上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スピリチュアルな物語、あるいは王様の耳はロバの耳

これの続きというかアレです。
ちなみにこのエントリ中のアマゾンへのリンクは、すべてアフィリエイトではないので思う存分クリックするといいと思うんですが、気持ち悪い画像かもしれないので、それだけ気をつけてください。
ちなみにぼくは、今回これを書くためにいろいろ探したせいで、アマゾンが提示するおすすめでアレ系ばかり出るようになって、ちょっと気分悪いです。

==以下本編===

昔ちらっと聞いて、なんかおかしいなと思ったんですが、「一般的に12/25がキリストの誕生日って言われているけど、聖書には生まれた時に羊飼いがやってきて跪いたと書いてあって、そんな真冬に羊飼いがうろついているはずがない。だからキリストは12月じゃなく夏に生まれたんだ」とか得意気に言っている説があるらしいんですね。
べつにあの人がいつ生まれようが構わないんですが、そもそも「真冬に羊飼いがうろうろしているはずがない」という情報の方が、「いったいどこの馬の骨とも知れないそのへんの生まれたばかりのサルと大差ない赤子に対して、いい年した羊飼いが突然やってきて跪くこと自体何かおかしい」という情報よりも重要なものとしてあらわれているようなんですね、そこでは。
よその子(べつに王様とか領主の子でもなく、そのへんの大工の子)に大の大人が突然ひれ伏す。羊飼いが真冬にいるかどうかは気にしても、その不可思議さが認められてしまう何かが、そこにはあります。

キリスト生誕時期の問題に関しては、いろんな説があるようですし、"聖書が全て正しい"という前提の上でみなさんがんばってらっしゃるようなので、その流れの中で羊飼いの時期が云々という話が出てくるのはわからないでもありません。
しかし、そこで聖書には書かれていない誕生日の日付について議論しながら、そもそも知らない赤子にひれ伏す大人がいるのか、という部分がスルーされてしまう時点で、何かちょっと違う気がするのはぼくだけでしょうか。


ところで、先日スピリチュアルな物語についてのエントリで、現代人を取り巻くスピリチュアル的なものに対してちょこっと書いた気がするのですが、ふと思い出して、あの有名な江原なんちゃらさんって結局どういう人なのかなー、とアマゾンを眺めていたところ、上の羊飼い云々の話を聞いたときのような不思議な疑問が沸きあがるようなレビューに出会いました。
この本。

スピリチュアル・カウンセラー江原啓之物語

レビューした読者(信者)によると、「江原さんは力を持っているんだから、その力で未解決事件を解決して苦しんでいる人を助けてほしいのに、なんでバラエティにばかり出るの?」というような純粋な疑問が書かれていました。
うん、いや、ほんと、なんでその力で解決しないんですかぁー?って感じなんですが、そこで純粋な読者が持つ疑問は、「そもそも本当にそこに力がある」ことを絶対的な前提として出てきた疑問のようです。「なぜそこに実在する強力な力を使わないのか」という。そこには「そもそも出来ない」という概念は存在していません。かつてキリスト者が冬に羊飼いがいないことに気付きながらも、よその赤子に良識ある羊飼いが何の脈絡もなく跪いたという記述には何の疑問も生じなかったように、そこには絶対に揺るがない超強力な"力"が存在しているようです。

まあ、どちらの話の場合も信仰は否定しませんし、もし実際に、大の大人が生まれたばかりのよその子のところに突然ぞろぞろとやってきて跪きひれ伏し崇め奉っていたり、いつもニコニコした変なおじさんが、突然超強力な霊的エネルギーで未解決事件を10秒で解決(たとえばぼくが小2のときに実家のどこかに隠して以来、未だにどこにいったかわからないお菓子がたくさん詰まった袋を見つけてくれるとか)してくれたら、いや、もう、こちらこそ跪きますが。

そうそう、そういえば件のスピリチュアルに関する以前のエントリの件ですが、ちょっと振返って要約すると、

子供の頃は自分の物語(人生とか未来)ってもっと輝いていた気がするけど、気付いてみると冴えないサラリーマンや、地味なOLになっている"リアルな自分"がいて、べつに何か期待しているわけでもないけれど、たぶんこれから先ドラマみたいな物語が発生するわけがない、このまま30、40、50と年を重ねて枯れていくんだろうなー、という自らの物語の欠如とそれが生み出す空虚(意識する・せざるに関わらず)があり。だからといって、何かアクションを起こすわけでもないけど、でもなんか寂しいよなーという日常。
それを補完するものとして提示される、スピリチュアルな"前世の自分"の物語。
特に物語のない物語である自分の人生とは別に存在した(ことになっている)、ときに波乱万丈な、ときに浪漫に溢れた、でも"自分の"物語。
それは、人によっては確実に"癒しの物語"であり得る。たとえ現実の身は平坦な静寂の檻に閉じ込められていようと、しかし"自分"の中には確実に自分好みの"物語"が存在することになる、スピリチュアルな形。
時には、そのかつての"自分の"物語が、今の自分が、なぜ"現在の生"を生きている(というか、生かされている?)のかという因果も含めて説明される(むしろこの因果説明の方が重要?)、スピリチュアルな癒しの世界。
それはたしかに、物語不在の現代人の心の隙間を埋めるに余りある力があるのかもしれない。
…という仮説。

とまあ、こんな話だった気がします。
思った事を思ったままにだらだら書くので、そういうことがほとんど伝わっていないかもしれませんが。

ちなみに、スピリチュアルな形での"癒し"というのは、アリだと思っています。
(注:今は思っていません。2007年4月追記)

こういう中途半端なことを書くと、スピリチュアル派な人からは、「何言ってるのよ、たしかに前世は存在するのよ、認めなさいこのタコ」と罵られ、アンチスピリチュアルなリアリストからは、「うわこいつスピリチュアルとか言うなよ、きんもー」と批難されるような気がするのですが、中途半端なぼくなので敢えて続けます。

べつに暴利を貪るわけでもない(と思う)し、それで多少なりとも空虚感が救済される人がいるのも確からしい以上、その行為を否定することはできません。
むしろ、"現在の自分の生"にすら理由を求めてしまう、あるいは、理由(前世の行い)が提示されることで納得してしまう現代日本人の感覚にこそ、着目しなければならないのかもしれないと思っています。


前のエントリで書いたように、前世の魂が循環して自らにたどり着き、その行いが現在の自分に反映されているという考え方は伝統的に日本にあった考え方ではないし、ましてや、進歩とか科学とかいう考えとは一見縁遠い感覚です。歴史を循環するものとして考えるような、近代よりも昔の、あるいは未開の民族(と呼ばれる人々)の文化ではないかとすら思えます。

それがごく当たり前のように、先進国を自認するこの国で受け入れられている背景には、以前述べたように、セーラームーンやその他もろもろの、前世・転生がごく自然に物語の基盤として存在しているアニメや漫画、小説、映画、ゲームなどが、カルトとしてではなく受け入れられ続けている"現代"というものがあるように思います。
とはいえ、それだけではないもっと根源的な土壌というのがあるような気もします。


たとえば、これを見てください。

スピリチュアル・ヴォイス

ひどいCDですね、これは。
全盛期の麻原某を想起させるような(そういえば彼も歌っていましたね)この佇まい。レビューを眺めたところ、これはどうやら羊飼いをモチーフに神を仰ぎ見る姿なのだそうです。
…ふーん。

それだけを見ると、キリスト教的な考え方の人なのかと思ってしまいます。というか、聖歌隊を意識したファッションですよね。
ほら、これもひどい。

スピリチュアル・エナジー
(コンサートのチケット販売でコンビニにこの写真があったときには、不覚にも笑ってしまいました。)

前回も書いたのだけど、魂が輪廻するという考え方は、キリスト教的なものではないはずです。あの人たちの言う死者の復活とか救済というのは、決して生まれ変わりではないし、ましてや円環的に魂が巡るというものではありません。たぶん。よく知らないけど、そんな感じだと思う。そこでは、歴史の終着点が決まっているので、そこにたどり着くまでの間に魂が何度も何度も生まれ変わるなんてことはなかったはず。ましてや前世の自分の行いが現世で帰ってくるなんて。
ついでに言っておくと、たぶん前回のエントリをmixiにアップした直後に、wikiの輪廻の項目が追記されたようなのだけど、(参照リンク)、やはり現在スピリチュアルな世界で提示される前世観というのは、ヒンドゥー教的なものに非常に近いと考えるのが適当なようです。もちろんそこには、何十年前の変なスピリチュアルなんちゃらな人たちが、その辺から発想を得たということな気もしますが、全然その辺詳しくないので、ただの勘です。

ということは、前世の行いやその結果について語る場合、むしろこんな恰好の方がいいんじゃないでしょうか。

しかし、実際には、前世について語り前世の行為の因果応報による現世の生を説く"スピリチュアルカウンセラー"が、得意げにキリスト者的なイメージを身にまとっているこの有り様。
更に言えば、修験道や神道を修めた元神主が、どこで学んだか知らないスピリチュアリズム(心霊主義)を語りつつ、キリスト者的ファッションに身を包み「言霊」を歌う混沌。

字面にすると、それはとても胡散臭い。というか、あまりにもちぐはぐです。
だけど、それって実は、ぼくら現代日本人の姿とも重なって見えます。

今更言うまでもなく、多種多様、雑多な宗教観の入り混じったぼくらのハッピーライフ。クリスマスや初詣、お盆、端午の節句に七夕、あるいは聖人の殉教に基づくバレンタインと、それに呼応する謎のホワイトデー。そんな数々の風習に入り混じった観念の一つとして、フィクション世界での転生も同様に共存し、今のぼくらの価値観を築き上げています。

江原氏の胡散臭さは、そのままぼくらのちぐはぐな生にシンクロし、その共振こそが、現在の彼流のスピリチュアルな物語が一般に受容しやすくなる土壌として、存在しています。
言い方を変えるならば、つけいられやすく、なっている。
彼等の表面的な"もっともらしさ"の数々が、現代人の表層的な数々の精神的よりどころに共鳴し、さらに前述の転生ポップカルチャーによって育まれた心理的土壌から根こそぎ、彼等の言うスピリチュアルにとりこんでしまう。

とはいえ、繰り返すけれど、それを害悪と言っているわけではありません(どう見ても毛嫌いしているように思えても、それはそう思えるだけです)。
たとえばぼくらがメイドカフェに行って癒されるように、スピリチュアルに癒される人がいることも大いにありだと思います(とはいえ、自分が前世の話を聞きに行くわけでも、ましてや他人にそれをすすめているわけでもありませんが)。
もし糾弾するとするならば、それは、「物語」ありきのものとして、人生を夢見させたこの社会なのかもしれません。

どんなに努力してもどうにもならない(あるいはぼくのように努力の才能すらない人間もいるでしょう)人生だってある。夢見たところで気づいたときには、平坦な人生を生きている自分がいる。それなのに、現代という時代は、物語ある人生としての過度な期待を、心の奥底に植え付けている。
物語のない日々の労働をこなし、物語のない部屋に帰り、物語のない夕食をとり、寝て起きればまた物語のない明日。それは、当然何の問題もないし、そうやって人は歴史を重ねてきたわけですが、でも、そうじゃない、本当は物語のあるべきものとして、いつのまにか現代日本人は人生を勘違いしてしまった。

そこに生じた隙間を埋めるために、無理矢理にでも自分の人生を物語的に彩ろうとする人がいて、あるいはフィクションに走る人もあり、あるいはほりえもんやら何やら、いかにも物語性のありそうな人生に仮託することもあるでしょう。そして、その選択肢の一つとして、今、スピリチュアル的な、前世の物語とその結果としての現在の自分、というものが、勢いを増している。

それにしても、こないだはじめてオーラのなんちゃらとかいう番組をちらっと見たんですが、あなたの前世は中世の騎士の家に生まれたけど家の事情でそこを出奔してサーカスに入ってどうのこうのとか言い出して、その時点でもう見るのをやめたんですが、なんというか、本当に、彼らが語る「前世」の物語は、ちょっと物語的すぎるんじゃないですか?平々凡々に生きただけの人が登場することってあるんですか?
それとも、昔の人は、みんな波乱万丈な物語的生を生きていたというのでしょうか。


また続きます。あと、特に後半はそのうち整理します。

ちなみに、たとえば昔書いたウルトラマンの物語構造のなんちゃらとかで捉えきれなかった、歴史観とか物語というものを考えていくための構想の一部分です、これは。
とはいえ思いつきで並べているだけですが。
関連記事
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/tb.php/50-48233da2
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。