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こないだの土曜は、浅草中村座(2回目)。今度はAプログラムで、有名な大序から二段目は飛ばして師直(というか吉良)を切って腹切って城明け渡すまで。有名なおかる勘平の序章もあり。
で、次はCプログラムで、何も考えずにうっかりチケットを買っていたのだけど、結局幕としては全編(十段目は上演なし)見る事になってしまう。たしかチケット高いから一つだけにしとこうって決めてたのに…。
金もないのに一人でこうも通っていたりすると、このまま孤独で偏屈なじじいになって死ぬしかなさそうだ。

歌舞伎はさておき、普段は鈍いだのKYだのとアレなぼくなんですが、たまに、やけに冴えるというか、そういうことがあって。それはそれで結構死にたくなる。まあ、歌舞伎のチケット買ってるからしばらくは死にませんけど。
ちゅーか11月はうっかり2枚買った回もあるんだけど、なんかムダにしそう。
空気読まないのは、生きる知恵だな。

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そんなことより。

「失われた時を求めて」が本当に面白い。
恥ずかしながら、この歳で今頃かよってところですが。
というか電車の中でしか読まないので、まだやっと半分くらいなんだけど、しかしスワンの恋の特に後半だとか、ジルベルトと疎遠になっていくくだり(どっちも比較的はじめの方)が、あまりにも感情移入できすぎて、ちょっとどうかと思うくらいのめり込んでしまうし、いろいろ想起すると、強烈すぎて、また死にたくなる。

スワンとかジルベルトに限らず、たとえば芸術に関する記述も、それこそフランスの歌劇に対する見方が、ぼく自身日頃歌舞伎に対して考えていたこととあまりにも似通いすぎていたり、そもそも考え方や、ものの書き方が、他人という気がしなくて、しかしこれは、べつにぼくのような賤民がプルーストの足下にでも手が届いているなんてことではなくて。プルーストに端を発した一つの文化的遺伝子が形作った「現在」を、あまりにも素直にぼくが甘受しているだけでしかない、ということではないかと思えてならない。

たとえばそうやって歌舞伎とその役者を見て「感じた」と錯誤したその価値観は、実はぼく自身の内面から出たものなんかではなく、ぼくが生まれてからこの無駄な人生で積み上げたゴミのようなものからですらなく、それ以前、たとえばプルースト以降100年くらい(もっとも、そこに至までの係累を思えば、それどころの話ではないのだけど)の文化、文学、教養(今のぼく自身に教養なんかないにしても)の蓄積が送り出した遺伝子が、この卑小で哀れな小男に、そう「感じさせた」と思うしかない(もちろんぼく一人ではなく、多くの匹夫にそうさせている)ことは、幸福なのか、不幸なのか。

ぼくも含め大抵の凡夫は、自分は自分自身の考えで生きているとつい思いがちで、その行動、思考、仕事、芸術、恋愛、etc.といってものは、しかし恥ずかしながら(本当に恥ずかしい)、ぼくにとってはこの年まで読んだ事もなかったプルーストの手の中から一歩も出ていないということは、もちろんこの年になって読んだからわかる部分もあるのだけど(10代でこれ読んでたら、一片の感銘もなく、マジツマンネで終わった気がする)。
そもそも言語としてものを考えている時点で考え方がある程度規定されて、というのとはまた違った階層で、また、もちろん隣にいる他人の言動の影響を受けるなんてものとは全然違ったあらわれ方で、この文化的遺伝子は、あまりにも強くぼく自身、その考え方、あるいはこれまで自分の感情と思って感じてきた考えを規定してしまっていて、それがさらに作品への共感を強めているのかもしれない。こういう、文化的遺伝子として、直接その作品に早くから触れた人に限らず多大な影響を与えているものがあるというのは、あらためて目の当たりにしてみると驚嘆するとか、そういうレベルじゃない。
にしても、スワンの恋とジルベルトのくだりはやばい。いや、ほんと、まだ全体でみれば半分しか読んでないけど。この後幻滅したりするかもしれないけど。

変な事を書いてしまった。たぶんうまく伝わらないだろうけど、ほんの備忘メモ。
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