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過去ログ掘り起こし。
仮面ライダーファイズの若者たちのやりきれなさとかそのへんの話。

仮面ライダーファイズの信念と若さ。

(2004/1/11)

昨日公開しようとしたけど長過ぎるので別の機会にまわしたやつ。
もっと時間をかけてきちんとしたかたちにしてもよかったんだけど、草加っちの死の余韻の中で書いたやつだし、今週分の前にでも公開しとかなきゃしょうがないとも思うので、今から更新。
まあてきとーに書いただけなので大して意味はないです。

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草加は死ぬまでひたすらオルフェノクに対する憎悪とかそういうのを抱いていたというか、それを信念として戦い続けてきたり、あるいは啓太郎は世界中を白くしてなんちゃらみたいな夢を持っていたり、木場くんはオレは人類を守るとか言い続けたり逆に人類への絶望を表明し何の迷いも無く人類に対峙したりと、ファイズの登場人物は大抵の場合ある意味どこか頑ななんですけど、なるほどこれってたしかに今どきの小僧っ子っぽいよな。

特にファイズみたいな何が何だかわからん謎ばっかりが設定されている世界で生きていくには、わけのわからないままに翻弄される中で、自分の立ち位置を見失わずにしっかり行き続けることは非常に困難であります。しかし、そこでたとえば「オルフェノクはみーんな敵」「人類とか死ね」「洗濯物を真っ白に」なんてただ一つのことを信じ続け、ただそれだけを掲げて生きていくことはとても楽ちん。何一つ悩む必要はない。

それは主人公のたっくんも同じ。彼は何度も悩んできたように見えるけれどほんとうに悩み抜いたわけではない。番組が始まる前の時代はどうだったか知らないけど、少なくともファイズになってからはそう。
たしかに、たとえば結花と出会いオルフェノクと戦うことに疑問を感じたり、自らのオルフェノクとしての姿を知られたときには苦悩の片鱗を見せたりもしたけれど、それはほんの悩みの入り口。もっと真に悩み続けるわけでもなく、悩みの入り口に立つたびに、手近なところにあった何らかの信念をとりあえず見つけて縋り付き、それだけを見つめて戦い続けることで、悩むことから目をつぶってきた。
まあ、それはだまされやすい木場くんも同じで、そのおかげでたっくんとは何度もすれちがってきたり、最近も人類を守ることに疑問を感じたその一瞬に、手近にあった人類の非道な態度からあっさり人類死ね派へと転向、お互いの妥協点も見出せないまま、頑なに互いを否定するしかないという現状に至るわけです。

べつにこれは、ファイズの物語を否定しているわけではない。むしろ思いっきり肯定しちゃうよ、ぼくは。
そもそも、ファイズの主人公たちのあの年代、あるいはもう少し上も含めての小僧っ子、それはぼくもなんだけど、普通に心底何かを悩み続けるなんてことないでしょ。とりあえず何か悩みそうになったら、手近な信念をゲットして、仮にそれが永久的なものでなくコロコロ変わるものだったとしても、少なくともそれが信じられる間はひたすらに盲信し、楽ちんに生きる。そんなもんじゃなかったっけ。

違ったらごめん。ここ三年くらい人生を悩み続けている人とかいたらまじでごめん。
でもたぶんそんなの今どきは少数派。昔は違うかもしれないけど。こないだの話でオルフェノクは「死に至る病」と喩えられていたけど、まさに死に至る病のような悩みを抱えた小僧っ子も、昔はきっとたくさんいたんでしょう。
そういう死に至るメンタリティを持ったような人から見れば、ファイズの人物描写は浅いとか、そう思われるのも仕方ないかもしれない。
でもそうじゃないんだ。浅いのは、ぼくら今どきの小僧っ子なんだ。今はファイズに燃えていてもどうせすぐに仮面ライダー剣(ブレイド)最高とか言いだすに決まってるんだ。間違いない。

たぶんぼくらの死に至る病は、信じるものがないということへの不安なのかな。特に信念もない三原(デルタ)みたいに希薄な存在のままふらふら漂っているようなやつもファイズにはいるけど。そうなることへの大いなる不安感。
つまり、今はファイズに燃えるぼくらが数ヶ月後には剣に燃えるのは何の問題もない。ただ、その後にまた新作のライダーはあるのかどうか、ただそれだけがみんな気掛かりということ。

今にして思えば、龍騎は個人の欲望をはっきり戦いの中での目的として示すことで、主人公を除けばほとんど無駄に悩むこともなく話が展開したし、アギトなんかはあっけらかんとした記憶喪失の青年やら不器用な一徹者やらを中心に据えることで、ほとんど悩み得ない状況だった気がする(いや、むしろどっちも何かに頑ななままに生きているしファイズ的なのかな、それは)。あと、そういった作品は、べつになにかに縋り付かなくても生きていけるくらいの、ファイズよりはいくらか上の年齢設定だった気もするし。そして悩むとなれば龍騎の主人公のように一年中うだうだと迷い続けることだってできたしな。

それに対しファイズの物語は、戦うことに悩み続けようとすれば永遠にそうすることも不可能ではない状況ではあるのかもしれないのだけど、決して誰も深くは悩み続けない、結果的にそういうことになっているし、そして登場人物の若さを考えると、それはたぶん正しい。
一体どれだけの現代っ子が、実際に自らがあの場でファイズとして戦うことになったときに、延々と愚痴を言い続けたりこのまま戦っていいのかと三年くらい考え続けたりできるだろうか。
手近な信念にしがみつくか、あるいは三原(デルタ)みたいにふらふら漂うか。
もう時代はアムロ・レイじゃないんだよ。きっと。

ちゅーかね、そりゃ一話せいぜい22分くらいでしかも放映期間は一年と決まっているその中で、まじでぐだぐだ悩み続けていたら、話が終わりませんよ。現状でさえちゃんと終わるかどうかわかりませんよ。もし三原(デルタ)が主人公だったら…考えるだけで恐ろしい。
時間がないんだ。作品にも、ぼくら小僧っ子にも。


あ、草加といえば、予測好きの感想系サイトのいくつかのところでは、草加はオルフェノクになるってずっと言われ続けてた気がするんだけど、結局そうはならなかったよね。むしろ逆で。前にこのサイトで予測感想サイトの予測通りになったらつまらん話だなあ、とか書いた気がするけど一個外れてよかったよかった。でも草加がオルフェノクになる間違いないと言い続けてきた人たちの信念はどうなるのかな。べつにどうにもならないか。

あと三原(デルタ)の名前も上で少し出たけど、彼はほんとどうするんだろうね。あんな存在感も微妙なままで終わるの?実は彼が黒幕でしたみたいな大どんでん返しとかないかな。…ないよな。

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フィネガンさんのところに載ってた呉智英「失われた共通言語を求めて」(※どちらもリンク切れ)。

 “教養の崩壊”ってよくいわれてるのは、ようするに共通の言語がなくなってるんだ。共通の言語がなくなる、つまり基準がなくなる。すると賛成したり反対したり、自分の論理を組み立てたりすることがなくなる。それがまずいんだよね。

 マルクス主義についても学者Aと学者Bが違うこといってて、どっちが正しいかって自分で判断する、考える。そういう思考の訓練っていうのは基準がないとできないんだよ。この20年間くらい、そういうのがなくなってきてるよね。


今回分の更新で書いたファイズの話で小僧っ子の態度としてあらわれてるのって、つまりこういう話ですよ。
人類とオルフェノクの葛藤の狭間に立たされたとき、自分で判断することなんてとてもできないから、悩むことは3秒くらいで放棄して、それぞれにどこかで与えられた衝動のままに、短絡的とも思える信念にしがみつかざるを得ない。まあ、今どきのヒーローの「戦う動機」なんて大抵はそんなもんですよ。

べつにそれでファイズの、ひいては現代の小僧っ子がどうこうってんじゃなくってね。
だってほら、ぼくもそうだから、ファイズがいいのか悪いのか、正しいかどうか、なんて自分で判断する基準がないんですよ。もう、ファイズという作品の評価とかする教養がないので無理。

ただ、その小僧っ子たちの姿を作品の瑕疵として見ることはできないのですよ。むしろそれこそが現代っ子のヒーローとしての当然の姿なのだもの。

まあ、でも、そのためにファイズを理解し得ない人がいるのはわかるよ。それは、「今どきの若いやつらはわからん」みたいに言う人と同じ思考なのですよね。
まあ、しっかり教養を持った立派な方から見れば、ファイズの小僧っ子みたいな態度ってのは、唐突すぎるようにも見えるだろうしね。実際唐突なんだけど、それがぼくら小僧っ子の脳内では自然なのよ。もしどっかでやっぱ間違ってたかな…とか思って立ち止まりかけても、大抵は目をつぶって信じた道を邁進するのよね。

何が言いたいのかわからなくなってきた。
ていうか咳が止まらんですよ…。のどが腫れまくりですよ…。
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