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江原氏に関するメモまとめ。

ぼくはこのサイトで何度もアンチ江原氏(とその仲間たち)としてのエントリを書いているのですが、ついでにSNSのアンチ江原コミュニティにも入っていたりします。

ただ、それを見ていると、単に胡散臭いからとか太っているからとか、その程度のアンチが多い気がします。

だけど本当は、そんな生理的嫌悪感だけでなく、もっと何か、根源的危機のようなものがある、ような気がしてならない。

ということで、なんとなく思いついた事を書いてみようと思います。
まだメモまとめ段階。
 
==意味ある前世を願望する人々==
江原氏が語るのは、単なる「でまかせ」というよりも、相手が語ってほしいことを語っている、ということ。

そこにいる"大衆"が求めるもの。それは、前世願望、というよりも、"意味ある前世"があることへの願望。(物語の不在

その"意味ある前世"は、ひょっとしたら、「ぼくの"未来"ってこんなんだっけ」という思い、もどかしい"足りなさ"を補完するもの。

昔夢見た未来とは違い、今の"自分"ってこの世界ではあまりにも軽く取るに足らない存在であることに戸惑ったり。あるいは、仕事恋愛結婚友人家庭etc...いろんなことが自分の意思とは異なり、うまくいかない。そんな、多くの人が多かれ少なかれ持ち得る、まさに"心の隙間"に、今の"意味ある前世"を想定したスピリチュアル思想は入り込んでくる。

それは、何も無いところに突然あらわれたものではない、それを欲求する"隙間"があったはず。

そして、その"スピリチュアルな何か"の前提条件として、魂の存在、死後の世界、生まれ変わり(それは特にどの宗教の教えというのでもないもの。転生について敢えて言えばヒンドゥーかオウムに近いか。思想でいえば、スピリチュアリズム、オカルティズムとかとか、ニューなんちゃらとか、ひょっとしたら丹波哲郎?)が、なぜか無条件に肯定されている現実がある、という不思議。

たとえば恋愛ドラマで「もし次生まれ変わったら…」なんてセリフが出ても、それに疑問を呈する人はほとんどいない、無条件にその考え方を受け入れているぼくらの社会。これは昨日今日はじまった話ではなく何十年も前からあると思うけど。(ひょっとしたら、近代文学なんかでもそういのってありましたっけ。もしくは近世、あるいはもっと昔からある?あ、歌舞伎はそういう考え方するっけ?どうなんだろう。あれは見立てで、ちょっと違うかな。中国にはそういう不思議な話はあった気もするけど忘れた。水滸伝的な星の云々はまた別だしな…。しかし悲恋の救済措置などとしての転生は、意外と古い?)

まあ、具体的に教義としてはないだけで、魂的なものってこの国の心理に伝統的に根付いているもののような気もします。米一粒にカミが宿り、年に一度はご先祖様が帰ってくるカルチャーであれば、わりと魂のアレは自然な形で取り込めてしまうというか、実際取り込んできたのか。
ちゅーか日本人は伝統的にそうやって外部から様々なアレを取り込んでアレして…とか知ったようなことを言うのは好きじゃないけど。まあ、そういうことか。「ちぐはぐなぼくらのアレ」としても書いたけど、その結果生まれたちぐはぐなぼくらの生は、江原やその周辺の在り様にもよく似ています。)

とはいえ、それにしても最近の"前世"や"オーラ"の社会への溶け込み具合には目を見張るものがあります。もちろん、昔からそういう言葉は使われていたけれど、今ほどに人々がそれを希求していたことがあっただろうか。

そしてここ数年、江原氏のような愉快な面々が登場し、しかしトンデモ扱いされるでもなく、かようにもてはやされているという現実は、単に彼(あるいはその周辺)が時代を翻弄する稀代の詐欺師というだけではない、人々に、前述したような"意味ある前世"を欲求する心理があった、ということではないか。

鰯の頭も信心から。
誰も求めない前世論者がはびこることはない。
小賢しい前世信者であれば、それを求める人が多いことを配慮しろとか恥も外聞もなくいいそうですが(仮面ライダー響鬼の最終回について書いたときには、そういう面白い事を言う人がいました)、だからこそ、そういう、へんてこ信者がたくさんいるからこそ、そこに危機感を抱かざるを得ない。

(まあ、このへんまでは前回までに何度も書いた気がします。)


==最近のことなど==
とはいえ、ここまで広まった安易な死生観というか輪廻感はどうしたものか。
そしてそれを肯定する現在のスピリチュアル的なものの功罪は?

自殺論を語るわけではないけれど、死後の世界や転生が"なんとなく当然"のものとなり、前世を見通し死者と語らう"タレント"がいる現代において、死ぬな殺すなという言葉が、どれほどの意味を持つのか。

最近も、死んだ丹波哲郎が会いに来た、そこにいる、と平気でうそぶく江原の口ぶり(参照)が、どれだけ死と生の垣根を下げてしまうのか(というか、江原氏はやっぱり大霊界の系譜だったのか?)。

ここ最近、テレビをつけると、朝のニュースやモーニングショー的な番組で、よく子供の自殺の話をしていたりします。ひょっとしたら、実際それに心を痛めている大人も多いのかもしれない。

だけど、死んでも、"次の生"がそこにあることを無意識にでも保証してしまう大人が、リセットボタンを安易に押してしまう子供たちに対し苦言を呈することができるのか。

明るい未来を、大人の在り様として提示する事も出来ず、しかし生まれ変わったらそこにあるであろう"物語"を妄信しつつある恥ずかしいこの国の大人たちが、一体死ぬな生きろと口先でいくら言ったところで、どれだけその意味を伝えることができるというのか。

ニュースをみれば、自殺対策基本法とやらが出てきたり(これはべつに子供の自殺だけじゃないけど)、文部科学大臣が送られてきた自殺予告に声明を出したりと、さらに自殺真っ盛りな今日この頃だけど、未来を信じていない大人たちがいったいどうしてそれを止められるのか。


もちろん、誰も死とは離れられないし、生きている限りつきまとうもので、そこにむやみに大きな壁をつくる必要はない。だけど、江原氏(と愉快な面々)の伝える死は、むしろ死そのものの重さから目をそらし、とても安易なものとしていないか。

死を恐れる必要はない。だけど畏れを失ってはいけないのではないか。と、よくわからないけどもっともらしいことを言ってみる。


これは単に江原やその類似品のみを非難すればよい話ではない(かといって、10年前20年前から言われているような、ドラゴンボールやドラクエの教会が安易に"生き返り"を植え付けたというのもちょっと違う。今そこにあるのは復活ではないし)。

そもそもなぜその怪しげな思想がここまで普及しているのか(ちなみにこれを書いている11/6現在で、mixiのアンチ江原コミュが234人に対し、オーラの泉コミュ31528人、江原信者コミュ11471人、あるいは類似の江原系肯定コミュが数千人規模でいくつも転がっているなど、大変なことになっています)

おそらく路上で江原氏が説法を垂れていたところで、足を止める人はほとんどいなかっただろう(もちろんどこかに寺か神社もどきでもつくって、ご祈祷します、とかやっていたら意外と人が集まってくることもある。というかぼくの実家の近くにもそういうのありました。けど、そんなの昔からあるローカルな世界の話でしかない)。しかし、江原とその仲間たちは、いつの間にか現在の隆盛を作り上げていた。

その原因として、江原氏やその周りの愉快な面々を持ち上げたマスコミを批判するのは簡単だし、もちろんそれも大きな要因ではあるわけだけど、それ以前に、その"前世的な何か"を希求した安易なぼくらの心理(べつにぼくは希求してないけど…)を無視するわけにはいかない。
(と、同じことをもう今日は10回くらい書いているけど。)

アンチ江原は、単に江原氏やその仲間、類似品、メディアをどうこう言えばいい問題ではない。
スピリチュアル的と言われる何かを希求し続ける社会的なこのいかんともしがたい泥沼の心理。現在の問題を見直すようでいて目を背けさせる安易な"癒し"的な何かを欲する甘さ。そんなものがある限り、たとえ江原氏は消えても(まだしばらく消えそうにないけど)、第二第三の江原はいくらでもあらわれる。


もちろん、ぼくだけでなく世の中には実際多くのアンチ江原が存在しているとは思います。だけどそこに蔓延した、スピリチュアル病。それに苦言を呈するわけでもなく、ここまでのさばらせ続け、あるいは社会そのものが死に至る病へと向かうことを、看過しつづけるぼくらも、おそらくこの世界への希望を提示できない情けない大人であるなあ、と思う今日この頃です。


==ちょっと話は変わる==
そういや、よく「幽霊を見たことないからといって霊的なものがいる可能性は否定できない」とか「前世の記憶が無いからといって前世を否定できない」とか、したり顔で(逃げ口上を)述べる変なやつがいます(※1)。べつにその"可能性"をぼくも否定はしない。ぼくだって伝統的に"神様"にも"ご先祖様"にも親しんで育ったし、幽霊的なワンダーがあればこの世界も楽しい。生まれ変わる事が出来るものなら、この世界の終わりまで生まれ変わり、宇宙の真理を見つけてみたい。その"可能性"は、たとえそれが0.00000(中略)001%であれ否定はしない。前世や転生を見つめる事で、過去の歴史や未来(56億7千万年後とか)に思いを馳せる事ができるのなら、もっと想像すればいい。

だけど、今広まりつつある"前世的な何か"は、何度も書いたように今の自分や世界や未来を肯定できない物語不在の(ように思える)人生への安易な救済策であり、かつてカルトの入口であったものと同様のものを持つだけでなく、今では死への畏れすら安易なものにしつつある。

そういうのって、やっぱり本当は大人がちゃんと否定しておかないといけないんじゃないだろうか。

まあ、それができないんでしょうが。

ちょっと前までは、まあ、それで心の隙間がうめられる人がいるんだったらべつに好きにすればいいんじゃないの?なんて言っていたぼくですが(そのせいで江原肯定派と思われたかもしれない。それで勘違いして江原派のトラックバックがついたりするのか?)、もうそういう甘いこと言うのもやめた。


※1
==この勢いで言ってしまう==
同様に、宇宙のどこかに地球以外で文明を持った生命が在る"可能性"を、現在地上で目撃されていることになっているUFOと結びつけて、「こんなに広い宇宙のどこかに生命はあるかもしれないからUFOは否定できない」なんておかしなことを言うキモメンもいますよね。
その可能性は、否定しないし、大いにあるし、いればいいと思う、いつバルカン人か何かとの接触が起きるか正直楽しみで仕方が無い。
だけど、それはそれ。その"可能性"を、今、というかここ何十年かで巷間にあふれだした円盤の肯定理由にするのは、ちょっとおかしい。

余談ですが(この勢いなら言える)、エセ科学とか疑似科学を信じる人が、ときどきおかしな理屈を持ってきた後で、なんちゅーか、人情に訴えかけるんですが、いったいどうなっているんでしょうか。たとえば、地震雲の研究者だって一生懸命がんばってるんだから笑うのはおかしい、とか怒られたことがあったりもするんですが。

人情といえば、波動(水に声を掛けたり文字を見せると結晶の形が変わるとか言い出した変わり者のアレ。大手スープ会社の社長とかも信者で、その会社では山ごもり波動研修受けないと上にいけなかったりするそうです)の信者である浦安市長が市の広報に書いた文章で、水に言葉をかけると云々とかいう代表的疑似科学の有名な話に続けて、ありがとうっていう言葉を子供にちゃんと言えよ、という結論につなげている、ちょっとその立場でそれを言うかと、正気を疑うものもあったりします(参照)。

たしかに最後に言ってる事は、それほど否定はしないんだけど(ちゅーか市長に言われないと浦安の人は感謝の言葉を口にできないのでしょうか。寒い時代ですね)、それを波動の話で導くのは、ちょっとありえない。
ちなみに、この市長さんは、再選されたようです(参照)。

と、なんでわざわざこんなことまで書いたのかといえば、最近江原的なアレが、波動的な感覚まで取り込みつつあるような気がするのです。ということで、一応今のうちにメモ。
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