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(本来もうちょっと長々と書くつもりだった話なのですが、とりあえず覚え書きの断章をつなぎあわせた感じで公開しておきます。そのうちまたいろいろまとめて書く予定です。時間があれば。ちゅーか、長くてアレなんですが追記もあります。念のため。)
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日本社会が高収入と低収入の人種に別れて、階層が云々とかいうちょっと前から出ていた話に紛れて、「オタク文化の普及」とその階層化を結びつける話を、最近見かけることがあります。(ARTIFACT:オタク趣味は金をかけなくてもできるようになった

たしかにそれはある意味おっしゃる通りで、もちろん「低収入の層がオタクカルチャーに手を出しやすいから分化するんだ」と言われただけでは、「乱暴な話だなぁちゅーかべつに階層化関係ないじゃん」と思ってしまうわけですが、たしかに収入の二極化と趣味の二極化が、いかにも関係あるように見える事象が、オタクの一般化以外にも見受けられます。

その一つの事例が、メトロセクシャルに代表される小金持ちの動きなのかもしれません。
◆二極化した別の層は?
下流社会がオタク化する一方で、上流となりつつある層は、どこへ向かうのか。あるいは、どのような言葉で規定される存在になろうとしているのか。
すごくマイナーな、メトロセクシャル的なムーブメント(http://www.metro-sexual.jp/あるいはhttp://blog.livedoor.jp/metrosexual/)に、その答えがあるのかもしれません。

たぶん「メトロセクシャル?はぁ?そんなのはじめて聞いたぜ」というご意見も多いというか、ほぼ100%ではないかと思いますが、ひとまず続けます。

それなりにいい服を着てそれなりにジムで身体を鍛えてそれなりに雑誌とかテレビに出ているような店で高い飯喰って…それなりに都会生活者としての享楽を分かりやすい形で愉しむメトロセクシャル的ライフスタイル。わかりやすく言えば、それはオタク的なぼくらが手に入れられないそれなりに裕福な都市生活者のステイタス。

自分磨きがどうこうとか自分大好きのような精神的な部分はさておき、その基盤にあるのは、それなりに生活に(資金面でも時間の面でも)余裕ができ、あるいは物理的にそういった「場」が近くにあること。ツメを磨いたりメンズエステに行ったり、トータルワークアウトがどうのこうの、なんてことは、下流の人間にも、地方在住の人間にも、ちょっと軽い気分では真似できない。

オタクカルチャーの低価格化と、ネットの普及や流通の変化による地方格差の解消が生み出した多数の下流オタクとは、まさに好対照となるメトロセクシャル。

とはいえ、そんなメトセク的なあり方って、実はそんなに底が深いものではなくて。オタク(本来的な意味での)的な「深さ」というのは、そこには必要ない、なんとなくそれっぽい表層をなぞっただけで成立することは、前述のサイトを見てもわかる通りです。

たとえば彼らが憧れる雑誌「LEON」の見出しや、そのへんの本屋の店頭をちょいと見てみればわかることですが、「ちょい不良(わる)」だとか「ちょいモテ」的な「ちょい」の広がりは、最早誰もが知るところでしょう。
その「ちょい」は、手軽さと同時に、表層の問題、底の浅さ、軽さにつながることも、見逃す事はできません。
(余談ですが、その浅さは、前々から「3cm」とぼくは形容していて、広く浅く3cm掘り下げたらそれ以上掘ることはなく、そこで満足する。というよりむしろ3cm以上の深さはそもそも必要ないという彼らのスタンスへのアレなんですが、今回はそういう印象の話は置いておきます。)

果たして本人たちは、その浅さ・薄さを認識した上でメトロ活動を続けているのか、あるいはそれにすら気付かないものなのか。

ただ、それは、べつにメトセクがどうという話しではなく、むしろ東京(あるいは大都市)の現代を見る上での一つのキーワードなのかもしれません。

◆じゃあオタクは深いのか?
そもそもオタクって何だったんでしょうか。
その答えってとても説明が難しいものだと思うし、おそらく時期によって、その定義は大きく変わってきている気がしますが、少なくとも、アニメがちょっと好きだとか、フィギュアをたくさん持っているだとか、そういうものでもオタクと呼ばれるようになったのはつい最近のこと。かつては、ファンだとかマニアだとか浅ヲタだとか呼ばれていたような存在だったのではないでしょうか。
(※これを書いている途中で知ったんですが、奇しくも「ちょいオタ」だか「ちょいヲタ」だかいう言葉があるらしいですよ。)

とはいえ、ここで問題になるのは、オタクの定義の問題ではなく、現在「オタク的と称される人々」がたくさんいて、その「オタク的活動」にかかるコスト、あるいは地理的な格差も小さくなることで、都市生活者や富裕層でなくても、それなりに「オタク的活動」が可能になり、また事実下流の文化として、それが認識されつつある、ということです。

あらためて考えるまでもなく、オタク文化が広まったように見えるというのは、オタクになる人間が増えたというより、オタクの基準そのものの敷居が、限りなく低くなった、というだけのこと。
人間なんて本質的にはなかなか変わらない。ただ環境の変化がその定義を変えてしまう中で、オタクがより一般的になりました。それでは、上述のメトロさんたちも、結局そういうことではないのかな?

◆浅さの共通性
オタクになり、あるいはメトロになるためのインフラが存在しない時代には、それは「ただの人」だったのかもしれません。しかし、いろんなものの敷居が低くなる事により、「オタク」あるいは「メトロ」のような何かにカテゴライズされることが簡単になってきているのではないでしょうか。というより、むしろそこにあるカテゴライズされたい欲求の方が、ちょっと気になります。

そこには、必要以上に自分が何者かを問われ、あるいは自ら問う中で、何者かに自らをカテゴライズすることで容易に手に入れられる安定性というものが云々…と定義してしまうことも簡単でしょうが、そんな現代性の定義はさておき、結局そうやって、オタクあるいはメトロ的存在に「ただの人」が変化し、あるいはそれが現代性を象徴するものとして語られることで生じるのは、現代そのものの「浅さ」「薄さ」に他なりません。

上流下流の分化がどうのこうのとは言いつつも、その浅さにおいて、オタク的グループとメトロ的グループは非常に似通った精神性を持ち、現代の浅さを担う共犯者になりつつあるのかもしれません。

いつかこの時代を振返ったとき、何においても浅いものばかりだった、と、それだけですめばいいのですが。
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ついでに、現代オタク文化を語る上で欠かせない萌えの話も、最近ちょっと気になります。
萌えとは
◆オタクあるいは萌えのセクシュアリティ
萌え的な感情は、実は直接セックスにつながるものではなく、むしろセックスはなくても構わないものであります。勿論性行為を中心においたゲームや、同人誌等のメディアにのみ注目すれば、それは純粋性欲と見ることも可能ですし、エロの立ち並ぶその手のショップの映像は、素人目にはショッキングで、そういった部分が強調されてメディア等に登場することも少なからずありますが、しかし本来そこにセックスの介在する必然性はありません。(というより、既にあったエロゲやエロ同人誌に、萌えという付加価値がくっついただけなのですが。)

では、そもそも萌えとは?という疑問に関しては、現在いろいろなところで、多くの解が導かれようとしているところではありますが、個人的印象として、最近、萌えを知らない人に対して説明する時につくづく便利な言葉だと思っているのが、恋愛欲です。
ただ、はたしてそれは、純粋恋愛欲と呼んでいいものか、というのはちょっとした疑問でもあります。

萌え的な何かに人が愛情を注ぐ時、その姿はあたかも無償の愛情を全身全霊で投げ掛けているようにも見えます。○○萌え~と声高に(あるいは心中ひそかに)叫ぶ時、まさかそこに何らかの要求があるとは思えない、かもしれない。
しかし、その裏で、実は「女」という存在(萌えの多様化とともにその対象を女性に絞るのはちょっと難しいかもしれませんが、ひとまず今は狭義の萌えとして)に一方的に従属を求めている、と考えるのは、考えすぎでしょうか。

メイドさんハアハアと叫び付き従うように見えるその裏にある、本来の要望。「メイドさん」に「メイド」であることを要求し、「メイド」として振る舞うことを要求する真意をどう見ればいいのか。エロゲの衣装にコスプレ店員の身体を押し込めた時、それは単に表面上の問題とだけ見ていればいいのか。あるいはツンデレに、自分の前ではデレデレとすることを願望する思いは、どこから来て、どこに向かうものなのか。
多様化し細分化した萌えをひとつひとつ追及しても仕方がないけれど、秋葉系、萌え系の恋愛欲とは、そこにセックスが介在する・しないに関わらず、「女」というものに対する「男」の優位性、あるいは旧来の意味での過剰な女性性の要求ではないのか。そこで消費される性は、どう振る舞うべきなのか(メイドカフェ利用客の4割が女性という現実も含め、というより、そのことが敢えて広言されつづける意味も含め)。
あるいは、そこで望まれる女性への要求と恋愛欲の入り混じる点において、一つの理想が、電車男のエルメスという存在として結実したのではないか。

もちろんこれは、ふと思いついたただの仮定の話でしかなく、何言ってるんだこの浅ヲタが、と思われてもしかたないのかもしれませんが、しかし、「萌えとは何か」について、その要素や根源、歴史が語り尽くされたその先で、あらためて考えられなければならない問題ではないのか、という気がします。(あるいは既にどこかで語り尽くされているのかもしれませんが…)

◆じゃあメトロさんの男性性はどうなの?
男であることに執拗にこだわり、なんだかんだ言って結構マッチョな文化を持つメトロさん。「結局モテたいんでしょ?」と言われることに対して異常なほどの嫌悪感と反発を感じながら、しかし男であることや男らしさ、女に対しての男であること、ついでに性的に「ヘテロ」であること、を強調するその態度。
そこにぼくらは何を見るべきなのでしょうか。

男らしさ、男の復権、そんなものがそもそも前提として成立し得る世界を、彼らは生きているわけです。

メトロセクシャルとは何かについて、綿密な取材に基づいて執筆され、近年のメトロセクシャル解説としては群を抜いて秀逸だった『TOKYO1週間 2005年8月2日号』の記事に記された「sexには全力投球!/女性との心&体の交わりではなく"征服"を意味する。終わったあとは『お前はオレのもの』状態。」という一節を抜き出すまでもなく、その意志は彼ら自身の言葉により宣言されています。

◆結局同じじゃないか。
ただ単に隠された願望としての歪んだ「男らしさ」の優位性とそれへの従属の要求を抱く萌え大好きな人々と、男らしさの復権を広言しその優位性を高らかに宣言する自分大好きな人々。

社会的な位置の違いがその趣味・文化を分けつつあるのかもしれないけれど、結局同じじゃないか。というのが今回のお話でございました。

まあ、続々溢れる下流オタクの好対照としてのメトロの存在を前提とした話なので、それが否定されれば、はいそれまでよ、というものなのですが。
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