか。GODZILLAのあり方は、確かにかつて都市を歩いていたゴジラとは完全に異なるものである。が、はじめに述べた現代の旅行者(というか日本人観光客)の例を思い返したとき、現代的旅行者の都市の歩き方とGODZILLAには共通するものがあるようにも考えられる。つまり、GODZILLAは現代旅行者の速度で都市を歩いたのではないだろうか(べつに日本から来たゴジラに日本からの観光客の姿を重ねたとは言わないが)。そして、そうすることでGODZILLAが示し得たもの、それは、既に現代の都市にアウラ的なものは最早存在しない、ということであったとは考えられないだろうか。

日本の怪獣映画の中で、怪獣は我々に都市のアウラを示し続けてきた。それは最新のものでも変わらず、またこれからもそうなのであろう(という憶測を書いたけど、実際最近のはどうなのかな)。しかし、我々がそういった作品から感じ得るものは、もはや現代においては幻像でしかなく、現実の都市にはとっくにアウラなんてないということをはじめて示し得たのが、GODZILLAであったと言えるのではないだろうか。そして、アウラなき都市に、アウラなき怪獣として出現し、タクシー一台に翻弄されミサイル数発で人間の手により葬りさられる姿が、都市のアウラの喪失を身をもって表現している。

日本においても、最新の怪獣映画(これを書いた当時)『ガメラ3』における最後の戦闘が、京都で行われた、ということは、もはや古都のような都市を使うことでしか都市のアウラを表現できなくなっている、つまり古都のような場所にしかアウラ的なものは残っていない、ということを意味している、のかもしれないが、それについては、これからの怪獣映画を見ないことには明確なことは述べられない。(この時は何も考えずにそう書いていたけど、たとえば『ウルトラマンガイア』が東京の龍脈等を持ちだしたりしたのも、実は東京あるいは江戸という都市のアウラを現出させるにあたっての重要な儀式だったのかもしれない。ちなみに、これを書いた年の冬からまた復活したゴジラ映画とかは、やはり殆どの場合、実際都市で戦ってはいても、小綺麗なセットの、結局はただの舞台装置でしかなく、その都市で戦う意味、その都市のアウラというのが、やはり消失していた気がしてなりません。あ、そうでもないか。メガギラスのちっこいのが繁殖する様とかも…いやあれはむしろGODZILLA的かな)
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