上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
なんか書きたいことあったけど、どんどん忘れています。

さて、もうすぐ仮面ライダー響鬼が終わるわけですが、「どうもクライマックスに向けて盛り上がりが足りない」だとか、「きちんと終わる気がしない」だとか、できるだけそういう感想とか情報は見ないようにしているぼくでも、最近そういう意見を目にする事が多くあります。

もちろん、そういう感想を目にする場というのは、あまり特撮そのものは好きではないけれど響鬼の雰囲気に魂を惹かれて見ているような、それ以前のライダーはあんまり見ていない健全な人の集まるところだったりするので、そもそも平成ライダーなんてずっと見ているよ、という人々にはこれから書く事は、ものすごくあたりまえのことかもしれませんが、忘れないうちに余計なことを書いておこうと思います。


そもそも、クウガ以降の仮面ライダーの「終わり方」には、「終わらなさ」の問題が常につきまとっていたように思います。

グロンギの「ラスボス」としてのン・ダグバ・ゼバ(こんな名前だったっけ?)を倒し、平和な世界にはなった仮面「クウガ」。一見全ては丸く収まったように見えるものの、クウガ=五代雄介の姿はそこになく、敢えて「閉じる」ことを避けたかのようにも見える最終回。
続く「アギト」の物語は、アギトと人類の物語の「これから」を語る前に終盤を迎えたまま、突如幕が下りた。
さらに「龍騎」になると、永遠に繰り返されるパラレルな戦いの物語が示される。
4作目「ファイズ」の場合は…こうして考えてみるとファイズに関してはわりときちんと終わったんだっけ?見ていたようできちんと見てないな…。
そして前作「剣(ブレイド)」では、主人公がアンデッド、「永遠」なる存在となり、自ら物語の「終わらなさ」をその身に背負うことで、ひとまずの終局を見せた。

ここまでの流れをあらためて見てみれば、平成ライダーの最終回というものが、大団円やカタルシス、これで全て丸くおさまりましためでたしめでたし、といった「綺麗な終わり方」とはほとんど縁のない、むしろその物語の「終わらなさ」を問題にするものであったことがわかるのではないでしょうか。

ここで敢えて響鬼が「これでマカモウは全滅しましたとさ、めでたしめでたし」なんて終わり方をしてしまったら、その方が明らかにおかしいわけですよ。
(誤解されるとちょっと困るのですが、ぼくがここで言いたいのは、中途半端な終わり方の仮面ライダーの最終回はダメだという話ではありません。むしろ、その「終わらせない」物語はすごく綺麗な「終わり方」を見せてくれていると思っています。念のため。)


そもそも、仮面ライダー的な日本のヒーローというものがどういう存在だったかといえば、敵が出る→誰かが被害に会う→復讐(代理復讐)としての正義の発動→カタルシス、という流れの繰り返しでした。そしてその永劫回帰の輪が「最終回」と呼ばれる鋏により断ち切られる瞬間に何があるかといえば、たとえば敵の最終作戦の発動に対抗してあわてて敵を壊滅させるような、実は結構バッサリ無理矢理切っているだけで、本来べつにそこで終わる必然性はないような、大団円でもクライマックスでもなんでもないものだったりします。たぶん。あるのは放送期間の必然だけ。そのぶん、伸ばそうと思えばいくらでも伸ばせるし、打ち切ろうと思えばいくらでも打ち切れる。
もちろん多少の伏線や積み重ねられることで意味を織り成す物語はあるものの、その基本となるのは、今でもやはり永劫回帰の輪です。
(ちなみに延長あるいは打ち切りという点に関して、永劫回帰という部分でのヒーローのあり方は、最近のウルトラマンを見るといろいろ見えるかもしれません。というかネクサスがちょっと特殊。)

旧来のヒーローたちが、しかしその永劫回帰の輪に立ち向かい、時に傷つき、時に死に向かったことは、ウルトラマンの物語構造の話を思い出すまでもないわけですが、平成ライダーたちにとって、その永劫回帰の輪とは、立ち向かい打破する万華鏡ではなく、そこで永遠のよろこびの中を漂うべき運命の輪なのかもしれません。
まだ最初の、クウガの段階では、主人公はその万華鏡に立ち向かっていたのかもしれません。そして傷つき、あの最終回にたどり着いた。そういう意味では、オルフェノクの王という永遠に立ち向かったファイズのラストが、あのような形だったのも正当なことかもしれませんね。(ちゅーか、どういう終わり方だっけ。念のため言っておくと一番好きな仮面ライダーはファイズです。携帯の着メロもいまだにファイズフォンです。)
しかし、回転速度を速めた万華鏡の中で終わったアギト、一度回転させればもとあったそれが崩れ新たな世界を描き出す、まさに万華鏡そのもののような物語の枠組みを示した龍騎、そして自らが永遠に回り続ける万華鏡となったブレイド。

その物語がぼくらに示したのは、なにも変わったことでも新しいことでもない、常にそこにあったけれど、しかしかつてのヒーローが無理矢理立ち向かい打ち壊そうとした存在だったのかもしれません。


そして今響鬼がぼくらに示そうとしているものは何なのか。
響鬼が立ち向かった「オロチ」。普通に考えれば、それは一時的な大イベントでしかないわけで、それを鎮めたところで物語が閉じるはずもなく、そこにあるのが「物語の完結」ではないことは確かです。それが終わったところで、彼らはまた終わりなき日常を繰り返していくことしかできない。既に鬼たちはそうやって長い時を戦い、きっとこれからもそうなのでしょう。
その永遠の日常から抜け出す術は、結局、死しかないのかもしれず、自我に芽生えた童子と姫、自らの存在そのものに疑問を持ってしまった二人の破滅は、これからも無自覚に永劫回帰の輪の中を生きていく鬼たちに代わってのものだったはずです。

永劫回帰の万華鏡に対峙する試みは、童子たちの破滅によって既に終わりました。
あとに残った鬼や鬼じゃない人々にできるのは、そこに残された万華鏡を回しつづけることだけなのかもしれません。
そして、その「終わらない」現実があればこそ、鬼たちは明日に向かう少年たちに、語り伝え示すことができるというのも、また真実かもしれません。


とか何とか言って、ものすごい見事な大団円で、すべて終わったマカモウ全滅めでたしめでたし、なんてことになったら大変だ。もうサイトやめる。


=====
オロチといえば、カタカナでオロチという書き方をして気付いたけど、楳図かずおのオロチは、存在そのものが永遠的な存在で、あるいはそもそもオロチという存在の意味する何かがあるとしたら、今響鬼さんは、永劫回帰の輪に立ち向かっているのかもしれない。とかいろいろ思ったけど、まあ、その辺は最終回見てから書き直します。
関連記事
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/tb.php/35-b7fae1c3
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。