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スピリチュアルがどうのこうのという話を何度も書いてしまったので、ひょっとしてあまりにもダメな人生のためにぼく自身が前世の物語へと夢を仮託してしまったのではないかと危惧する人がいるかどうかは知りませんが、今日もまたスピリチュアル関連でちょっと無駄な文字を垂れ流そうと思います。

(ちなみに、今回は前章でちょっと触れたように、最後に現代のスピリチュアル派のあり方と怪獣たちの物語の変遷を照らし合わせるように書くつもりだったのですが、途中で面倒な流れにしてしまったので、また人としてヤバい系の話に終始してしまいました。思いつくままに書いていると本当に思いもしないことになってしまいます…。)
「ぼくの未来ってこんなんだっけ?」「こんなはずじゃなかった」的な現在の自分の人生に足りないものを、前世やら何やらの「物語」に仮託することにより現代的無宗教なスピリチュアルの隆盛があると仮定して書いたのが前回までのスピリチュアル日記でした。
[スピリチュアルな物語、あるいは王様の耳はロバの耳]
[スピリチュアルな物語2 ちぐはぐなぼくらのアレ]

で、ふと思ったんですが、たぶんいまどきの(いまどき以外のがあるかどうか知らないけど)スピリチュアルなんちゃらって、「物語」を示すと言えるほどに示しているのかと言えば、実はそうでもないのかもしれません。
たしかに、物語っぽく、お話を提示しているかもしれないけど、実は物語というほどのこともないかもしれない。

もう、はじめから妄想で書いているので今更妄想ですと断ることもないのだけど、たぶん、アレって、無闇矢鱈と「物語」をでっちあげて前世ですよ~とか言ってお話しするわけではないですよね。たぶん、「聞き手が聞きたい話」をつくりあげてくれる。だからこそ、物語不在の人生によりできた心の隙間にぴったり埋まる形で、前世の物語があらわれてくる。

では聞き手が聞きたい話っていうのはどういう話かといえば、それは、今の人生において問題となっていること、障害となっていること、あるいは自分の欠点、自分の嫌いな部分、そんな諸々の不足点の「理由」。

ちょっと話は変わるようだけど、たとえば少年犯罪とか、母親による子供殺しとか、ちょっと素直に納得できないような事件が起きたりすると最重要視されるのは、その理由、動機ですよね。犯人がつかまれば、何はともあれ「動機の解明」が求められます。よくゲームがどうのこうのとかアニメがどうのこうのと言うのもその一種ですね。
そしてその動機が不可解であれば、事件そのものも不可解なものとして終わってしまうし、何らかの納得できる動機が提示されれば、なぜか安心してしまう。
もはやそこにあるのは、腑に落ちない物語への不安と、納得できる理由の獲得による安心感、なのかもしれません。

同様に、「今、自分のこの身に起きている不幸」について、「前世がこれこれこういう人物だったから現世に跳ね返ってきているのだ」とか言われたら、まあ、納得しちゃう人もいるらしいですね。というより、納得する理由がほしいだけかもしれませんが。
スピリチュアル派の人々が「前世の物語」を欲するのは、これまで述べたように単に「自分の人生に物語がない」というだけではなく、その「物語」のない「自分の人生の"こんなはずじゃなかった感"」を満たすもの、なぜ今そうなっているのかその理由を納得させてくれる物語として、必要としているからなのかもしれません。

要は、相談者の悩みとか抱えている問題に対して、それを補完する理由付け(例1:女子にもてない→前世が女性に酷いことをしたから仕方ない/例2:マザコンっ気が抜けない→前世ではママが恋人だったから仕方ない)を、ちょっと物語としての色をつけて提示してあげれば(例1:中世ヨーロッパの領主だったが金と地位にまかせて何人もの女を泣かせたせいで現世になってバランスをとるために全然もてない/例2:名門の武家に生まれ、恋仲にあった町人の娘と引き裂かれ意に染まぬ相手を娶らされたがその町人の娘が現世のママなので、かつての喪失感を埋めるために今はマザコンになっている)、まあ、スピリチュアル派の人は納得しちゃうんじゃないでしょうか(実際はもっと詳細に、前世の人の人生全体とかいろいろ尾ヒレ付けて)。たとえそこで語られる舞台は過去のものなのに価値観はすごく現代的だったとしても(むしろその方がいい?)。

ついでに言っておくと、その前世と現世の因果をとりもつ存在として「大いなる意思」みたいなものがあるような気がするんですが、前章・前々章で述べたように何教の教義というわけでもないようなので(あえていえばヒンドゥーに近いけどそう意識している人はいないと思う)、それが何なのかは正直ぼくには不可解です。宇宙の法則か何かそういうのかしら?そこの「理由」、何がどうなって魂が循環するのかの「理由」は、ひょっとしたら不可解なままなんでしょうか。ちょっとこの辺はぼくの勉強不足です。

ただ、実は彼らスピリチュアル派の人々もちょっと別の方面からスピリチュアル派の正しさを証明しようとしているようで、アメリカでは前世研究が発達していて実際に催眠でその記憶を云々とか言い出すんですね。うさんくせえ。
でも、それが正しいかどうかに思いを馳せる必要はなく、前世を語ることの正当性と理由付けがそこでは証明されたことになっているようです(というかはじめから前世肯定であれば、どんなに怪しい「研究」であっても全てが前世肯定の理屈になるわけで)。

で、今、その「前世は科学的に…」とか言っているやつを探そうと思って検索したら、いきなり出てきたのが、あの、アレです。アレフさんでした。アー
レフっていうの?言い方を変えると、旧オウムのサイトでした。
http://www.aleph.to/newcentury/science/reincarnation/1-2-4-1.html
(見るかどうかは自己責任でお願いします。)

(上のURLのちょっと前の章の話になりますが)ざっと見た感じ、冒頭で、前世思想はキリスト教じゃなくてヒンドゥー的だよね、みたいにはじまっているところが、奇遇にもぼくが書いた前々章の冒頭と通じている気がするので正直怖いのですが、その後の話は大体アメリカ人やら何やらの話をもとに、前世肯定の筋書きで進んでいるようです。

あらためて考えてみると、現代のスピリチュアルな前世思想の普及は、ひょっとして、オウム的な思想、いや、むしろ、オウムそのものなのではないでしょうか(参考リンク:wikipediaのオウム真理教 オウムとか前世とか)。前々章ではひょっとして大霊界以降、とか書いたけど、全然違ったようです。これは、まさにオウムだ。
転生を教義の中心の一つに置いた、日本にそれまであったであろう思想とは一線を画したオウムの教え。今調べた感じだと、たとえば現世で顔が醜いのは前世のこれこれこういう行いが…みたいな筋書きもあったらしく、その業の直接的なつながり方は、純粋な輪廻や転生よりも現代のスピリチュアルに近いものを感じます。
あるいは、前章で見たスピリチュアル派の総本山・江原氏の行動や姿と同様に、様々な宗教を包括した(と言い張る)態度。前世を語りつつキリスト教的終末論まで包括したと語る彼らの姿を思えば、キリスト教的CDを発売する江原氏の無節操さも納得できます。あるいは、歌を通じて思想を広めようとする両教祖のあり方もそっくりですね(江原氏の歌については前章を参照)。

思いつきをそのまま書きながら進んでいるので、こんな結論にたどり着くつもりはまったくなかったのですが、もう、ここまで来たんだから言ってしまおう。あまりにもオウム的(ソフトオウムかな)な現代日本のスピリチュアル派は、正直やばいかもしれない。
今までは、敢えて、そういう救済もあるよね、という態度でぼくも書いていた訳ですが、なんか変なニオイがしてきた。もう、江原氏の笑顔が、麻原某氏の笑顔にしか見えない。

仮に、まったくスピリチュアル派の人々とオウムさんがまったく関わりのない存在だとすれば、かつてオウムが成功した手法を取り入れているのか、あるいはただの偶然か。

偶然なら、いいですけどね。

もちろん、オウム自体がかつてスピリチュアルなアレの影響を大いに受けて発生したというのもあるかもしれませんが、だとしたら、スピリチュアル派そのものも、オウムと同様の進化(?)を遂げてきたということ?

(ポアされたらやばいので今日はここで終了)

==(2006/07/18追記)===
一晩寝て起きて思い直したんですが、オウム自体が、かつては、今で言うスピリチュアル的なものとして捉えられていた時期があったようなので、その手法が似通うのは当然かもしれませんね。どっちも歌まで歌うのはアレだけど。
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