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前のエントリ([違和感メモ] みんなが主役説(スピリチュアルの前振りとして))では、「ある」とされていた物語の欠如がスピリチュアル化に与えたものを考えたときの話として、以前書いた「みんなが主役」説について、また少し触れたのですが、今回もスピリチュアル派の傾向につながりそうな、小学校的事象をもう一つ見てみます。


「みんなが主役説」と同様に小学生くらいの頃、クラスの係決めってありましたよね。学級委員にはじまり生き物係(飼育係?)だとか掲示係だとか配り係だとか。なんかもう、どんな小さく無意味な「係」でもいいから、とにかくなにがしかの「係」=「役割」が割りふられた。特に小学校低学年とか(みんなが主役説も、小学校低学年くらいのものだとは思うんですが)。もう少し上になると、図書委員とか保健委員とかになるのかな。

なんというか、たとえば一部のスピリチュアル一族であったり、浅草は雷門の前にある新興宗教(このブログでも過去に何度か出したアレ)が、「あなたが生まれてきた意味」がどうしたこうしたと言っているんですが、実際、生まれてきた意味なんて、べつにないですよね。少なくとも、生まれてきただけで意味なんてあるものかよ。

だけど、そこに意味を見いださなければならない人たちがいる。自分がこのセカイに存在することでなさなければならない「役割」が、必要になる、らしいですよ。

そういう考え方って、なんかもう、小学校の係決めとか委員決めみたいなレベルの話だなあ、と思うんですが、どうなんでしょうか。
小学校の場合、それによって自主性をなんちゃらかんちゃらとか、集団の中で自己のなんちゃらをどうするだとかいう名目があるんでしょうが、その考え方のまま、大人になっちゃったんだろうか。


小学生って、まだみんな世界がきちんと見えていなくて、というか、自分とセカイの間にある社会とか世の中というものがよくわかっていなくて、せいぜいクラスとか学校とか、あるいは家族、その向こうに「セカイ」があるような「感覚」だったように思います。賢しい(さかしい)子供たちは、知識として「社会」の存在を知っていたというかもしれないけれど、そんなの知識にすぎなくて。大抵の場合は「セカイ」系的なセカイを生きていた。

そんな「感覚」、小学生、それも低学年ならまだ許される。
中学生で、まだそんな感覚でいたら恥ずかしい。けど、まあ、それでもまだ仕方ないというところはある。中二病なんて言葉もあるくらいだし、それはもう中学生の専売特許と言っていいかもしれない(それでも後で気づいて恥ずかしくなるものだけど)。

だけど、いい年した大人になって、いまだにそんなセカイ認識の感覚を持ち合わせてしまった人たちが少なからずいて、特にスピリチュアル派の言説の中に、それはよく見受けられてしまう。

そういう人たちだから、自分の「セカイ」でも、そのセカイにおける「役割」という言葉がリアリティを持ち得てしまったり、何らかの「役割」を提示されることによって、自分の中での「足りなさ」や不安が埋められてしまうのも仕方ないのだろうけど、それって、大人として大丈夫なんだろうか。小学校レベルの欺瞞で満足しているだけですからね。

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まあ、これは、べつにスピリチュアル派だけの話ではなくって、たとえばスピリチュアル派ではない「普通の」サラリーマンだとかそういう人たちでも、今自分のしている仕事だとかそんなものに、セカイにおける「役割」だとか自分が生きる「意味」を見出す事は珍しくないことだと思います。たとえそれが幻想にすぎないとしても。

ただその「役割」的な幻想を抱きながら、それを普段の生活に見出せない、あるいは現状に満足できない人もいる。そこで、実際はまったくもってナンセンスであっても、「高尚な役割」を必要とする人の受け皿として、スピリチュアル的な何かが機能しているとも言えるわけで。

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ついでに言うと、上の方で書いた「生まれてきた意味」なんだけど、自分が「セカイ」に対して何ができるかって考えている善男善女ならまだ(比較的)マシなんですよ。

だけど中には、他人、それも、たとえば自分に対する態度があまり好意的でなかったり、いつも悩みのタネになっている他者が「自分に対して」どういう「役割」を持って生まれてきたか…なんて、とんでもない(けど彼らにとってはとても自然)考え方にいっちゃう人もいるようですからね。「あの人がいつも私に迷惑なことをするのは、私の魂の成長をなんちゃらかんちゃらという役割なのだから感謝して優しく見守りましょう」とかそんなの。

自分がセカイに直結しすぎるのも、ここまできたら尊敬しちゃうぜ、ってくらいなんですが、これは、魂のおせっかいだ。スピリチュアルハラスメント、スピハラと言っていいかもしれない。

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スピハラ(ためしに検索したら何件か出てきたので、普通に使います)はさておき、単にスピリチュアル派といってもいろんな流派があるし、濃さによっても内容も変わってくるんですよね。多少は人間社会に溶け込めるものもあれば、既に見えないお友達(会話可能)が100人くらい常駐している人もいる。スピリチュアルの視点で見れば…と考え方だけのものと割り切る人もいれば、波動によってセカイを変えちゃった(と言い張る)強者も珍しくない。

このブログや、あるいはmixi日記では、単に「スピリチュアル」だとか「スピリチュアル派」という言い方でまとめて考えてきたし、おそらく世の中の多くの反スピリチュアル的言説もそうなのだと思うけど、いつまでも単一のものとして話すのでは、多少の差異やズレのみを以て「自分はお前の言うものとは違うからお前は間違ってる」とか、それこそアナタ=セカイなのですね、みたいな物言いすらされかねない。
自分のことを言っていないから間違ってるって…。べつに言われたわけじゃないけど、そう思われている気はします。

仏教だってチベット仏教と日本仏教は違うし、同じ日本でも、たとえば浄土真宗と日蓮宗、あるいは仏教をもとにしたと言い張るどこかの新興宗教では全然考え方も歴史も違ってくる。釈迦の教えを純粋に研究したところで、現代仏教の信仰者の生き様が見えてくる気もしない。
スピリチュアル派も、実はある程度流派(宗派)を分けて考えるべきなのか、それとも、それでも敢えて、ひとつの「スピリチュアル」的な何かとして、話をすすめるべきなのか。

と、どちらにしてもこう書いたところで、次からは各派閥ごとに…というわけにはいかないのだけど、一応覚え書き程度に。
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