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過去ログ掘り起こし。
仮面ライダー剣の最終回の感想みたいな。

まだきちんとまとめきれていないのですが、もう書きかけのままモチベーションもあまり上がらないので、ひとまずアップしてみます。仮面ライダー剣の最終回の感想みたいなやつです。特に終盤はどうしようもないので、確実に後日修正します。

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仮面ライダー剣が終了した。
以前も書いたように日本のヒーローとしては珍しく、公共心とでもいうべきものがその根底にあった、というより、それ以外に敢えて戦う理由もなかった剣崎(スペードの人)の戦いとは、いったい何だったのだろうか

かつて多くの仮面ライダーたちの戦いの理由が、表向きは人類の自由だの平和だのがあったとしても、実際にはただの復讐であったりごく私的な部分に根差していたことは今更言うまでもなく、このサイトでも何度も書いてきた
あるいは、アギト→ファイズのような異者理解の構造も、現代的ヒーローの在り方の一つとして、かつて述べた

しかしそれらの範疇には必ずしもおさまりきらない形のライダーが近年存在していたことも忘れてはならない。たとえばクウガ=五代雄介の戦いが、一応みんなの笑顔を守るためであったり、あるいは龍騎の主人公城戸真司は、ごく個人的欲望の為に私闘を続けるその他のライダーたちの中で、(うろ覚えだけど)戦いを止めようとしたり、なんだかんだでたしか滅私奉公をしていた(はず)。

とはいえ、そのへんの視聴者があまりその価値を考えようとせずに見てしまったせいか、彼らのその公共心は、さほど注目を集めるでもなく、単純な「正義の味方」的イメージの中に埋没、あるいはごく近視眼的な、雄介なり真司なりの個人的な範囲のものとしてのみ捉えられていたように見受けられる(というかぼく自身の中で…)。

たしかに彼らも剣崎同様、単純な個人的欲望ではなく、身内や自らを傷つけられ復讐を誓ったわけではなく、あるいは怪人と人類の境界で両者の和解を図ろうとしたわけでもなく、かといって純粋に「正義」を信じたわけでもなく、ただ「みんな」のために頑張っていた。といってもそれが本業ではなく、剣崎と違いそれはボランティアと言ってもいい。
とはいえ、未だボランティア的なものがそれほど存在感を持っているわけでもないぼくらの世界で、敢えてその意味を問う人がいるわけではなく、彼らの戦いは、これまで埋没し続けてきた。そもそもそれは、明確でも、力強くもなかった。

それに対し、剣崎の戦いの理由は、非常に明解であった。
職業:仮面ライダー。それが剣崎であった。
自分のためではない、復讐のためでもない、純粋に誰かのために戦うことができる仮面ライダー。それをはっきりと我々の前に示し得たのが、職業としての仮面ライダーであった。(建て前ですら「給料をもらう=自分のためだけに戦っている」なんてことしか言えないやつは働いたら負けだからニートにでもなるといい)。
もちろん、職業としてのヒーローという存在が今まで皆無だったわけではない。サイバーコップやウインスペクター、あるいはウルトラシリーズの隊員たち、そして公僕デカレンジャーに代表される戦隊物…数え上げればきりがない。だがここでは、敢えて仮面ライダーの文脈に的を絞って見て行きたい(ここ数年オタクの間で流行りの言葉で言えば、系譜ってやつに近付くために)。

[1]
学生気分の記者や冒険家の副業としてのライダーではない、本業仮面ライダー。それは仮面ライダーとはいかなる存在なのかなど興味なく番組を見ることができる純真無垢な目から見れば、「そんなのありえないよ給料返上しろ!」なんてことにもなりかねない。しかし、これまでは社会的に非常な曖昧さ、不確かさを持たざるを得なかった仮面ライダー(つまりはニート)に、職業として、肩書きとしての正当性とともに与えられた、公共の利益の為に戦うという意味の大きさを無視することはできない。

「わかった…俺の体を動かすのは、義務とか使命なんかじゃない。そこにいる人を守りたいという、思い。そうだ、人を愛しているから俺は戦っているんだ」
かつて引用した剣崎のその言葉通り、彼のライダーとしての理念は、仕事だからという義務感を飛び越え、人類愛にまで広がった。

ひょっとしたら、それはまさに剣崎にとっての「仕事」の在り方であるのかもしれない。もちろん剣崎は、彼自身の思うと思わざるとにかかわらず、アンデッドを倒すことを生業とし、その義務を怠らないことによって、給料を得ている。しかし、彼の意識は目の前の日々の稼ぎにはない。彼がアンデッドを倒し続けることによって達成できるであろう未来、あるいは、彼が戦わないことによってやってくるかもしれない世界、それを見つめ、そして彼自身がヒーローになった根源的な価値観、彼自身の「正義」のもととなった過去の記憶を見つめ直したとき、辿り着いたであろうビジョン。それが人への愛であった。

剣崎自身、はじめはなんとなくライダーになって、まあ仕事だからやっちまうか、というお気楽なものだったのかもしれない。頼りになる先輩(橘さん=ギャレン)に任せとけば安心だし給料も悪くないからラッキー、くらいのノリだったかもしれない。敵倒したらチョー気持ちいいし、ライダーを楽しみたいです、くらいに思っていたかもしれない。
しかし、状況は一変し所属組織は崩壊(ただ、終盤まで給料は振り込まれ続ける)、先輩はご存知の通りまったく頼りにならなくなる。そこで彼自身、なぜ戦うのか=なぜ働くのか、という問題と正面から向き合わなければならなくなったのであろう。

そのへんの小僧が、人を愛してるからおれっち戦うぴょーん、なんて言ったところで、そんな言葉には何の背景も見出せない。その上っ面の下にある個人的思い入れしか結局は見えないだろう。だが、ギリギリまで追いつめられた剣崎のアイデンティティが必要とし、そして辿り着いた、彼の戦う意味。我々は、それを聞き流すわけにはいかない 。

何度も繰り返すようだが、旧来のライダー(の大部分)が戦う意味とは、表向き人類のためであっても、実際には私戦であった。私戦を無理矢理にでも覆い隠す表面上のビジョンとして、人類の存在があったといっていい。

それに対し、剣崎が辿り着いたビジョンはいかなるものであったのか。
彼にはあらかじめアンデッドを倒すという目的が設定されていた。そこにはもとより人類の平和が云々などという看板はない。しかし、だからといって、ただ漫然と倒していればいいわけではなかった。戦いが複雑化し自らの戦う意味と向き合わなければならなくなったとき、その目的の先にある「人間」の存在に気付かされるときがきた。その存在が、剣崎の戦いのビジョンとなる。

そのビジョンとは、もちろん彼が糊口をしのぐ糧を得るための労働の目的そのもではない。しかし、まずは職業としての仮面ライダーありきのものであった。これまでの私戦に重きをおいたニートなライダーたちの多くは、決して辿り着き得なかった境地であった。(異者理解的ビジョンについては過去に述べたので、このニートな私戦および公共性とは区別する)
あるいは、ニートな冒険家や、ろくに仕事もしない学生気分の記者が、副業で人類のために戦ったところで、彼ほどの鮮烈な印象(それは公共性という意味においてであり、キャラクターやストーリーの話ではなく)を残すものでもなかったことからも、職業:仮面ライダーの意味がわかるであろう。

この平和な時代に仮面ライダーという存在が望まれ、つくられ続けている現実を語る言葉はいくらでもあるだろうが、仮面ライダー剣というシリーズが制作され、一年間放送されてきた中で、小間切れのイベントをちょこちょことつなげてきただけにも見えるこの物語が、年間を通して発信し続けてきたメッセージ。それは、ニートに対する「ちょっとためしに働いてみないか」というものだったのかもしれない。

[2]
しかし明確なビジョンを持ったところで、剣崎はこれまでの公共性を持って戦ったライダーたちと同じ悲劇への道を辿ることになる。

仮に、いくらかの公共性を意識の中心に置いて戦ったライダーを、前述の通りクウガ、そして龍騎だったと仮定するが、彼らの戦いの果てにやってきた未来はいかなるものだっただろうか。

仮面ライダー龍騎において、現実世界に大量に現れたモンスターたちを相手に終わりの見えない戦いを続けた城戸真司が、少女をかばうためその身を犠牲にし、最終回を目前に命を落としたラストシーンは記憶に新しい。

あるいは仮面ライダーが登場しない、戦いのない最終回を描いた『仮面ライダークウガ』。しかしその前話、最後の戦いにおいては変身すら解けた状態で、涙を流しながら一人死闘を繰り広げた五代雄介が、天国のような南の島を子供たちと戯れ、それと並行して彼と関わった人々が彼の思い出を語るその最終回は、「雄介は最後の戦いで死んだのだ」と説明されることも少なくない。死んでこそいなくても、少なくともみんなの笑顔を守るために戦った彼の笑顔は失われ、彼が守った人々の前から姿を消すことになる。彼が自らの存在を犠牲にしてまで守ったみんなの笑顔が溢れる世界をぼくらが目の当たりにしたとき、しかしそこにある一抹の寂しさと切なさを否定することは出来ない。

龍騎の戦いも、クウガの戦いも、それは決して終わりのない戦いではなかった。
そもそも、日本的ヒーローの戦いのあり方が、エンドレスなものではないことは過去に述べた(たとえば武士沢)。まずは悪の組織なり何なりがあらわれ私的領域に侵入、平和を乱し、それに対し主人公たちが立ち上がることからはじまる。この場合は、悪の組織を倒すという終着点が明確である。
それに対し、たとえばアメリカ的なヒーローの大部分は、まず正義としてのヒーローの存在があり、彼ら自身が公的領域に進出、漠然とした悪に対してほぼエンドレスに、その死の瞬間まで戦うことを義務づけられる(20世紀初頭から数十年戦い続けているあいつらのように)。

グロンギの登場が物語を紡ぎはじめるクウガの戦いはもちろん、十三人ライダーの中で勝ち残りさえすれば終わるはずだった龍騎の戦いも、その戦いの目的、終着点は、見えていたはずだった。黙っていれば、敵を討ち滅ぼし、あるいは生き残ることで、平安は訪れるはずだった。
しかしヒーローになるとともに、希有なる公共性を持ち得た彼らに、物語の神がそのまま幸福な結末を与えることはなかった。

クウガ/五代雄介が生き残っていたと解釈するならば、彼の戦いは永遠に続かなければならない。「みんなの笑顔」がその価値観として続く限り、彼が戦いを望まないとしても、物語は彼を戦いへと誘い続ける。
クウガのパラレルな続編と位置づけられるべき『仮面ライダーアギト』。4号(=クウガにおいてはクウガの仮称。この場合は直接的にクウガを意味してはいない、あくまでもパラレルな存在)が未確認生命体を倒した後の世界にさらに意味不明な怪人(アンノウン)が現れたその物語が地続きになっていたならば、雄介がそれを放置してふらふらと旅を続けることなどできるはずがない。「みんなの笑顔」は、彼にアンノウンとの戦いを強要する。
4号の似姿としてのG3が警察の所属であり、限りなく公共性を強く持った存在として、永久的に公のための戦いを義務づけられたこともそれを踏まえているのかもしれない。

実際には、アギトの世界はクウガとの直接的な連続性はないのだが、しかしクウガの延長線上にあるはずの語られない未来においても、雄介は、彼が存在し続ける限り、戦いをやめることは許されないだろう。そう、彼が愛した人々が、今も彼は青空の下で誰かの笑顔を守っているのだろうと語るように。
クウガの雄姿を愛する特撮ファンにとっては、彼が戦い続けることは望ましい歴史かもしれない。クウガの雄姿に再びまみえること、彼を再び戦いの場に連れ戻すことを心より望むことこそ、正統派のファンなのかもしれない(映画化を望んだりしてる人たち、たくさんいた気がする)。
だが、本当に、雄介はそれで幸せなのだろうか。敢えて彼が死んだと断じる解釈は、決して悲劇を愛するわけでも、ましてや死を至上のものとしているわけでもない、ただ、雄介に休息を与えたいと願う心のあらわれであったのではないだろうか。

人間を守り、同時にライダーの命も守ることを心に決め、戦い続けた城戸真司。その戦いが実は幾度も繰り返された終わりなき戦いの上に積み重ねられた世界の一つであったことは偶然かもしれないが、もし彼が生き残っていたとすればどのような未来がそこに存在したのか。最後に一人生き残った世界で、彼は何を叶えるというのか。
あるいは幾度も強制的にその戦いを繰り返した神崎士郎の存在は、公的なるライダーの戦いそのものを寓喩的に示すためのものだったのかもしれない。


そして彼らの遺伝子は剣崎へとつながる。
そもそもは全てのアンデッドを封印すればそれで完結したはずの彼の物語。「職業」としてのライダーとしては、それでよかった。
その戦いの終着点に至り一人のアンデッドが生き残ることで破滅へのカウントダウンを始めた世界と、その最後のアンデッドへの個人的感情。単なる公共心旺盛な正義の味方か、あるいは私的感情が基底にある本来の仮面ライダーか。そのどちらをとるのかが、剣崎のビジョンの終着点になるはずであった。しかしそのどちらをも救うため、彼は自らの身体を捧げる。
人への愛・公共心を貫き通し(そこには相川始[仮面ライダーカリス/ジョーカー]への愛も含まれる)それを成就させるために彼が選んだ道。それが、自らジョーカーとなるという自己犠牲だった。

この自己犠牲は、単なるアメリカナイズされたハリウッド調自己犠牲でも、神風的自己犠牲でもない、一年間公共心を育み戦い続けた彼だからこそ辿り着いた新しい帰結点であったかもしれない。

とはいえ、果たしてその結末を我々は楽観視してよいのか。
クウガから龍騎を経て剣に辿り着いた、公共心に富んだライダーの系譜。最近のライダーブームの中では、旧来のどのライダーもが公共心の為に戦っているように語られることもあるが(スピリッツなんて特にそう)、しかし純粋に公を知っていたライダーは非常に希有だと言っていいだろう。その構造を職業ライダーと言う明確な、目に見えるものにしたのが剣崎/仮面ライダー剣であった。

だがその結末は、自己犠牲による問題の解決でしかなかった。死こそ免れたものの、人間剣崎一真の存在は社会的に消滅したも同然。彼が守った全ての人の前から、その存在は消えることになる。そして、物語が終わった後も、彼はその運命と永遠に戦い続けることを義務づけられる。ライダーとしての公共性を明確にした彼は、その結末まで、公共心を持ったライダーを明確にするものとなった。

悪の組織さえ滅びれば平穏に生きることが許される旧来のライダーと根本的に異なり、永遠に戦う義務が明確に示された剣崎。その戦いを終える死すらも許されないその姿、しかもそれはクウガや龍騎のような曖昧な形ですらない。敵への復讐ではない真の「正義」とはこういうものだと、緑色の血を吐きながら続ける哀しいマラソンを、彼は走り続ける(こんなところでこういう言い回しを使うとは)。

不幸にして我々は、復讐ではない、非常に公的なビジョンを持ち得た仮面ライダーの、幸福な結末を目撃できずにいる。あるいはその行く先に幸福な結末を示さないことが、仮面ライダーという物語を考える鍵となるのだろうか。

(続く、というかもう少しまとめる)
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