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大昔に書いた、無駄に長い文です。

結局ガンダム世界(の一部)を概観する程度で終わってしまた気がするので、あんまり深いファンの人から見れば、特に目新しいことも書いてないし、精神衛生上よろしくないと思われるので、あまりお勧めしません。かといって、深くない、ロボットが戦っていればそれでいいという程度の人には何の意味もないと思います。
なんかもう、あらためて見ていて恥ずかしいくらい何も論じていないというか、どうしようもない話なんですが、自分で引用するときのために残しておきます。

ちなみに注釈付きはこちら
http://homepage.mac.com/kaizyu_hakase/contents/newtype/newtype01.html

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1 ガンダム、その世界観と物語
 1. 世界観/ガンダム前史
 2. 物語/ガンダム大地に立つ

2 ニュータイプについての諸考察
 1. ニュータイプとはそもそも何なのか。
 2. パイロット適正において優れた人、という解釈
 3. まるでエスパァ、或いはその思考の変化
 4. 己の精神のすみずみまで。或いは人間の条件を超えていくこと
 5. ニュータイプとオールドタイプの対立に代表される
               スペースノイドとアースノイドの問題
 6. 三人のニュータイプ
    (ただし現時点でこの考察はこの文章中において特に未完成)
 7. 以降の他作品にみるニュータイプ的なもの

3、ニュータイプの条件

ひとまずの、終局
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以下、本文


 「地球は人間の条件の本体そのものであり、おそらく、人間が努力もせず人工的装置もなしに動き、呼吸のできる住家であるという点で、宇宙でただ一つのものであろう。」アレントは『人間の条件』のプロローグにおいてそう述べ、さらに、「たとえば、想像する限りで人間の条件の最も根本的変化というのは、人間が地球から他の遊星に移住することであろう。まったく不可能であるとは言えなくなったこの出来事は、人間が、地球の提供する条件とは根本的に異なった人工の条件のもとで生きなければならないということを意味するであろう。そうなれば、労働も仕事も活動も、そして実際私たちが理解しているような思考さえ、もはや意味を持たなくなるだろう。と、記している。
 現実には、我々人類は未だその人間の「根本的変化」を経た姿にめぐりあったことはないし、アレントが「人間は今も、おそらくは将来も、地球の条件の下に生きるであろう」というように(最近宇宙ステーションで人が暮らしはじめたとはいえ)少なくともまだしばらくはその姿を見ることもないであろう。しかし、約20年前、43話のテレビシリーズで実際にその姿を描こうとした作品が存在し、そして多くのティーンエイジャーたちがまさにその姿を目撃した(あるいは錯覚)ことがあった。その作品こそ、『機動戦士ガンダム』である。
 増え過ぎた人類の大半が、宇宙に建設した人工の天体(スペースコロニー)に移住して半世紀以上が過ぎた世界がその物語の舞台となる。完全に人間の工作物に条件付けられた生活が送られているその世界で、新たな人類の姿、「ニュータイプ」が現れるのは必然であったのかも知れない。アレントが記したように、まさに「私たちが理解しているような思考さえ、もはや意味を持たなくな」ったかもしれない彼らニュータイプのありようについて、今回は考えてみたい。





[1] ガンダム、その世界観と物語

   1979年、テレビアニメーションとして放送されたガンダムは、当初視聴率の低迷と玩具売り上げの不振により43話で打ち切られたが、その一方でアニメ専門誌や同人誌などでは盛り上がりを見せ、放送終了直後から再放送を重ねるごとに視聴率が上昇。さらには全三部に及ぶ総集編的な映画版まで製作され、その後様々な続編やガンダムの名を冠した作品が作られ続けている。
 それらシリーズ展開をしていく中で、映像作品や小説に留まらず、模型やゲーム、子供向けの武者ガンダムや騎士ガンダムといったSDガンダムにまで至る様々なカルチャームーブメントを含め、異常に膨れ上がったその世界を、あらためて原点(つまりテレビシリーズのアニメーションの世界)にたちかえり見つめなおしてみたい。

   

 1. 世界観/ガンダム前史

 時は宇宙世紀。地球連邦政府の下、増え過ぎた人工の大半が宇宙に浮かぶ円筒型の人工天体・スペースコロニーに移民させられた時代。その、人類が宇宙で暮らしはじめてから半世紀以上が過ぎた世界の中で、地球を聖なるものと考えるエレズムとサイドの国家主義サイドイズムが組み合わさって誕生した思想、コントリズムの提唱者ジオン・ズム・ダイクンがそこで提唱した宇宙を生活の場として認識した人類の新たな姿、それがガンダム世界を支える大きな柱のひとつである「ニュータイプ」である。作品の中では超能力者的な表現しかなされず、後の戦争ものとしての評価の一人歩きとともに、多くのファンから単に優れた戦士のことであるという誤解(あるいは一面的な理解)を受けているニュータイプであるが、後に述べるように、それはただのエスパァでも、ましてや戦争の道具でもない。そしてまた、単にスペースコロニーの独立だけでなくこういった「宇宙空間における人間の認識、知覚、感覚の拡張と飛躍、つまりは『見えない力』の存在を説いた点」にこそ、ジオン・ズム・ダイクンの思想の重要性がある。
 それはさておき、そのジオン・ズム・ダイクンの下、実際に独立を宣言した、地球から見て月の裏側にあるコロニー群サイド3/ジオン共和国は、ザビ家によるジオン・ズム・ダイクンの謀殺と政権の簒奪、そして一族独裁を経て、ジオン公国としてU.C.0079、地球連邦政府に宣戦布告、と同時に各サイドへの奇襲攻撃を開始する。
 その戦力差は圧倒的にジオンに不利であったが、ジオンでその存在が確認された電磁波を阻害するミノフスキー粒子の効果によりレーダーや誘導兵器が使用不能、つまりこれこそがジオンが圧倒的戦力差にも関わらず開戦を決意した理由、と同時にこの物語に人型ロボットが登場する理由、ロボットアニメとしてロボットの接近戦を見せるためのアリバイであるが、有視界戦闘のみ有効になった状況で、機動力を持った人型兵器、MS(モビルスーツ)を開発していたジオンが、その多大な戦果により優勢に立つ。まず、戦争開始から一週間で、これにより地球圏の生活基盤が如何に脆いものであるのかがあらわになるのだが、サイド1、2、4の各コロニーへの毒ガス注入や地球へのコロニー落としにより、人類の半数が死亡。その直後の戦闘ルウム戦役では、戦場となったサイド5、そして連邦軍宇宙艦隊が壊滅という状態にまでなった(ただしジオンの艦隊も半壊。ちなみに残ったサイド6は中立を宣言、最もジオンから離れたサイド7は連邦のMS開発拠点となる)。その後両軍の条約の締結に際して連邦の降伏を踏みとどまらせた、後に主人公達の数少ない支援者の一人となる連邦の将軍レビルがルウム戦役で囚われの身となっていたジオンからの奇跡的脱出生還の後行った演説「ジオンに兵なし」や、補給路が伸びきり戦争の膠着状態を招くことになるジオンの地球侵攻作戦等を経て、戦争が長期化して数カ月という世界からようやくテレビシリーズの物語はその幕を開ける。

 

 2. 物語/ガンダム大地に立つ

 地球にいる母と別れ、技術者の父と宇宙に上がり新造コロニーサイド7で暮らしていた主人公である16歳の少年アムロ・レイは、ジオンの赤い彗星の異名を持つシャア・アズナブルの部隊の爆撃の中、父が連邦軍で開発した試作型MS、ガンダムに乗り込みジオンのMSザクを撃破。その後連邦軍の新造戦艦ホワイトベースに乗り込んだアムロを含むサイド7の民間人の少年少女を中心としたクルーは、シャアの執拗な追撃を振払いつつ地球に降下。そこでのザビ家の末弟ガルマとの戦闘や、ザビ家への復讐を目論むシャアの計略によるガルマの死と、敵にも正義を語る論理があることを示したジオン総帥ギレン・ザビによるガルマ追悼演説、母との再会とアムロ自身の意志による別れ、あるいは歴戦の勇者ランバ・ラルとの遭遇やエースパイロット部隊黒い三連星との戦いなど様々な経験をする中で、アムロのニュータイプとしての萌芽を示しつつ、ジオンによる連邦軍の本拠地ジャブローへの侵攻作戦も失敗に終わり、連邦軍による宇宙での一大反抗作戦のため、物語の舞台は再び宇宙へ。その星一号作戦のためのおとりとなったホワイトベースが寄港した中立コロニーサイド6における、サイド7爆撃の際行方不明になっていた父との再会と決別、既にニュータイプの研究と実戦投入を開始していたジオンのニュータイプ部隊のララァ・スンとアムロの邂逅や、戦いの中での、ガンダムのアムロとニュータイプ専用機に搭乗したララァのニュータイプとしての思念の共鳴とそこへのシャアの割り込み、その中でのアムロの手によるララァの死。あるいは核やBC兵器が禁じられた世界での、まさにSF的といわれる巨大兵器であるソーラー兵器の使用などを経て、両軍の最終決戦の中、一家独裁という一見強固な体制を築き上げていたザビ家の崩壊と、既に単なるザビ家への復讐というものを超えた、新たなニュータイプの世を理想するシャアによるザビ家の生き残りキシリア・ザビの抹殺の後、戦争は一応、連邦の勝利で終結をみる。





[2] ニュータイプについての諸考察 

 

 1. ニュータイプとはそもそも何なのか。

 ここまで何度も「ニュータイプ」という言葉が登場したが、ガンダム世界独特の用語であるこのニュータイプとは、「二十一世紀までの歴史が、人類に宇宙進出を決断させれば、道具を徹底的につかうしかない宇宙の環境では、人知の極みがためされて、すこしは利口になるかもしれないというのが、ニュータイプ待望論」、つまり前章で記したように人類がその生活圏を宇宙にまで拡大した結果、宇宙に適応した新しい人間の型が登場する、という考えがジオン・ズム・ダイクンにより提唱された、という設定がそもそもの始まりである。その後、物語の中で実際に主人公アムロやララァといったニュータイプが登場し、以降の富野由悠季監督シリーズにおいても、ニュータイプというものがその物語の根幹を為すことになる。
 原作者によるその定義は、「過去にいわれていた各種の思想とか認識論を越えた洞察力を有する人々であるということである。天才とか超人とも違い、ESP者の超感覚的知力を持った者とも違った。ニュータイプは、個の問題ではなく、外に思惟を発信する能力を持っている者である。遠感知力とかテレパシー、予知力、念写、テレポーテーション、まして霊媒力とかいうような意味を付加するものでもない」という「良く言えば哲学的、悪く言えばサイボーグものやエスバーもののパターンで、ちっとも新しいものではない」ものだが、あえてここではその現れかた、理解のされかたを整理していきたい。

 

 2. パイロット適正において優れた人、という解釈

 「アムロは、外界にたいして、本能的に対応できる反射神経をもっているようで、コンピュータ制御の隙間というか、呼吸をとらえて操作することができたので、生き延びてきた」、という表現にも現れているように、人工物に囲まれ、人工物に条件付けられて誕生したニュータイプがMSをうまく操ることができるのは当然かも知れない。事実『機動戦士ガンダム』第1話で、主人公アムロは機械いじりが好きとはいえ、何の訓練も受けずに、マニュアルを片手にガンダムを操作し、その性能も手伝ったとはいえ、ジオンのMSザク2機を撃破、その後も様々な戦闘をくぐり抜けていき、「尋常ではない戦闘能力をもった異常な奴」、という評価を受けたり、後に「コンソール・パネル見ただけで、モビルスーツの配線とか駆動関係の配置が分かったって」と誇張された噂まで流れる。また、主人公の属する第十三独立部隊(=ホワイトベース一艦のおとり部隊)も20歳にも満たない民間人の少年少女によるその多大な戦果からニュータイプ部隊と称されることになる。
 実際、ニュータイプの戦闘能力の高さに着目したジオン公国のザビ家は、ニュータイプ研究のため、フラナガン機関を設置。そこでの研究の結果発見された感応波を利用したサイコミュ(サイココミュニュケーター)システムを搭載し、脳波コントロールにより円滑な操作が可能となり、またミノフスキー粒子の干渉を受けないため、有線メガ粒子砲あるいは無人随伴攻撃機ビットを複数操作することでオールレンジ攻撃が可能なMA(モビルアーマー)を利用したニュータイプ部隊を編成する。
 そして後のシリーズにおいては、ニュータイプの高い戦闘能力に着目した人々により専門に設立された研究所において、素養のある人間に薬物投与やマインドコントロールを行うことによって人工的にニュータイプをつくりだす試みにより「強化人間」が誕生する。
 こういった考え方は、結局その後の作品においても人々の間に根強く残り、またガンプラブームに象徴される戦争ものとしての評価とともにファンの間にも根強く残る、というよりむしろこの考え方が主流である、と言ったほうが正しい。
 しかし、連邦の将軍レビルは言う。「『戦場で、異常に強い能力をみせる兵がいるのは、珍しいことではない。わたしは、ニュータイプというのは、戦争をしないですむ人類のことだと思っている……』」

 

 3. まるでエスパァ、或いはその思考の変化

 ニュータイプとは何なのか、その能力の特質について、富野由悠季はこう記している。「人同士の思惟が、直結する手段が発見されれば、人と人とのコミュニケーション(意志の伝達)の中に誤解の発生することがない。さらに、誤解が発生しなければ、その通じ合った意志とか考え方が重なりあって、相乗効果が増幅されるのではないか?……オールドタイプの個人の考えの、二倍も十倍も想像力とか洞察力が拡大するんじゃないか」。
そして実際にそこで言われているような思惟の直結を、アムロは戦場でのララァとの邂逅の中で(映像の中ではエスパァ的な交感としてしか描き得ていないが)体験する。
   「しかし、これはニュータイプたる者がたどるべき道筋を思考することとは根本的に異なる。本質的に相反するものなのだ。アムロに、それだけは判った。あのララァとの交感によって得た飛翔は、単に二人だけの予知能力というようなものではなかった。人が交感しあって得る予知、すなわち知性五感の飛翔は、根本的にコミュニケーションの拡大であり、ひいてはコミュニケーションによってうまれた複合知性であって、けっして崩壊への論理ではないはずだ。にもかかわらず、アムロは兵士であった。兵士は未来を生みはしない。破壊と自己保存だけだ。」
「こんな奴がいるから、ニュータイプを戦争の道具にされるのだ!
ニュータイプはあのララァとのようでなければならない。思惟の交流!人の共感。武器ではない!」
アムロがララァとの交感の後考えるこういったことは、前節で述べた「パイロット適正において優れた人々」という解釈がここで述べようとしていることと根本的に対立するものであることを示している。(同様の感覚からか、後のシリーズにおいて強化人間を生み出す技術に対し、多くのニュータイプは嫌悪感を覚えることになる。)
 こういったニュータイプの特徴は、単にコミュニケーション能力が拡大した、というだけではなく、その思考の形式も大きく変えてしまった、と言ってもいいかもしれない。
 アレントは、人間にとって思考は触知できるものをなに一つ残さず、それだけではけっしてなにかの対象に物化されないのでそれを世界に伝えるためには、触知できない空虚な記憶を準備し、肉体労働者とまったく同じように手を用い、手に技能を与えなければならない、そう述べているが、この項で述べているニュータイプにおいて、思考の形式は、すくなくとも「活動と言論と思考がとにかく世界に残るために経なければならぬ物化」により「生きた精神」を「死んだ文字」にする必要は、もはや必要無いのではないだろうか。とすれば、それは彼等の活動の在り方をも変えてしまうものだが、そのことについては、後の章で言及することになるであろう。
 また、我々にとって「思考も生命とともに終わる一つの過程」であるが、ニュータイプにとっては必ずしもそうではない。例えばララァ・スンの意志は死して後もアムロを誘い、『機動戦士Zガンダム』で、主人公カミーユ・ビダンは死んでいった女性兵たちの意志とともに最後の戦いを行い、またそのとき彼が倒した敵パプティマス・シロッコは、カミーユの生きた意志を道連れにしてしまう。
 そういった彼等の思考の変化は、必ずしも対外的な意味に終わらない。

 

 4. 己の精神のすみずみまで。或いは人間の条件を超えていくこと

 ニュータイプについては作者自身よく判らない、そう断った上で富野は、自分自身あまり考えていいなかった部分として、あるファンのこのような指摘を示している。「”ニュータイプとは、(己の)精神のすみずみまで、判る人のことなのですね”」、と。つまり自分自身の考えという部分ではなく、精神という巨大で把えどころのないものについて理解するということである。
 このことは、『機動戦士ガンダム』という作品においての、アムロのニュータイプへの覚醒の過程の演出にも関わってくる。それは「現実の中(オールドタイプ世界)での人の良き姿、悪しき姿をみて判っていかなければ、ニュータイプの発生なぞありはしない」、「つまり、人生の全体像をちょっとでも知る機会がなければ、例えアムロというニュータイプの素養をもった少年があっても、人のゆく道の目指すべき処を洞察するなぞは、できはしないだろう」ということである。その演出の方法論にはここでは立ち入らないが、それは、己の、ではないが「われわれ」人間の本性について理解する、ということである。
 アレントは、人間の、条件ではなく、本性に関する問題は、解答不可能であるということを神学的文脈で指摘し、そこで「人間の本性を定義づけようとすると、『超人』としかいいようのない、したがって神といってもいい一個の概念に必ずゆきつく」と述べているが、これはニュータイプの世界とは「神の世界」かもしれないとまで書いた富野の表現と見事に符合する。神という存在さえ人間が作り出したものだから、それでは救いにならない、とするその姿勢も然り。
 更に同じ文脈においてアレントは、人間存在の諸条件が、人間を絶対的に条件づけてはいないがゆえに、「われわれは何であるか?」ということの説明や「われわれは何者であるか?」という問いに答えることができないと述べると同時にそれを逆転させ、(今も、おそらくは将来も、地球の条件の下に生きる存在でありながら単に地球に拘束されたままの被造物ではないという文脈において)人間が自己の条件を常に超越していこうとする存在であることを指摘する。これこそまさに『ガンダム』の世界の人間が為し遂げようとしたことではなかっただろうか。

 

 5. ニュータイプとオールドタイプの対立に代表されるスペースノイドとアースノイドの問題

 宇宙に進出し、認識力が拡大したニュータイプと呼ばれる人々と、地球に固執する地球連邦政府の高官に象徴されるようなオールドタイプと呼ばれる人々の間には、オールドタイプがニュータイプの存在を羨望しつつ様々な形で抑圧する中での一種の対立関係が存在する(時として独善的な選民意識を持ったニュータイプもいるが)。そういう中で、『Zガンダム』以降登場する強化人間は、その構図においては最下層に位置するが、その存在はつきつめればガンダム世界に存在する優生思想の現れであるといえるかもしれない。
 アレントは、人間が、その条件への挑戦によるアルキメデスの点の発見により、まさに「『宇宙的』絶対的立場から事を行うことはできる」ようになっても、未だ「宇宙的・絶対的観点から考える能力を失っている」ことを危惧したが、そのような旧人類に対し、宇宙的・絶対的観点から考えることのできる人間のことがニュータイプならば、こういった対立も、そこでいわれている「大地と大空という古い二分法に代わって、人間と宇宙、あるいは理解する人間精神の能力と、真の理解なしに人間が発見でき操作できる宇宙の法則という新しい二分法が現われているのである。」という中に包括されうる問題であろう。
 ところで、ガンダム世界の中で繰り返されるスペースノイドの反乱とその鎮圧の中で「遠く離れた宇宙の一点から眺めると、人間の活動力はどれも、もはやどんな活動力にも見えず、ただ一つの過程としか見えない。」という言葉を地で行くかのように、時に(ニュータイプ/オールドタイプを問わず)コロニー落としやコロニーへの毒ガス注入、あるいは隕石落としによる地球寒冷化、果ては巨大なタイヤ付き戦艦による地上の蹂躙といった一見無思慮な大虐殺に及ぶ人々がいる。しかし、ジオン公国はじめティターンズやザンスカール帝国などそういった勢力も、あるいはエゥーゴやリガミリティアのようなそれに対峙する勢力も、人工の増大が地球を汚染し、それが限界まで達していると考え、なんらかの方法で地球に住む人間を減らすべきだとする点において、実はその目標は似通ったものである。その基軸となる考えが、かつてジオン・ズム・ダイクンが提唱した思想の総称とでもいうべきもの、ジオニズムである。
 上野俊哉はこのジオニズムのアルファベット表記Zionismがイスラエルのシオニズムと同じであることを、ジオニズムとニュータイプ思想に潜む選民意識とともに指摘し、「スペースノイドは離散(ディアスポラ)の生を生きるのか、それとも特権的な帰還と定住の理念をうちたてるのか」という対立に言及する。
 そして、それが書かれた時点ではまだ製作されていなかった富野由悠季のガンダム最新作『∀ガンダム』では、それまでの作品(富野作品以外も含め、映像化されたものはすべて)をはるか昔の黒歴史として内包した世界で、それら全ての文明は一度消滅し、太古の宇宙戦争の記憶もなくし、19世紀的な暮らしを営む地球に突如、月の民が「特権的な帰還と定住」を求めて降下することから物語がはじまる。また、黒歴史において、かつて地球の周りのスペースコロニーで暮らしていた人々は、コロニーごと、外宇宙へ旅立った、まさに「離散」の生を生きたことも語られる。

 

 6. 三人のニュータイプ(ただし現時点でこの考察はこの文章中において特に未完成)

 『機動戦士ガンダム』の物語は一年戦争の終結をもってとりあえずの終局を見るが、その七年後の世界を舞台とした『Z』において、シャアは名を変え連邦軍の右翼(地球出身者)勢力に対抗する組織に入り、さらに彼等の物語の最終章たる『逆襲のシャア』でネオジオンを興し、その力で人類全体のニュータイプへの革新を促すため、人類粛正の大義名分の下、地球へ小惑星アクシズを落とし氷河期をひきおこそうとする。それに対し、アムロは一度は『Z』においてシャアとともに戦うが、『逆襲』ではアクシズの地球への降下を阻止するため、シャアに対峙する。
 ここで、まさに独善的な選民思想にとりつかれ、ニーチェ的超人として立ち上がったシャアは、そのニュータイプとしての力により、人間を強制的に地球から引き剥がし、人類全体をニュータイプへ導こうとする。その唐突とも思える行動は、程度の差はあるものの、「人類全体をニュータイプにするには、だれかが人類全体の業を背負わなければならない」、というその姿勢において一年戦争の頃から一貫していると同時に、それは5節で触れたジオンの思想を軸にしたものである。
 しかし、対するもうひとりのニュータイプ、アムロ・レイ。かつてララァ・スンとの接触の中で永遠を垣間見てしまった彼は、そのララァとの奇跡の記憶にとりつかれたまま残りの一生をおくることになり、シャアとは異なり人類革新への力に背を向け、とりあえずはもがき続ける。最終的にシャアと対立することを選ぶその態度に、ララァとの邂逅が少なからず影響を与えていることは確かである。そこには「たしかに言論を超えた真理も存在しよう。そしてそれらの真理は、単数者として存在する人、いいかえると、他の点はともかく少なくとも政治的存在ではない人[つまりアムロ・レイ]にとっては、大いに重要であろう。しかし、この世界に住み、活動する多数者としての人間が、経験を有意味なものにすることができるのは、ただ彼らが相互に語り合い、相互に意味づけているからにほかならないのである」。そして、ガンダムのキャラクターはよく語る。アジテーターであったジオン・ズム・ダイクンはもとより、連邦のレビルによる「ジオンに兵なし」、ジオンのギレン・ザビによる演説。『Z』ではシャアが連邦の議会に乱入し、ジオンの意志を継ぐものとして語り、その終盤においては、4人のニュータイプがそのコミュニケーション能力を駆使してその思想をぶつけあう。そういう意味で彼らは活動的である。
 それに対しアムロの姿はあまりにも「政治的存在ではない」ものであり、アレントが述べたこととガンダム世界が符合するのならば、結局アムロとララァの思惟の飛翔はアムロだけのものでしかなく、世界にとって無意味でしかないことになる。
 だが、勿論その交感はアムロ一人のものではなかった。ララァにとってその接触がアムロと同質のものであった、という保証は実はない。富野監督にとって、「女性」は性の機能が全的に守りにある存在で根本的に戦士たり得ない。それが女性蔑視かはさておき、ゆえにこの物語の結論は「『私は、あなたの子供を産みたかった……。今になって、そう思います……。』という一女性の語りで終わるだろう。」と記している。
 となれば、話は変わる。彼らの奇跡は、そのまま放置すれば「自然に」破滅する人間事象の領域である世界を救う奇蹟である「新しい人びと」の誕生、新しい始まりの一つのあらわれとなろう。福音書が告げた福音は「わたしたちのもとに子供がうまれた」という信仰と希望であるという、前述したものとの奇妙な符合もある。

 

 7. 以降の他作品にみるニュータイプ的なもの

 1節でニュータイプとはサイボーグものやエスバーもののパターンで、ちっとも新しいものではない、という言葉を記したが、ガンダム以降そのニュータイプ的なキャラクターの現れかたが、つまりニュータイプのような「能力」を持つ人々が現われ、同時にその世界内でそういった能力を持たない人々との間に、社会的な力関係や対立関係、あるいは階層のようなものが存在する状況が主にロボットアニメを中心として頻発する。
 メジャーなものでいえば『聖戦士ダンバイン』における強い「オーラ力」を持った地上人の異世界バイストンウェルにおける状況や、『戦闘メカ・ザブングル』でのシビリアンとそれを隔離ドームから管理するイノセントという二つの階層間の相克、あるいは『アキラ』の「人類の進化に曲折をもたらそうとした」のかもしれないアキラたちのあたかも強化人間のように扱われたその在り方や、14歳の少年達に使徒迎撃を任せざるを得ない『新世紀エヴァンゲリオン』など。
 これらが皆ニュータイプの反復であるとはとても言えないし、また、ニュータイプも含め安易に世代論として取り上げることもここでは避けたい。この問題はあらためてニュータイプについて考える際の目安となろう。





[3] ニュータイプの条件

 前章では、しつこい程にニュータイプの現れかたを検証したが、実際それらは所詮フィクションの中の絵空事に過ぎない。「考えてみれば、人の革新とか、種の進化とかいう巨大なテーマをたかが一つのアニメーションが、示しうるものでしょうか?」という通りそのようなことはおそらく不可能であろう。では何故、そんなものの為に膨大な時間を費やしてきたのか。それは、ここまで試行錯誤を繰り返して記述してきた私自身に対する自問の言葉、というより、そういう試行錯誤を20年以上続けてきた、そしてこれからも続けることになるガンダムファンに対する問いである。
 エスパァ的能力も持ち合わせていない我々凡俗にとって、ニュータイプという胡散臭さすら感じる概念が人類の革新だとは実感し難いし、ましてや人類が近い将来種として新たな段階へ進化するなど、到底信じられない。それでも多くの人がどのような形であれニュータイプを支持しているのは何故か。それは、それが希望のイメージであるからではないだろうか。
 おそらくそこには活動の存在しない現代社会の特徴も影響している。
 ニュータイプにとって、アレントによる人間の活動力のうち最も重要、かつ特徴的なものは、一体何であっただろうか。 
 労働について言えば、肉体そのものについては旧人類と何ら変らない彼等に何か大きな変化があるとは考えられないし、巨大な環地球文化圏が宇宙で暮らす人びとの生活の一部を変えたとしても、常に地球同じ重力の下で管理され暮らす社会に果たして我々現代人と大きく異なるものがあるとすれば、あるいはその労働が彼等の生命のため、というよりむしろ宇宙移民の際その費用として背負わされた3代にわたるローンのため、ということなのかもしれない。そして、「コンピュータ・ネットが、いくたびもの危機的事件をのりこえて、スペースコロニーを永遠に管理できるとなれば、人びとは、組織と技術にひれ伏すようになる」となれば、仕事はその世界を作るコロニー公社とその技術が司るものとなる。
 では、活動はどうか。前章で示したような彼らの能力こそまさに宇宙世紀の多数性のなかで活動足り得るべきであり、2章6節でも示したようなキャラクターは非常に魅力的である。と同時に、そこで示したシャアの行動こそ、ガンダムファンには魅力的なテーゼと映っている。それこそまさに、活動が不在であると同時に求められつつある社会を端的に示している。
 しかし、それだけがニュータイプが支持される理由とは考えられない。
 人間は自己の条件を超越することを指向する存在であるというアレントの指摘は既に述べた。宇宙に進出し得たアムロたちが我々の持つ条件を超越した存在であることは論じるまでもないが、そんな彼らのコミュニケーションは、公的領域だとか私的領域、あるいは社会的なるもの、そんな区別すら無意味に思えるものである。というよりむしろ人間の条件と同時にそういった枠組みを超越する力こそ、ニュータイプそのものであったはずである。あるいは、すべて私的な領域に回収される可能性、それは黒歴史を見る限り考えられない。「もし、優しさだけを残した新人類などが生まれでもしたら、恐らく、植物にでも滅ぼされてしまうでしょう」、という点も含めて。
 勿論、我々は重力の井戸の底たる地球による条件を実際に脱することはできない。だからこそ、人間の条件を越えようという希望が、近代自然科学におけるアルキメデスの点、いや、むしろデカルトにより人間精神内部に移動されたそれのようにニュータイプが語られ、様々なニュータイプについての解釈や、他作品に反映されるニュータイプ的存在に示されているのではないだろうか。
 ゆえに、敢えて私はそれを、(少なくともファンにとっては、と断らねばならないが)希望のイメージであると、洞察する。




以下は完成作品にはつけなかった部分です。

----------------


ひとまずの、終局

 最早、これ以上ニュータイプについて語る力を私は持たない。
 本来この論文で言及しようと考えていたところに、達するどころか、意図せざる方向に進んでしまった観があるが、それが果たして「人間の条件」というものに対する何らかの態度として示し得たか、あるいは所詮単語レベルでの脊髄反射的なものに終止してしまったのではないか、という危惧も拭いきれない。と同時に、ガンダムに対しても、アニメーション、あるいはその周縁にある、現在の世界と真に関わる何かにまで達し得なかった、というだけでなくそれを安易に希望のイメージと片付けざるを得なかった無念というものもある。
 しかし、

----------------
…本文ここまで。

あとがきへどうぞ


<参考文献>

Arendt, Hannah 1958 The Human Condition, University of Chicago Press.  =1973/1994 志水速雄訳『人間の条件』、筑摩書房。
上野俊哉 1998『紅のメタルスーツ アニメという戦場』紀伊国屋書店。
大友克洋 1993『AKIRA PART6 金田』講談社。
富野由悠季 1997『密会』(上・下)角川書店。
富野由悠季 1987『機動戦士ガンダム?~?』(小説版)角川書店。
氷川竜介・藤津亮太編 2000『ガンダムの現場から 富野由悠季発言集』キネマ旬報社。
永瀬唯 1999「ニュータイプ黙示録」『G2O』3:20-23、株式会社アスキー。
1989『機動戦士ガンダム MS大図鑑 [PART.1一年戦争編]』バンダイ。
1999「回帰と新生」『アニメ批評』1:6-47マイクロデザイン出版局。
「GUNDAM FIX」…95年から『月刊ニュータイプ』(角川書店)に連載されていたもの。
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