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○[1970年代前半:第二期:帰ってきたウルトラマン:エース:タロウ:レオ:人間ドラマ:「人」の怪獣:私的な怪獣:強い怪獣:視野の矮小化]
高度経済成長を経て、安定成長期に入った時代。ふたたび怪獣たち、そしてウルトラマンが活動を開始した(第二期シリーズ。『帰ってきたウルトラマン』『エース』『タロウ』『レオ』)。しかし、ここにあらわれた怪獣とウルトラマン、そして人類の、以前と変わらないかに見えたその関係は、次第にその様相を変化させていく。
かつては、人類が持つ物語の延長線上にある破局の概念としての怪獣が、物語の軸となり、物語を動かしていた。しかし、いつの間にか、物語の中心はウルトラマンの側、あるいは人間間のドラマに移り、さらにはそれに並行してウルトラマンの兄弟化、ファミリー化が進んでいた。

たとえるなら、第一期の怪獣は主に「場」との関係性に主体があったのに対し、第二期の怪獣は「人」との関係に重点が置かれ始めた(ような気がする。とりあえずふと思いついたから書いておくけど、どうだろうか。それ以外ではスペック重視というのもあるけど)。人との関係性に基づく怪獣は、人のドラマの引き立て役でしかない。また、ウルトラマンのファミリー化の中で、物語の中心は完全にヒーローの側に移っていた

そこには既に、かつてのように破局の概念を寓話的に有した怪獣の物語はなく、ただ、やられ役、引き立て役としての巨大な獣がいるだけであった。

これはもちろん、単にお話作りの手法が変わったということではない。
かつて、怪獣というフィルターを通して描かれた、様々な問題に対峙しようとしていた人間の関心が、いつの間にか、そこにある「破局」から目をそらし、環境や世界、戦争や平和から、家庭や個人の問題に収縮してしまったこと、社会が持つ視野の矮小化こそが、怪獣と人類の関係にも大いにあらわれていたのではないだろうか。
だからこそ、なまけものの怪獣や、もっとくれもっとくれと食べまくる怪獣、あるいはもちをつくウスやなまはげの怪獣でさえ、私的なものに関心のベクトルが向かった時代をリアルに映し出したものとして、大きな存在感を持ち得ている
しかし、当然ながらその怪獣と人間の間には、今ここに迫りつつある破局に対峙する試みはほとんどない。そこにあるはずの破局は私的領域の問題に隠蔽され、常に先送りされたまま、解消されることなくただ継続されてしまう。

それは、物語上は一時的な救済を繰り返し続けたかつての救済者、ウルトラマンやウルトラセブンにも責任の一端があるかもしれない。そもそもの問題に対峙する努力からも救済され続けた人類は、いつしか怪獣たちが伝えようとした寓話を忘れ、そこに築かれた表面上の安定の上にあぐらをかき、その後のヒーローの活躍やその家族の物語に一喜一憂し続けた。地球環境の悲鳴を代弁する怪獣の叫び声などより、ウルトラマンタロウと愛犬のハートフルなドラマの方が、はるかにリアルであり、必要とされていた"お話"だった
そして、現実に、人間は迫りつつある破局の足音から耳を塞ぎ続け、その後訪れるバブルやそれに連なる享楽的な時代を生き続けることになる。

ちなみに、その浮かれた時代の中で、ウルトラマンの物語は、単発的に数作が制作されるのみとなり、いつの間にか時代に対する求心力を失っていく。
(ついでながら、80年代を中心に語られるサブカルやオタク文化の文脈の中に特撮が含まれる事がほとんどない理由のひとつには、この失敗があるような気がしてきたけれど、ひとまず今回は置いておく。)

[つづく]

→[第四回]
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