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過去ログ掘り起こし。
武士沢レシーブとかうすた京介についてちょっと触れた話。

ぼくたちのヒーロー【第二章:武士沢レシーブ】

(2003/03/04)

この世に、ヒーローと呼ばれる存在はどれだけいるのだろう。
ウルトラマン、仮面ライダー、スーパーマン。あるいはこのサイトの性質上、今回の文脈ではヒーローとしてはとりあげないが、イチローや松井もヒーローだろうし、小泉首相、なんて人もいるだろう。いや、それはもうあんまりいないか。
あるいは、第一章でとりあげたアミノンジャーなどのようなヒーローの似姿も、ひょっとしたらオリジナルのヒーロー以上に存在するのではないだろうか。特に、前章でも述べた通り、そのシリーズ自体がセルフパロディの繰り返しのような戦隊モノの似姿は、非常に多く存在している。要は、5人くらい集めて色分けして、なんかそれっぽいことさせていればいいのだから、非常にお手軽な様式だと言えよう。

そしてここにも、ヒーローの似姿が一人。

武士沢光沢。

セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』で一世を風靡したうすた京介が描いたヒーロー漫画『武士沢レシーブ』。
残念ながら20話ほどで終了したこの作品だが、この作品もまた、ヒーローをテーマにした作品である。

舞台は牛乳学園ヒーロー部。あるいは、途中から「さわやか戦隊☆ヒザサポーターズ」として活動することになるわけだが、うすた作品としてはそれほど高い評価がされているとは言い難い。しかし、敢えて言いたい。この作品こそ、ただのヒーローのパロディではない、まさにヒーローらしいヒーロー、真のヒーロー・オブ・ザ・ヒーローだと。

前章で述べたように、日本型ヒーローというのは、漠然とした正義のために戦っているのではない。なにかことがおきてから、ようやくそれに対処する形で彼等の戦いははじまる。つまりは、何もおこらなければ、ヒーローの存在価値はない。せいぜいダイエットやお肌のお手入れでもしているしかないわけだ。

それに対し、多くのパロディたちは、単にヒーローを名乗った時点で、もうヒーローになった気になり、傍若無人な振る舞いをする始末(そういう場合は、むしろヒーローに対する悪意のようなものもあるのだろう)。これでは目もあてられない。

しかし、武士沢光沢のヒーローとしての活動は、ただ単にヒーローを名乗っていい気になっているそんじょそこらのまねっこたちとは大いに異なった。

「平和ってステキだよ ホントに…! オレ絶対守ってみせるよ!この平和!
だからもう…早く乱れろよ平和…!」


そんな武士沢のつぶやきからはじまるこの物語。
なにいってんの平和を守るのがヒーローでしょ乱れちゃだめじゃないの云々と、そういうことを言う前に、考えてみよう。ここまでヒーローの戦いの本質に踏み込んだ一言があっただろうか。
平和のために戦うヒーロー。そりゃあ平和はステキだ。でも、その平和が乱れなければ、ヒーローはヒーローではない。ただの人。日本型ヒーローは、常に平和と平和乱れろの間での葛藤を続けなければならない。日本型ヒーローの戦いは永遠ではないが、彼等が存在する限り、この二律背反は永遠だ(逆に言えばヒーローさえいなければ平和も乱れないという、この悲しさ)。
その本質を言い表したこの一言。
ヒーローの名台詞は数多くあるが、これ以上に、ヒーローとしての名言はありえないだろう。

もちろん、天才ギャグ漫画家うすた京介の描く、ギャグ漫画としての武士沢である以上、ネタ的要素は大いに盛り込まれている。ひょっとしたらヒーローをよく知らないあなたにとって、これはむしろヒーローをおちょくっただけの作品に思えたかもしれない。
たとえば、ヒーローと言えば必殺技や必殺武器。
武士沢の必殺武器「武士沢ブレード」ときたら、まったくただの交通整理のときに使う光る棒でしかなく、しかも先の方は壊れやすいので、握っている手で殴るだけのものでしかない。
バカにしてるの(ヒーローを)?としか思えないかもしれない。

だが、これは単にヒーローをおちょくったギャグなのだろうか。
いや、そうではない。
等身大ヒーローの原点、そして日本型ヒーローの代名詞たる『仮面ライダー』の戦いはいったいどのようなものだったのか。
それは、身体そのもののアクションにこだわったものではなかっただろうか。
以前G3仮面ライダー論などを書いた時にも少し記したと思うが、剣で切り合いをしたり、鉄砲をぶっぱなしたり、手からビームを出したり、そんなアクションはどこにもない、肉体と肉体のぶつかりあいこそが彼等の戦いであり、それは敵怪人も同様、一見飛び道具や武器を使うように見える怪人であっても、実際は、彼ら自身の身体にそのアイテムが融合した身体という特質を持つ怪人たちであるわけで、身体へのこだわりは、身体改造とともに昇華されている(ちなみに、アバレンジャーの敵怪人も、まだはじまったばかりなのでほとんど出てきてはいないが、わかる限りで言えば、有機物と無機物を融合させて誕生するという、まさに原点回帰的な手法により、わかりやすい形でその戦いのあり方が、単に武器にたよっただけではない、身体性に重点をおいたものだと示すことに成功しているのではないだろうか)。

そして、この武士沢ブレードである。
もはや説明する必要もないであろう。
これこそ、ヒーローの戦いを根本から理解し、リスペクトした必殺武器に他ならない。

さらに、その物語の展開。
平和乱れろ。そんな武士沢のセリフで幕を開けた物語ではあったが、当初のんきなギャグマンガとしてヒーロー部の活動を行っている間は必ずしも面白いとは言えないものだった。しかし、事実、「ゼリー」が出現し、平和が乱れることにより急展開、一気におもしろみを増したというのは、誰もが認めるところではないだろうか。平和が乱れてこその、ヒーローなのである。

また、実際は、終盤に至って、諸般の事情により語り尽くせなかった物語がダイジェストになったり果ては年表になったりするわけだが、実はここで語られる物語の展開は、毎年バリエーション自体は様々に展開しつつも同じようなパターンを繰り返す(といっても、単にマンネリということではない。一つの様式とでも言うべきものであり、一つの世界の中でどう物語が展開していくか、まあ、たしか岡田斗司夫がそのへんについてはいろいろと…)戦隊モノの展開を踏襲したものであることに気付いた人も多いだろう(あるいはサル漫?)。
結果的には、年表で描かれることにより、ヒーローの物語としてのこの作品が、マンネリ化することもなく、適度な盛り上がり(萌えではない、燃え)と、わかりやすさをもったまま、もちろんギャグとしての要素も色濃く持ちながら完結したこの最終回は、日本ヒーロー史に残るものだと言っても過言ではないだろう。

正直、武士沢についてはこれくらいでは語りきれないし、こんな文章では、連載開始時の、そうだよ、これこそヒーローだよ、という感動(一瞬で、これはマサルを越えたと思った)は伝えきれないが、ひとまず武士沢はさておき。
こういった、まさにヒーローらしいヒーローを描ききったうすた京介の、この才能、実は『すごいよ!!マサルさん』の中でも発揮されている。
そう、『よろしく仮面ダッツノー』(『マサルさん』コマンドー59「オレの名前はヨロシク仮面だっつーの」に登場する劇中劇のようなもの)である。

まさに日本型ヒーローのあり方を踏襲したその物語。それ自体についてここであらためて深く論じる必要はないだろう。
特筆すべきは最後の最後に登場する「謎のヒーロー」である。
窮地におちいったヨロシク仮面と、怪人の戦いの場に、何の脈絡もなく飛来し、なんの因縁もない怪人を倒し、そのまま去っていくこの謎のヒーロー。
その存在は、デウスエクスマキーナ的 と評される(つまり物語の最後に脈絡なく突然出てきて、もつれた問題を圧倒的力で解決しちゃうってことね)ウルトラマンのようであり、あるいは漠然とした正義を体現したアメリカンヒーローのようでもある。
まったくタイプの異なる二人のヒーローを、ひとつの作品の中に見事に共存させ、描き分けることに成功しているこの物語は、うすた自身がいかにヒーローを知る者であるか(様々なメディアにおいてヒーローを描く人間は多いが、実際にヒーローを知る人がどれだけいるというのだろう…)を端的にあらわしている。

もちろん、武士沢もヨロシク仮面も、ヒーローのパロディ(むしろパスティッシュだとかオマージュだとか、別の言葉を使った方がいいかもしれないが、前章からの流れもあることだし、パロディということで)である。
だが、ヒーローの、ヒーローとしての存在を描くことにここまで成功したヒーローの似姿は、正統なヒーロー(セルフパロディの繰り返しの中で、そう呼んでいいのかはわからないが)の系譜の中にもそうは見当たらない。そこには、うすたの、ヒーローに対する造詣の深さと、その真摯なヒーローに対する態度、そしてギャグ漫画家としてのセンスが、…まあその辺に関しては、ぼくのようなド素人(特に漫画はあんまり知らないんだよね…)が偉そうに語るまでもないが。

念のために言っておけば、これまで語ってきた「ヒーローのパロディ」というのは、「ヒーローのパクリ」ではない。たとえば、ヨロシク仮面は○○のパクリだとか、無意識に似たんだろう、なんてのは、あまりに陳腐だ(一つのネタとして、その仮面がなにかに似ていたり、ファッションが特徴的であっても、それはあくまでも一つのネタにすぎない)。これらの作品は、たとえば『仮面ノリダー』のような特定作品のパロディとは異なり、「ヒーローの本質」のエッセンスが凝縮されたものである。それはもちろんアミノンジャーのように見た目だけ似せた、前章のように無理矢理こじつけなければヒーローかどうかもわからないアレなものとは大きく異なる(あるいはろくにヒーローも知らなければ、自らの限定された知識の中で記号的に見いだした限定的なエッセンスとのみ重ねあわせておかしなことをいってしまうかもしれない。これはヒーローの話題に限ったことではないし、自分自身が無意識にやってしまっているかもしれないことでもあり)。

あるいは、ヒーローものの持つ「世界」、これはその系譜の中で、ある世界観として完成されたものと言っていいだろうが、単に「お約束」だとかそういう言葉で片付けるわけにはいかない(この辺が、まあ大体小学生にもなればヒーロー番組なんて見ない方があたりまえなのだから、小学生レベルの思考とどっかで植え付けられた知識で大人ぶって語るしかないというのもしょうがないとはいえ、そういう「お約束キター」のようなレベルでの会話になんとか介入したいというのがこの一連の「ぼくたちのヒーロー」というテキストの目的の一つでもあるわけで、まあうまくいかないものだが)。その「世界」をふまえた展開。それを見るだけでも、武士沢たちがパクリでもニセヒーローでもないことがわかるだろう。

とりあえずヒーローがわからなければ、アバレンジャーでも仮面ライダー555でもない、まずは武士沢を、真摯に読んではどうだろうか。

今回、これまでこのサイトではほとんどとりあげることのなかった漫画というメディアをベースに、ヒーローについて見てきたわけだが、どれほどヒーローについて語れただろうか。
本来なら、セクシーコマンドーやいくつかの短編も絡め、うすた作品全体を俯瞰したものを書いたほうがよかったかもしれないが、それは別の機会にまわすとして。ひとまずの終局。


えーと、結局、自らの語り口の未熟さだけが目立ってしまいました、今回は、いや今回も。
あと、口調が第一章と違うのは最初から気付いていたけどそのままにしました。
なんだか、もうなにもかもなげやりなままひとまず終わるわけですが、次章に続くということで(いつになるかはわからないけれど)。
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