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むかしむかし、まだ携帯電話なんてFOMAとか第三世代なんて言葉すらなく、携帯端末がやっとカラーになったような頃に、書いた文章(ニュータイプの条件)がありました。

まあ、これはべつになんてことない、というか、今読むといったい何をぐだぐだアニヲタが書いてるんだか、というアレなんですが、その数年後、まだブログなんて日本人の0.01%くらいしか知らなかったような時代に、懐かしのこのサイトで、ニュータイプ的なものを欲望する日本人のコミュニケーションと携帯電話の関係について、すごく恥ずかしいことを書いたりもしていました。

その恥ずかしい短文については、恥ずかしすぎるのでもう消したわけですが、それから時が過ぎ、さらにニュータイプ的な方向へ、今でも外部から働きかけてくれているコミュニケーションメディアについて、なんとなくお風呂に入りながら考えたことをなんとなく思い出しながら今日は書いて見ようと思います。
携帯電話ってどういうツールかについて思いを馳せた時、それは個と個の、ぼくとあなたの、彼と彼女の、あなたとだれかの、コミュニケーションを軸としたメディアなわけですよね、言うまでもなく。
おじさんたちが、若者たちのケータイ依存がなんちゃらで…とか言ったって、それは目の前の小さな装置にのみ依存しているわけではない、むしろ、そのむこうにあるコミュニケーションにこそ依存している。そんなこと、本当に今更言うことではありません。
それが正しいことなのかそうでもないことなのかという、おじさんたちの議論はさておき、そこで生まれるコミュニケーションの在り方を見ていると、人は、人工的にニュータイプに近付いているのではないかと錯覚してしまうこともあります。

携帯電話がぼくらに付加した能力は、伝えたい時に、伝えたい相手とコミュニケーションをとることが出来る(もちろん電源を切ればコミュニケーションは存在できないし、一方的に届いても、意図的にあるいは意図せずして、ディスコミュニケーションを生み出すこともあるわけですが)ことだけではなく、自分自身につながる関係性を可視化し、ポケットの中に持ち歩くという能力、常に自分の手の中に、自分が必要とする社会関係を携帯し、それへとつながる全能感、なのかもしれません。
あるいはmixiのようなSNSがぼくらに与えてくれるものもそれと同様で、まさに自らの関係性、それはマイミクのリストや、コミュニティによる帰属意識-旧来の学校や会社といった社会への帰属感だけでなく、細分化された趣味や思考までも他人と共有し得るというもの-までをも、可視化することで把握し、一覧でき、あるいは他人に対しても提示することが可能という、人工的に「(己の)精神のすみずみまで、判る」ニュータイプ化への道のりを、人工的に見せてくれているのかもしれません。同じようなことはたぶんたくさんの人が既に言っていると思いますけど。

ついでに言えばブログ的なコミュニケーションだって、つながることが前提にあり、全然知らないけど、Web2.0?だかなんだかそういうアレも、たぶんそんなつながるつながらないのアレなんでしょ?
( ´_ゝ`).。oO(……)

で、そうやってぼくらが獲得したネットやモバイルの存在は、今ひたすらつながることを希求し、疑似ニュータイプ(それって、強化人間っていうんじゃなかったっけ?)的な方向へと向かっているようにも見えます。
言葉だけじゃない、イメージまでをも伝達可能になったのはもう何年も前の話。
最近ドコモの902iシリーズではじまったプッシュトークだっけ、なんかどうぞどうぞ言ってるアレ。あれなんて、ニュータイプたちのコミュニケーションが最大限活用されたといっても過言ではない、Zガンダムの終盤のカミーユ×クワトロ×ハマーン×シロッコのシーンを彷彿とさせるし、むしろZ劇場版とコラボでもしないかと思っていたけど(うそ。思ってなかった)、1対1だった(ララァ×アムロの段階であった)コミュニケーションが、Zのラストまで発展したかのような錯覚さえ抱いてしまいます。残念なことに、あの機能を街中で使っているとか使ったことがあるという話をまったく聞かないけど。
あるいは同じく新機能のiチャネルだっけ、新幹線の電光掲示板みたいなニュースがちょこちょこ流れるアレだって、掌の上に世界への洞察力を結びつける形で、ぼくらの思惟を拡大させてくれようとする試みの、第一歩のように思えます。使える使えないはさておき。(でもこれはニュータイプ的なコミュニケーションの話とはちょっとずれた。)

そんなこんなで、今、ぼくたちのコミュニケーションを生み出すメディアは、それが正しいかあるいは間違っているか、なんてどうでもいいおじさんたちの判断はさておき、ニュータイプ的なもの(に見える何か)、人間のコミュニケーション能力(それは単に通話やメールのような直接的なコミュニケーションだけでなく、それを支える基盤をぼくらが手中に収めることが可能という意味でも)を、外側から強化する形で、進み続けているのかもしれない。もちろん本来的な意味でのニュータイプは、きっとそんなものじゃないし、懐疑的なおじさんたちの視点を借りれば、お手軽すぎるコミュニケーションによってその能力はひたすら衰え(!)、ぼくらは退行しているそうなのだけど。
わかりあうことを希求し、その洞察力を発展させたニュータイプとは、たしかに本質的には、逆を行っているのかもしれませんね。

そうそう、ニュータイプニュータイプってここまで散々書いといてアレなんですが、コミュニケーションの道具がどんなに発展したところで(むしろそれゆえに?)、所詮凡俗はニュータイプにはなれないよなーと、実はつくづく思っています。コミュニケーションって、ほんとよくわからん。

とはいえ、今ある技術の基盤にあるはずのものがコミュニケーション(あるいは、それに連なる事象)であるということに、大きなブレはないように思います。
そして、そこにニュータイプ的なあり方を希求する意志は、常にあってもいいと思うのです。



そんな中で、日々ちょっとだけもどかしく思っていることがあるんですが。
かつてニュータイプたちの能力を、オールドタイプたちが戦争の道具としてしか見ることが出来なかったように、今、ニュータイプ的進化(あるいはそう錯覚できる何か)を迎えつつあるそのコミュニケーションメディアを、モノを売るための何かとしてしか考えることのできない大人たちがたくさんいて、そして、彼らはどうもその根本的な何か、ニュータイプ的にそこにあるコミュニケーションを駆使し、自らの関係性を手中に収め、常に持ち歩き、「世界」(これは地球という意味での「世界」じゃないですよ!)とつながりつつある実際のユーザーの意識とは、どんどん乖離している気がしてならないのです。
ブログとかSNSを商売にしようとしている代理店的なおじさんもいるけど、まあ、ブログの場合はそこそこ成功しているかもしれないけど、SNSを活用しようとしたところで、そこにあるニュータイプ的なものを欲望する心理に気付かないままじゃ、中途半端なもの(クライアントはだませるかもしれないけど)にしかならない気がしてならないのです。

これはぼくがちらっと垣間見ることができた大人だけがそういうおかしなことになっているのか、それとも全国のマーケティングおじさん全体がそうなっているのか。前者ならただ滑稽なだけですが、後者なら、それはとても悲劇的なことのように思えてなりません。それが新しいニュータイプ的コミュニケーションツールを生み出す土壌にでもなればいいのですが
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