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○[2004-2005:ネクサス:時代の閉塞感:善と悪:光と影:メタフィールド:受け継がれる光:共存なき切実さ]
コスモスから約2年後、『ウルトラマンネクサス』の放送が開始された。

それまでのウルトラシリーズとは「一風変わった」「斬新な」「ハードな」とも表現されるその物語は、まず怪獣の描かれ方そのものが、旧作とは一線を画していた。

特に初期や90年代の怪獣たちは、怪獣自身があらわれる「場」と多少なりともつながりを持ち、そのつながり自体が、たとえば破局であり進歩に伴う危機の物語を象徴していた。また後には、怪獣と登場人物との関係性が、「人間ドラマ」と称される物語をつくりだしたこともあったかもしれない。

だが、ネクサスに登場する「ビースト」たちは、そもそも「場」や「人」との物語上のつながりを一切持たない存在、そして、自らの物語をも一切持たない、「物語的に断絶した」怪しい獣であった。(※ちなみに、それらは人間の恐怖や不安を象徴するような存在だった気がするけど忘れた)
そんな怪獣とウルトラマンが戦うのは、「メタフィールド」あるいは「ダークフィールド」と呼ばれる閉塞空間。
ネクサスで語られたのは、既に人類と何らかの寓話性を持った怪獣との葛藤の果てにある調和などではなく、単に獣を「駆除」するだけのウルトラマンの、果て無き死闘でしかなかった。
そしてネクサスの物語は、全ての「ビースト」や"悪"のウルトラマンを操っていた"悪"の象徴とでも言うべき「ダークザギ」と、ネクサスの進化系であり"善"の象徴であるかのような「ウルトラマンノア」の、善と悪、光と影の戦いに回収されてしまう

こう書いてしまうと、ただの勧善懲悪ものにしか見えないが、しかしネクサスの戦いは、単に勧善懲悪という一言に回収されるだけの安易なものだったのだろうか。

たしかに、直近の作品で描かれたような怪獣と人類の「共存」はどこにもない(かといって、前述のようにウルトラマンコスモスの「共存」が本当に共存であったのかどうかといえば、それは大いに疑問ではあるが)。同様に、現実の世界にも、実は「共存」の可能性が(建前としてすら)なくなってしまっていたのかもしれない。
同時多発テロ以降世界に問われたのは、「正義」か「悪」かの二者択一。既にそこにある「悪」、そこにある「破局」は、正義の力が打ち滅ぼさなければならないものであった。そこに調停者は必要ない。
ただ正義さえあればいい。そんな風潮が世界に溢れた。
その風潮を反映するかのごとく出現したような、悪の「ビースト」と、それを撃滅する「ウルトラマンネクサス」。

しかし、そもそも、中二病の青少年が好きな(もちろんぼくも好きな)、正義の多元化だとか、主観によっては正義と悪が云々だとかいうことですらなく、怪獣と人類の葛藤に、正義や悪の観念なんてほとんどなかったはずだ。
悪を体現したような宇宙人が出る事もあったし、ウルトラマンは絶対的な善を象徴する存在であるかのように語られもするが、しかし、怪獣という存在は、決して悪ではなく、だからこそ「葛藤」も「共存」も、リアリティを持って語られることが可能であった。

だが、ネクサスに登場した怪獣は、意思も寓話も持たないようなただの「悪」のケダモノであり、ひたすら駆除されていった。
悪であれば容赦なく滅ぼしてもいいという姿勢は、実は前述のようにコスモスも持っていたものであったが、世界がその傾向を強めるのと同様に、ネクサスにおけるその姿勢はコスモス以上に徹底されていた。もはや「ビースト」が何者であり何を目的としているかなんて関係ない。悪であるから倒す。その果てに、純粋悪たるダークザギを、純粋善たるウルトラマンノアが打ち砕く最終章が待っていた。
そこに、人間と怪獣との共存はない。「正義」と「悪」は、決して相容れるものではない。

ウルトラマン、仮面ライダー、あるいは数々のアニメーション作品の中で、揺らぎつづける「正義」と「悪」の概念。何が正義で何が悪かなんて一概に言えないことは誰でも知っている。しかしそれとは逆行するように、現実の世界は、強固な「正義」と「悪」の価値観を見定めようとし、そしてなぜか、大衆はその風潮に従いつつある。
その中で、ネクサスは敢えて「正義」と「悪」の価値観を物語の中心に取り込み、しかし、かつてコスモスが「悪」に力を振るう事は肯定し予定調和的破壊を続けていたのとは異なり、ただその苦悩を、自らの身に受ける道を選んだ。

"正義"の価値観がいびつなものになろうとする世界。
そこに問題提起する方法として、多元的な正義の価値観を提示する物語もあったかもしれない。
だが、ネクサスはその道を選ばず、ただ閉塞的になる現実を象徴するかのように、メタフィールドという閉塞空間で、怪獣との共存の可能性の欠片もない戦いを続けた。
そこにあったのは、カタルシスでも正義の快感でもない、ただ息詰まるような閉塞感と、傷つき続ける切実さだった。
(もちろん、5人のウルトラマンが複数の陣営に別れそれぞれの正義のために戦う、なんて展開はありえないわけで、ここにウルトラマン自身が持つ息詰まるような正義もあるわけだが。)

かつてのウルトラマンではありえないほどに苦戦し、幾たびも限界まで戦い続けたネクサス。最終回間際でようやくパワーの限界を感じはじめたセブンやコスモスとは違い、毎回のように傷つき、文字通り何度も死にかけた。
「受け継がれる光」として、幾人もの「デュナミスト(適能者)」の身体を渡り歩いたウルトラマンネクサスの「光」は、「魂の絆」といえば聞こえはいいものの、実際には死の限界ギリギリまで適能者を使い捨て、その果てに受けつがれるものであった。
それは、ひょっとしたら、この世界の閉塞感や切実さが、「いま、ここ」だけのものではない、このままでは永遠に受け継がれていくという危機感ではなかったか。

ウルトラマンネクサスが、その身を呈して示し続けてくれたものは、単純な勧善懲悪ではない。正義肯定の物語でもない。ただ、「正義」を名乗る事(べつに本人はそんなこと言っていないが)に伴う地獄と、それを選んだ現実が連なる、共存を認めない時代の切実さ、だったのかもしれない。

[つづく]
→[第七回]
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