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苦情殺到の『仮面ライダー ディケイド』「続きは映画で!?」の真相を直撃!
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1045895&media_id=53
http://www.cyzo.com/2009/12/post_3370.html


仮面ライダー(平成)の"終わらなさ"については、2006年の響鬼の時点でアタクシも恥ずかしいmixi日記(仮面ライダー響鬼最終回 [2006.01.22]http://mixi.jp/view_diary.pl?id=77632429&owner_id=26047)や最終回の前に書いたブログ(響鬼の最終回の前に思ったこと。[2006.01.19 ] http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-35.html)で何の根拠もなく書いていたのだけど、今回『ディケイド』の最終回について有名なプロデューサーの白倉さんが「円環構造」として表現してくれているので、ちょっと報われた気がしている(ひとりで勝手に)のと、ディケイドの最終回についても、今さらながら納得してしまった。
もちろん、ああいう形で映画の宣伝につながれば、「続きは映画館で」と十中八九思われても仕方ないというか、それはもう、本当にそう見せていたんでしょうけど…。

でも、この説明は、べつに言い訳でもなんでもなく、さらにディケイドという単体の作品に限ったことでもなく、平成ライダーの中におけるディケイドという作品の最終回についての、ちゃんとした説明(というか、ぼくのようなバカでもわかるタネ明かしというか)なんだと思う。

白倉 BPOを通じて回答した通り、「テレビはテレビで終わっている」んです。その後に映画の告知をしたので、直結してそういう風に見えただけ。実は中途半端に終わっているのではなく、第一話に戻って終わっているだけなんです。告知を抜きにしてもらえば、円環構造を持ったシリーズとして完結しているんです。


響鬼の時(最終回時点でのプロデューサーは同じく有名な白倉さん)、多くの特撮ファン・仮面ライダーファンからは最終回の「終わらなさ」について熱烈な批判が(ネットの掲示板や日記で)表明されていたのだけど、その時、たとえば「おろち」のカタルシスや明確な「終わり」(マカモウが滅びるような)を求めていた響鬼ファンが一部にいて、それは、たぶんバカだと思っていた(今も思っているし、結構この数年仮面ライダーファンという人と話していて響鬼のことになると、大抵は最終回について不満を漏らしはじめるので、少し大人になったぼくとしては角が立たないように流すことについては苦労してきた)。

その頃から勝手に抱いていた違和感についても

白倉 今はテレビも映画も、何も考えないで見ている人が多いから、分かりやすくないといけないんですよ。たとえば「泣ける映画」みたいに、万人が万人、漂白剤や薬のような明らかな効能を求める。実際泣けなくても、本当にいい映画はたくさんあるでしょう? それなのに、今は「悪の大魔王を倒しました。終わり」でなければ認められなくなっている。

と、すごくやわらかく、わかりやすく指摘されている。


今、前述の響鬼日記を読み返してみたら、かつてのぼくはコメント欄(病的に長いっていうか、ぼくは病気だわ、これ)で「そんなん、特ヲタはバカばっか、ということでいいんじゃないかしら」とか偉そうに(ほんとに偉そう)書いていて、これは、まあ、怒られるわ。
バカとか下手に言ったらだめですね。
でも、みんなバカってことですよね。
ぼくもバカだし、昔からそれほど賢くもなかったけど、さらにその愚かさに磨きがかかった(いや、愚かさに磨きはかからないか。曇っていく一方か)ということを、実は今回この記事で強く認識してしまった。


思えば、平成ライダーが変にブームということになったりして視聴者が増えるまでは、いい歳して特撮を見ているファンというのは、自称・高等遊民的な、わかりやすい大衆文化には迎合せずにガムの包み紙から宇宙の真理を見いだすような、一種の矜持があったように思っていたのだけど、いつの間にか、ドカーン!ギャー!グワー!ドーン!…な人たちに変容してしまっているように思えてならなかった。

これは、ぼくが勝手に古き良き特撮ファンを妄想しているだけで、昔から何も変わっていないのかもしれないし、元々絶滅危惧種だった特撮ファンに、大量の亜種が紛れ込んで(ぼく自身もその段階の亜種だろうか)赤とピンクと朱色が混じってしまい、鮮烈な深紅の、特撮という名の矜持の判別がつかなくなるようになっているだけなのかもしれない。

ただ、そんな特撮ファンという集団の変容(劣化)に見えるものは、歴史的な意味で時間が経ち、あるいは人が成長し老成し"成熟"していく中で、一個人も、文化的なものも(現象もそうだし、受け取る側も)、それらが先に進むことが精神的な意味で成熟したり完成に近づくことこそ実は得難いことで、先に進めないどころか、ひょっとすると退化することすらあるという側面の、ひとつの例かもしれない。

だとすれば、最近漫画家と音楽屋が和解したあの文句、人は時間を裏切らないだかなんだかいう、結局誰がどう影響を受けたのかも分からない言葉は、所詮聞こえのいいポエムに過ぎず、実際は、人は時間を裏切るものだし、時間も人を裏切っている、と言った方が正しいのかもしれない。
(↑思いつきで書いたけど、結構その通りかも?)
(※3:27追記 ちがった!たしか夢だった!裏切らないのは!突然思い出した!)

ちなみに、ぼくが4年ほど前に響鬼の最終回について、特に童子と姫の表現について衝撃を受け、日記でたとえたのは、「永劫回帰」であり「万華鏡」だったのだけど(べつに勝手に思いついた表現ではなくベンヤミンからの引用です)、それもあり、ここで有名な白倉さんが「円環構造」と表現していることには共感し完全に納得してしまうと同時に、ディケイドという物語においてそこに気付かなかった(実際に見ていてポカーンとしていた)自分の愚かさ、というより耄碌したこの脳の停滞に愕然としてしまった。時を裏切ったのは自分自身だったのか。

それにしても、「終わらなさ」こそが問題としてあった平成ライダー。
既にかつての自分自身こんなことを書いているのだけど↓

そもそも、クウガ以降の仮面ライダーの「終わり方」には、「終わらなさ」の問題が常につきまとっていたように思います。

グロンギの「ラスボス」としてのン・ダグバ・ゼバを倒し、平和な世界になった「クウガ」。一見全ては丸く収まったように見えるものの、クウガ=五代雄介の姿はそこになく、敢えて「閉じる」ことを避けたかのようにも見える最終回。
続く「アギト」の物語は、アギトと人類の物語の「これから」を語る前に終盤を迎えたまま、突如幕が下りた。
さらに「龍騎」になると、永遠に繰り返されるパラレルな戦いの物語が示される。
4作目「ファイズ」の場合は…こうして考えてみるとファイズに関してはわりときちんと終わったんだっけ?見ていたようできちんと見てないな…。
そして前作「剣(ブレイド)」では、主人公がアンデッド、「永遠」なる存在となり、自ら物語の「終わらなさ」をその身に背負うことで、ひとまずの終局を見せた。

ここまでの流れをあらためて見てみれば、平成ライダーの最終回というものが、大団円やカタルシス、これで全て丸くおさまりましためでたしめでたし、といった「綺麗な終わり方」とはほとんど縁のない、むしろその物語の「終わらなさ」を問題にするものであったことがわかるのではないでしょうか。

(自分で書いた「響鬼の最終回の前に思ったこと。[2006.01.19 ] http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-35.html」から引用)


と、そんな平成ライダー(我ながらよくこんなこと書けたな。暇だったんだなこれは)をつないだ「お祭り」としてのディケイドが、「きちんと終わる」ことが(言われてみればたしかに)あるはずがないわけで。

そのことに今頃になって気付くことができただけでも、今回のサイゾーのインタビューは、どうでもいいように見えて、実はなかなか得難いものだった。

それでも、たぶん、ただ単にディケイドへの不満しかなく、いまでもそのバイアスがかかった人たちが読めば、

言ってること矛盾してるようにも感じる

テレビちょー中途半端に終わったし

これ自体が宣伝な件

なんかこの人言っている事が矛盾していないか?

意味不明

ウソをつくなぁ~あれは明らかにエンディングを映画に持っていったじゃないか

これを読んでみましたが理解できません

あのおわり方は演出とかで片付けられないでしょうよ

言い訳みぐるしいなぁ

(全部、ニュース関連日記一覧の最初のページに出ている中から勝手に引用)

といった反応にしかつながらないようだけど、それでも、今回のインタビューについては、なるほどと気付いた人も、ぼくだけじゃなくたくさんいるんじゃないかなー、どうでしょうか。
(上で引用したような反応をしてる人は、まさに"「悪の大魔王を倒しました。終わり」でなければ認められなくなっている"人たちと自ら認めているようなものではないか。)

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ついでながら

――「貧しい子どもたちは映画館に見に行けないじゃないか!!」という厳しい意見もありますね。

白倉 それはちょっとおかしな話で、「映画を、その後テレビでも放送して!」というなら分かります。しかし、どんな子どもたちにも続きを見せたい番組だと言ってくれていると受け取っています。本当にうれしい限りですね。

これは本当に白倉さんの言う通りでおかしな話だけど、コンテンツに金を払わないやつが多すぎる昨今、さもありなんという話でもあるわけで。

でも批判するなら批判するでおかしいところをちゃんと指摘すればいいだけで、子供とか貧しいとか、そういうアレを掲げていると、まるでどこかの政党みたいだ(と毎度おなじみ民主嫌いなぼくの民主嫌いへの円環構造をアレしたりしなかったりする)。

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そんなことより『失われた時を求めて』が面白すぎる。
間に他の本を読んでいたりするから全然進まず、まだ文庫で8巻に入ったところだけど(今年に入って全然進んでないし、そもそも今年はろくに本なんて読んでいないかもしれない)。

そんなこんなで、こないだ渋谷・Bunkamuraのロートレック展に行ってきたらこれがまた楽しすぎる。ほぼプルーストと同時代ということもあり、その空気感が楽しすぎてたまらない。

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と、そんなことをふと思い返すと、たしか有名な白倉プロデューサーは東大の仏文出身だったなあ、という記憶が蘇ってくる。

それを前提に考えれば、ディケイドの物語を「円環構造」としているのも、それ以外の平成ライダーの終わらなさ(白倉氏以外がプロデューサーの作品もあるけど)も、なるほどたしかに、収拾がつかずに大風呂敷がたためなかったわけでも、放り投げたわけでもなく、最初から狙い済ました上での「円環構造」であり、「終わらなさ」と考えて間違いないと、今本当にこれを書きながら気付いた。
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