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イマドキスピリチュアルを底辺で支える要素の一つとして、「みんなが主役」のような学校教育的言説があったんじゃないかな~くらいのことを書いたことがあったんですが、↓

ひょっとしたらぼくらは、「物語的な何か」を与えられすぎたのかもしれません。
「個性」が重視され、うっかり「みんなが主役」(←Googleで十万件以上出てくる言葉です)だなんて勘違いさせてしまうようなのんきな学校教育を経て、個々の人生は、個々の物語を持たなければならなかった。

だけど、そこに思い描いた物語はなかった。

物語の存在しない断絶感。
今も、これまでも、これからも、物語のない自分の人生。

それはそれとして、今を幸福に生きられるのであれば問題ないでしょう。おそらく大抵の人はそうしていると思います。

それでも物語を必要とし、たとえば過去の栄光という「物語」を語り続けて死ぬまで生きる人もいるでしょう。ガンダムSEEDにはまったのは逃避だったと語るガンダムファンの女性を以前NHKで見ましたが、そうやってフィクションの「物語」に走ることも可能です。また、決して自分では届かない世界、いかにも「物語」のありそうな人々、タレントや社長やアイドル、そんなところに思いを重ねる人もいるでしょう。

この物語なき物語の時代、それでも何かの物語に寄りかかって生きる人は少なくないはずです。

そして、この物語なき物語の時代の、自らに連なる物語の一つとして、前世や魂の「物語」が、江原的な感覚とともに異常な浸透を続けています。仏教でも神道でもキリスト教でもないようなちぐはぐなものでありながら、しかしぼくらの文化的遺伝子にぴったりのそれは、確実に今でも勢いを増している

ファーストコンタクト[1] はじまりは、江原あるある(やらせ)問題日記。

ちなみに、ぼくが通った小学校では、べつに「みんなが主役」なんてムチャクチャな言葉はありませんでしたが。
というか昔は誰もそんなこと言ってなかった気はするんですが。

ただ、小学校ってのは、すくなくとも今スピリチュアルに影響されている世代以降であれば、「みんなが主役」的な、表面的ロジック(ロジックでもないけど、言葉いじり?)の影響は、どこかで受けていますよね。

というか、ためしに検索してみると気づくのだけど、学校どころか、普通にオトナの人たちのあつまりであったり、あるいはお役所関係(地方分権とか)でも、平気で「みんなが主役」とか言ってるの、たくさんありますからね。

もちろん、「自分だけ主役」がたくさんあつまっただけの「みんなが主役」(スピリチュアル的)と、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」の「みんなが主役」(オトナ社会的)は、結構違うものだろうけど。


今日は最後の一文だけが言いたかった。

今回はほんの前振り。
次回は、みんなが主役と同様に、スピリチュアル派的な考え方に影響を与えている、あるいは関連が深いと考えられる、ある小学校的事象をとりあげる予定です。
(つまり、スピリチュアル派ってのは小学生レベルだよね、という話になるかもしれません…)
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