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○[2005-:マックス:メビウス:怪獣の復活:これから]
不振に終わったネクサスの後を受け、原点回帰(王道回帰?)と言うべきか、かつてのウルトラシリーズ(一期・二期)のイメージを強く持ったウルトラシリーズが作られ始めた。
『ウルトラマンマックス』『ウルトラマンメビウス』である。

この二作には、マックス第二話のエレキングにはじまり、かつてのシリーズに登場した怪獣たちが数多く登場している。特にウルトラマンメビウスに至っては、一期・二期の時間軸を引き継ぐ物語として、その歴史観だけでなく、「怪獣のデータベース」までも引き継いだ設定で描かれている。

以下自己引用([響鬼とネクサスとマックスに関する下書き。])
ところで原点回帰を遂げるウルトラマンマックスの怪獣と人類の間で、異者理解的なテーマは果たしてどう描かれるのか。エレキングやゼットンをはじめ、かつての名うての怪獣たちが続々と登場するようだが、しかし60年代に彼らが持ち得ていた寓話、その物語性・アウラは、もう消失してしまっているのではないだろうか。
少なくとも、科学への思いも、進歩への期待も、何もかもがかつてとは異なる現代において、あらためて彼らが背負い、人類に叩きつけてくる何か新しいトピックスでもあるというのだろうか。
マックス放送前には、自分自身このようなことを書いていたが、あらためて考えてみると、実はこのオールドタイプな怪獣たちの復活には、重要な命題があるのかもしれない。

かつて、物語上は輝ける超人たちが、現実には人間たちが、その場しのぎで置き去りにしてきた数々の破局の可能性。それはそのまま変わらず、あるいはより根深いものとして、"いま、ここ"に残されている。

たしかに、初期の怪獣たちは、現代ではある意味神格化され(あるいは仏?)、かつてのままの破局のイメージを持ち続けてはいない可能性は高い。
しかし、敢えて、過去の怪獣の復活を行なったマックス・メビウスの二作、特にかつてのシリーズ(一期・二期)から続く歴史観とデータベースを持つメビウスのそれは、これまでの人類・怪獣そしてウルトラマンが、結局解決できずに先送りしつづけた問題にあらためて立ち向かうということ、ひいては、かつての人類がそのままにしつづけた数々の危機を見据えなければならないということを、その陽気な物語とは裏腹に、提示しようと試みているのかもしれない。

とはいえ、ウルトラセブン「狙われた街」に登場したメトロン星人が現代に再登場したマックスのエピソード「狙われない街」のように、怪獣たちの側が人類に絶望することもあるかもしれないし、あるいは、結局新しいウルトラマンも、昔のウルトラマンと同様に怪獣と人類の和解の芽を摘み取るような"救済"を行なうだけかもしれない。
だが、そこで描かれる人類と怪獣(とウルトラマン)の関係性もまた、"いま、ここ"にある世界の姿である。

(ひとまずここで終わろうと思ったけど、もう少し続く)

伝統的怪獣を出したところで、そこに新しい展開は何もないかもしれない。かつて現代性が抱える"破局"を体現し、人類と葛藤を演じた怪獣が、2006年には、寓喩性ではない、ただの偶像になっている可能性もある。
人類と葛藤する存在ではない、むしろ、「認められた」モノであるかもしれない。

だがそれは、単に話題作りやフィギュア販売といった安易な考えに基づくだけのものではないだろう。
一度は現代における葛藤として浮上したものであっても、一旦(無理矢理にであれ)片がついてしまえば、「もうそうなってるから仕方ないじゃん」と放り投げる我々の姿(例:もう自衛隊はイラクに派遣したんだから、その可否を議論したって仕方ないじゃん。/もう男の子が生まれたんだから女性天皇・女系天皇なんて話す必要ないじゃん。)がそこに描かれているのかもしれない。
一度怪獣という姿を借りて描かれた物語であっても、もう今更どうこう言っても仕方ないじゃん、と。

そして、もしメビウスを「大いなる物語」(大いなる破局)が包むこむことがあるとすれば、あるいはこんなぼくたちの生き様がもたらし得る世界の危機を、そこに見つけることができるのではないだろうか。

それは制作者の意識/無意識に関わらず。
第一回から第六回までに見てきた過去の作品も同様で、必ずしもそれは、確信犯的に時代を切り取ろうとしたわけではなかったかもしれない。むしろ、そう意識することの方が少なかったのではないか。
しかし、それでも、怪獣とウルトラマンというモチーフは、"いまここ"を切り取り映し出してきた。
時代がそうさせるのか、ヒーローあるいは怪獣というモチーフが、呼び寄せるのか。
たとえばガンダムにおける富野由悠季のような一人の天才(と敢えて言おう)が作り上げたわけではない、ウルトラマンという「カミ」に向かう現代の集合意識が、そう仕向けているのかもしれない(その点においては、誰もが光になれることを示した『ティガ』の最終回が象徴的?)。

だからこそ、「ウルトラマン」の物語は、時代ごとに、それぞれの"現在"が持つ葛藤を切り取り映し出してきた。
時にそれは、誰も想像し得なかったほど的確に世界を丸裸にする、"寓話"であった。

だけど、どこか遠い星から来たような巨人は、決してそこにある問題の答えは出してくれない。それはこれまでも、これからも、変わることはないだろう。
では、一体、誰が、いまここにある何かに向き合わなければならないのか。



「『戦争と平和』を読んでただの冒険譚だと思う者もいれば、チューインガムの包み紙を見て宇宙の真理を悟る者もいる。」
クリストファー・リーヴが主演していた頃のスーパーマン(1作目)を見ていたら、レックス・ルーサーがそんなことを言っていた(細部はうろおぼえ)。

見る人によっては、ウルトラマンはいつの時代も変わらず、怪獣と超人によるただのプロレスごっこかもしれない。
あるいは別の人にとっては、"大人の鑑賞に耐え得る""アツい人間ドラマ"で、その"人間ドラマ"の割合が作品の評価になるものかもしれない。
あるいは。それはおもちゃ会社の姑息なマーケティングにしか見えないかもしれない。夢に満ちあふれた光の国の物語かもしれない。SFくずれのお話かもしれないし、"科学的におかしな""ツッコミどころ満載"の"ジャリ番"かもしれない。かわいい男の子が出てくる萌えドラマかもしれないし、組織における人間のあり方を問うものかもしれない。もしかしたら"教育番組"だと思いつづけている人もいるだろう。

多種多様な見方のどれもが正しい、なんてとんでもないことを言うつもりはない(そんなことありえない。というか、いくら価値観が多様と言ったって、この場合大半は何かおかしい気がする)けど、そんなんじゃ、だめじゃん、と正直思ったり思わなかったり思ったり。
かといって、ぼくの見方が正しいなんて言うわけでもないし、宇宙の真理どころかガムの包み紙のサイズすら測りきれていないのだけど。


まあ、べつにウルトラマンなんて、娯楽作品としてのんきに楽しめればいいと思いますが。(と敢えて言っておく。)
ちゅーか、ただのおもちゃ屋の子供番組だしね。
(↑さんざんここまでいろいろと書いてきたけど、たぶん全体的なところでの反応とかは期待できない。だけど、下手するとこういう部分にのみ"アツく"反応しがちなのが、特撮ファンのやばいところだと思う。今回はそんなことありませんように。)


[とりあえず今のところ、おわり]
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