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レトロフューチャーという概念がある。

ダサ未来という言葉もある。

昔の人たちが夢想した「未来」。それはやってこなかった「未来」として、レトロフューチャーだとかダサ未来として今に伝わっているのだけど、果たしてそれって、ただ単に昔それを夢想した人たちの感覚がハズレだっただけなのか。

それとも彼らがデザインした「未来」の姿・予言が、感覚的に、たとえば60年代・70年代の「流行」が時がたつごとに古臭く見えてくるのと同様に、「未来」予想図ではありながら、同時に「過去」のものとなる中で、現実の社会が、その古さの漂ってしまった「未来」像から無意識にであれ、かけはなれるように進んでしまったのではないか。

「未来」のイメージは、未だ来たらざるもの、まだ見ぬもの、であって、決して過去ではない。

しかし「未来」予想は、それが世に出た時点で「現在」となり、その瞬間から「過去」となっていく。

つまり、当然「未来」のイメージであっても、そこにはそれが考えられた「現在」の在り様が反映されるわけだけど、たとえ「現在」を乗り越えた「未来」イメージが出てきても、それが受容された「現在」が過去になる中で、その「未来」イメージも「過去」イメージとなってしまう。

(なんてことは、きっと過去に何百万人もの人が考えてきたんじゃないかとも思うけど…)

そうなると、そもそも「未来デザイン」なんてしないほうがいいのではないか。
とすら思えてしまう。どんなに先鋭的・未来的なデザインであっても、三日で現在になり、過去になってしまう。そしてぼくらの未来への欲望は、「まだ見ぬ未来」へと向かう。一度世に出た未来は、既に見た過去でしかなく、その姿での未来の可能性を閉じたものにしていく。

つまり、「未来」的なるデザインが世に出るほどに、その、世に出た「未来」の可能性が消えてしまうことで、実際には、「未来」の可能性はひたすら狭くなってしまうのではないか。

時代の行き詰まり、閉塞感は、そこからやってくる?というのは蛇足か。

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※補足:
文中で言明しなかったので誤解されそうですが、ぼく自身はレトロフューチャーやダサ未来であったり、その流れを汲むものは、大好きです。大好きであるがゆえに考えてしまった事が、上の文章です。
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