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現在ぼくは妹と二人暮しなのですが、そうやって暮らしていてつくづく思うのが、世の中には、料理の"勘"のようなものがない人がいるんじゃないだろうか、ということです。具体的に誰がそうとは言いませんが。

そのへんについては、何度も知り合いに愚痴ったりしているので細かい事は伏せますがが、ただ単に経験が足りないとか、レパートリーが少ないとかいう問題ではない気がしています。もっと根本的な何か。

それはたとえば、美味しい物を作ろうという気持ちの度合いだとか、それに対してどれだけの努力ができるかという覚悟の問題だとかいう精神論的な部分だけでなく(それももちろんある気はします)、根源的な「料理の勘」としか言いようがないような感覚。

(↓ちょっとだけこのエントリと関連します)
好きなものだけ食べたいの☆
 
勘といえば、ぼく自身は時折「運動の勘がない」といわれるほど運動の苦手な人間なのですが、これはもうどうしようもない。努力をしないわけでもないし、手抜きしているわけでもないけれど、運動ができない。特に球技がひどい。
これってもう、本当に、どうしようもないんですよね。
どんなに足掻いたところで、思い描いたような動きを体がしないんだもの。
この運動の勘がないというやつは、どうやら素人目にも、歩いているだけでその違いがわかるほどのもののようですよ。

だけど、出来る人ってできない人のことがわからないようで、努力が足りないとか真剣にやらないからとか、ものすごく横暴なことを言いますよね。
でも無理なものは無理。運動のセンスのなさというやつは、体を動かすというワクの中で、ぼくらに絶望という深淵をすら見せ続けてくれます。
たしかに、場合にもよりますが、一つ一つの技能に関して言えば、できる人の何十倍かの努力を重ねていけば、まあ、なんとか人並み程度にできるようになることもあります。ごくまれにね。ただそれ一つだけね。


それと同程度に、「料理の勘」というやつもどうしようもない、如何ともしがたいものなのかもしれません。
仮に一つの技能、一つの料理を人並み以上に努力すれば「それだけはできる」、「それだけは作れる」、くらいにはなると思います。でもそれまで。応用もろくにきかないし、マニュアル的に反復するだけでは、自分で味を想像し、別の何かを創造するということがまったくできない。やろうとしてもとんでもないものができてしまう。
たとえば、みようみまねで今まで作ったことのないものを作ろうとしようとしたときに、なぜか想像とまったく違うひどいものができたりする人はいないでしょうか。
勘というやつは、そういうところで顔を出します。
あるいは、食材を組み合わせようというときにとんでもなくもっさりした感じになったり、スープを温めるだけでもなぜかおかしなことになったり、魚の皮が生っぽかったり、ご飯がやけに水っぽかったり、油を使わないというまずい料理を作ったと思ったら次の日にはやたら油がギトギトしたいため物を作ったり、そもそもの勘どころがおかしい人というのは、時々いる気がしませんか?いますよね?


運動に関しては、「運動神経がない」という表現をよく耳にします。
実際には「運動神経」がない人はいないわけですが、便宜上、とてもわかりやすく、また一般的に使われている表現です。
では、料理に関しても、こういう言い方はできないでしょうか。
「あの人は料理神経がないよね」と。

ちなみに、オレっていい言葉思いついた☆と思ってためしに検索してみたら、既に何人かの方は、料理神経という言葉を使用しているようです。まあ、それは気にせず続けます。

さて、便利な言葉を思いついた上で言いたい事があるのですが、どうも料理神経のない人、鈍い人が、世の中には大勢いるような気がしてなりません。

よく飯ブログ(日々の食事の記録をWEB上に写真付きでアップしている人たちのブログ)を見ていると、もとの料理もすごくまずそうだと推察されるものを、さらにひどく汚い写真(ピント・角度・照明その他の問題により)に撮って、それを平気でアップロードしている人が時々います。最近は減ったと思うけど。でも少なからずいる。
そういうものを見ると、なんでこの人はこんなことが平気でできるんだろう…と思っていたのですが、要は料理神経がないんですね。無神経。

ついでに、そういうブログを眺めるとコメント欄で「おいしそ~」だとか「写真がすごくおいしそうに撮れてますね」と言っている人がいるんですよ。もちろん世の中には義理とか人情というものがあるので「この写真はどちらかと言えばグロなので公開するのは控えた方がいいと思います」なんて言えずに仕方なくおいしそうと言ってしまう人もいるのではないかと思いますが、その量を思うに、本当にグロ画像をおいしそうだと思っている人も少なからずいるようです。
本気で言っているのだとしたら、たぶんその面々も、料理神経がないんでしょうね。

また、自分が作るときだけではない、他人の作ったものを見るとき、よそで食べるときなどにも、この料理神経は発揮されるのかもしれません。
そういえば自称グルメな人の中には、雑誌やネットの情報に踊らされているわりに、意外とその人のおすすめの店はちょっとアレだったりすることってありますよね。
逆にそういう人がまずいという店が、ちゃんと味わってみるととても美味しいこともあります。
味わい方によって、まずい(と言われる)ものがとてもおいしくなることは往々にしてあると思いますが、特にそれは、料理神経のない人がまずいというものに関しては、驚くほど多くあるのではないでしょうか。
このへんの差異が、ごく稀に発生するのであれば、それは個人差だとか味覚の差だとは思いますが、あまりにも、同じ人を起点にして発生する場合、それはその人に料理神経がないといえるのかもしれません。(これは時に「味音痴」などと表現されますね。運動神経のない人が運動音痴と表現されるように、「神経」のなさを音痴という言葉を使用してあらわすのは、とても有効なのかもしれません)。

これはただの推測ですが(この文全体が単なる憶測にすぎないのですが)、先に述べた料理神経(つくる神経)と、後者の料理神経(食べること)は、無関係ではないように思います。
余程優れた天性の料理神経を持っている人(いわゆる天才)ならともかく、凡人の場合、おいしいものを知らなければたぶんおいしいものは作れないし、そもそもおいしいものに関する想像力が働かない、とここでは仮定します。
しかし、不味そうな青っぽい写真を見ておいしそうと言う人が考えるおいしいのレベルは、結局まずそうな青っぽい写真止まりで、そもそもまずそうな青い写真に写った飯が、本当においしい飯と同列にならざるを得ません。「まずそうな青い飯の写真」が、一流と呼ばれる店の料理や、テレビで見た料理番組の料理と同列にあり、その基準点とすら成り得ます。そしてそこに、おいしさの想像力がはたらく余地はほとんどありません。まずそうな青い写真レベルの壁が、立ちはだかります。
そんな人の場合、結局は、食べる方の料理神経のなさが、つくる方の料理神経のなさに拍車をかけたりもするわけです。

逆に、料理は下手な(あるいはできない)人だけど、おいしさは判断可能、少なくともまずそうな飯の青い写真を見て旨そうだなんて言わない、というパターンは考えられます。料理神経があったとしても、それを使わなければ何の意味もありません。特に「男の料理が云々」だなんて、いまだに料理することに見えないハードルがある現代では、そのパターンは往々にしてあるのではないでしょうか。(とはいえ、これはグルメ評論家やらグルメジャーナリストやらなんちゃらの王様を肯定しているわけではありません。ましてや、そんな胡散臭い料理神経の鈍そうな評価を参考にグルメが趣味とか言う人々を肯定もしていません。)
自分は料理ができない、と言っている人の多くは、このパターンなのかもしれません。料理神経がないわけではないけれど、ただやっていない、知らないだけ。これは、料理神経がない、とは言えません。

しかし、世の中には、長年やっているのにだめ、勉強しても失敗、人まねでやってもなんか違う、そんな人がいるわけで、そこにある「料理神経のなさ」は、ぼくのような「運動の勘」のない、「運動神経」のない人間の救いのなさと同様に、おそらくは根本的解決法はどこにもありません。

最近、食育だとかいろんな動きはありますが(食育は料理神経とはまた別の部分に働きかけることが主目的のような気がしますが)、料理神経のない人間には何をやってもたぶん無理。「運動神経のない」ぼくが、どれだけサッカーをやっても、狙い済ましたかのように空振りを繰り返すのと同じです。
それを踏まえつつ、しかし確実に料理神経のない人間が増加している現代日本で、以前のエントリで書いたようにママ(あるいはパパでも誰でもいいけど)のご飯がまずい以上、子供が好きなものしか食べなくなる(ように見える)状況が生み出され続けることは間違いなく、しかし、それに対し、ろくに打つ手もない現状は、憂うべきものです。

以前のエントリで、ぼくは子供の食育云々言う前に、まずダメ大人(料理が下手なパパママとか中身のないグルメさんとか)をどうにかしないといけないかもね、なんて書いたのですが、料理神経のない面々に関して言えば、やはりそれは、無理。何をどうやっても、たぶん無理。
そしてそんな大人のアレで育った子供ってどうなるんでしょうか。
家庭の料理が意外とまずいことに気づいて、「好きなものだけ食べたい」(実際は、ママパパの料理がまずくて喰えない)子供になるのなら、たぶんまだマシ。それにすら気づかず、本当に料理神経のない子に育ってしまったら…。

家庭があれば、そこでご飯を食べるのが当たり前、という感覚はごく一般的にあるように思います。ですが、意外とそれも危険なのかもしれません。
とはいえ、外食ばかりになるのもまた大問題だし、ずっと外食ばっかりと吹聴する「プロの」グルメライターとかグルメジャーナリストとかなんちゃらの王様の感覚もまともなもののような気がしないことを考えると、やっぱり家メシ…。だけどそれがまずいと…。とはいえ…。うーん…。
多少料理があまりよろしくない傾向がある程度ならよいとしても、本格的に料理神経がない家庭って、どうすればいいんだろう。ここまで散々書いてきてアレですが、まったくわからなくなりました。

奥さんの料理がおいしくない家庭の旦那さんが外食ばっかりという話はたまに聞いたことがありますが、子供は、親のマズメシに対して「好きなものだけ食べる」というくらいしか異議を唱えられませんからね。それが全国レベルでまずい、ということに経験不足から気づかない子供の場合でも、本能的に「好きなものだけ食べる」ように見える態度に出るのはやはり仕方ない。だけど、その無間地獄から逃れる術はない。

当然のように思われる「家でご飯を食べる」という行為だけど、ちょっとこれは、かなり大変な危険をはらんでいるのかもしれません。
ひどい飯ブログ、特に家庭を持つ人のそんなブログを見るたびに、ぼくはとても、悲しく切なくなってしまいます。

(単に「料理神経という言葉を思いついたよ!」というだけの日記にするつもりですが、収拾がつかなくなったのでとりあえず終わります。)

=====
そういえば冒頭に書いたうちの妹が、油をつかわないで電子レンジで調理する"ヘルシーな"酢豚のようなものを作ったことがありますが、これがまたひどかった。別に激マズだとは言わないけど、ちょっとひどい。「味わって」食べるようなものじゃない。申し訳ないけれど、もう食べたくない。そういうものを平気で食卓に供することができる時点で、料理神経の不足を思うわけですが、しかし食育的には、そのような、味はさておき(食育者はおいしいと勘違いしている?)"食育的によい"(?)ものが推奨される現実。
これでは、食育の影響でニンジンもピーマンもブロッコリーも(我慢して)たしかに食べられるけれど、料理神経のない(実際にあるかないかはさておき)人間ができあがる気がします。

あと、その油を使わない酢豚を作ったはずの妹が、昨日はやたら油がギトギトした豚炒めというか、なぜか一掴みほどのモヤシ(しんなり系)を混ぜただけの焼いた豚を作っていたんですが、ほんと、その感覚を疑わざるを得ない。
モヤシなんて安いんだから全部使っちゃえばいいのに(というか残してもすぐ傷むし)なんか妙なとこでケチるし、テフロン加工のフライパン使うくせに使わなくていい油をやたら使ってるし(たぶんコスト的には、モヤシ代くらいの油を使ってると思う)。上の油を使わないなんちゃらも、健康とか栄養とかいう概念によって作ったわけではなく「ただそのレシピがあった」というだけなんだろうな。
どんな素材をどう使えばどんな味や食感になるとか、そういう想像力が、まったく欠如しているとしか思えない(これを、ぼくは、料理神経がないと呼びます)。

具体例をあげると本当にキリがないのでほどほどにしておきますが(書きたくてたまんないけど)、あれが自分の妹とは思えません。でもうちのママの娘なんだなーという実感はありますが。
その場その場で生きているぼくがどうこういうのもアレだけど、料理とか食事とかの全体に思いを馳せる事ができない人間の、その場しのぎの飯が、いかようにひどいものか、実感しまくりの今日この頃です。

なんちゅーか、身内の恥を晒してアレなんですが、ほんと、料理神経のないやつを見てると、ものすごく腹立つよ。
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