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かつての仮面ライダーの物語が、ヒーローがアクションを起こすことで始まるわけではなく、怪人たちが狂言回しとなることで動いてきたという部分については最早語るまでもない。

乱暴な言い方ではあるが、ライダー自身が物語の主体となり、ヒーローの「かっこよさ」が前面に押し出されてきたというのが、平成ライダーの特徴の一つと言っていいかもしれない。

それと同時に、怪人たちが表現してきた物語性も輝きを失い、特に印象に残らないようなデザイン・キャラクター性のものばかりになっているという思いも、あながち間違いではないだろう。(とはいえ、かっこいい/かっこわるいで事足りる大多数の特撮ファンにはそれで十分か。) もちろん、デザインはあまりにも秀逸だ。しかし、その存在がぼくたちの記憶に残るか否かは、必ずしもデザインだけによるものではない。いわば物語性を持ち得ない怪人たちが、時を同じくしてその見た目までも埋没してしまうことは、当然の帰結かもしれない。
 
物語を動かす存在=怪人であったものが、いつのまにかその役目はライダーにシフトし、同時に怪人の物語性(これはアウラと言い換えてもよいのかもしれないが)も消失してしまう。まるでウルトラマンの第一期から第二期への変遷に重ね合わせてもよいようなこの変化は、現実に繰り返され、そして周知の通り作品としての成功を収め続けている。

もちろんウルトラマンなどと比較すれば、仮面ライダー自身が物語そのものに関わる割合はもとより大きかったが、それは物語に介入するという意味においてであり、自らが狂言回しとなるという意味ではなかったはずだ。
それがここに至り、狂言回しとしての役割が怪人からライダーに移行している。

その象徴が『仮面ライダー龍騎』のような、単なるやられ役としてのモンスターと狂言回しであり続けたライダーたちの存在であり、あるいはそれに続く『仮面ライダーファイズ』では、龍騎で失ったものを取り戻そうとするかのように、怪人側をこそ物語の核としてとりあげていた(怪人の物語性という面において、平成ライダーにおけるファイズは非常に特異な存在といえよう)。

ところで、物語性の喪失に伴う変化は、怪人たちのデザインだけではなくその戦いの舞台にも反映されているように見受けられる。

特にどこというわけでもない小綺麗な街(この言い方7年前くらいから使ってるな…。当時はもっと具体的な街を指して使っていたけど)。そこで繰り広げられるのは、特に印象に残らないけれどデザインだけは非常に洗練された怪人と、クールでスタイリッシュなライダーたちとの、舞を見るかのような殺陣。

それは、まさにこの世のどこでもない「ミラーワールド」を戦いの舞台とした龍騎を頂点とするものの、しかしそれに限定したことではない。
ニュータウンや、新たに開発された街(仮/なんて呼んだらいいんだろう。六本木ヒルズとか汐留とかお台場みたいな地域。かつてあったその周辺も含めた地域性、物語性が断絶し、時に閉鎖的に、時に不完全な連続性とともにあらわれる、まったく新しい街並み)を中心としたどこでもない、どこでもいい場所。その土地の歴史とも、場としての周辺との連続性とも切り離された空間。連続する物語を持たない場所。
そこにある内なる創造された、いや捏造された物語の在り方は、そのままその舞台で繰り広げられる怪人とヒーローの物語性にも通じる。

物語(たとえば歴史や風俗、伝統、コミュニティなど)の連続性を断ち、新たな物語のもとにツギハギで作り上げた街並み。そこはたしかにスタイリッシュで舞台としてはとても素敵だ。そして、怪人たちが物語性を失い、スタイリッシュなライダーとスタイリッシュな怪人が演武する場としても、恰好の舞台装置であるのかもしれない。


ところで、東京とその周辺を見渡したとき、平成ライダーの戦いの舞台とは「なり得ない」ような場が、どれだけあるだろうか。つまり、その場が物語性の広がりを強固に持ちあわせ、そこで新しい仮面ライダーが物語ともいえない戦いを繰り広げる妨げにすらなるような場。
もちろんそれは探しだして具体的に挙げればいくらでもあるだろうが、では、都市を生きる我々が日常を送る場を見たときにはどうだろうか。その空間を区切ってみたとき、そこにある「物語」は、果たしてその場を規定する境界線の外側と、地続きになっているだろうか。

物語性の変化が、怪人のデザインとともに戦いの舞台を変化させたわけではなく、むしろ、その舞台=我々が生きるこの世界の在り様が、ライダーの物語を規定していると考えるほうが自然なのかもしれない。

という仮説。

しかし、それらを経て、柴又を基準点とし、屋久島にはじまり「鄙」をその物語を繰り広げる場に選んだ『仮面ライダー響鬼』の挑戦はいったい何を意味するのか。クウガの物語を継続するかのように、具体的な地名を挙げ、視聴者にその物語を推し量ることを挑発するかのようなその試み(ところでクウガの時はわりと適当で、茨城県T市が新宿とかになっていたわけですが、今はどうなのかな)。

言うまでもなく「下町」的な空間、柴又。それはそのへんの新興都市ではありえない、歴史と物語を断絶させていない(ように見える)町並み。実際に、主人公たちと地域住民との、あるいは地域住民同士のつながりを示すエピソードも登場している。寅さんが提示し続けたイメージも含め、人間と人間、あるいは人間と場のつながりを、強固なものとして可視化しやすいのも柴又の利点であろう。そんな一般的な意味での「日常」と地続き(それが本当に日常かどうかへの疑問は前述の通り)の世界で語られる、新しい仮面ライダー。響鬼たちと関わりをもつ少年・明日夢が生きる世界(家庭・学校)と、響鬼たち猛士の拠点となる「たちばな」とは、常に地続きであり、それは戦いの舞台となる鄙までも見通せる広がりを持つ。

あるいは戦いの舞台となるのは、今のところ山や森や海(この下書きをmixiにアップした時点ではまだ都市にあらわれてはいなかったのですが、とはいえ未だに基本は鄙であり、亀戸に現れたのは特異点と考えられます。今のところは)。そこで戦う相手は、妖怪(番組内で呼称は魔化魍)。しかも物語を動かすのも、彼ら妖怪。妖怪の動きに応じて、ライダーが立ち上がる。近年のライダーのような、何の脈絡もない小洒落た舞台で、文脈を無視したオシャレな怪人が戦うのとは正反対の形。

突然現れる漢字の演出や、奇抜なライダーデザイン、ベテラン俳優の起用、何度か試みられてそれっきりのミュージカル的表現なども、確かに平成ライダーの文脈では突飛なもので、目を引くかもしれない。しかし、平成ライダーの中で本当に新しく、その物語のあり方に重要な意味をもたらしているのは、その舞台ではないのだろうか。その舞台と、そしてそれに連なるいくつもの物語、関係性。

そして響鬼が、響鬼としての物語を紡ごうとする時に、何をオタクに迎合するのか旧来のライダーの単語レベルでの、脈絡のない登場(風見ってやつがいるんだよとかそういうの)が、あまりにも寒々しい。たしかクウガの時にも城南大学に本郷教授とかいたけれど、本当にそういうのって、物語を断絶し、思考停止させてしまう気がする。新たな関係性を持とうとする物語に、ノイズのように入ってくる言葉たち。
もちろんそれはそれで軽く楽しめばいいのだけど、そこで興奮するのは悪いオタクだと、ぼくは常々考えている(これは最近少ない)。

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上の文章を書いた4月の段階で、ぼくはウルトラマンネクサスに関しても以下のような問いかけをした。

戦いの舞台ということに関しては、これまである程度は「怪獣」と「その出現地」の関係性が描かれ、そしてそのことがある程度は、意味を持っていた気がするウルトラシリーズが、今(ネクサス)ではなんとウルトラマンが特殊なフィールドを生成し、その中に引きこもって戦うというのは、一体どういうことなのか。

ウルトラマン自身も、シリーズの中でかつてないほどに物語の中で重要な意味を占めているネクサス(これはかつてより次第にその割合を上げてきたが)。

新しい引き込もりウルトラマンの明日はどっちだ。



明日はどっちだ、と問いかけたその直後、打ち切りと新番組の制作が公表され、そしてそこに積み上げられた物語を一気に畳み込むように、ウルトラマンネクサスが終わった。

ところで、こんなサイトを見ている方にはあらためて問うまでもないことだが、今までのウルトラマンとはどういう存在だったのだろう。

怪獣と人類の葛藤の狭間に、調停役ニしてあらわれた昭和のウルトラマンたち。一瞬「怪獣」より「ヒーロー」重視になった気がするとはいえ、いつだってウルトラマンは、怪獣を倒すだけの存在ではなかったはずだ。
そして人類により近い、というより人間の心を持ったまま変身を遂げたウルトラマンたちが、人間として、人類とそこにあらわれる異者=怪獣との理解を目指し戦った、ガイアに代表される(と、敢えてぼくは断じる)90年代ウルトラマン三部作。
90年代の集大成とも言えるガイアの最終回で描かれた人類・怪獣・ウルトラマンの共闘を経て、新しい三者の関係を描こうと、怪獣保護という無茶をやっちゃって、いろんな意味でやっちゃった感があった気がするけど全然記憶に残っていないウルトラマンコスモス。

かつての「ウルトラシリーズ」においては、何はともあれ人類と怪獣の葛藤が解決できないほどに深まった時、そこにあらわれ何らかの形で調停者であろうとするウルトラマンの姿が描かれてきた。それは、単に人間と怪獣という異なる種の共生・同化、という話ではなく、怪獣が背負った寓話・アレゴリー的な物語と人類との葛藤を昇華させようとする試みであったはずだ(ある程度のブレはあるものの…)。
「ぎりぎりまでがんばって、ぎりぎりまでふんばって、どうにもこうにもどうにもならないそんなとき」に、ウルトラマンはやってきた。それは人類側の防衛隊がとても怪獣に敵わなくなった瞬間ではない、「人類」と「怪獣」という両者が背負った寓話の葛藤が極限にまで達した瞬間であった。

しかし、このウルトラマンネクサスに、そんな物語があっただろうか。

人間の恐怖や不安を象徴するような存在(だったと思う)としての怪獣(スペースビースト)たち。あるいはファウストとかメフィストとかいうニセウルトラマン。その目的も、存在意義も謎のまま、物語は進む。もちろん、いつまでたっても怪獣は倒すべき敵でしかない。中途半端なまま結局怪獣を倒すのか保護するのかわからなかったようなコスモスに比べれば明解ではあるが、そこにはかつてガイアで共闘した生命としての怪獣の面影は、まったくない。怪獣が背中で語る物語が、そこにはなかった。
ある程度はその「出身地」が彼ら自身の物語にもつながっていたかつての怪獣たち。しかしスペースビーストは、どこにでもあらわれる、逆にいえば、どこにいてもいいような存在。何ともつながりのない孤独な怪獣たちは、ただひたすらに駆除され続ける。フィールドに引きこもらされたのはほんの一瞬でしかない。それ以前に、彼らには何もなかった。フィールドなど関係なく、既に「場」の力を失っていた怪獣たちの末路である。

あるいは、怪獣やニセウルトラマンを尖兵として操る「アンノウンハンド」。
たとえばコスモスのラストでは、怪獣たちとの共闘の末に、悪の元凶であったニセウルトラマンの大ボスみたいな敵とも最終的に和解したが、このネクサスでは、そんな可能性など微塵もなく、ひたすら大暴れしたアンノウンハンド=ダークザギ(黒いニセウルトラマン)を、覚醒した強力なウルトラマンが、その圧倒的な力で打ち倒す。怪獣もニセウルトラマンも、全てなぎ倒すのみ。誰とも共存への道はない。ごく単純な勧善懲悪。
しかしそこにあらわれたカタルシスとともに、一抹の寂しさが残ったことに気づいた人は、どれだけいたのだろうか。

その一方で、真に物語を動かしていたのはウルトラマンネクサス自身ではなかったか。かつては「デウスエクスマキーナ」とまで喩えられ、終盤3分のみの活躍であったウルトラマンたちも、次第に自我を持ち、家族を持ち、人間ウルトラマンと喩えられ、しかし自身が狂言回しになるという一線は超えなかったウルトラマンが、受け継がれる絆として、物語の核となり、一話ごとに存在感を肥大化させていた。
今、ネクサスを語る時、その中心は姫矢の、憐の、凪の、孤門の物語だけではないだろうか。もちろんヒーローものの印象としてそれは正しいのかもしれないが、ウルトラマンってそういう話だったのか、胸に手を当てて考える必要があるかもしれない。
もちろんそうやって展開したネクサスは、ドラマとして非常に面白く、大傑作と呼ぶに相応しい作品ではあったが、それって、結局平成ライダー的ヒーロー像と変わらない気がするのはぼくだけだろうか。

話は戻るが、何はともあれ「人類と怪獣の葛藤と理解(それは時に理解というより同化であったかもしれないが)」という背骨が通った物語であったはずのウルトラマンシリーズ。仮に時代がどうブレようと、そのテーマがあればこそ、ウルトラマンはウルトラマンであり、逆に90年代ウルトラマンやコスモスの登場、あるいは第1期から第2期の変化によるブレは、そのまま時代の変遷と重なるものとして論じても決して無理のあるものではなかった。
だが、前述の通り、ネクサスに、そのウルトラマンとしての共通テーマは見られない。今までは怪獣が見せようとしてくれた世界という場とのつながりも、そこでは断絶されている。

別にそれがダメだという話ではない。ウルトラマンなんてでっかいギラギラした「セイギノヒーロー」が悪い怪獣を退治してくれるだけの話だと思っている自称ウルトラファン、特撮ファンあるいは特撮を蔑む人々の間では、銀色の巨人が悪いやつを倒すネクサスは十分にウルトラマンであるのだろう。

だが、心有る人はある一つの問いを立てなければならなかったのではないだろうか。

果たしてネクサスは、そもそもウルトラマンなのか。

ネクサスを語る際には、まずはこの問いに答えを出さなければいけないのかもしれない。

だが、かつてのコスモスの終盤を、あるいは劇場版を、特に併映されたあのダンス映画を思い返してみると、あの時点でぼくは「ウルトラマン的異者理解の最終形態」ではないのかという認識をしていた。(ここまで書くまでまったく記憶になかったけど。)

それを踏まえて考えてみれば、最早怪獣と人類との葛藤と調和をどんな形で描いたところで、コスモスという作品を生み出してしまったウルトラシリーズでは、中途半端な、陳腐なものになりかねない。それはそうだ。怪獣とウルトラマンが仲良くダンスしてしまったんだ(併映の作品)。それ以上の調和がどこにあるものか。
そうなったときにあらわれた、まったく新しいコンセプト、まったく新しいウルトラマン、としての「ネクサス」であったのかもしれない。 あるいは、それって、60年代のウルトラマン・ウルトラセブンを経て、70年代のウルトラ怪獣たちが物語を忘れ、逆にウルトラヒーローたちが、物語の中心を、あるいは家族を、獲得していったような変化を繰り返しているだけかもしれない。その影には平成ライダーと呼ばれる一連の作品のブームもあるだろう。

ネクサスのこの特異性は、これから定着するのか、それとも一過性のものなのか。少なくともネクサスに続く「ウルトラマンマックス」は、怪獣の姿も含め、原点回帰的なものになるようだが、これからも作り続けられるであろう幾多のウルトラの物語を経て、10年後、20年後に、ネクサスがどう評価されるのだろうか。
そしてその時、ネクサスが、成功と評されるのか、あるいは失敗と評されるのか。それはまだぼくらには見えない。


ところで原点回帰を遂げるウルトラマンマックスの怪獣と人類の間で、異者理解的なテーマは果たしてどう描かれるのか。エレキングやゼットンをはじめ、かつての名うての怪獣たちが続々と登場するようだが、しかし60年代に彼らが持ち得ていた寓話、その物語性・アウラは、もう消失してしまっているのではないだろうか。
少なくとも、科学への思いも、進歩への期待も、何もかもがかつてとは異なる現代において、あらためて彼らが背負い、人類に叩きつけてくる何か新しいトピックスでもあるというのだろうか。

あるいは、最早怪獣が持ち得る物語というのは、現代においては非常に稀少であり、ネクサスが背負ったような、ごく個人的なレベルでの葛藤、心理的な物語性こそが、これからのヒーローのテーマとなる可能性も否定できない。少なくとも剣(ブレイド)までの仮面ライダーはそうだったのではないか。そしてその道を、ネクサスも進んだ。

かつては怪獣が物語を紡ぎ、人類とともにその物語の糸に絡み取られ葛藤し、しかし突然現れるウルトラマンが、その糸を手に持ったハサミで断ち切ってきた。
そして現在。ウルトラマン自身が饒舌な語り部となり、ウルトラマンと人類が物語の糸に絡まり続ける中、それを一気に断ち切ろうとした存在、デウスエクスマキーナ的に登場したダークザギこそが、かつてのウルトラマン的なものだったのではないだろうか。しかしそのダークザギも、ウルトラマンノアというデウスエクスマキーナ返しにあって消えてしまった。かつてのデウスエクスマキーナ(と呼ぶことが許されるなら)が、現代的ヒーローに押され、地球に外に追い出され、そして消滅したあのラストシーン。それが何を意味するのか。
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