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新橋演舞場で歌舞伎。この日は昼の部。いろいろあって、前半は今回観劇辞退し(誰に対して?自分に対して?)、二幕目の勧進帳のみ。隣の客がとてもふくよか、いやさデブ。だが、デブ男なのでデブ女よりダメージなし。というか特に気にならない。なぜか隣の客がデブ女の場合、なぜか(本当になぜか問いつめたいくらいなので何度も「なぜか」と書いてしまうくらい)、こちらに傾いてくる気がするのはなぜか。私の恐怖感のせいで世界が歪んで見えるのか。圧迫感が精神をも圧迫して閉所恐怖的な感覚を呼び覚ますのか。
歌舞伎の後はムルギーランチ。そのまま出社。帰宅後、イカをトマトで煮て食べる。

▼さて今日の「勧進帳」は團十郎の弁慶、幸四郎の富樫。義経は昼も夜も藤十郎。

「勧進帳」は「マツコ&有吉の怒り新党」である。という話をしたいが、誰かこれを読むだろうか…。

「怒り新党」は、マツコ・有吉のかけあいと呼吸で成り立っているように見えて、夏目三久の存在感によって番組のパワーバランスがほどよく保持され成立していることは、今更言うまでもないことであろう。三者の向かうベクトルが、特にマツコ・有吉という現代芸能界の2大巨頭(ある意味において)の牽引するベクトルに夏目三久が第三の力を加えることにより、ちょうどよく保持される。

「勧進帳」も同じく(というか「勧進帳」の方が当然古いのだけど)、弁慶・富樫の掛け合いと対立、和解のドラマというだけではない、義経の存在感がなければそもそも成り立たない。
セリフの有る無しではなく、存在感の問題であろう。
仮にあれを見て「ほとんど出番なくて突っ立ってるだけだから俺でもできるっしょ」などという阿呆がいたら、頭から鵯越の逆落としである。
弁慶と富樫という二大巨頭の二人舞台になりかねないものが、義経という、「義経千本桜」や様々な伝承とはうってかわってひよわに見える、何もしていないはずの義経の存在によって、舞台全体に広がる緊張感や新しい均衡を提示する。

勧進帳は義経ありきの物語であり、怒り新党は夏目三久あっての怒り新党である。

義経は源平の合戦での隆盛から突如転落し、落ち延び、果て、しかしその物語は国中で長く語り継がれ歴史的アイドルの座に君臨することとなった。いまや滝沢秀明であり神木隆之介であり、あるいは先代菊之助(現・菊五郎)である。

夏目三久という存在が、日テレでの隆盛から一度の転落、大転落の後、現代の勧進帳たる「怒り新党」を経て、"国民"に高く評価されるという現実…もはやただの判官贔屓ではない人気は、なるほどそういうものであるか、と納得するものである。

…という話をずっとどこかに書きたかったのでようやくここに記す。
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