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NHKスペシャルって結構好きで、よく見ていたりするんですが、先日、近年稀に見る酷い内容の番組が放送されていた気がします。

“好きなものだけ食べたい”
~小さな食卓の大きな変化~


途中から見たので、ひょっとしたら最初の方は超傑作だったのかもしれませんが、少なくとも途中からは、ちょっと見てらんないものでした。

最近の子供たちの食が酷いことになっているとかいう、いわゆる食育ブームに乗ったような、あるいは食育ブームに合わせて慌てて何か作ってみた、という内容だったのですが、どうも杜撰過ぎた気がしてなりません。
たとえば子供の食がダメになっているから運動もダメになった、と言い出したものの、それを裏付けるデータ、特に「他の要因ではなく食が原因と言い切る」ためのデータが提示されないという、民放のドキュメンタリー並みの無鉄砲さ。朝飯を食べないからこの学校では50メートル走のタイムが落ちたとか言い出すんですが、意味がわかりません。他に、要因はないんですか?ちゅーか、まったくもって統計とか正確性とか信憑性とかいう観念が、そこにはないんじゃないですか。
特にそれを裏付ける何かがあるわけでもないけれど、とりあえず食が悪いと言っておけばなんとかなる、という現代的食育ヒステリー状況が、そこには見え隠れします。ヒステリックな左翼主婦集団がそう言うのであればまだしも、NHK様が電波に乗せて言うことではないでしょう。
(ちなみに、こういう時に個人的な話を持ち出すとすごくバカっぽいんですが、ぼくは幼稚園の頃から毎日朝食を食べて好き嫌いも全くなかったのですが、運動はからっきしでした。それはもうひどかった。あ、牛乳は嫌いだった。そうか、問題は牛乳か?牛乳に相談か!?)


あるいは、番組の合間に挿入される謎の「質問」。

「イマドキの子たちの間で問題なのはどっち?1.肥満、2.やせ」
と二択で聞いておいて、答えは「両方」。
なんだそれは。どちらか、と問うたのならば、答えは一つだろ?何が両方だ。NHKは、そんなに日本語の解釈がゆるい集団だったのか。シュールなギャグじゃないし、小学生のナゾナゾでもないというのに、「両方」はないんじゃないか?と、まあ、いきなりプチ切れですよ。この温厚なぼくが、その日はじめて、椅子を蹴った。

ちなみに次の問題は、
「好き嫌いをなくすためにどこかの学校が行ったのは、1.居残り給食、2.(何か忘れたけどとにかく人でなしな何か)、3.自分で育てた物を食べる授業」とかいう、1・2で明らかに人でなしなものを提示して感覚を強引に3に誘導するクソ問題。そんな自分たちの都合の良いように誘導するクソ問題出すくらいなら、はじめから普通に説明しろ、と。またプチ切れですよ。

そして、番組の最後にまた質問が出たんですが、
「あなたは子供の好き嫌いをなくせますか?」
みたいな、それ、なんか問題の傾向がちょっと違うよね、ちゅーか、余韻を持たせて終わらせようってか?安易すぎるんだよ。筋が通った番組だったら、それでよかったけど、こんなどうしようもない内容じゃ残る余韻も残らないんだよ。と、また最後で不満爆発なわけですよ。


とはいえ、番組で言わんとする事自体は、わからなくもありません。
現代人、特に子供の食生活がダメになって、その影響で他にもいろいろダメな方へダメな方へ向かっているから、ちょっとそれは何とかしないとやばいよね、という考えには、おおいに賛成です。天道総司氏のおばあちゃんも、「病は飯から、食という字は人が良くなると書く」というようなことを仰っていましたね。これについては、ぼく自身も非常に強く実感しますし、その言葉を引くまでもなく、食は大事ですよ。


で、それでは今回のNHK特集は、その現代的食のあり方に対して、何を提示できたのか、と。
「現代の食のヤバさ」をぼくらの前に提示してくれたのかと思いきや、どうも表面的過ぎて、あるいは前述の例のように、特に裏付けも提示しないくせに先入観だけでものを言うので、胡散臭すぎて逆効果。テレビを信じて疑わない世代の人々には通用するかもしれないけれど、まともに見ていれば、いまいち信用できない内容ばかりなのです。

では、大人として、その食のあり方に対峙する術を示してくれたのかといえば、まったくそんなことはない。
なに?食育の一環として自分で作った物を食わせたら改善された例が出た?なんですかそれは。自分で育てても喰わないやつは喰わないし、まずいものはまずいんですよ。そもそも、それじゃあ、肉も魚も野菜も米も小麦も、なんでもかんでも自分で育てることができるかと言えばそんなわけもなく、限界が見えすぎているのでは?もちろん、お遊び程度にそういう授業を行う事に反対なわけではありませんよ。おおいにやればいい。ぼくだって育てて食べたい。ベランダでハーブやトマトを育てるお洒落ライフだけではなく、自ら手塩にかけて育てたかわいいかわいい豚を、自ら潰して余すところなく食べたらどうだろう。それはもう大切に食べますよ。
だけど、それだけじゃ根本的なところは何も解決しないでしょ。


結局、何が問題なのか、何でそういう問題が起きているかも見えないまま、それに対してぼくらはいったいなにをすればいいのかもわからないまま、もちろん「わからなさ」を提示して考えさせる事でよりよい方に向かう考え方もあるでしょうけど、そういう「わからなさ」ではなく、単にもやもやした不満と不信だけが残る、非常に後味の悪い番組でした。


ちゅーかさ、誰か言ってやればいいんですよ。
「ママの料理がまずいから好き嫌いができるんだ」って。
べつにママでもパパでもおばあちゃんでもいいんですけど。


問題ある小学生の家庭にカメラが突撃してその家の朝食風景を映し出す、というような試みもその番組ではあったわけですが、テレビ向け厚化粧仕様なおばさんとか、テレビ向けにその日だけ早起きしたいやらしい子供とか、まったくもってナンセンスな、本当に、何の意味もなさない電波の無駄遣いな内容だったわけですよ、これが。いったいあの部分で何が言いたかったのか。何故あんな無駄なものを流したのか。この番組で最も不可解で、最も疑問で、最も不満が残る瞬間でした。
あれは段取りがまずかった。いやらしさが丸見えじゃないですか。
あそこでこの番組は逃したんだ。「おまいらの飯がまずいから、子供がものを食べなくなるんだ」と言える機会を。
本当のまずい飯たちが登場の機会を失ったんだもの。

あるいは、同じく番組内で、どこかの病院にデブっ子が集まって好き嫌いを矯正するような、非常にかわいそうな虐待場面があったのだけど、スパルタおばさんのしごきの甲斐があったのか、デブっ子が野菜を食べて、こう言うわけですよ。「ブロッコリーが食べられるようになった」「レタスをはじめて食べた」とか、そんなこと。

きっと彼らは今までまともなブロッコリーを食べる機会がなかったのでしょう。(レタスはべつにただの水みたいなものだから食べなくてもいいけど。あっ、でもデブっ子はそれで腹を満たせばいいのか。)
あらためて考えてみると、ブロッコリーはおいしいです。とてもおいしい。ちょっと茹でただけで、甘くてほっこりして、とろけそうになるくらいおいしい。べつに何もつけないし、何もつけないままで、とてもおいしい。茹でたてなら特にいいけど、べつに時間が経ってもいい。高いブロッコリーじゃなくていいんです。そのへんのスーパーで売っている、国産の安いブロッコリーでいいんです。そんな普通のブロッコリーが、とてもとても、おいしい。お湯の量も塩の量も、茹でる時間も適当だけど、間違いなくおいしい。自分で茹でた時はね。
でも、よそで食べると、大抵の場合、あんまりおいしかった気がしないわけですよ。レストランもお弁当も、あるいは実家に住んでた頃もそう。結局何が違うのか知らないけど、世の中には、おいしいブロッコリーとおいしくないブロッコリーがある。あるいは、こう言うこともできるかもしれない。世界には、おいしくブロッコリーを茹でる人間と、そうではない人間がいる。そしてデブっ子のママ(パパでもおばあちゃんでもいいよ)は、そうではない人間の方だったんだ。

でね、そりゃまずいブロッコリーを出されたら、もうこんなもの食べたくないと思う、それは、ごく当たり前のことのように思います。
だけど、それを入院させてまで食べろ食べろと苛むというのは、なんだか間違っていないかい、と。
入院させるべきは、子供たちなんかじゃない。
料理の下手な、まずい飯しか作れない、あるいは、まずい飯を平気な顔をして子供に食べさせることができる、どこかの大人たちなんじゃないのか、と。


ぼくは、子供の頃ゴーヤーが嫌いでした。
だって、うちのママが出すゴーヤーの料理は、おいしくなかったんだもの。ゴーヤーの悪いところが全部出たような、水っぽいへんなやつ。
最近また食べる機会があったけど、やっぱりおいしくなかった。今は大人だから食べられるけど、あんなもの子供に出して、毎回ゴーヤー全部食べろとか言われても、それは無理があると、つくづく思います。
個人的な話をあんまりするのも、ちょっとどうかとは思うんですが、もう少し続けます。
子供の頃から好き嫌いがほとんどなかったぼくですが、こうして大人になって、あらためてうちのママのご飯を食べてみると、どうもそんなにおいしくない。というかちょっとひどい時がある。特にご飯。お米のアレ。ぼくと同じ炊飯器を使っているのに、米そのものに含まれる水分量が違うのか、あるいは何かもっと別の要因があるのか、水っぽすぎて、それだけではなくなんだか舌触りも風味もどうしようもなく、すぐにでも箸を置きたくなる、そんなご飯。ときどき外食してもそういうご飯に出会うことがあるから、これは意外とよくあることなのかな。
で、そういうご飯を食べた後で自分で炊いたご飯(炊いたのはもちろん炊飯器さんなのだけど…)を食べると、べつにぼくは何の工夫もしていないんだけど、とても甘くて風味も食感も非の打ち所がない、そんなご飯が存在しています。同じ米で同じ炊飯器で同じ水だというのに、不可解なほどの質の違い。
何度食べてもそうなのだから、これは偶然だとか気温や湿度のような外的要因とは考えられません。根源的な違いが、何かそこにある。
繰り返すようだけど、世界には、おいしくご飯を炊ける人間と、そうではない人間がいる。

そういう問題が、きっと多くの家庭にほぼ普遍的にあって、子供がろくにモノを食べないことの要因の一つとして、料理センスの欠如したママ(あるいはパパ)の問題というのは無視できない、というのはあながち間違いではない気がします。
うちは、ほら、田舎で、今でも大しておいしい飲食店のないような土地柄だったから、それでもママの料理を迷いなく食べて育つことができました。でも、今時、外でご飯を食べれば、おいしくないものなんてそうそうあるわけではなく、おいしいのが当たり前。では、そういう「おいしいもの」を知った子供が、振り返ってママ(あるいはパパ、あるいはおばあちゃんでもいい)のご飯を食べたとき、それがひどくまずいものだったら。
食べないでしょ、まずいブロッコリーは。

時々、「お母さんのご飯が一番おいしいよね~」とかなんとか能天気なことを言う人がいて、そんなときぼくは何の迷いもなく「いや、俺が作った方が間違いなく旨い」と断言するのだけど、同様に、「お母さんのご飯って意外と不味い」ということに、子供たちが早く気付く時代なのかもしれません。
そして当然、不味いものは食べたくなくなる。

ぼくは何度もいろんなところで言ってきたように、飯ブログの多くが大っ嫌いで、特に自作料理の汚い写真とその無意味なレシピ(盗作レシピ?)を載せるようなところはまじ勘弁、です。だって、画像が非常にまずそうなんだもの。あの奥様や旦那様たちの料理(中には素敵な人もたくさんいるのだけど、今回は敢えてこういう書き方をします)。
もちろんぼく自身の料理も、盛りつけという一点において非常に弱いと感じていて、とても他人様に見せられたものではないのだけど、自作飯ブログの人たちの多くはもっとひどいように思えます。食欲減退という一点において、彼らは強みを持っていて、ダイエットには非常に効果的なのだろうけど、あんなものが家庭ででてきて、それを食えと言われて、はい食べますと、素直に言えるような子供は、ちょっとおかしいんじゃないかしら。そんな子育てをするくらいなら、好き嫌いが多い子の方がまだましですよ。というか、あんなマズ飯ばっかりじゃ、NHKさんが言う「好きなモノだけ食べたい症候群」になっても仕方ありません。むしろ、それは、至極当然のような気がします。なんちゃら症候群のような変な造語なんて作る必要はない、「不味いものは食えないとはっきり言える子供」が育っているという、それはごく自然な、食育としてもすごくまっとうな現象ではないでしょうか。不味いものを不味いと言えずに、あるいは不味いとわからずに、無意識に食べる子供。その方が、食という観点から見れば、なにか大きく間違っている、そんな気がしてなりません。マズ飯ブログの奥様旦那様に聞けば、たぶん「うちの子はなんでもおいしく食べるわよ」というかもしれない。でも、それって、冷静に考えてみるとすごくかわいそうなことですよね。本当においしいものを知らないということだから。マズ飯漬けにされて、感覚が麻痺している。
もちろん、一般的に不味いと言われているものでも、味わいようによってはいくらでも美味しくなると、ぼくは18歳の頃から考えていて、その考えは今でも変わっていないのだけど、そういう「味わい方」というのも、マズ飯漬けではほとんど成長しない。そこにある行為が「味わう」というものとはかけ離れているのだもの。
あるいは気持ちで美味しく云々とか言い出す不思議ちゃんな奥様旦那様もいるかもしれないけど、そういう家庭に生まれ落ちたとしたら、もう本当に困るしかないですね。気持ちでおいしくなるかよ。不味いものは不味いんだ。もちろん、それをどれだけ我慢できるかという部分で、気持ちというのはとても重要だろうけど。

前述の天道氏のおばあちゃんは、「最初に一番良いものを食べなさい」と仰っていたそうで、ぼくも大意において、それには非常に同感です。最初からマズい飯では、到底味わう感覚なんて育たないもの。べつに最高のものでなくたっていい。だけど、おいしく食べられるはずのものを、不味くして食べさせることだけは、やめるべきではないのか。もちろんそんなこと、無自覚にマズい飯しかつくれない奥様旦那様たちに言っても仕方がないことですけどね。
マズ飯漬けの子供たちに、「何はともあれブロッコリーを食え」なんて、ぼくは絶対に言えない。
その前に、黙っておいしいブロッコリーを出すのがどれだけ大切なことか。

やっぱりダメブロッコリーを残すのは仕方がない。
もし、ぼくの茹でたブロッコリーを目の前にして、それでも食べない、食べられない、という子供がいたら、そこではじめて、たとえその子を殴ってでも、この飽食の時代の好き嫌い問題に立ち上がらなければならないのかもしれない。

こういうことを言っていると、「坊や、好き嫌いっ子の現実がわかっていないわね」な~んて言い出す奥様旦那様もいる気がするけれど、たぶんそういう人たちは美味しいってどういうことなのか、子供に伝えることができないんでしょうね。少なくともぼくよりは不味いものしか作れないんでしょう。かわいそうだけど。
(ちなみに、マズ飯ブログがどれだけ不味そうかを具体的にリンクしようとも思ったのですが、ブラクラなみに酷かったので、今回はやめておきます。もし見たかったら見たいというコメントでも下さい。ゲロ袋を用意して。)


さて、もう一度NHKさんの番組を振り返ってみれば、やはり、大人がまともに料理をつくれない(いや、料理というほどのものでなくてもいい、ブロッコリーを茹でる、それだけのことでいいんですが、それすらもまともにできない)という事実なんて示されないまま、子供たちの好き嫌い傾向の根源にある何かを語らない(語れない?)まま終わってしまいました。
「あなたは子供の好き嫌いをなくせますか?」
最後のこの問いは、番組の流れからすればなんだか不釣り合いなものだったけれど、ここまで考えてみると、すごく根源的なところで大人たちに何かを訴えかけた、この番組が放った最後にして最大のメッセージだったのかもしれません。

本当はすごくいい感じの内容を取材できたのに、NHK上層部の意思により、なんだか無難でもっともらしく見える表層的な記号をつなぎ合わせたつまらない番組を作らされたスタッフが、それでも最後に大切なことを伝えようと、そう問いかけたのかもしれません。もしかしたらね。

料理もまともにできない大人が巷間に溢れ(これはみんなが下手になったということではなく、世の中全体に不味いものが減った分、それが際立つようになった、ということかもしれませんが)、あるいはグルメグルメと騒ぎ立てるようでいて、その実中身ののない自称グルメライターやら自称フードジャーナリストやら自称なんちゃらの王様たちのろくでもない情報に踊らされ、子供たちを云々する前に自分たちが、食とは何かを見失った大人たちが食を語る不思議な時代。

まずはお前らダメ大人たちの食育を叩き直すべきじゃないのか。
そう、すごくすごく遠まわしに、NHKさんは伝えたかったのかもしれません。


ちゅーか、ダメ番組ダメ番組と言いながら、ここまで長々と余計な事を考えて最終的に持ち上げてしまっている自分に、今ぼくは、愕然としています。

==追記==
ちなみに、べつに料理がアレな人はダメだって言っているわけではなくて、たとえばぼくが愛してやまないしょこたんは、どうも料理がダメな人らしいけど(参照)べつにそれはそれで全然構わないし、あ、ちゅーかしょこたんとぼくが結婚すればバランスが取れていいですね☆
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