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七夕が近づいている今日この頃。
街を歩けばそこかしこに、多くの短冊を下げた笹を見ることができます。

まあ、現代人、しかもオトナたちが下げたお願いごとなんて、大抵は俗物すぎたり、狙いすぎたネタだったりすることが多いのは、少し大きな神社の絵馬と同じような状況なのですが、そんな楽しめる短冊の他に、毎年のように、どこの笹にも見受けられる願いごとの一つとして挙げられるのが「世界平和」だとか「世界が平和でありますように」だとか、「世界人類が(以下略)」だったりします。

実はぼく自身小4くらいまではそういうセカイヘイワ的なことを書いていたのだけど(かつてぼくが通っていた小学校では、なぜか毎年のように、クラスで短冊に何やら書かされたりとかしていました)、小4のときに小6の優等生っぽい女子が得意げに同じことを書いていたのを見て急に冷めてしまって、それ以来、世界平和なんてつまんないことは書いていません。

けど、まあ、べつに世界平和と唱えること自体を非難したいんじゃない。
じゃあいったい何がこうも気に障るのかといえば、たとえば世界とか平和という言葉を並べるだけで実際には何もしないどころか、その何もしなさが世界を悪い方に進めているかもしれないことに気付かないことであったり、あるいは単に世界平和と言っている自分が好きなだけじゃないか、という部分であったり、実は大して「願う」ような思いもないから、その場しのぎに世界を云々なんて本当にてきとーなことを言っている空しさだとか、セカイ系的なセカイしか持っていない人間が、その自分=セカイ間でのセカイの平和しか意図できていないことだったり(そういえば最近浅草寺で見た絵馬には、「自分が知らない人たちのことは思いやれないけど」と注意書きした上で自分と身の回りの人の幸せを願うものがあって、それには唸ってしまいました。それはおそらく非常に正しい認識で、実際世界平和と記述する人であっても、一個人で幸せを願うことができる意識の範囲なんて、非常に限られているものですよ、きっと)、と、まあ、そんなあれこれもあったりするんですが。


まあ、そういうものを見るたびに、言葉って、弱いなあ、と思います。
「言葉」自体は、もちろん弱くないんだろうけど、なんというか、使われ方が、非常に弱小で。その「世界平和」のように、使いどころによってはきっと強い言葉なのだろうけど、そんなことさえ忘れてしまうほどに、「言っときゃいいんだろ」的なもののなんと多いことか。

たとえばこないだ書いた「みんなが主役」なんていうのもそう。
まあ、これは、「"自分だけ主役"がたくさんあつまっただけ」のものや、「みんな主役だから責任は自分にはないよ」であったり、あるいはスポーツ、たとえば野球で「みんなが主役」とか言ったって、大抵の場合は、うーん、やっぱピッチャーだよね、みたいなものであったりと、それでも、そう言っとけばキレイに見えないこともない、使い方としてすごく便利なものでもあるのですが。

あるいは、豆腐を豆富と書くとか、ゴミ(塵・芥)を護美と書くとかね。漢字の読みを利用した欺瞞。それって、うまいこと言っているようで、実際はみんな大好きな「日本語の乱れ」ですよね、みたいな。

あ、その「日本語の乱れ」ってのも、言っときゃいいんだろ的な言葉ですよね(昔そういうこと言ってくる人もいた)。
てめえがどうかはさておき、「それって日本語の乱れだと思うんです」とか言っちゃえば、実際に問題なのは言葉が乱れているか否かではなくても、あたかもそれが問題であるかのようにさえ見えてくる。言った者勝ちすぎる。
ちなみに上で挙げた漢字の読みを利用した欺瞞も、「日本語の乱れ」ですよね、って敢えて書いたけど、問題は本当はそこじゃないんですよね。べつに問題ってほどでもないんですが。

日本語の乱れで思い出したけど、「言葉狩り」ってのも、(もちろん正しい使われ方をすることも少なからずあるのだろうけど)そう言うだけで、あたかも自分が日本語の擁護者になったかのように錯覚することもできる便利な言葉ですよね。言葉狩りということで逆に言葉そのものを狩ることすら厭わない(日本語の変化や差別語に関する強者の理論の話)。
↑これ読み直したら、文脈って言葉も、同じ流れのなかでとても便利な言葉になってる。

日本語の云々とか文脈でさらに思い出したけど、(これもこないだ書いたんだけど)「主語がない」とか得意気に言うバカもひどいものですよね。
たしかに、日本語って主語はかならずしも必要じゃないし、毎文毎文主語を入れていたらただうざいだけ。だから、大抵の文章には「主語がない」のも事実で、それゆえに「なんとなく違和感があるなあ」という文章に大して「主語がない」と言うのは、事実認識としては十中八九間違ってはいない。だけど、そこに主語が入ったからと言って、実は十中八九大した意味もない。エンジンもタイヤもなくて動かない車に「カーナビが足りない」とか言うようなもので、たしかにガソリンもないんだけど、問題はそこじゃない。それじゃ動かん。
ほんと、言っときゃなんとか偉そうな態度は取り繕える、というだけの言葉ですね、これは。傍で聞いている人には十中八九バカがばれるけど。

さらに日本語の乱れというのでなぜか思い出したけど、美しい国、とかね。言ったもの勝ちすぎる。美しい国もだけど、骨太の方針とか。痛みを伴うなんちゃらとか、聖域なきなんちゃらとか。それにしても美しい国って、ほんと、言ったもの勝ちなことをてきとーに言ってるなあ。それってネタなんですか?今更だけど。
もう何もかも言葉ありきで、たとえば骨太であることが正しいかどうかの認識はさておき、まず骨太(って何ですか?)であることが問われるとか、ネタっぽすぎる。ネタなんですよね?

そもそも政治とかそれに似たようなことは(べつに政治じゃないけど)、あんまりこのブログでは言いたくなかったんだけど。なんで七夕の話したかっただけなのに、こんなの書いてるんだろう。
こういう話って、ここまで来るととてもありきたりなので、どうにかしたいんですが、そもそも話自体が言っときゃいいんだろワードという浅く表面的なものなので、如何ともしがたい…。


それにしても、この言葉(の使われ方)の表面的すぎる軽さ。これは、いったい何なんだろう。コピーライターとか、自称コピーライターとか、ちょっと多過ぎるんじゃないですか、世の中に。といってもべつにそういう職業の人を悪く言いたいわけじゃなくて、その中にある、なんかそれっぽいこと言っときゃいいんだろ的なコピーとかが、我慢できなくなってくる。
ぼくはあんまり電車とか乗らないのだけど、たまに地下鉄に乗ると、車内も、駅の壁や柱や改札や、もう、言っときゃいいんだろ的な言葉があふれすぎて。なんでどの広告もキャッチコピーとか出すんだろう。耳ざわりのいい聞こえのいい、そんなてきとーなこと言うだけならやめときゃいいのに。やめてるのもたまにあるけど、その方がいい。


ああ、なんか泥沼になってきたので、話を七夕の短冊にもどします。


小4までは世界平和を書いていたぼくも、前述の急速冷却の後、小5からは「背があと10cm伸びますように」とか、さらにベタなことを書き始めました。もちろん、大して効果はありませんでしたが。

まあ、その身長系も、あるいはそれ以前のセカイ系も、実は特に願いごともない無気力無関心(?)を「ありがち」なお願いごとで覆い隠す、子供なりのいやらしい知恵でしたけどね。
そうか、自分自身が昔からずっと、言っときゃいいんだろ系だったんだ。
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