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過去ログ掘り起こし。
2003年夏頃のヒーロー状況について。

ぼくたちのヒーロー【第三章:異者理解[改訂版]】

(2003/07/24)


異者理解[改訂版]


○怪獣という「異者」

怪獣映画の世界においては、怪獣という「異者」が人間の社会の中にあらわれる。その異者たちは、時には自然の驚異を象徴するものであったり、あるいは人間社会の矛盾のあらわれでもあったりしたことは、最早ここで言うまでもない。また、何らかのかたちで異者を日常の中に紛れ込ませることは、物語づくりの一つの基本とも言えるだろう。

そんな怪獣たちに対峙したとき、人間たちは、翻弄され、いかにそれを撃滅するかに全力を傾けてきた。
たとえば『ウルトラQ』の制作上の第一話(実際は第三話)マンモスフラワーの話では、東京都心に、ビルを突き破り皇居のお濠に根を張りながら、突如巨大な花があらわれる。
それに対峙する人間の間では、貴重な研究材料として保護を考える博士(当時は万能だったのです、博士という人たちは)と、人を襲い毒をふりまく以上早急に退治すべきとする博士の葛藤と、その和解が描かれる。しかしこれは、異者理解というような問題ではなく、むしろマッドサイエンティストとヒューマニズムの葛藤という、科学万能な当時(1960年代)を象徴するようなテーマであり、その二つの和解の後、マンモスフラワーは科学の、つまり人間の力により消滅する。

そうやって、人間によって葬られてきた異者たち。
時には、異者による人間社会への介入ではなく、異者と異者、つまり異者同士による純粋なバトルとでもいうような作品も、存在こそしていたが、それはいわゆる怪獣プロレス的なものにすぎなかった。

そんな異者同士のバトルを主軸に企画されていたのが、『ウルトラマン』(当初はWOOだとかベムラーだとか異なるタイトルではあったが、それに関してはここでは省略)であった。
その企画での主人公となる怪獣が、次第に姿を変え、最終的には成田亨のデザインによるあの銀色のヒーローの姿となる。

そして、新しく生まれたそのヒーローが変化していたのは、その姿や名前だけではない。彼自身の役割も、単なる怪獣の亜種とでもいうようなポジションをはるかに超越していた。

○ウルトラマン

ご存じの通りウルトラマンの世界でも、怪獣という名の異者たちが、日常の中に突如あらわれる。その怪獣たちとて、大抵は単に人間を襲い喰らうためだけにやってきたわけではない。時には故郷を失い新たな家を求め、時には人間の都合で住処から運ばれ、また時にはいじめられっこの落書きが宇宙線の影響で実体化してあらわれる、ただちょっと体が大きかっただけの気のいいやつらにすぎない。そんな怪獣たちが、物語構造上は倒されるべき存在として描かれるが、実際は、決してただの悪というわけではない。たとえばそれが現実に存在しうる破局の可能性であることは過去に述べたことがあるが、そういったいろんなものの寓喩が、怪獣という異者の姿を借りてあらわれる。
そして、怪獣という異者の出現によりアンバランスゾーンと化したその世界で(あるいは人間がアンバランスゾーンを作り出すことによって怪獣が出現もするが)、怪獣たちと人間たち(科特隊だとか)との葛藤は平行線をたどるわけだが、その両者の葛藤を、突如あらわれ、調停していく存在が、ぼくたちのヒーロー・ウルトラマンなのである。

ほとんどの場合には、結果的に怪獣をこなごなに破壊する、という強引な調停者ウルトラマン。時にそれは、英雄的な自己犠牲を伴い、時には命を失い、時には限界まで傷つきながらも、人間と怪獣の異者理解を果たそうとする。たとえその最終的な結果が破壊であっても、彼らの本意が必ずしも暴力でないことは、少しでも作品を見ればわかるであろう。
ウルトラマンが怪獣を倒すのは、それまでの怪獣プロレス的な、本能と本能のぶつかりあいなどではない。日常をアンバランスゾーンに変えた異者と日常との調停。彼のその姿勢は、非常に不器用なものであったかもしれないが、確実に異者と異者の葛藤を超越した第三者として顕在している。

怪獣は決して悪などではない、人間の社会に迷い込み、矛盾をつきつけてきた異者であり、ウルトラマンは、それらと人類との和解をすすめる調停者。決して正義だとか悪という観念を絶対的に押しつけるものではないし、物語の中心にウルトラマンがいるわけでもない。

だが、日常とそこに侵入してくる異者との葛藤から、次第にヒーローとしてのウルトラマンの存在に重点がうつり、家族的な世界観までできあがった後のシリーズにおいては、その異者と異者の和解をすすめる第三者という側面は薄れ、光の国=正義の概念的なものに変化していった。そのへんについては微妙に違う方向から、以前書いたことがあると思うので省略。

そして時はうつり、ウルトラマンというヒーローが持ち得た異者理解という側面を、いろいろな意味でひたすらにつきつめようとしたのが、『ウルトラマンコスモス』であった、と言っても過言ではないだろう。

○最近のウルトラマン。

いわゆる90年代ウルトラマン三部作、ティガ・ダイナ・ガイア。
かつてウルトラマンを見て育った世代が作り手にまわったこのシリーズ。
中でも『ウルトラマンガイア』では、ガイアとアグルという、異なる立場から戦う二人のウルトラマン、それぞれの方法での、日常と異者の和解への努力と、対立。さらに、根元的破滅招来体という「破滅そのもの」を前にした人類が、ウルトラマンが、そして怪獣が、幾多の誤解や葛藤を経て最終的には共に戦う。
それまでのウルトラマンが、おきまりの物語構造のもとで、決して成し得なかったその終末を、破滅の構造を示すことにより実現させたこの作品の価値ははかりしれない。

しかし、そうやって一度人類と怪獣という異者の和解を描いてしまったウルトラマン世界(といっても、既に90年代シリーズとそれより昔のシリーズでは、「世界」自体がまったく違うのだが。そもそもティガ以降の「世界」はM78出身ではないし、ティガ・ダイナの二作とガイアも異なる「世界」である。つまりこの場合は、歌舞伎の「世界」といった意味でのウルトラマン大枠での「世界」)において、再び怪獣を異者として描き、葛藤とその果てにある破壊を描くことができ得るのか。
その疑問に対する答えの一つが、『ウルトラマンコスモス』であったのかもしれない。

怪獣を、はじめからこなごなにするべき存在ととらえるわけではなく、保護すべき対象として描こうとした『ウルトラマンコスモス』(もちろん怪獣保護のアイデア自体はそれほど新しいものではなく、60年代末のゴジラ映画においても、南の島に怪獣を寄せ集め、監視する、というものはあったのだが。ちなみにそのゴジラの怪獣監視システムは金星人だかX星人だかのせいで大失敗)。
人類(といっても全てが同じ考えではないのだが)は、その日常のバランスに侵入した異者・怪獣に対し、強引な解決(破壊)ではない、可能な限りの和解(といっても非常に人類側に都合のよいものだが)を目指す。もちろん、考えてみれば最初の『ウルトラマン』、科特隊以来そのスタイルは変わっていないのだが(一部の過激な人を除けば、誰でも最初から何の理由もなく怪獣を殺したいわけではない)『コスモス』においては怪獣保護専門のチームと、怪獣保護のための島が用意されている。

そしてウルトラマン自身が、かつてのような破壊に特化した戦いではなく、格闘スタイルも光線技も、怪獣をやさしさで包むという、一見ウルトラマンらしからぬようで、その実異者理解というウルトラマンたちが持ち続けてきた命題を具現化したような存在になっていた(もちろんそのやさしさの光線も「なんでもあり」っぽさが強すぎて少しだけ反吐が出そうだが)。

さらにテレビシリーズ終盤、自らは限界まで傷つきながらも、このシリーズでの狂言回しとなった「カオスヘッダー」を、宇宙の塵に帰すのではなく、怪獣や人間の愛で包み込み、愛を理解させ、共存の可能性を示した。
…と同時に、生きとし生けるもの全てわかりあえる、とでも言うような結末になってしまった以上、異者同士の葛藤を調和させてきたコスモスの存在意義もなくなる。当然、彼は宇宙に帰っていくわけである(といっても、大人の事情により何度も地球に戻ってくるわけだが)。

ある意味、『ウルトラマンコスモス』に至り、ウルトラマンの異者理解は極まったと言えよう。いや、やはりウルトラマンガイアでそれは頂点に達し、コスモスにまでくると煮詰まりすぎたのかもしれないが(つまり、やりすぎるとつまらない。異者理解もほどほどに)。
考えてみれば、そもそも、共存を通り越して保護、という見下した視点を基盤にした時点で、コスモスの物語は、異者理解など通り越したどこか見当違いなほどに遠くの地平に立っていたのかもしれない。

○アトム

そういった異者理解という機能を、時に英雄的自己犠牲とともに果たしてきたのは、ウルトラマンに限らない。たとえば何度壊れながらもロボットと人間をつないだアトム(『鉄腕アトム』)などにも、そういった物語の影を見ることができるだろう。


現在放送中の新作アニメ版においても、人間と、人間社会にとけこんだ異者・ロボットの葛藤の間に立ち、懐疑派からはロボットとして危険視されながらも、異者理解に尽くすアトムの姿が描かれる。

技術の進歩がもたらす破局の概念が、時にはウルトラマンの怪獣の身体にアレゴリー的に現れていることはかつて「ウルトラマンの物語構造に関する云々」で述べたが、それと同様に進歩がもたらす破局の概念を、ウルトラマンの怪獣のように概念的な寓喩としてではなく、ロボットだとかコンピュータのような、わりと直接的な表現で描き、そういった未来的な異者により、日常が完膚なきまでに破壊されてしまう(あるいは既に破壊されている)という物語は、SFなどでは決して珍しいものではない。たとえば今公開されている映画(2003年7月現在)でも、『マトリックス』だとか『ターミネーター』の未来は、人類と異者・ロボットの葛藤と、その先に生じた破局の末の未来である。
そして、アトムに描かれた人間と異者・ロボットの葛藤もまた、人類の破局の可能性へのカウントダウンと見ることができる。

しかし、ぼくたちのヒーロー・アトムの活動、人間とロボットの狭間での異者理解への意志が、かろうじてその破局を食い止める。
ターミネーターとは、アトムなき未来のロボットであり、ターミネーターの2029年、あるいは審判の日こそ、アトムなき未来の可能性である。あるいはアトムなき世界での人間とロボットの葛藤そのものが、人間とロボットの葛藤の歴史が語られる『アニマトリックス』の「セカンド・ルネッサンス」などには描かれているのではないだろうか。

こうして見てみると、日常とそこに侵入する異者との葛藤を和解に導くヒーローとは、単に正義と力を振りかざす存在ではないことはもちろん、ただのネゴシエーターなどでもなく、その先にある破局、破滅に対峙し、その運命からの救済を試みる救世主、とでもいうべき存在なのかもしれない。

○仮面ライダー

しかし、異者理解だけがヒーローではない。
それとはほぼ対局に存在するヒーローもいるのではないだろうか。

その一つが、『仮面ライダー』に代表される、東映系等身大変身ヒーローであろう。
このサイトでは腐るほど言ってきたし、そもそもこのこと自体が常識とでも言っていいのかもしれないが、仮面ライダーの戦いとは、基本的に個人のための「私戦」であり、大抵の動機は個人に端を発している。

あらためて、本郷猛(ライダー1号)の、風見志郎(ライダーV3)の、戦いを見直してほしい。基本となるのは「復讐」である。それは単に自分の身体を改造されたり、あるいは家族を殺されたというような、敵組織(ショッカー、デストロン、etc)に生涯をかけて対峙していく動機だけではない。一話ごとの戦いの動機も、たとえば怪人にお姉さんを奪われた男の子のための代理復讐というべきもので、積み上げられている。
つまり、怪人があらわれる→だれかが被害に遭う→代理復讐としてのバトル、というのが、ライダー的な物語構造の典型と言えるであろう。そこで誰かが殺される、あるいはさらわれるなどしなければ、ライダーの戦いそのものに、大義名分はつかない。よくデパートの屋上のヒーローショーなどでも子供がさらわれてステージ上で怪人たちになぶられるというシチュエーションを、あなたも見たことがあるかもしれないし、もしかしたらあなた自身もさらわれたことがあるかもしれない(最近はステージによってはそれだけの距離がないこともあるかもしれないが)。それは、単に子供たちにサービスしているわけではない。ヒーローを、「正義の味方」として召喚するために必要な儀式なのである。
あるいはその部分に関し、平和乱れろ、というヒーローの立つ地盤に関する点から考えてみたものは、このサイトの武士沢に関する文章に収めたと思うので、ここでは省略。

さて、この私戦(というより、構造的私戦といった方が通りがよいかもしれない)という動機は、シャンゼリオンのようないかにも個人的と見られるようなヒーローに限らず、上で述べたように、いかにも「正義の味方」と語られ続けているようなヒーローも同様であり、たとえばそれが、結果的にショッカーを倒す→世界が救われるということになろうとも(つまり彼らの大義名分)、構造的私戦の域を出ることはない。

そして、そこにはもちろん異者理解のような要因は存在し得ない。
我々の日常の中に介入してくる異者・ショッカー。しかし、人類とショッカーの溝を埋めようとするライダーがいるだろうか。あるいは、襲い来る怪人と、襲われる人間の葛藤に立ち向かい、和解を目指すライダーがいるだろうか。否。日常に侵入した怪人は、その手で復讐し、大爆発。それが、ぼくたちのヒーロー・仮面ライダーの戦いである。

それは同時に、まずアクションを起こすショッカーがいなければ、ヒーローは正義などまったく名乗りようがないことでもあるが、このへんも過去に何度も述べているので(アメリカンな正義も含め)、最早ここでは述べない。
何はともあれ、いかに正義の味方的な看板をかかげているように見えても、こういった日本的ヒーロー像に正義の名を安易に与えることに対し、我々はもっと懐疑的にならなければならない。

○最近のライダー。

さて、ウルトラマンシリーズではコスモスが異者理解という要素をつきつめていったように、仮面ライダーというシリーズの中で、私戦という要素をつきつめた(それも13通りに)のが、『仮面ライダー龍騎』であった。

それは、ライダーとライダーが鏡の中でバトルロワイアルを繰り広げる物語(総勢13人+α)。選ばれた戦士たちの、死闘、いや、私闘。その動機は、個々の「ライダー」のみならず、ライダーバトル主宰者たる神崎士郎の、ごく個人的事情、私的領域に拠るライダーバトルの目的まで、すべてが個人の欲望に端を発している。公の利益だとかそんなものはクソ食らえ、俺は俺のために戦う。そんなライダーたち。
そして当然、その戦いの中に異者理解などという目的は存在し得ない。

たとえばヒーローについてそれほどに知らないような人たち、ヒーローとは単純に正義の味方であると考えるようにアメリカナイズされた幸福な人たちにとって、それは仮面ライダーのイメージとは対局にあるもののように思えるのかもしれないが、実際にここまで読み進めてきたあなたになら、一見「仮面ライダーっぽさ」に欠けると思われる龍騎も、実際は非常に「仮面ライダー的」な要素を持った作品であることは容易に察しがつくのではないだろうか。
もちろん、戦いの中で、相手のことを理解しようとつとめるライダーがいなかったわけではない。その中で生まれる友情だってあった。しかし、それは結局のところ、個人の、私的領域の問題にすぎない。戦いを止めることを望んだライダーも、その動機は自らの感情、あくまでも私戦であり、公の概念ではない。龍騎とナイトの和解も、個人と個人の友情にすぎない、まったく、異者理解とは異なるものでしかない。

龍騎ライダーの存在とは何か、すべてはこの言葉に集約される。
「この戦いに正義はない。そこにあるのは、純粋な願いだけである。その是非を問えるものは…」 (龍騎最終回における、OREジャーナル大久保編集長の言葉)。
この言葉は、龍騎ライダーに限ったものではない、ライダー全体、あるいは変身ヒーローに普遍的に通じる概念といっても、問題ないであろう。

しかし、そうやって、私的な戦い、異者理解の欠片もないのが仮面ライダーの全てかといえば、実際はそうではない。

龍騎の前に放送されていた『仮面ライダーアギト』とは、一体どのような話だっただろうか。
当初は、わけのわからない怪人(アンノウン)があらわれ、不可解な殺人を繰り返していく。それこそ、あたかも初期のライダー怪人が持ち得ていたような、都市の影に潜み、いつどこからやってくるかわからないその恐怖、あるいはアギトの前作『仮面ライダークウガ』の怪人・グロンギが行ったゲーム的な無差別殺人がもたらす恐怖を、象徴的にあらわした、というよりショッカーやグロンギが持つわけのわからない部分、つまり直接的にその物語性ではない部分、を抽出してきたようなアンノウン。
それに対し、仮面ライダーアギトは、記憶を失い目的自体の見えない青年(主人公)が、アンノウンによって誰かが襲われると、無意識の領域で反応し、変身して戦う。これ自体は、既に何度も述べたライダーの物語構造の基本を確実におさえており、ライダーそのものの望ましいスタイルといえる(前述の龍騎の場合は、このような物語構造はとっていなかった)。むしろA主人公と怪人相互の目的も、戦う根本的な理由も見えないまま、一話ごとの代理復讐に励む姿は、その物語構造を、一層強力に我々の前に示していたかもしれない。

だが、一見関連性の見えなかったアンノウンによる殺人の対象が、実は超能力者やその素質のある者、というより、近い将来「アギト」(以下、「」付きの「アギト」という言葉は、種としての「アギト」を示す)として覚醒するであろう者であったことが、次第にあきらかになる。

ここで、仮面ライダーアギトは、ライダーらしからぬ物語をつむぎはじめる。
「アギト」とは、いわば人間の進化形。プラズマスパークをあびたM78星雲人がウルトラマンになり、宇宙に出た人類がニュータイプに覚醒していったように、人類が、「アギト」という新たな種へと、進化していく。
そして、この世界の中で、「アギト」とは、人類にとってみれば日常に突如入り込んできた異者なのである。

当然、「アギト」を危険視し、人類にとっての脅威として排除しようという議論も出る。
その能力こそ人類をはるかに凌ぐ新たな種、「アギト」。しかし、その数は未だわずかであり、圧倒的にマイノリティである彼らは、人類の将来を脅かしかねない存在として、滅ぼされる運命、なのかもしれない。
しかし、自らも「アギト」である主人公は、いや、主人公だけに限らない、彼を取り巻く人々は、「アギト」と人類の、葛藤と対立の果てにある破滅の未来ではない、「アギト」と人類という異者が、理解し調和する未来を求め、最後の戦いに挑む。そして、決して「アギト」でも「アギト」になり得るものでもないただの人間・仮面ライダーG3と、仮面ライダーアギトたちとの、「神」に対する共闘が、異者理解を信じる者たちによる、破滅ではない未来の可能性を示しつつ、物語は決して完結しないままの結末を迎えた。

この構図は、人類・怪獣・ウルトラマンが共闘し、共存の可能性と破滅ではない未来を示して終わった『ウルトラマンガイア』にも通じるところがあるのは、ここまで読まれたあなたにはわかるだろう。ガイアにおいても、物語は必ずしも閉じていない。根元的破滅の、一応のボス的なものこそ倒したが、それで根元的破滅が消滅したとは誰も言わないし、もちろん、人類と怪獣たちとの調和の可能性は、その結末のさらに先にあるものである。

このように、仮面ライダーという文脈の中で、異者理解というテーマを見ていったとき、アギトは特異点となるのだが、そもそも石ノ森章太郎の系譜の中では、アギト的な、人類の次のステップとしての種(超能力者やミュータント)の登場と、それに対する旧人類の葛藤は、決して珍しいものではない。
たとえば、仮面ライダーの原型とでも言うべき『スカルマン』(1970年の作品。ちなみに最近の島本版スカルマンは読んだことがないので、ひょっとしたら以下の文章は見当はずれに見えるかもしれない)もその一つであろう。
その物語の終局において、すべての人間を殺すことさえ辞さないスカルマン(=異者としての超能力者)と、彼の祖父(既に異者であった我が子[つまりスカルマンの両親]を殺している)、そしてスカルマンと同じく超能力を有する妹が、祖父自らの手により「生まれてくる時代を間違えた」と、炎に包まれる。

スカルマンにおいては、決して成し遂げられなかった異者同士の和解。
アギトで描かれようとした異者理解の姿は、そんな過去の人間と異者たちの、葛藤の果ての挫折と無念を幾度と無く繰り返し、そしてようやく辿り着いた未来、なのかもしれない。

○ごく最近の話題(2003年7月現在)。

かつて、ガイアの終局に描かれた異者理解のさらに先の可能性を、『ウルトラマンコスモス』がパラレルに描こうとしたように(その成否はさておき)、『仮面ライダーアギト』の先にあるかもしれない未来を、パラレルに描こうとしているのが、『仮面ライダー555』ではないだろうか。

ウルトラマンの異者理解が、人類と怪獣という、そもそもの物語の中での中心となる二つの種の葛藤と調和であったのに対し、前述の『仮面ライダーアギト』で描かれた異者理解は、人類と、それに対峙し続けてきた怪人のものではない、そこに横から入り込んだような「アギト」という種のものであった。そして、怪人的な存在のもの(アンノウン)の個性は、特に「アギト」と人類の葛藤がはじまる後期には、ほとんど消されていた。「アギト」を滅ぼすために「神」が遣わしたという程度のことは示されたけれど、その時にはただのヤラレ役、ですらなかった。怪人が背負って立つ「物語」が、そこには微塵もなかった。それは、アギトの前作『仮面ライダークウガ』の怪人・グロンギが、強烈な恐怖とともに、「物語」の狂言回しとなっていたのとは対照的であり、その怪人としての存在感のなさは、アギトに続く『仮面ライダー龍騎』にも引き継がれた(龍騎モンスターのことはまた別の視点から少しだけ過去に述べた)。

しかし『仮面ライダー555』では、前二作のような存在感のない怪人(アンノウン及びミラーワールドのモンスター)とは異なり、怪人・オルフェノクの物語が、その世界の根幹を成す。

人間が、おそらくはその進化形として覚醒する「オルフェノク」。
それぞれが圧倒的な力を持ちながら、しかし数において人類にはるかに劣る彼らがその版図を広げるべく、日常の領域に密かに侵攻をすすめるこの世界。アギト・龍騎においては自らの言葉をほとんど持ち得なかった怪人たちとは大いに異なり、彼らは物語そのものを支配している、と言っても過言ではない。言うまでもなく、もともと仮面ライダー的物語の狂言回しも怪人たちではあったのだが、555におけるその性質がかつての怪人たちの比ではないことは、一度ご覧いただければわかるはずである。

その異者に対峙するのが、主人公たち「仮面ライダー」であり、「裏切り者のオルフェノク」たちでもある。
そのさまざまな関係性が絡み合った葛藤の中で、異者・オルフェノクとのコミュニケーションを通して、一度は戦うことすらできなくなった主人公が、自ら戦うことの罪を背負う覚悟とともに立ち上がるエピソードや(死ぬまで傷ついたウルトラマンや、何度も壊れたアトムのように、異者理解のための英雄的自己犠牲というのは、何度も繰り返されてきたテーマ)、人として生きるかあるいは異者として生きるか、という葛藤と常にともにあるオルフェノクの苦悩など、見るべき要素はいくらでもそこにある。

この555世界の人間と異者・オルフェノクの未来がどのようなものになるのか、もちろんそれは未だ見えてはこないが、これまでのどのライダーとも、どのヒーローとも違う、人類と異者・怪人の葛藤と和解を描き得る作品になることは確か、であろう。

(ひとまずはここでおしまい。)

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○この夏のための補足:

今夏公開の劇場版『仮面ライダー555』。
それはテレビ版とはパラレルな555世界。そこに描かれる未来は、ぼくたちのヒーロー・仮面ライダー555のいない世界で、おそらくは様々な葛藤の末、オルフェノクにより、人類が支配されている、そんなお話。
まるで、異者理解をなし得る者のいなかった世界の果てに、ロボットが人類を踏みにじる『ターミネーター』の2029年のような、そんなお話。
その世界に少し遅れてあらわれたぼくたちのヒーロー・仮面ライダー555は、何を為し得るのか。オルフェノクを打ち砕くだけではない、異者理解は可能なのか。それは、破局の後にあらわれた救世主を描く『マトリックス』にも、おそらくは描くことのできない未来。
(追記:映画を見た後で書いたパラダイス・ロストの感想。ちなみにファイズである主人公自身がオルフェノクであることによって、困難に思われた異者理解も成立していました。)

それとほぼ同時に公開される『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス』。これ自体は、宇宙の意志(宇宙正義)が人類を滅ぼしに来て、ウルトラマンジャスティスも人類滅ぶべしと考え、それらにコスモスが対峙するが、ジャスティスとコスモスが和解し、宇宙正義による破滅を回避、みたいなどこかで聞いたようなお話(ヒント:宇宙正義を根元的破滅招来体、コスモスをガイア、ジャスティスをアグル、に変えてみると…)、らしいのでどうでもいいけれど、注目すべきは、同時上映の『新世紀2003ウルトラマン伝説』。といっても大したお話ではなく、ウルトラマンキングの誕生日に、ウルトラマンも怪獣も、みんなで踊るというお話。
とはいえ、真に異者理解を果たしてこそ見えるその未来の果てにあるのは、結局、仲良くダンスなのかもしれない、というのは、ここまで長々と語ってきた「異者理解」に対し何の希望も抱かせないどころか、嫌悪感すら感じさせる、というのは言い過ぎだろうか。

ついでに言うと、『コスモスVSジャスティス』では、人類と怪獣の共生のために怪獣を宇宙に放り出すらしいけれど、もともとウルトラマンシリーズにおいては、『ウルトラマン』のガヴァドンなど、邪魔だけど殺すわけにはいかない、そんな怪獣との表向きの「共存」のために宇宙に放り出す、安易で強引な、それでいて大して心も痛まない問題解決がよく見られた。そのお手軽異者理解の体質が、未だに抜けていないのか、と、愕然とする展開である。
偽善者めいたウルトラマンコスモスの、うさんくさい異者理解。その最終形態が、この劇場版コスモスなのかもしれない。

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さて、先行きも考えないまま無駄に長くなってしまった観のあるこの文章だが、結局のところ、ぼくたちのヒーローを、異者理解という文脈を通して概観(それもごく表面だけを)したに過ぎず、そこからなにがしかの価値観を押しつけよう、などとは思っていないので、ひとまずここで、終わる。
さらにここから、境界に立つヒーローのことだとか、いろいろ書けるだろう(これは「ぼくたちのヒーロー」の一コンテンツとしてでもこの続きとしていつか書く?)。あるいはこの機会におかしな思想でも頒布しようと思えば、「こんな時代だから、異者理解がもてはやされるんだ(<安易な結論)。異者理解ってすばらしいだろ、ほら、ぼくらもこんなことで争ったりしないで、手と手をとりあおうぜ(<うさんくさい)」なんて寒い結末にだって結びつけられる(これは絶対いやだ)。
だけど、異者理解の後に続く様々な可能性を秘めたまま、全てを語り尽くすことなく終わった『ウルトラマンガイア』や『仮面ライダーアギト』に敬意を払い、今回はここでひとまずの終局としたい。それは、このヒーローというテーマが、このサイトが続く限りの命題であるがゆえの必然であり、つまり、また見に来てね、ってことです(宣伝)。
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