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【ここまでのお話(まだ書いていない)】
なぜかうっかりバカンス(特に目的はない、そう、ぼくの人生と同様に)に出ることになったぼく(20代アキバ系)は、アエロフロートのモスクワ経由便(約13万円/税等は別)で、「ミーはおフランス帰りザンス」でおなじみのあの街に到着し、RER(発車までやけに時間がかかった上、車内大混雑)から地下鉄に乗り換えてアレをアレしてついに地下鉄駅の階段を上り、一歩目を踏み出した。


[一日目(2007/8/21):地下鉄駅を出てからホテルまでの間に想起したこと]

p1パリも三度目ともなれば多少はわかる。
とはいえ、到着した最初の夜のホテルを予約する際に気にしたのは、もちろん値段と、そして場所。いろいろと面倒だったことと、購入したモスクワ経由の格安航空券では到着が夜になるため最初の夜だけは確実性を求めたこともあり、到着当日に泊まるホテルだけは航空券を買った旅行会社であわせて予約したのだが(しかしそこで渡された「ホテルクーポン」は白黒のプリントアウトというお粗末なもので、その他に泊まったホテルと同様に自分で予約した方がいくらかましかもしれないものではあったのだが)、そこで提示されたのが、モンパルナスのホテルとモンマルトルのホテルだった。
値段は大して変わらず、言葉の響きも多少似通った部分がないわけではないこの二つの地域で、しかしぼくが迷わず選んだのは、モンマルトルの方だった。
その直感には、南の外れとも言うべきモンパルナスの方が空港から遠い、というごく自然な交通面での条件もあるが、それ以上に、それまでのパリ体験における刷り込みというものが影響していた。

一度目のパリは、18の年の3月。高校卒業後、大学入学直前に、航空券とホテルのみセットのツアーで、ロンドン・パリ。たしか8日間ほど。もっと短かった気もするが、往復の飛行機もあわせればこんなものか。
ロンドンから、当時まだ登場したばかりだったユーロスターでパリに入り(車中では、駅で買ったサンドイッチ、というか小さめのバゲットにいろいろ挟んだようなものが、とても食べづらくてちょっと困ったことをいまだに思い出すことがある)、駅からホテルまでは旅行会社の車で移動という、今にして思えばなんと楽でお気軽なのかと驚愕するような展開。しかしホテルでしばらく旅行会社の担当社員に待たされ(こういう部分を思い返すほどに、やはり全部個人で手配した方がうまくいくように思えるわけで)、ようやくチェックイン後にぶらぶらと歩いたのが、モンマルトルだった。

ホテル自体が北の外れに近いところにあり(窓の真下には北駅だか東駅だかが見えた)、そこからしばらく歩き、歩きながらも当時はまだ通貨がユーロではなかったので、まずは両替をしないことには何もできなかったのだが、この両替屋がなかなか見つからなかった。銀行のようなところに入ったものの、まずそこに入るまでがよくわからず一苦労した上、明らかに場違いな雰囲気。危惧したとおりやはり違ったようで、あちらに行けば両替できると教えられ、しかし行った先も何やら違い(というか工事中で)、警備員らしき黒人青年に道を教えられ(地図まで書いてくれて非常に親切でわかりやすかった)、ようやく両替屋に辿り着いた。こういう手間を思い返すと、ワールドキャッシュで軽く現地通貨で引き出すという方法は、なんて気軽なんだろう。
そんな多少の寄り道を重ねつつ、しかしそのまま何気なく坂を登って行くと、この坂がやけに続いたわけだが、比較的大きな墓地の横を通りすぎながら更に登り、そこがいわゆるモンマルトルだった(実際にはその一帯が既にモンマルトルと呼ばれるのだが、ここでその単語と密接に結びついているイメージは、画家がたくさん集まるあの広場のことだった)。

当時のその季節は、いわゆるモンマルトルのイメージ(今ではそんなイメージなどすっかり忘れていたのだけど、しかし当時はモンマルトルといえば画家のイメージだった)の通り画家があふれ、道行く観光客の似顔絵を書いて日銭を稼ごうという者(これは先日の旅行中にもいた)だけでなく、いわゆる「画家」というイメージ通りの人々が、所狭しと割拠していた。
いったい、どの程度のレベルの画家がそこにいたのかは、よくわからないが、その数年後(現在から見れば数年前)、両親が同じくパリに行った際には、モンマルトルの丘の上で、日本人画家、いや、違う、フランス人女性の画家だったか、そう、マルセイユかどこか南欧で描いたという絵を買ってきていた。ぼくにはその善し悪しや価値はわからないけれど、そんなに悪い絵ではなかったし、たとえば三越の上の方の階にあるような画廊に飾られていても違和感はないくらいのものではあった。
とはいえ、わずか18歳のぼくにそこで絵を買うような余裕などなく、そんな画家たちの横を通りすぎると、そこには、いや、おそらくもっと前から遠目には見えていたのだけど、純白の巨大な寺院が、あった。

サクレ・クール寺院。そういえば中に入った記憶がない。既にそこに着いた時点で夕方だったせいで最早入れなかったのか、そんな余裕もなかったのか。2度目にパリに来た際には、それまでの旅程の疲れと帰りが近い焦りとで、路地の隙間からちょうどサクレクールが見えるモンマルトルのふもとまでは来たものの、結局丘を登ることなく終わり、3度目のパリでも、そう、たしかに中には入らなかった。なぜかは思い出せないし、その後の旅行では教会と見れば常に中に入らなければ気が済まなかったはずなのだけど(どちらかといえば普段は仏教寄りな生活態度にもかかわらず)、どうしても入った記憶も、入ろうと思った記憶もない。ひょっとしたら1度目では入ったような気もするが、どうしても思い出せない。いや、なんとなく入ったような気がしてきた…。

それはさておき、夕方そこに着いたことを思い出した瞬間にまた思い出したのだが、モンマルトルの丘の上、サクレクールのすぐ近くにあるレストラン(ビストロだとかリストランテだとか、いろいろな呼び方と店のタイプはあるものの、一応ここではまとめてこう表記していく)が、当時持って行った「るるぶ」(旅行に行くことになり慌てて近所のスーパーの2階に入っていたテナントの書店で買ってきた)に載っていた。というより、パリに着く前のユーロスターの中で読んだその記述(旅行自体が突然だったこともあり、というのは言い訳にすぎないが、まったく予備知識もないくせに準備を先送り先送りで、結局到着直前にはじめてパリ案内を読むという始末。この、先送りによって直前になって慌てるという姿勢は、いまだにぼくの人格の根幹にあるといってもいい)によれば、「レストランから眺める夕陽がとても素晴らしく大人気のお店」であり、それを読んだぼくは間違いなくこの店に行こうと決めていたのだけど、しかし行ってみると、まったく客がいない。客がいないレストランというのもなかなか入りづらいもので、結局その店の前は素通りすることにしたのだが。いわゆるガイドブックに書かれている「人気店」がまったく信用できないという事実は、こういった実際の経験のいくつかに端を発しているし、そのことにこの段階で気付くことが出来たのは、幸いなことだったかもしれない。ちなみにその「信用できなさ」は今では旅行ガイドに限らず、ネット上の自称グルメサイトや、「dancyu」、「おとなの週末」、といった自称グルメ向け雑誌にも及ぶが、もちろん当時のぼくにそこまで考えを及ばせるだけの経験はなかった。

さて、そのままモンマルトルの丘の上を歩いていると(この丘からは天気がよければエッフェル塔や、たしか凱旋門まで見ることができ、まさにパリを一望するその風景は、たしかにとても美しい)、「Dali」という案内がある。そう、おなじみのダリである。
果たして当時のぼくが、ダリをどれほど好きだったのか、あるいは、どれほどダリの作品を知っていたのかは覚えていない。それを忘れるほど、(それ以前とそれ以降で大きく精神的な部分におけるダリの比重が変わるほど)ここでのダリ経験が大きかったのか、あるいは、それ以前は、ダリなんて名前とだらしなく垂れ下がる時計のイメージ程度しかないものだったのかは今となってはわからないが、とにかくなぜか18歳のぼくは引き寄せられるようにその案内を辿り、迷わずダリ美術館に入ることにした。

しかし入ったはいいものの、両替したばかりで大きな紙幣しかなく入場に手間取ったわけだが、なんとか入場し、たしか、そう、まず階段を下ると、そこにあったのはダリの作品というより、ダリの作品に登場するイメージ(あの時計や、やたらと脚の長いあの象たち)の彫像であった。その数年後、東京・上野でダリ展が開催された際、あまりの行列に心が挫け入場を諦めたことがあったが、その際の我が「謳い文句」こそ「パリでダリ美術館に行ったからいいんだもん」だった。しかし、その実、パリのダリ美術館は本格的な美術コレクションというよりは、何かもっと別の愉しみ方をする場であったことは、しばらく認めたくない事実ではあったが、今ここではじめて認めてしまう。とはいえ、上野での敗北は、後にスペインでの、本当のダリ美術館への訪問によって報われるのだが、それはもう少し後の話である。

記憶はもう一度、18歳で訪れたモンマルトルのダリ美術館に戻る。
当時のぼくが、本当にそこにある何かに興奮したのか、あるいは18歳やそれ以前の時期に特有のあの病気のせいでダリに酔ったのかはわからない(今となっては、まったくの他人を見る思いで思い返している)が、ずいぶんしっかりと見て回ったものだった(とはいえ本当に小さな美術館なのだけど)。
しかし、今思い返してみて強く記憶に残っているのは、というより、その後何年も消えることない呪縛を残したのは、その美術館のミュージアムショップだった。
ダリの作品のリトグラフやポスター(特に絵画ではなく写真を用いたものが多くあり、ダリの作品をまったく知らなかったぼくには、それが衝撃的で、しかも女性の股間からこちらを除くダリや、ダリ自身の絵画のパロディ写真など、内容自体もまた強烈であった)、あるいはポストカードとともにそこにあったのが、ダリのあの時計をモチーフにした腕時計。田舎育ちで大してお金を使ったこともない18の小僧には、それを買うべきか、買わざるべきか、欲しいという欲求は非常に大きいものの、その「場」で買わないことによる、買ったことで失う多少の金銭にはとても換えられないような多大な痛手にその時は気付くことがないまま、いったい何を悩んだのか買うことができなかった。

だが、その数日後(もちろん日本に帰っていた)、やはり買っておくべきだったという後悔に苛まれ(その後のダリへの敬愛も、同様に帰って数日のうちに、ぼく自身の知らないところで成長し、その心根が、同様にあの時計への憧憬となったのかもしれないし、むしろ逆に、時計への憧憬がダリへの念を醸成したとも言える)、その後悔は、実に十年近く失われることなく(本当にことあるごとに「あの時計…」と言い続ける呪縛にかかっていた)続くことになる。ちなみに、2度目のパリの目的の半分はその時計だったのだが、先に書いたようにどうしても丘を登ることができず断念し(旅の最後にパリを持ってきたのは明らかに失敗だったし、その経験からか次の旅行ではその始点にパリを設定することになる)、3度目のパリでようやく、その時計と再び対面することになった。だが、10年の時を経て対面することになったその時計は、しかし10年前の記憶、というより、10年の後悔によって磨き飾られてきたイメージのそれとは異なる、凡庸な、価格の割に陳腐なものでしかなく、結局ぼくは、それを購入することなく立ち去ることになる。だが、もちろんそんな後のことなど知る由もなく、18歳からの10年間は、ぼくにとって、この時計への憧憬と後悔を繰り返す日々であったことは、消しようもない事実であった。

そんなわけで、ダリ美術館のミュージアムショップでは、ポストカードの2、3枚ほどを購入し(この時も、大きな紙幣しかないことで手間取った)、モンマルトルの屋外に戻ったぼくは、そのまま登ってきたのとは違う坂を降り、途中ゴッホが住んだという家を見ながら、しかしそれは、その界隈の通りではごくありきたりな、もちろんおそらく今でも「普通に」住民がいるであろうアパルトマンでしかなく、写真を2枚も3枚も撮っていると、奇異な目で見られたが、そのままホテルに戻ることになる。

いや、その前に、モンマルトルのふもとのスーパーマーケット(その前に行っていたロンドンで、大英博物館近くのスーパーにたまたま入り、ピーターラビットの紅茶や、しょうがパン坊やなどいろいろといいものを見つけていたことが、海外のスーパーマーケットに対する一種の宝庫的なイメージを醸成していた)に寄ったのだが、しかしそれまでは地元のニコニコドー(かつては県下ナンバーワンの規模と勢いを誇り、中国進出までしていたが、数年前から見る影もなく凋落し、ついには倒産してしまった)にしか入ったことがないような山猿がいきなり海外のスーパーに飛び込んだところで、そこで「生活」している人々には常識と言うべきことも、まったくもってその断片すら知りえない情報であることはいうまでもなく、たとえば出るべきところ(人のいないレジとレジの間)から入ろうとして怒られるなど、今のぼくから見ればまるで中国人観光客のような「常識」のなさであった。しかし当時1998年、18歳で日本の田舎の高校を出たばかりのぼくに、ただの「スーパーマーケット」が一方通行の「入口」を抜けて入場するものだなんて想像力を持つ機会は、露ほども存在しなかった。

そんなちょっとした不調法はさておき、そこでオレンジジュースやその他の何か(このオレンジジュースが、栓抜きがなければ開けられないタイプの瓶であり、ホテルに戻りそのことに気付いたものの後の祭りで、机の角やらなにやらで必死にこじ開けてやっとの思いで飲んだために、強く印象に残っている)を買い、そういえば(と、あたかもここで思い出したかのように書くが、実はずっと忘れられない光景)売り物のオレンジだかトマトだかをかじってポケットに入れているフランス男を見て、ある種の「カルチャーショック」を受けながら、さらにレジで会計時にバッグの中を見せろと言われ(これはなにもぼくが怪しい風体だったからではなく、ここではそういう風潮らしく他の客も同じ事を要求されていたが)、なるほど、こういうものなのかと、日本の「ゆるさ」にあらためて気付かされたものだった。実にこの体験こそ、現在日本で買い物をしているときでも、店の中で自分のカバンの中のものを出し入れするような行為や、他の類似する店で買ったものを持ち込むことに対する恐怖につながっているのだが、しかしこの「ゆるさ」に慣れきった人からすれば、ぼくの方が、考えすぎで異常に見えることもあるらしい。

その、小さな買い物を終えてホテルに戻る途中、今にして思えば言葉もまったく知らない国(そういえば図書館でフランス語会話の本は借りて持っていた)に、アニメしか見たことがないような小僧がやってきて、よくもまあその初日に道にも迷わずホテルまで帰れたものだと思うが、やはりどう思い返しても他人事としか思えない。そんな中で、今でもこれも明瞭に思い出すことが可能な出来事なのだが、その道すがら手頃なレストラン(なんと言っても表に出た黒板に書かれた値段の手頃さこそ重要だった)を見つけ、ぼくはパリで最初の夕食にありついた。
表の黒板に「formule a」(aの上には何か記号が付いていた気がする)と書かれたそれは、もちろん、何が出てくるのかさっぱりわからなかったが、ちょっと冷たい雰囲気のおばさんに迎えられつつ(「formule a」の発音を冷たく教えられた)、多少の日本語を話すウエイター(フランス流の呼び方もあるのだろうが、一応レストラン同様この呼び方で通すことにする)に説明されながら、ちなみにその日本語は、「ニク」「サカナ」だけだったが、とりあえずメインが肉か魚かだけはそれでわかった。しかし、その後さらにフランス語で何度も何度も説明したくれたことは、当然言っていることはまったくわかるはずがなく、ただ言っている雰囲気と店内の黒板を何度も指す仕草でようやく、前菜を選ぶか食後のチーズだかデザートだかを選ぶかの択一を迫っているのだとわかったわけで、どちらを選んだかは今となっては覚えていないのだが、その必死さと、わからなさは今でもよく覚えている。さらに読めたところで意味はわからないが、黒板に書かれたフランス人流のアルファベットの書き方(つまり慣れないうちはそもそも読めない)も、瞬間的な絶望感、ディスコミュニケーションを文字にしたような圧迫感とともに、忘れられないものになっている。

とはいえ無事食事がはじまり、そこで選んだのはニクだったのだけど、これがつまりステーキ。しかもなんというか、固い、というのか、どうしても噛み切れないスジがあり、さんざん噛み続けたものの(途中、件のウエイターが、おいしいか?と聞いてきたので笑顔で答えつつ。そういえば、食べる前には先方から「いただきます」と手を合わせて言ってきた)結局隙を見て吐いた。今なら、いくらでも「ぺっ!喰えるかよこんなの!」と吐き捨てられるぼくでも(というのは大げさだが)、しかし当時の小僧には「おフランス」「欧米」「おエチケット」といったものへの誇大とも言える呪縛があり、とてもじゃないが人目のあるところで噛み切れない肉片を吐き出すなんてできなかった。今にして思えばそんな経験があったせいか、ぼくはあまりステーキが好きではない。

ちなみにこの店でこのステーキとウエイター以外に強く記憶に残り、同時にその後の人生のある部分での方向性を決めることになったのが、食後に飲んだカプチーノ(食事中には水を飲んでいた。ガスの有無を聞かれたのは覚えているけど、どちらを頼んだかは覚えていない…)。当時、もちろん田舎の高校と田舎町の紀伊国屋書店くらいしか文明の香りを知らなかったぼくは、カプチーノなんて名前しかしらなかったはずなのに(いや、インスタントの「カプチーノ」と銘打たれた粉は目にしていたが)、なぜここでカプチーノを飲もうと思ったのか。しかしなぜか出たカプチーノという単語。そしてここで出たカプチーノが、今でも忘れられないほどに美しかった。
カプチーノ自体の上に乗ったクリームの佇まいの美しさと、もちろんホットなのになぜかストローがついていて、しかもそのストローの袋が綺麗にリボン的な形に細工してある。これがまたかわいらしい。

その後何度もカプチーノを飲む機会には恵まれる中で、なぜかこのクオリティのカプチーノに出会ったことはないが、しかしそれにしても、そう、なんといっても、飲み方がわからなかった。実は10年経った今でもよくわからない。あの上に乗ったふわふわクリームは、どうすればいいのか。混ぜてしまうのか、それ単体で食していいのか、自然ななりゆきに任せていいものなのか。未だに誰も正解を教えてくれないまま、10年以上の時を過ごしている。
と、まあ、そんな夜を過ごしホテルに戻り(本当にどうやって戻ったものか、レストラン以降の記憶は薄れてしまい、ホテルの前の坂を登るところからまたはじまるのだが)、これがぼくのはじめてのパリ、そしてはじめてのモンマルトルだった。

そんな記憶を2秒間ほどで想起しつつやってきた「モンマルトル」は、しかし「モンマルトル」近辺ではあったものの、決していわゆるモンマルトルではなかった。むしろ、モンマルトルの丘からは遠かった。が、道路のわずかな傾斜は、その「場」がモンマルトルのあの丘に連なる地形であることを思い起こさせるのには十分で、地下鉄の駅を出たところで(日本でも慣れない地下鉄の駅から地上に上がるとよく方向感覚がわからなくなることもあるこのぼくが)、太陽などとうに沈んだ夜(10時頃か)であるにも関わらず、なんとなくの方向感覚、どちらが南で、求める通りがどのあたりで、そこをどちら側に進めば良いかを、ほぼ直感的に、しかし確実に知らしめてくれて、そしてその直感は思ったとおり間違っておらず、その2秒後には、久々に訪れたパリという街の実感を全身で堪能することを可能にしてくれるものだった。

そう、うっかりしているうちに(としか言いようがないほど、ほぼ思いつきではじめた旅行だった)、パリへ来てしまったのだ。などと、ひとりごちようと思ったものの、ホテルまでの通りにはやけにピッツェリアが多い。といっても2、3軒。
そういえば二度目にパリを訪れた際にまず入ったのはイタリアンの店で、そこではサーモンのパスタを食べた。さらにそういえば思い出すのだけど、二度目にロンドンに行った際にも去り際に食べたのがイタリアンで、ここではカルボナーラやトマトとモッツァレラの、日本でもおなじみのあの前菜を食べたのをやけにはっきりと覚えているが、そうやってうっかりイタリアンに手を出してしまった遠い日の自分もふと思い返しつつ、しかし、今となっては、何が悲しくてパリでピザやパスタに手を出さなければならないのか、としか思えないわけだけど、通りの店や家々はことごとく門扉を閉ざした中で、ひっそりと赤褐色の灯りに照らされ、歩道に置かれた小さなテーブルでピザを食べる夫婦と思しき人たちや、決して清潔とは言えない小さな店構えのピッツェリア(というかこの呼び方も、まさにこの時どのピザ屋にも「PIZZERIA」と書かれているのを見て知ったような無知なぼくがそこにいるわけだけど)に佇む白い服の店主と思しきおじさんたちには、どことなく東京の自宅の近所を思い起こさせるような、どちらも決してそこで育ったわけでもないのにわき起こる、郷愁に近い不思議な感覚があった。

いや、これはどちらかといえば不正確で、実は江東区や墨田区の一部の通りを夜遅く自転車で進んでいたりすると、なぜかヨーロッパの都市の郊外に近い場所(特に大学2年の夏に行った2回目の欧州旅行ではユースホステルを中心に滞在することが多く、必然的に郊外に近い、街外れの部分が拠点になっていたことがこの感覚の源泉となっていると思われる)にいるのと同じ感覚をおぼえることが続いていて、そちらの方が先だった。今のこの感覚は、それを逆方向からなぞっているのかもしれない。

そんなことを考えながら夜道を歩き、夜遅くに、ホテルについた。下手すると十一時くらいは回っていたのかもしれないが、辿り着いたその小さなホテルでは奥の食堂でコーヒーでも飲みながら座っていたおじさんがチェックインをすませてくれ、無事部屋に辿り着いたことは言うまでもなく、特にここでような書くこともない。

p3しかし小さなホテルではあったが、部屋の窓から見える「裏側」が、もはやこの日本の黄色い猿、あの雑然とした郊外の住宅地やアスファルトとコンクリートの無愛想なアパート・マンションの立ち並ぶ場所でしか暮らしたことがない低身長のメガネ男にはため息をつくしかそれを賛美する術がないほどに、パリの裏庭のイメージ通りであり、小さなスペースを取り囲む周囲の建物には、何かの芝居の演出かと思うほど「典型的」な窓際のプランターに咲いた花や、「典型的」な煙突、あるいは向かいに見える部屋には、「典型的」なヨーロッパ的書斎のイメージ通りの本がぎっしり詰まった部屋が電球色に照らされ、また、その小さなホテルの部屋の小さな窓から、その外に広がる、昨日までの日常では決して得られない実存を呼吸するこの行為が、やはり「うっかり」パリに来てしまったことの実感を再確認し、その後に続く旅(というよりただのバカンスだが)を思い、いつかは訪れる旅の終わりという絶望から今はまだ目をそらしながら、ただ期待と至福とに夢を広げることを認めてくれているようで、その小さな中庭とそれを囲むくすんだ白い建物たちは、非常に限られた空間でありながら、しかし実際には、そのむこうに広がる無限とも思えるイメージと同時に立ちあらわれ、今ここにいること、ただそれだけのことで想起されることが可能になった様々な感覚を、永遠と思えるその夜に包んで、開放された窓越しにぼくに手渡してくれていた。

そんな、きっと6畳にも満たないスペースを全身で堪能したぼくは、しかし翌日以降も続くこの日々のための休息を求め、とりあえずシャワーでも浴びて寝ようと思い、しかし、これは安ホテルの宿命とでも言うべきか、お湯がなかなか出ないわけで。行水だ。いや、水垢離だ。禊だ。

そんな一日。















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