上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
→[第一回]
→[第二回]
→[第三回]

○[90年代:ティガ:ダイナ:ガイア:超人の復権:人間ウルトラマン:根源的破滅:大きな物語として、世界を包む破局](ガイアを中心に)
時は過ぎ、ウルトラマンの存在を誰もが忘れかけた90年代。
環境問題は悪化する一方。都市化は進み、そこに集う意思は、60年代70年代など比較にならないほどに荒廃(と、敢えて書こう)。戦争はいつまでもなくならないし、核の脅威も消える事はない。高齢化、少子化、経済的な不安、階層化、犯罪の悪質化、かつては想像もしなかったものまで含めた「破局」の足音が、両手で塞ぎつづけた人類の耳にもようやく響いてきた(と、これも敢えて書こう)。

かつて怪獣の姿で表現された現代が抱える危機は、より深刻なものとしてそこに存在続けていた。
そんなことに誰もが気付き始めた90年代に始まったティガ~ガイアまでの3部作に登場するウルトラマンは、かつてのウルトラマンたちとは全く異なった存在として描かれていた。
一期二期に代表される旧来のウルトラマンのような、M78星雲やしし座L77から、つまり宇宙のどこか遠くからやってきたような、超越者、あるいはよそ者の巨人ではなく、人間が、人間として変身したウルトラマン。それはつまり、かつてのウルトラマンのように、人間と怪獣との葛藤をほとんど無視し、その力で無理矢理救済することが許されないという意味でもあった。
宇宙人のウルトラマンであれば、「なんで遠い星から来た巨人が人間なんかのために戦うの?」という疑問さえ気にしなければ、あとは人類と怪獣がそれまでどういう経緯を経てどのような葛藤を持ち、なぜ今ここで大変なことになっているのか、などということは気にせず戦えばよかった。
しかし、地球人として戦う90年代のウルトラマンにとって、人類の問題は無視できないものであり、人類と怪獣の葛藤は、単にカタルシスの前振りではない、自らも背負わなければならない重荷でもあった。

超越者であり、同時に人間でもあったウルトラマン。その結果、90年代シリーズではウルトラマンとしての戦いの有り様自体が変容を遂げていた。

以下に挙げるのは、人間の兵器が呼び起こした怪獣と、それに対する人間およびウルトラマンの振る舞いを一期/二期/90年代シリーズそれぞれに見た、人間のミサイルと怪獣というモチーフを同様に持ちながら、それぞれのシリーズでの三者の関係を象徴するかのような例である。
(7年くらい前のアレから自己引用 http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/blog-entry-5.html[ウルトラマンの物語構造に関する考察:序章])
『ウルトラセブン』第26話「超兵器R1号」。惑星攻撃用の超破壊兵器R1号を地球防衛軍が完成させた。強力な対侵略者兵器にウルトラ警備隊員は喜ぶが、主人公モロボシ・ダン(=ウルトラセブン)は地球を守るためなら何をやってもいいのかと疑問をなげかけ、兵器開発競争を皮肉って「それは血を吐きながら続ける哀しいマラソンですよ」とまで言う。その後、R1号の実験がギエロン星で行われ、ギエロン星は消滅するが、生命がいないといわれていたこの星の生物が突然変異して地球に襲来する。このギエロン星獣は地球で進行しつつある兵器開発競争そのもののもたらしうる破局の観念をアレゴリー的に示しつつ、地球上を破壊し、それに対し地球防衛軍がR1号の数倍の威力を持つR2号を使おうとまですることにより、アレゴリー的物語作りが徹底される。しかし、実験を中止させられなかったことを悔やみつつもウルトラセブンに変身したモロボシ・ダンは、それまでの苦悩などなかったかのように怪獣を倒し、唐突に物語を消し去る。その後参謀が超兵器Rシリーズの開発中止を考えるところでその回は終わるが、結局それ以前の人間の葛藤は消し去られたまま意味を為し得ていない。

このセブン第26話と同様、兵器による破局の脅威が語られた怪獣が第二期シリーズの『ウルトラマンT(注:タロウ)』第24話「これがウルトラの国だ!」・第25話「燃えろ!ウルトラ6兄弟」に登場する。この話に登場する怪獣ムルロアは、某国のトロン爆弾(人類終末兵器)の実験が行われたムルロア星から地球に襲来する、という第二期には珍しくアレゴリー的物語性を背負った怪獣であり、地球全土を黒煙で覆い闇にするその力はまさに破局の観念にふさわしい。しかし、サブタイトルを見てもわかるようにこの物語の主体はムルロアにはない。一度はウルトラマンタロウを倒したその脅威も、すべてはウルトラの国を描くための小道具に過ぎなかった。第25話でテレビに初登場するウルトラの国に戻ったウルトラマンタロウは、そこで他のウルトラ兄弟との6重合体を経てウルトラの国のシンボル、宇宙の平和を守るウルトラの国の中心にあり宇宙のあらゆる平和を作り出す「ウルトラベル」を手に入れると、地球に向かいウルトラベルでムルロアの黒煙を消し去る。この時人間の行動は、怪獣に直接新兵器AZ1974をはりつけ爆発させる、という隊員の勇気ある行動に重点が移行し、結局トロン爆弾を使用したことやその脅威について語られることはなく、物語の最後に至ってはウルトラ兄弟のあだなを持つ6兄弟が怪獣により両親を失っても元気に暮らしている姿が示され、アレゴリー的物語性を背負って出てきたムルロアはシンボル的世界観と人間ドラマに物語の重点を奪われた形になった。

以上、両者に共通して言えるのは、人類の進歩(この場合は兵器開発という負の面の進歩だが)がもたらした破局が、外部からの救済により本来継続されるべき人間の問題とともに物語構造から排除されているということである。

しかし、そういったに構造に疑問を与える試みが、後のシリーズにおいて行われる。


前章で取り上げた人類の兵器使用を扱った物語は、平成版ウルトラシリーズにも登場する。『ウルトラマンガイア』第38話「大地裂く牙」で使用される地底貫通弾は、地中深く眠っている地球怪獣を地上に出現する前に殺してしまうための兵器であるが、結局主人公はその使用を止められず遂に発射されてしまう。しかし怪獣を殺すには至らず、眠りから覚めた怪獣ティグリスが傷つきつつも地上へ出現する。ここで変身し容赦なく殺してしまうのがかつてのウルトラマンであったが、ウルトラマンガイアは変身しながらも、なす術なくただの傍観者となってしまい、人類により葬り去られた怪獣を地中に戻すだけである。かつてのような外部からの半ば強引な救済がここには存在しない。

(ちなみに、この後に続くガイア第44話 『宇宙怪獣大進撃』では、怪獣がやってくると目される惑星への"ワームジャンプミサイル"を打ち上げようとする人類に対し、ウルトラマンガイアがミサイル発射をついに制止した、と思うけど記憶がアレなのでよく覚えてません。ネットで見てもきちんとした解説とかないし。ひとまず詳細は保留。)

第一期では悩みつつも結局は問答無用で怪獣を倒し、第二期では完全に怪獣の寓話性は無視したウルトラマン。それに対し、ガイアにおいては、人類が傷つけ目覚めさせてしまった怪獣に対し、まったく成す術がないウルトラマンの姿が登場する。

そこに、かつてのような輝ける純粋無垢な銀色の巨人はいないかもしれない。
しかし、単に全てを救済(今更だが、これは怪獣の命を救うだとかいう意味ではない)しひたすら戦いつづけるだけではない、自ら葛藤しそこにある破局に立ち向かおうとする「人間ウルトラマン」(と呼ばれるもの[場合によっては、"人間ドラマ"中心となり家族もでき、より"人間的"になった第二期シリーズのウルトラマンを「人間ウルトラマン」と呼ぶこともあるようで、この呼称自体どうかとも思うのですが、便宜上今回は90年代をそう呼んでいます])が、そこには存在した。
それは、問答無用に怪獣たちを破壊することでとりあえずの平和を見出したかつての宇宙人とは違い、常に怪獣たちとの共存の道を模索しようとする一人の人間の姿でもあった。

だが、その姿をあざ笑うかのように、大いなる破局が、物語を包み込む。
根源的破滅将来体。
最早世界を包む破局の可能性は、一体の怪獣に寓意的に収めることができないほどに巨大で絶望的なものだったのかもしれない。これまでは怪獣一体にその都度収められてきた破局の寓話が、「根源的破滅」という大きな物語に回収されていた。

そして、その「根源的破滅」のイメージを体現した根源破滅天使に対し、これまで幾多の葛藤を繰り返しつづけてきたウルトラマン・怪獣・人間が共に戦うことで、大いなる破局を回避する。

それは、巨大な力で全てをねじふせる銀色の巨人でもなければ、兄弟で力を合わせて巨大な敵を打ち滅ぼすファミリーの物語でもなく、時に葛藤し、時にそこから目をそらしてしまった人間と怪獣が共存する可能性であった。そこにいたウルトラマンは、本当の意味で、調停者として存在していたのかもしれない。
それは同時に、真摯に環境や戦争、コミュニケーションや人間のエゴが生み出す問題と向き合おうという、ほんの一瞬訪れた時代の空気の表出だったのかもしれない

(ガイアについて、および第一回からここまでは、別項の方が詳しいかも)

[つづく]
→[第五回]
関連記事
スポンサーサイト
Secret

TrackBackURL
→http://kaizyugakusei.blog35.fc2.com/tb.php/85-37e0a5c3
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。